『新・人間革命』第9巻 光彩の章 P223~

高井夫妻は、交代で、屋久島や奄美大島にも、弘教の足を延ばした。夫婦の胸には、いよいよ仏法への大確信が燃えていた。しばらくは借金の返済に苦しむ生活が続いていたが、いつしか、それも克服していた。

平治には、以前からいだいていた、一つの夢があった。東洋の民衆の幸福と平和のために、力いっぱい働きたいーーというのが、彼の強い願望であった。彼は、日本に引き揚げる時に、今度は平和のために働いてくれと言われた、タイの兵士の言葉が、頭から離れなかったのである。

二人は、東洋広布に生きることを念願としながら、時の到来を待ち続けていたのである。山本会長が熊本を訪問した折、伸一に、“アジアの民衆の幸福のために、生涯をかけたい”という自分たちの決意を打ち開けた。

伸一は、「そうか、やっぱり、そういう人が出てきたか。嬉しいね。行きなさい。私が応援します。」と言って、具体的に話をすすめ、香港なら、いつでも行けるという夫婦に東南アジア本部長、総支部婦人部長の人事を発表した。

香港に出発する直前、二人に伸一は、「香港に行ったら、絶対に威張ってはいけない。みんなと仲良くなり、友達になることです。信心の面では、あなたたちの方が大先輩だが、香港では、一番後輩になる。だから、1年目は、何があっても、『そうですか、そうですか』と、みんなの言うことを聞くことです。そして、二年目には、『仏法での生き方では、こうです』『日本では、このようにやっていますよ』とだけ話しなさい。三年目になったら、今までの香港のやり方と、日本のやり方と、どちらがよいか、決めてもらうんです。」

「もし、皆が信心に反するような方向に進んでいきそうな場合には、なぜ、それが間違いなのかを、忍耐強く、丁寧に、噛んで含めるように、教えてあげることです。」

どこまでも、公平に、みんなのために奉仕していってもらいたい。それが本当の学会の幹部の姿です。香港を、アジアを頼みますよ」と言った。

梶山久雄という日本の亜細亜大学からの交換留学生で、香港中文大学で経済を学ぶ、学生もきていた。
梶山は、“いよいよ、東洋広布の幕が開いたのだ。ぼくも香港に行きたい”と交換留学生の試験を受け、見事パスし、学費、寮費は無料、食費も支給されるという好条件で留学できたのだ。

この梶山や高井夫妻のように、広宣流布のために、自ら海外に渡ろうという人たちが、次々と誕生しつつあることが、伸一は嬉しかった。

香港を発って2時間余りで、最初の訪問地である、タイのバンコクに着いた。1962年に訪問し支部が結成された時地区部長だった、潘錦鐘は、支部長になり、妻の和代が支部婦人部長に就任していた。

和代は、夫の活動を冷ややかに見ていたが、タイ語に不慣れな、初代支部婦人部長のアン・ミヤコ・ライズの通訳として、一緒にメンバーの家を回るうちに、次第に信心を学んでいった。

伸一に、「今度は、日本でお会いしましょう。お待ちしています」と言われ、初めて、日本に帰ろうと思い、その当時、地区担当員となった彼女は20世帯前後の地区であったが、100世帯に拡大して、日本へ行こうと決意を固めたのだった。

出発直前、地区100世帯を 達成し、5月3日の総会にタイからも 10数人の代表が参加できることになった。しかし、彼女のパスポートは いつまでたっても、発行されなかった。



太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋