小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

September 2021

特別なつながり

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 139p

伸一は、白菊講堂の自由勤行会で、懇談的に指導した。「日蓮大聖人の仏法は、いかなる世代にも必要不可欠です。飛行機が大空へ飛び立っていく姿は青年時代であり、安定飛行に入って悠々と天空を進む様子は壮年時代といえる。

その間には、乱気流に巻き込まれ、大きな揺れや衝撃を受けることもあるかもしれない。したがって、安全に飛行し、幸福という目的地に行くには、それに耐えうる十分な燃料と強いエンジン、すなわち大生命力が必要となり、その源泉こそが信心なんです。

人生という空路を飛んだ飛行機は、やがて着陸の時を迎える。飛行機は着陸が最も難しいともいわれている。いわば、人生でいえば、総仕上げの年代であり、まさに一生成仏への滑走路に入れるかどうかです。この総仕上げの時を、いかに生きて、わが人生を荘厳していくかが、最もだいじなんです。

どうか皆さんは、年はとっても、心は青年の気概で、広宣流布のため、人びとのために、完全燃焼の日々を送っていただきたい。生涯求道、生涯挑戦、生涯青年です」

伸一の一行が、熊本文化会館に到着したのは、午後6時前であった。休む間もなく県幹部らとの懇談会が待っていた。「広宣流布を進めていくうえで最優先すべきは、皆が呼吸を合わせていくことであるといっても過言ではない。活動を推進していくうえでは、協議が大事です。なかなか意見がまとまらないこともあるかもしれない。そうした時には、常に、“なんのためであるか”に立ち返ることです。

皆が、この目的観に立ち、心を一つにして呼吸を合わせてこそ、実りある協議もできるし、目的を成就していくこともできる。戸田先生は、言っておられた。『信心のうえで呼吸があわない人は、必ず落後していく』と。心すべきご指導です」

ここで伸一は、今回の宗門事件のなかで、学会の組織を攪乱するなどした幹部がいたことから、その共通性に言及していった。「これまで、私の側近であるとか、特別な弟子であるなどと吹聴し、皆に迷惑をかけた幹部が一部におりました。結局、私を利用して自分の虚像をつくり、同志をだます手段にしてきたんです。

信心のうえで特別なつながりなどというものはありません。強いて言えば、私の身近にいて、すべてを託してきたのは、十条前会長であり、秋月現会長です。したがって“自分は側近である。特別な関係にある”などと言う言葉に騙されないでいただきたい。そんな発言をすること自体、おかしな魂胆であると見破っていただきたい。どこまでも、会長を中心に力を合わせていくことが、広宣流布を推進していくうえでの団結の基本です。未来のためにも、あえて申し上げておきます」

14日、伸一は、福岡県にも足を延ばし、久留米会館、八女会館を初訪問した。引き続き、筑後市内の個人会館で、懇談会を開いた。伸一は、広宣流布の途上には、予期せぬ困難が待ち受けており、その時こそ、リーダーの存在が、振る舞いが重要になることを確認しておきたかった。

「リーダーには、次の要件が求められます。『信念と確信の強い人でなければならない』『誠実で魅力ある人でなければならない』『健康でなければならない』『常に生き生きと指揮を執り、リズム正しい生活であるように留意すべきである』『仕事で、職場で、光った存在でなければならない。社会での実証は、指導力の輝きとなっていくからである』『指導にあたっては、常に平等で、良識的でなくてはならない』以上を、心に刻んで進んでいただきたい」

夜、熊本会館では、城南地域や天草からバスを連ねて、自由勤行会に集ってきた。これらの地域では悪僧の奸計によって、学会を辞めて檀徒になった幹部もいたのだ。昨日まで、すべて学会のおかげだと言っていた人物が、坊主の手先となって、学会を口汚く罵り、会員に脱会をそそのかしていったのである。

同志は、はらわたが煮えくり返る思いで、日々を過ごしてきた。“寺の檀徒をつくりたいなら、自分たちで、折伏すればよいではないか!それもせずに、信心のよくわからぬ、気の弱い学会員を狙って脱会させ、寺につけようとする!卑怯者のすることじゃ!信仰者のすることではない!”

皆の憤怒は激しかったが僧俗和合のためにと、黙していた。理不尽な状況があまりにも長く続き、耐え忍ぶしかないと考えるまでになっていたのだ。歯ぎしりしながらも、ひたすら広布の前進と、正邪が明らかになることを願っての唱題が続いた。



太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

荒城の月大合唱 岡城址

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 124p

“今、この大分の地から、新世紀への前進の幕が切って落とされたのだ。不撓不屈の創価の新しき歴史が、ここから始まったのだ”

大分平和会館で自由勤行会が行われた。伸一は、全力で参加者の激励、指導にあたった。彼は、大分ゆかりの人のなかに、多くの歴史的人物がいることに触れた。「…滝廉太郎は名曲を残し、福沢諭吉は大学を残した。では今、私たちは、信仰者として何を残すべきか。それは、日蓮大聖人が顕された生命の大法である南無妙法蓮華経を全世界に流布し、永遠に伝え残していくことです。

各人が、万人の絶対的幸福への道を開く妙法を、わが人生において、幾人の人に教えることができたかーーそこに、私どもの、この世で果たすべき使命があります。この一点のみが、御本仏・日蓮大聖人の御賞賛をいただき、自身の永遠にわたる思い出と、仏法者としての最高の功績と栄誉をつくる方途であります。この確信に立つなかに、信仰者の神髄があることを知ってください。

学会本部のバスで竹田に向かった。車中、打ち合わせや執務を行えるからである。広宣流布は、時間との戦いである。バスは、岡城址に到着した。城の本丸跡に、同志の激励に向かった。地元の幹部が語り始めた。「私たちは、護法のために尽くそうと、住職を全力で応援してきました。最初は、僧俗和合を口にしながら、手のひらを反すように学会を批判し、攻撃するようになりました。そして、陰で同志に、学会を辞めるようにそそのかしていたんです」

年配の壮年が、「人間のやることじゃありません…」と唇を噛み締めた。伸一は頷き、笑顔を向けた。「お父さんには、ずいぶん苦労をかけてしまいましたね。よくぞ持ちこたえ、見事に竹田を再起させてくれました。ありがとう」壮年のすすり泣きが漏れた。

冬の試練が厳しければ厳しいほど、春を迎えた喜びは大きい。「労苦即歓喜」となる。岡城址の本丸跡には、メンバーが続々と詰めかけていた。三百人ほどの人たちが集まっていた。「聖教新聞」のカメラマンが、ファインダーをのぞいた。悪戦苦闘の暗雲を突き抜けた同志の顔は、晴れやかであった。

伸一は言った。「せっかく岡城址にきたのだから、みんなで『荒城の月』を歌いましょう!」障魔の嵐を耐え忍び、広布に邁進してきた尊き仏子たちは、誇らかに胸を張り、頬を紅潮させて熱唱した。「万歳!」の声が起こった。彼と同志の間には、目には見えずとも、固い絆があった。信の絆であり、久遠の誓いの絆であり、広宣流布の師弟の絆であった。

伸一は、初訪問となる熊本県の阿蘇町にある白菊講堂をめざした。阿蘇山麓を進んだ。やがて、彼方に三つの凧が舞っているのが見えた。凧には「旭日」「獅子」「若鷲」の絵が描かれているのがわかった。バスを降りると、地元のメンバーの代表らと記念撮影をし、これまでの労苦をねぎらい、懇談した。

また、凧を揚げてくれたくれた高校生を呼び、心から励ましの言葉をかけた。講堂では、自由勤行会が行われていた。伸一は、車いすに乗った若者を見ると、真っ先に、彼のもとへ向かった。筋ジストロフィーで療養所に入所している、高校1年生の野中広紀であった。

本格的に信心を始めたばかりであった。彼の母親の文乃は、弘教を実らせて、山本先生を迎えようと決意した。これまで彼女は、筋ジストロフィーの息子がいることを知っている人には、仏法対話を控てきた。相手を納得させることはできないと思ったのである。

しかし、わが子の姿に励まされ、同じ病気で入所治療している子どもをもつ母親に、勇気をもって仏法の話をした。すると、「挫けることなく、息子さんの闘病生活を支え、明るく元気に、確信をもって信仰のすばらしさを語る姿に感動しました」と言うのだ。そして、入会を決意したのである。

悩みのない人生はない。生きるということは「悩み」「宿命」との闘争といってもよい。大事なことは何があっても、御本尊から離れないことだ。勇気をもち、希望をもち、敢然と祈り、戦い続けることだ。そこに人は、人間としての強さと輝きと尊厳を見いだし、共感、賛同するのである。

伸一は、彼の体をさすりながら語りかけた。「強く生きるんですよ。使命のない人はいません。自分に負けない人が勝利者です」野中は、慰めではない、生命を鼓舞する励ましの言葉を、初めて聞いた思いがした。

伸一の激励に、彼は決意した。“自分の人生は、短いかもしれない。しかし、一日一日を懸命に生き、自らの使命を果たし抜きたい”ーー病というハンディがありながら、強く、はつらつと、未来に向かって進もうとする野中の真剣な生き方は、同世代の友人たちに、深い感銘を与えていった。

彼は、県内の高校から、文化祭で講演してほしいとの要請を受け、「生きる勇気」と題して、自分の闘病体験と抱負を語った。それは大きな感動を呼んだのである。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

青年よ 21世紀の広布の山を登れ

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 108p

9日、伸一は、若手の婦人部幹部に、先輩とのかかわり方についてアドバイスした。「一家の中でも嫁と姑の問題がある。婦人部のなかで、先輩幹部と若手幹部の意見が食い違うのは当然です。娘が母親に対する時も、お嫁さんがお姑さんに対する場合も同じですが、まず、『はい』と言って、素直に聞いていく姿勢が大事です。そのうえで、こういう考え方もあると思うと、自分の意見を述べていくんです」

「優しく頷いて聞いていけば、相手だって嬉しい。年配になればなるほど、その傾向は強まっていきます。人間の心の機微を知り、聡明に対応していくことができるかどうかーーこれはリーダーに問われる大切な要件です」

新たなる前進の段階に入って若手幹部が誕生し、世代交代が進められることによって、広宣流布のリーダー像は大きく変わりつつあった。リーダーには、新たな開拓力とともに、皆の力を引き出し、全体の調和が図れる指揮者としての役割がより求められていた。

伸一が大分平和会館に戻ると、30代から50代前半の男性たちが待機していた。「大分百七十人会」のメンバーである。彼らは、21年前、伸一が会長就任後、初めて大分を訪問し、支部結成大会に出席した折、場外整理などを担当していた役員の青年たちである。

10年後に再び集い合うことを約し、福岡の地で再開を果たした。その時、「百七十人グループ」と命名。その後「大分百七十人会」としたのである。以来11年、三たび、伸一のもとに集ったのだ。皆、社会にあっては信頼の柱となり、また、各地で学会を担う中核に成長していた。ひとたび結んだ縁を大切にし、長い目で見守り、励ましを重ねてこそ、人材は育つ。

伸一は、この日の夜、大分平和会館の落成三周年を記念する県幹部会に出席した。5項目からなる「大分宣言」が採択された。それは、前日、「私と一緒に戦いましょう!」と呼びかけた伸一への、共戦の誓いであった。

広布の師弟を分断しようと、悪僧が跋扈した苦闘の時代を勝ち越え、今、声を大にして師弟共線を叫び、大分の勝利を宣言できる喜びが、皆の心に満ちあふれていた。誰もが、“新しい時代が到来した!”との実感を深くした。

12月10日夜、大分県青年部幹部会が開催されることになっていた。青年たちは、この日の幹部会で、新たな出発の決意を込めた“正義の詩”を発表し、21世紀への前進を開始したいと言う。ちょうど、この年は、恩師・戸田城聖が、あの「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」で始める「青年訓」を発表してから30周年にあたっていた。

伸一も、青年たちに新しい指針を残したいと考えていた。「よし、ぼくが作って贈ろう!」こう言うと、彼は、口述を始めた。伸一は、詩のなかで創価の不変の軌道を示し、いかなる権威、権力をもって迫害されても、その大難を乗り越えていくところに、人間革命の勝利の旗は翻ると断言した。

さらに、「2001年5月3日」を目標に、広布第二幕の勝負は、この時で決せられることを銘記して、労苦の修業に励みゆくよう訴えたのである。「私は、21世紀へと向かう新しい指針にしてほしいとの思いで、詩をつくりました。」「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」--これが、この詩のタイトルである。

「21世紀は全てが君達のものだ。君達の暁であり檜舞台である。君達が存分に活躍しゆく総仕上げの大舞台である。2001年5月3日ーーこの日が私共のそして君達の大いなる目標登はんの日であるといってよい。広布第二幕の勝負は、この時で決せられることを忘れないでほしいのだ」

大きな、大きな拍手が、いつまでも、いつまでも鳴りやまなかった。師弟の大道に生き抜く誓いの拍手であった。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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宗門事件の震源地

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 98p

「正信」の名のもとに、衣の権威を振りかざす“邪心”の僧らによって、どこよりも非道な攻撃を受け、苦しめられてきたのが、大分県の同志であった。「御講」などで寺に行くと、住職は御書ではなく、学会の中傷記事を掲載した週刊誌を使って、「学会は間違っている。謗法だ!」と言うのだ。

そして、脱会したメンバーが学会員に次々と罵詈雑言を浴びせ、そのたびに場内は拍手に包まれるのだ。それを住職は、ほくそ笑んで見ているのである。老獪この上なかった。

学会を辞めて寺につかなければ、葬儀には行かないと言われ、涙ながらに、会館に訴えてくる人もいた。また、あろうことか、葬儀の席で学会攻撃の暴言を投げつける悪侶もいたのである。遺族の悲しみの傷口に塩を塗るような、許しがたい所業であった。

伸一は、そうした報告を受けるたびに、胸が張り裂ける思いがした。“負けるな!必ず勝利の朝は来る!”彼は心で叫びながら、題目を送り続けた。「さあ、戦うよ!大分決戦だ。大逆転のドラマが始まるよ!」師子吼が放たれた。

伸一は、別府文化会館に行くように頼んだ。別府は、宗門事件の震源地ともいうべき場所であったからだ。国道沿いには、あちこちに、車に向かって手を振る人たちの姿があった。伸一が大分に来ると聞いて、“きっと、この道を通るにちがいない。一目でも姿を見たい”と、待ち続けていたのだ。

伸一は、その健気さに、胸が熱くなった。“ひたすら広布に生き抜いてきた、この尊き仏子たちを、正信会の悪侶たちは苛め抜いた。絶対に許されることではない。御本尊、また、日蓮大聖人から、厳しきお叱りを受けるであろう。今日の、この光景を、私は永遠に忘れない”

会館には、二百人ほどのメンバーが詰めかけ、皆、伸一の別府文化会館訪問を確信していたのである。わずかな時間であったが、伸一は思いの限りを注いで、皆を励ました。そして、大分市へ向かった。

大分平和会館に到着した彼は、居合わせたメンバーとカメラに納まった。懇談会が始まった。「皆さんは勝ちました。長い呻吟の歳月を経て、師子身中の虫を打ち破り、遂に正義が悪を打ち破ったんです!」

「広宣流布に生きるうえで大切なことは、清純な信心を破壊する、この悪知識を鋭く見破っていくことです。」

「広宣流布の久遠の使命を果たし抜いていくうえで、また、一生成仏を遂げ、崩れざる幸福境涯を確立していくうえで、最も大切なことは何かーー。それは『覚悟の信心』に立つことです。心を定め、師子の心をもつならば、恐れるものなど何もありません。

そして、その時、自分を苦しめ抜いた、もろもろの悪人も、すべて善智識となっていくんです。覚悟を定め、大難に挑み戦うことによって、自らの信心を磨き鍛え、宿命転換がなされていくんです。

私は、もう一回、広布の大闘争を開始します。本当の創価学会を創ります。皆さんも、私と一緒に戦いましょう!」

二つの文書を代表に贈った。一つは、会長辞任を発表した1979年(昭和54年)4月24日の夜に、記者会見終了後、その模様などを記した一文であった。もう一つは、宗門事件が勃発した1977年の12月4日夜、宮崎の宿舎で、自身の心境を綴ったものである。

そこには、こう書かれていた。「宗門問題起こる。心針に刺されたる如く辛く痛し」そして、次のように続いていた。「広宣流布のために、僧俗一致して前進せむとする私達の訴えを、何故、踏みにじり、理不尽の攻撃をなすのか」「大折伏に血みどろになりて、三類の強敵と戦い、疲れたる佛子に、何故、かかる迫害を、くりかえし…」「私には到底理解しがたき事なり。尊くして愛する 佛子の悲しみと怒りと、侘しさと辛き思いを知り、断腸の日々なりき。此の火蓋、大分より起これり…」

この二つの文書を渡し、伸一は言った。「これが私の心だ。同志こそ、私の命だ。会員を守り抜くことがリーダーの使命です。もしも、また、こうした事態が起こったならば、これを持って、仏子のために、広布のために、君たちが真っ先に立ち上がるんだ。最も苦しみ抜いた大分には、破邪顕正の先駆けとなる使命がある!」大分の同志の顔が、決意に燃え輝いた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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紅の歌とともに

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 86p

13日、伸一は、四国研修道場の講堂で行われた、高知支部結成25周年記念勤行会に出席した。伸一は、広宣流布の道に、大難が競い起こるのは当然であることを確認し、信心の姿勢について訴えたのである。

「苦難の時にこそ、その人の信心の真髄がわかるものです。臆病の心をさらけ出し、逃げ去り、同志を裏切る人もいる。また、“今こそ、まことの時である”と心を定め、敢然と奮い立つ人もいる。その違いは、日ごろから、どれだけ信心を磨き、鍛えてきたかによって決まる。一朝一夕で強情な信心が確立できるわけではありません。いわば、日々、学会活動に励み、持続していくのは、苦難の時に、勇敢に不動の信心を貫いていくためであるともいえる。

広布のため、学会のために、いわれなき中傷を浴び、悔しい思いをしたことは、すべてが永遠の福運となっていきます。低次元の言動に惑わされることなく、仏法の法理のままに、無上道の人生を生き抜いていこうではありませんか!」

創造とは、安易に妥協しようとする自身の心との戦いであるともいえよう。その心に打ち勝ち、極限まで、挑戦、努力、工夫を重ねていってこそ、新しき道は開かれる。伸一は、その創造の闘魂を、後継の青年たちに伝えたかったのである。彼は、「紅の歌」のテープを聴き、歌詞の意味を噛み締めながら、心で青年たちに語りかけた。

「ああ紅の朝明けて…」雲を破り、真っ赤な太陽が昇る。人間は、臆病になり、挑戦をやめ、希望を捨て、あきらめの心をいだくことによって、自らを不幸にしていくのだ。われらは妙法という根源の法に則り、満々たる生命力をたたえ、一つ一つの課題を克服しながら広布に走る。

ありのままの自分を輝かせ、自他共の幸福を築くために、あふれる歓喜を胸に、誇らかに「民衆の旗」を掲げ、民衆の勝ち鬨を高らかに轟かせゆくために。

未来のために、自らを磨き、鍛え、働き、学び、喜び勇んで労苦を担っていくのだ。「青春の 金の汗」こそ、永遠に自身を荘厳する財産となるにちがいない。さあ、若き翼よ!地平線の彼方に、澎湃として躍り出よ!

14日の夜、伸一は、20数回にわたる推敲の末に、宣言するように青年たちに言った。「よし、これでいこう!『紅の歌』の完成だ!青年の魂の歌だ!」妻の峯子が語りかけた。「ここには、あなたが青年におっしゃりたいことが、すべて入っていますね」

「そうなんだよ。男子部は、この『紅の歌』を、そして、女子部は、新愛唱歌の『緑のあの道』を歌いながら、21世紀をめざして進んでいくんだ」二つの歌は、いずれも、新時代にふさわしい、新しい感覚の、心弾む歌となった。

11月15日夜、山本伸一は四国の高松空港から、空路、再び大阪入りした。その後、和歌山県、奈良県と回り、激闘は続いた。さらに、滋賀県、福井県を訪問したあと、中部を巡り、静岡県でも指導と激励に全力を注いだ。

男子部では、11月22日、福島県で全国男子部幹部会を開催した。彼らは、この幹部会を、“紅男幹”と名づけ「紅の歌」とともに21世紀へと旅立つ、師弟共線の誓いの集いとしたのである。集った青年たちは、「広布の魁」として、茨の道を切り開きゆく決意を固めたのである。

“たとえ、いかなる試練の烈風が競い起ころうとも、同志のため、社会のために、険しき坂を勇んで上りゆくのが創価の丈夫だ!負けてなるものか!われらは、老いたる父や母が命がけで築いてくれた広布の城を、断固、守り抜いてみせる!”その合唱は、宗門事件の嵐を見事に乗り越えた青年の凱歌であり、未来にわたる人生勝利の勝ち鬨となったのである。

“最も苦しんだ同志のところへ駆けつけよう!一人ひとりと固い握手を交わす思いで、全精魂を込めて、生命の底から励まそう!”山本伸一が、九州の大分空港に降り立ったのは、12月8日であった。四国、関西、中部等を巡った激闘の指導旅を終え、東京に戻って6日後のことである。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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