『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P376~
公明党のめざす政治がいかなるものかを、人びとに正しく理解してもらうのは、決して、容易ではないはずである。たとえば、結党宣言や綱領にうたっている、「王仏冥合」や「仏法民主主義」という言葉にしても、人びとの理解を得るには、長い歳月を必要とするに違いない。
「王仏冥合」とは、一切衆生の幸福を願う仏法の慈悲や、生命の尊厳の哲理を根底にした政治であり、宗教が直接、政治権力に関与していうことでは、決してない。しかし、「王仏冥合」といっても、「祭政一致」「政教一致」と同じように考え、古代の女王卑弥呼や戦前の国家神道と軍部政府の関係を連想する人がほとんであった。
学会と公明党の関係を、いかに訴えても、マスコミ関係者の多くは、どうしても自分たちの先入観から、脱却できなかったようだ。たとえば、「朝日新聞」には、「公明党の発足に望む」と題する社説では、「『王仏冥合』が結局は特定の信仰の政治的強制につながりはしまいか、などの疑問が起こる」としている。
何を根拠に、「王仏冥合」が「特定の信仰の政治的強制」につながるというのか、それこそ疑問だが、これが当時の社会の認識であったのである。理念なき、哲学なき世辞が、「常識」となってしまった日本にあっては、政治の根底に指導理念が必要であるという「常識」さえ、通じなかったのである。
1946年12月山本伸一は沖縄訪問をする。今回の訪問では、伸一は密かに心に決めていた仕事があった。
12月2日朝から、沖縄本部の二階の和室で、机に向かう伸一。彼は、この日、この朝、小説『人間革命』の筆を起こそうと心に決め、この沖縄にやって来たのである。
思えば、伸一が、戸田の生涯を書き残そうとの発想をもったのは、19歳の時であり、入会して3か月過ぎたころであった。軍部政府の弾圧と戦い、投獄されても、なお信念を貫き、人民の救済に立ち上がった戸田城聖という、傑出した指導者を知った伸一の感動は、あまりにも大きかった。
伸一は、“わが生涯の師と定めた戸田先生のことを、広く社会に、後世に、伝え抜いていかなくてはならない”と、深く深く決意していた。その時の、炎のごとき思いは、生命の限りを尽くして、師弟の尊き共戦の歴史を織り成していくなかで、不動の誓いとなっていくのである。
彼は、戸田が妙悟空のペンネームで、聖教新聞に連載することになった、小説『人間革命』の原稿を見せられた時、“いつの日か、この続編ともいうべき戸田先生の伝記を、私が書かねばならない”と直感したのであった。
さらに、戸田と一緒に、師の故郷の北海道・厚田村を訪ねた折、「厚田村」と題する詩をつくった。その時、自分が“戸田先生の伝記を、必ず書き残すのだ”と改めて、心に誓ったのである。それから、3年後、師の逝去の8か月前、軽井沢で、戸田の小説『人間革命』が話題になった。
戸田は、照れたように笑いを浮かべて言った。「牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先にたってできないということだよ」その師の言葉は、深く、強く、伸一の胸に突き刺さった。
伸一は、この軽井沢での語らいのなかで、広宣流布に一人立った、その後の戸田の歩みを、続『人間革命』として書きつづることこそ、師の期待であると確信したのである。そして、1964年(昭和39年)4月の戸田の七回忌法要の席で、いよいよ小説『人間革命』の執筆を開始することを、深い決意をもって発表したのである。
法悟空のペンネームで、伸一がつづる、この『人間革命』は、聖教新聞からの強い要請もあって、明65年の元日付から、聖教紙上に連載されることになった。
太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋
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