『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P26~
伸一は、師の戸田城聖に、次の目標として、会員600万世帯の達成を誓った。当時、日本の総世帯数は、約2300万世帯であった。会員600万世帯が達成されれば、日本の約4分の1の家庭に、御本尊が流布されることになる。
「本門の時代」の伸一の構想を実現していくには、それは、なんとしても果たさねばならない課題であった。墓参の終了後は、初の『仏教哲学大辞典』の編纂会議が行われた。
300万総登山は、この4月2日から翌年の3月25日まで、約1年間にわたって行わることになっていた。このうち、登山会が開催される日は、257日で、1日平均1万2千人近くが登山することになる。
登山会を無事故、大成功に終わらせるために、伸一は、運営の細部に至るまで、一つ一つ、全神経を研ぎ澄まし、検討を重ねてきた。彼は、首脳幹部に何度も、こう訴えてきた。
「信心をしているから、また祈っているから、事故が起きないなどという考えは誤りです。信心をしているからこそ、絶対に事故など起こすものかという、強い決意、一念が大事なんです。そして、御書に『前前の用心』と仰せの通り、事故を起こさないための、万全な対策を、徹底して練り上げることです。それが信心です。」
「行事に参加した人が、学会は安全のために、ここまで工夫し、神経を使ってくれているのかと、感嘆するようでなければならない」
輸送では、国鉄と話し合いを重ね、月間、3~400本の臨時列車が確保されていた。さらに、駅の改築も進められた。衛生面には、最も神経を配り、食事は完全に熱殺菌し、真空パックした「真空弁当」が配布されることになった。そして、1回、45分で、3千食を超す弁当をつくることができる、厨房も建設されたのである。
そのほか、寝具センターも建てられ、1日に12~1300枚の布団乾燥や、綿の打ち直し、布団のクリーニングなどが行えるようになっていたのである。
いずれも、極めて画期的な試みであった。
一方、下水処理場も完璧なものをとの、山本伸一の支持で建設に着手し、前年10月に完成をみていた。
待ちに待った300万総登山の幕が開いた。これには、日本国内だけでなく、海外各国からも、多数のメンバーが参加することになっていた。ブラジルのサンパウロから日本までの往復の旅費は、飛行機で1500米ドル(54万円)、船でも500米ドル(18万円)かかった。
当時、サンパウロの月額の最低賃金が30米ドル(1万800円)といわれている。つまり、庶民にとっては、1年分以上の総収入ということになる。それだけに、皆、渡航の費用の捻出は容易ではなかった。
一行13人は、皆同じような生活状態であった。経済的に豊かといえる人はいなかった。生活費をあらゆる面で切り詰め、あるいは、何年にもわたるローンを組んで、渡航費用を捻出したのであった。
サントスから日本までの船旅は、片道40日近くを要する。その間の仕事の段取りをつけるのも、容易ではない。しかし、“自分たちが目標としてきた、戸田先生の七回忌の年に日本に行き、山本会長ぱと会いたい”という一心で、出港の日を迎えたのである。
一行の乗った「あるぜんちな丸」は、大西洋を北上し、カリブ海を渡り、パナマ運河を通って太平洋に出た。そして、アメリカのロサンゼルスに到着すると、船内で、アメリカとブラジルの合同座談会が開かれた。
「あるぜんちな丸」は、さらに北上し、サンフランシスコに寄稿した。そして、太平洋を横断し、一路、日本をめざしたのである。
太字は 『新・人間革命』第9巻より
伸一は、師の戸田城聖に、次の目標として、会員600万世帯の達成を誓った。当時、日本の総世帯数は、約2300万世帯であった。会員600万世帯が達成されれば、日本の約4分の1の家庭に、御本尊が流布されることになる。
「本門の時代」の伸一の構想を実現していくには、それは、なんとしても果たさねばならない課題であった。墓参の終了後は、初の『仏教哲学大辞典』の編纂会議が行われた。
300万総登山は、この4月2日から翌年の3月25日まで、約1年間にわたって行わることになっていた。このうち、登山会が開催される日は、257日で、1日平均1万2千人近くが登山することになる。
登山会を無事故、大成功に終わらせるために、伸一は、運営の細部に至るまで、一つ一つ、全神経を研ぎ澄まし、検討を重ねてきた。彼は、首脳幹部に何度も、こう訴えてきた。
「信心をしているから、また祈っているから、事故が起きないなどという考えは誤りです。信心をしているからこそ、絶対に事故など起こすものかという、強い決意、一念が大事なんです。そして、御書に『前前の用心』と仰せの通り、事故を起こさないための、万全な対策を、徹底して練り上げることです。それが信心です。」
「行事に参加した人が、学会は安全のために、ここまで工夫し、神経を使ってくれているのかと、感嘆するようでなければならない」
輸送では、国鉄と話し合いを重ね、月間、3~400本の臨時列車が確保されていた。さらに、駅の改築も進められた。衛生面には、最も神経を配り、食事は完全に熱殺菌し、真空パックした「真空弁当」が配布されることになった。そして、1回、45分で、3千食を超す弁当をつくることができる、厨房も建設されたのである。
そのほか、寝具センターも建てられ、1日に12~1300枚の布団乾燥や、綿の打ち直し、布団のクリーニングなどが行えるようになっていたのである。
いずれも、極めて画期的な試みであった。
一方、下水処理場も完璧なものをとの、山本伸一の支持で建設に着手し、前年10月に完成をみていた。
待ちに待った300万総登山の幕が開いた。これには、日本国内だけでなく、海外各国からも、多数のメンバーが参加することになっていた。ブラジルのサンパウロから日本までの往復の旅費は、飛行機で1500米ドル(54万円)、船でも500米ドル(18万円)かかった。
当時、サンパウロの月額の最低賃金が30米ドル(1万800円)といわれている。つまり、庶民にとっては、1年分以上の総収入ということになる。それだけに、皆、渡航の費用の捻出は容易ではなかった。
一行13人は、皆同じような生活状態であった。経済的に豊かといえる人はいなかった。生活費をあらゆる面で切り詰め、あるいは、何年にもわたるローンを組んで、渡航費用を捻出したのであった。
サントスから日本までの船旅は、片道40日近くを要する。その間の仕事の段取りをつけるのも、容易ではない。しかし、“自分たちが目標としてきた、戸田先生の七回忌の年に日本に行き、山本会長ぱと会いたい”という一心で、出港の日を迎えたのである。
一行の乗った「あるぜんちな丸」は、大西洋を北上し、カリブ海を渡り、パナマ運河を通って太平洋に出た。そして、アメリカのロサンゼルスに到着すると、船内で、アメリカとブラジルの合同座談会が開かれた。
「あるぜんちな丸」は、さらに北上し、サンフランシスコに寄稿した。そして、太平洋を横断し、一路、日本をめざしたのである。
太字は 『新・人間革命』第9巻より