『新・人間革命』第9巻 光彩の章 P211~
<光彩の章 開始>
青年は、時代の宝である。先駆けの光である。
わが「本門の時代」の先駆を切ったのも、青年たちであった。女子部は、わずか1年足らずで、2倍を大きく上回る部員100万を達成。学生部は1か月で1万人の部員増加をし、部員5万人の目標を達成。
伸一は、学生たちの大奮闘に驚嘆した。新しい力が大きく育ちつつあることに、無量の喜びを感じていた。
学生部総会の席上、伸一は「本門の時代」の未来構想に言及し「公明党を軌道に乗せること。仮称『創価大学』を設立し、その大学で、世界の平和に寄与する大人材を、大指導者をつくり上げていく」と発表。
「本門の時代」とは、社会への具体的な貢献の時代であるといえる。伸一は、その教育の場での一つのかたちを、まず、「創価大学」の設立構想として、学生部員に示したのである。
山本伸一は、この7、8、9月は、各方面の指導に東奔西走し、10月2日には、東南アジア、中東、ヨーロッパ訪問の旅に出発した。今回から、本部の首脳たちの要請で伸一の妻の峯子が、海外訪問に同行することになった。
毎回、海外を訪問するたびに、伸一の疲労は計り知れないものがあった。また、慣れない現地の食事などのために、体調を崩すことも少なくなかった。さらに、海外では、伸一は各国の要人と交流する機会が増えつつあり、夫婦同伴の方がふさわしいことが多かった。
そこで、本部では、伸一の健康や食生活にも精通している妻の峯子に、ぜひ同行してもらおうということになったのである。
香港では、東南アジア総支部の婦人部長高井敏江が出迎えてくれた。夫の平治は東南アジア本部の本部長と総支部長をしていた。平治は広島生まれ、戦前、朝鮮の高等農林学校に進学し、仕事に就いた。敏江は、朝鮮の生まれで、結婚した二人は、中国の北京で新婚生活をスタートした。
平治は、戦地に派遣され、九死に一生を得て、日本に引き揚げ、一家は 鹿児島で暮らし始めるが、盗難や詐欺にあい、莫大な借金が残り、一家心中も考えるほどだった。平治は宗教に救いを求め、日蓮宗に入るが、「身延はおかしい。鬼子母神なんかを拝ませている。宗祖の言われていることと違う」とやめてしまった。
そのころ、学会員から真実の日蓮仏法の話を聞き、妻とともに入会した。平治は熱血漢であり、妻は勝気な性格で、二人が信心に励み始めると、勢いは、とどまることを知らず、月に20世帯以上の布教を実らせたこともあった。
入会1年ほどしたころ、平治は突然、舌がもつれ、右目も開いたままになり、右半身がしびれていた。妻は病院へ行こうと言ったが、平治は「いよいよ、業が出た。俺は・・・信心で治してみせる。」彼には、“自分は戦争で、一度は死んだはずの人間である”という強い思いがあった。それが、彼に、病院には行かんという、あらぬ決断をさせたのであろう。
非常識ではあったが、彼には、既に、信心への並々ならぬ確信があった。平治は頑固であった。彼は「転重軽受」という、仏法の功力を信じていた。そして、この機会に、自分の姿を通して、仏法の力を、多くの人たちに教えたいと考えた。
半身不随の体で、仏法を語って歩いた。右目は閉じることもままならず、ろれつは回らず、口の端からは、涎が滴り落ちが。笑えば、顔が引きつった。空気の洩れる唇から発せられる言葉は、不明瞭このうえなかった。
しかし、彼の心は、毅然としていた。“必ず、信心でよくなるから、この姿をよく見ていてくれ”と懸命に訴えて歩いた。しかし、周囲の反応は、冷淡であった。嘲笑の的となった。
だが、彼は、足を引き摺りながら、必死になって信心指導に、折伏に歩いた。唱題にも力がこもった。
発病から、10日ほどして、帰宅した彼は、普通に話せるようになっていた。手足の痺れもなかった。
体験に勝る証明はない。この実証の波動は大きかった。鹿児島一体の妙法流布は大いなる進展をみせた。
<光彩の章 開始>
青年は、時代の宝である。先駆けの光である。
わが「本門の時代」の先駆を切ったのも、青年たちであった。女子部は、わずか1年足らずで、2倍を大きく上回る部員100万を達成。学生部は1か月で1万人の部員増加をし、部員5万人の目標を達成。
伸一は、学生たちの大奮闘に驚嘆した。新しい力が大きく育ちつつあることに、無量の喜びを感じていた。
学生部総会の席上、伸一は「本門の時代」の未来構想に言及し「公明党を軌道に乗せること。仮称『創価大学』を設立し、その大学で、世界の平和に寄与する大人材を、大指導者をつくり上げていく」と発表。
「本門の時代」とは、社会への具体的な貢献の時代であるといえる。伸一は、その教育の場での一つのかたちを、まず、「創価大学」の設立構想として、学生部員に示したのである。
山本伸一は、この7、8、9月は、各方面の指導に東奔西走し、10月2日には、東南アジア、中東、ヨーロッパ訪問の旅に出発した。今回から、本部の首脳たちの要請で伸一の妻の峯子が、海外訪問に同行することになった。
毎回、海外を訪問するたびに、伸一の疲労は計り知れないものがあった。また、慣れない現地の食事などのために、体調を崩すことも少なくなかった。さらに、海外では、伸一は各国の要人と交流する機会が増えつつあり、夫婦同伴の方がふさわしいことが多かった。
そこで、本部では、伸一の健康や食生活にも精通している妻の峯子に、ぜひ同行してもらおうということになったのである。
香港では、東南アジア総支部の婦人部長高井敏江が出迎えてくれた。夫の平治は東南アジア本部の本部長と総支部長をしていた。平治は広島生まれ、戦前、朝鮮の高等農林学校に進学し、仕事に就いた。敏江は、朝鮮の生まれで、結婚した二人は、中国の北京で新婚生活をスタートした。
平治は、戦地に派遣され、九死に一生を得て、日本に引き揚げ、一家は 鹿児島で暮らし始めるが、盗難や詐欺にあい、莫大な借金が残り、一家心中も考えるほどだった。平治は宗教に救いを求め、日蓮宗に入るが、「身延はおかしい。鬼子母神なんかを拝ませている。宗祖の言われていることと違う」とやめてしまった。
そのころ、学会員から真実の日蓮仏法の話を聞き、妻とともに入会した。平治は熱血漢であり、妻は勝気な性格で、二人が信心に励み始めると、勢いは、とどまることを知らず、月に20世帯以上の布教を実らせたこともあった。
入会1年ほどしたころ、平治は突然、舌がもつれ、右目も開いたままになり、右半身がしびれていた。妻は病院へ行こうと言ったが、平治は「いよいよ、業が出た。俺は・・・信心で治してみせる。」彼には、“自分は戦争で、一度は死んだはずの人間である”という強い思いがあった。それが、彼に、病院には行かんという、あらぬ決断をさせたのであろう。
非常識ではあったが、彼には、既に、信心への並々ならぬ確信があった。平治は頑固であった。彼は「転重軽受」という、仏法の功力を信じていた。そして、この機会に、自分の姿を通して、仏法の力を、多くの人たちに教えたいと考えた。
半身不随の体で、仏法を語って歩いた。右目は閉じることもままならず、ろれつは回らず、口の端からは、涎が滴り落ちが。笑えば、顔が引きつった。空気の洩れる唇から発せられる言葉は、不明瞭このうえなかった。
しかし、彼の心は、毅然としていた。“必ず、信心でよくなるから、この姿をよく見ていてくれ”と懸命に訴えて歩いた。しかし、周囲の反応は、冷淡であった。嘲笑の的となった。
だが、彼は、足を引き摺りながら、必死になって信心指導に、折伏に歩いた。唱題にも力がこもった。
発病から、10日ほどして、帰宅した彼は、普通に話せるようになっていた。手足の痺れもなかった。
体験に勝る証明はない。この実証の波動は大きかった。鹿児島一体の妙法流布は大いなる進展をみせた。
太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋