『新・人間革命』第9巻 光彩の章 P280~
ロシア革命は、レーニンなどに代表されるように、知識人によって、意図的に計画され、遂行された、世界最初の革命であった。レーニンの「大衆ー前衛」論は、彼が大衆を思い、愛するがゆえの、指導的役割の担い手として前衛党を誕生させた。
しかし、この考え方のなかに、既に「指導する前衛党」と「遅れた民衆」とが分断されていく萌芽が潜んでいたといってよい。前衛党のリーダーたちには、民衆以上に民衆の欲求を知っているという自負があった。その独善が、民衆蔑視の特権意識となり、遂には「赤い貴族」といわれる、官僚たちを生み出すに至ることになる。
人間は放っておけば、悪い方向に向かうという、いわば“性悪説”ともいうべき発想ゆえに、徹底した管理下、監視下に民衆を置く、巨大な官僚支配のシステムがつくられ、さらに“密告”など、民衆間の相互監視、相互不信のシステムがつくり上げられていったのである。
こんな話がある。少年が、自分の両親を密告し、両親は殺害された。ところが、この“親を売った”少年は、英雄、愛国者として称賛され、銅像まで立てられたのである。「イデオロギー」と「人間性」の倒錯である。
では、社会主義そのものが、根本的に否定されるべきものかというと、決してそうではあるまい。ある時代、ある段階では、社会全体の発展のために、計画経済を必要とし、それが大きな効果をあげることもある。また、自由主義、市場経済をとっている国であっても、社会主義の道徳的な特質である、「平等」や「公正」の理念を忘れれば、弱肉強食に堕してしまうであろう。
問われるべきは、それが、歴史を動かすすべてであるとの錯覚ーーつまり、「人間」という視点の欠落である。要するに、国家体制の選択よりも、「人間不在の政治」から「人間尊重の政治」への転換こそが、不可欠といってよいだろう。
伸一は、その新しい社会主義の指導として、「人間性社会主義」を提唱していたが、その確信をますます強くしたのである。伸一は、社会主義国の指導者たちと、会って語り合いたいと思っていた。いや、そうしていかねばならないと思った。
10月12日スイスのチューリヒに到着した山本伸一一行。自由主義の国に来るとホッとするというメンバーに伸一は答えた。
「『大衆即大知識』という吉川栄治の言葉があるが、民衆に学ぼうという真摯な姿勢をもった政治家が、何人いるだろうか。また、民衆自身、主権者の自覚をもって社会をどうするか、政治をどうするかと、真剣に考えているとは言いがたい」
「私たちが今なそうとしていることは、人間革命を基軸とした相対革命だ。わが内なる悪と戦い、すべての根源である人間の内面を、生命を変革していく人間革命だ。」
「その方法は、急進的な暴力革命ではない。偉大なことは、一朝一夕にできるものではないからね。では、その武器は何か。一人ひとりとの対話だ。言論の力による革命だよ。そして、より根本的には、人格による触発作業といえる。したがって、自己の人格を磨くということが、私たちの運動の不可欠な要件となっていく。」
「根本的な人間不信が、次々と人間を分断していくことになる。私は、この分断こそが、最大の悪の要因であると断定したい。」
「今、私たちは、人類の歴史上、類を見なかった、全く新しい、未聞の革命を起こそうとしている。しかも一人の犠牲者もなく。これは、壮大な実験だ。しかも、失敗が許されない実験といってよい。」
善も、悪も備え、無限の可能性を秘め、瞬間瞬間、躍動してやまぬ生命的存在が人間である。ところが、マルクスは、この限りなく深い、人間の内面を徹底して見すえず、その全体像を把握することはなかった。
人間とは何かを、正しく認識せずしては、人間の幸福を実現することは不可能である。
ロシア革命は、レーニンなどに代表されるように、知識人によって、意図的に計画され、遂行された、世界最初の革命であった。レーニンの「大衆ー前衛」論は、彼が大衆を思い、愛するがゆえの、指導的役割の担い手として前衛党を誕生させた。
しかし、この考え方のなかに、既に「指導する前衛党」と「遅れた民衆」とが分断されていく萌芽が潜んでいたといってよい。前衛党のリーダーたちには、民衆以上に民衆の欲求を知っているという自負があった。その独善が、民衆蔑視の特権意識となり、遂には「赤い貴族」といわれる、官僚たちを生み出すに至ることになる。
人間は放っておけば、悪い方向に向かうという、いわば“性悪説”ともいうべき発想ゆえに、徹底した管理下、監視下に民衆を置く、巨大な官僚支配のシステムがつくられ、さらに“密告”など、民衆間の相互監視、相互不信のシステムがつくり上げられていったのである。
こんな話がある。少年が、自分の両親を密告し、両親は殺害された。ところが、この“親を売った”少年は、英雄、愛国者として称賛され、銅像まで立てられたのである。「イデオロギー」と「人間性」の倒錯である。
では、社会主義そのものが、根本的に否定されるべきものかというと、決してそうではあるまい。ある時代、ある段階では、社会全体の発展のために、計画経済を必要とし、それが大きな効果をあげることもある。また、自由主義、市場経済をとっている国であっても、社会主義の道徳的な特質である、「平等」や「公正」の理念を忘れれば、弱肉強食に堕してしまうであろう。
問われるべきは、それが、歴史を動かすすべてであるとの錯覚ーーつまり、「人間」という視点の欠落である。要するに、国家体制の選択よりも、「人間不在の政治」から「人間尊重の政治」への転換こそが、不可欠といってよいだろう。
伸一は、その新しい社会主義の指導として、「人間性社会主義」を提唱していたが、その確信をますます強くしたのである。伸一は、社会主義国の指導者たちと、会って語り合いたいと思っていた。いや、そうしていかねばならないと思った。
10月12日スイスのチューリヒに到着した山本伸一一行。自由主義の国に来るとホッとするというメンバーに伸一は答えた。
「『大衆即大知識』という吉川栄治の言葉があるが、民衆に学ぼうという真摯な姿勢をもった政治家が、何人いるだろうか。また、民衆自身、主権者の自覚をもって社会をどうするか、政治をどうするかと、真剣に考えているとは言いがたい」
「私たちが今なそうとしていることは、人間革命を基軸とした相対革命だ。わが内なる悪と戦い、すべての根源である人間の内面を、生命を変革していく人間革命だ。」
「その方法は、急進的な暴力革命ではない。偉大なことは、一朝一夕にできるものではないからね。では、その武器は何か。一人ひとりとの対話だ。言論の力による革命だよ。そして、より根本的には、人格による触発作業といえる。したがって、自己の人格を磨くということが、私たちの運動の不可欠な要件となっていく。」
「根本的な人間不信が、次々と人間を分断していくことになる。私は、この分断こそが、最大の悪の要因であると断定したい。」
「今、私たちは、人類の歴史上、類を見なかった、全く新しい、未聞の革命を起こそうとしている。しかも一人の犠牲者もなく。これは、壮大な実験だ。しかも、失敗が許されない実験といってよい。」
太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋