『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P110~
<開墾の章 開始>
1966年(昭和41年)、ブラジルを発った山本伸一一行は、空路次の訪問地である、ベルーの首都リマをめざした。ペルーでも、政府が学会に警戒の目を向けていることから、派手な出迎えは避け、知名ら、数人の幹部らが出迎えた。
ペルー支部長の知名正義は、沖縄出身。両親がペルーに移住し、彼は沖縄に残った祖母の手で育てられた。彼は、海軍に志願して入り、国内各地を転々としていたが、ペルーが日本に宣戦布告し、両親とは連絡が取れなくなっていた。両親は 沖縄が玉砕したと聞き、息子も死んだものと思い込んでいた。
知名は、戦後建築会社を起こし軌道に乗っていたが、ペルーの両親のことが気がかりだった。宿命転換できる信心の話を聞いた時、両親が自分を探していると知る。入会を考えていた時、両親の消息がわかり、彼は不思議を感じ、創価学会に入会した。
信心に励むうち、両親にも仏法を教えたいと、ペルーに渡ることを決意。ところが、両親に会い、信心の話をすると、顔色が変わり、両親は他教団の熱心な信者であり、息子は死んだはずだと言って、知名を自分の経営するレストランの従業員扱いするほどだった。
しかし、彼は、懸命に働き傾きかけたレストランを立ち直らせ、両親も彼を高く評価するようになり、やがて、両親がともに入会した。生活のなかで示した実証ほど、雄弁に仏法の真実を語るものはない。
知名は、布教にも真剣に取り組んでいった。帰りのバスがなくなると車を止めて乗せてもらった。未明にタクシーに乗っていた、軍隊の検問に遭い、銃を突き付けられたこともあった。しかしこうした環境のなかでも、着実にペルー広布は進んでいった。
沖縄出身の城山京子が、御本尊を護持して、ペルーに帰ってくると、スペイン語も堪能な彼女と知名の二人を軸に、ペルーの広宣流布が回転していったのである。ペルー支部が結成され、知名が支部長、城山が婦人部長に就任。2地区、125世帯からの出発であった。
組織の誕生は、皆の決意を新たにした。弘教はさらに、進み、アンデスの山間の村々にも、次々と同志が誕生していった。そして、山本伸一が訪問した66年には、メンバーは千世帯を超えるに至った。同時に、政府も、学会に警戒の目を向けるようになっていたのである。
伸一は、ペルー入りしていた日本の幹部たちから詳細な報告を聞いた。ブラジルと同じように、政府関係者もマスコミも、山本会長の訪問は、政党づくりの準備が目的だと懸念しているという。また、今回の訪問で、なんらかの扇動的な面がみられるなら、今後ペルーの創価学会については、警戒心を強めなければならないと話していたという。
伸一は、大会でメンバーと会い、激励したかったが、ここに出席すれば、当局は、それを『扇動』ととらえ、『挑発』と見るに違いなく、メンバーに対して、さまざまな閉めつけが始まることが予測されることから、長い目で見て、大会に出席しないことを決めた。
同志を守るため、皆が安心して信心に励める状況をどうつくるかを考えた。そして、ペルーの未来のために、会っておくべき人物を紹介してもらい、会ったり、マスコミ関係者にも手分けして会い、あらゆる人に、学会を正しく認識させることが大事だと語った。
伸一は、知名から、この大会には、アンデスの山間の村から駆けつけてくる人や、バスで何日もかかってくる人たちもいると聞いていた。その健気な一人ひとりの同志に、希望を、勇気を、歓喜をもたらす集いにしてほしいと、懸命に祈った。真剣勝負の唱題であった。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋
1966年(昭和41年)、ブラジルを発った山本伸一一行は、空路次の訪問地である、ベルーの首都リマをめざした。ペルーでも、政府が学会に警戒の目を向けていることから、派手な出迎えは避け、知名ら、数人の幹部らが出迎えた。
ペルー支部長の知名正義は、沖縄出身。両親がペルーに移住し、彼は沖縄に残った祖母の手で育てられた。彼は、海軍に志願して入り、国内各地を転々としていたが、ペルーが日本に宣戦布告し、両親とは連絡が取れなくなっていた。両親は 沖縄が玉砕したと聞き、息子も死んだものと思い込んでいた。
知名は、戦後建築会社を起こし軌道に乗っていたが、ペルーの両親のことが気がかりだった。宿命転換できる信心の話を聞いた時、両親が自分を探していると知る。入会を考えていた時、両親の消息がわかり、彼は不思議を感じ、創価学会に入会した。
信心に励むうち、両親にも仏法を教えたいと、ペルーに渡ることを決意。ところが、両親に会い、信心の話をすると、顔色が変わり、両親は他教団の熱心な信者であり、息子は死んだはずだと言って、知名を自分の経営するレストランの従業員扱いするほどだった。
しかし、彼は、懸命に働き傾きかけたレストランを立ち直らせ、両親も彼を高く評価するようになり、やがて、両親がともに入会した。生活のなかで示した実証ほど、雄弁に仏法の真実を語るものはない。
知名は、布教にも真剣に取り組んでいった。帰りのバスがなくなると車を止めて乗せてもらった。未明にタクシーに乗っていた、軍隊の検問に遭い、銃を突き付けられたこともあった。しかしこうした環境のなかでも、着実にペルー広布は進んでいった。
沖縄出身の城山京子が、御本尊を護持して、ペルーに帰ってくると、スペイン語も堪能な彼女と知名の二人を軸に、ペルーの広宣流布が回転していったのである。ペルー支部が結成され、知名が支部長、城山が婦人部長に就任。2地区、125世帯からの出発であった。
組織の誕生は、皆の決意を新たにした。弘教はさらに、進み、アンデスの山間の村々にも、次々と同志が誕生していった。そして、山本伸一が訪問した66年には、メンバーは千世帯を超えるに至った。同時に、政府も、学会に警戒の目を向けるようになっていたのである。
伸一は、ペルー入りしていた日本の幹部たちから詳細な報告を聞いた。ブラジルと同じように、政府関係者もマスコミも、山本会長の訪問は、政党づくりの準備が目的だと懸念しているという。また、今回の訪問で、なんらかの扇動的な面がみられるなら、今後ペルーの創価学会については、警戒心を強めなければならないと話していたという。
伸一は、大会でメンバーと会い、激励したかったが、ここに出席すれば、当局は、それを『扇動』ととらえ、『挑発』と見るに違いなく、メンバーに対して、さまざまな閉めつけが始まることが予測されることから、長い目で見て、大会に出席しないことを決めた。
同志を守るため、皆が安心して信心に励める状況をどうつくるかを考えた。そして、ペルーの未来のために、会っておくべき人物を紹介してもらい、会ったり、マスコミ関係者にも手分けして会い、あらゆる人に、学会を正しく認識させることが大事だと語った。
伸一は、知名から、この大会には、アンデスの山間の村から駆けつけてくる人や、バスで何日もかかってくる人たちもいると聞いていた。その健気な一人ひとりの同志に、希望を、勇気を、歓喜をもたらす集いにしてほしいと、懸命に祈った。真剣勝負の唱題であった。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋
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