小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

September 2021

関西魂

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 209p

<誓願の章 開始>

新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある。ゆえに山本伸一は、常に青年の育成に焦点を当て、一切の力を注いできた。

青年が、広布の後継者として大成していくうえで大切な要件は、何よりも信心への揺るぎない確信をつかむことである。そして、地涌の深き使命を自覚し、自身を磨き鍛え、人格を陶冶していくことである。それには、挑戦心、忍耐力、責任感等々を身につけ、自身の人間的な成長を図っていくことが極めて重要になる。

伸一は、そのための一つの場として、青年たちを中心に、各方面や県で文化祭を開催することを提案してきた。

21世紀に向かって飛翔する創価学会の文化祭の先駆となったのは、関西であった。1982年(昭和57年)3月22日、第一回関西青年平和文化祭が開催されたのである。関西青年部には、この文化祭を超える、芸術性と学会魂にあふれた感動の舞台にしなければならぬとの、強い挑戦の気概があった。

文化祭は、安全、無事故が鉄則である。事故を起こしては、取り返しがつかないーー関西の青年たちは、そう深く自覚し、6段円塔への挑戦が始まると、絶対無事故を決意し、事故を起こさぬための工夫、研究を重ね、皆で真剣に唱題に励んだ。

屋外の練習場では、怪我などさせてはならないと、近くの壮年・婦人部が、自主的にガラスの破片や小石を拾い、清掃に努めた。仏法は道理である。御書に「前前の用心」と示されているように、万全な備えがあってこそ、すべての成功がある。

22日午後1時半、関西平和文化祭は、新入会1万人の青年による平和の行進で幕を開けた。やがて、男子部の組体操となった。中央では六段円塔が組まれ始めた。最上段で青年は、両手を広げた。円筒のてっぺんで、青年が何かを叫んだ。「弘治、やったぞ!」

円塔に立った青年は菊田弘幸といい、弘治とは、5日前に他界した親友で男子部員の上野弘治のことである。「不可能を可能にする!」これが、上野の最後の言葉となった。彼は、原発性くも膜下出血と診断され、呼吸停止となったが、4日間生き続け、3月16日の翌日、安らかに息を引き取った。

18日、菊田は、上野の写真を胸に、練習会場へ向かった。この時、初めて至難の円塔が完成したのだ。彼の母は述懐する。「あの子は、中学2年の時、紫斑病で生死の境をさまよいました。今、思えば、それ以来、御本尊様に寿命を延ばしていただいたと実感しています」

彼の妻は、伸一への手紙に、こう記した。「宿命と戦った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生きぬいて教えてくれました」

文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに、“負けるな!”と励まし合ってきた。

そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。

“関西魂”は、どこから生まれたのかーー。
1956年5月大阪支部で1か月に1万1千百十一世帯という弘教を成し遂げた。同年7月、学会が初めて推薦候補を立てた参議院選挙で、“当選など不可能である”との、大方の予想を覆し、「“まさか”が実現」と新聞で報じられた劇的な大勝利をした。

翌57年、7月3日、伸一は、4月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反をしたという無実の罪を着せられ、逮捕される。“無実の山本室長を、なぜ逮捕したのか!権力の魔性を、私たちは断じて許さない!”

同志の心に正義の炎は、赤々と燃え上がった。その胸中深く、“常勝”の誓いが刻まれ、目覚めた民衆の大行進が始まったのだ。その時の、背中の子どもたちも、今、凛々しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。

勝鬨

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 178p

仙北郡太田地域で、初代地区部長として戦ってきた、小松田城亮は、不幸続きの人生に、半信半疑ながら、入会した。信心への確信をつかむと、仏法の話をしたくてたまらず、親戚知人を折伏した。自宅が全焼し、家と家財をすべて焼失しても、「大丈夫、御本尊がある」と周囲の人びとを覆う、不安の暗雲も打ち破って、やがて、家も新築することができた。

一族の学会員からは、たくさんの社会貢献の人材が出ていた。学会にあっても、多くのメンバーがリーダーとして活躍している。城亮の人材輩出の秘訣は、自分が弘教した人は、独り立ちするまで、徹底して面倒をみることであった。

伸一は、深く思った。“学会の大発展は、こうした、人知れず苦労を重ねながら、誠実と忍耐で、家族、兄弟、親戚、そして、地域の友人たちと、強い信頼の絆を結び、それを広げてきた数多の無名の英雄がいたからこそ、築かれたのだ”

13日夜、伸一は、県青年部の最高会議に出席した。「青年は、常に、『皆が困っている問題は何か』『地域発展のために何が必要か』を考え、柔軟な発想で打開を探っていくんです。不可能だと思ってしまえば、何も変えることはできない。“必ずなんとかしてみせる”と決めて、思索を重ね、何度も何度も挑戦し、ねばり強く試行錯誤を重ねていく情熱があってこそ、時代を変えることができる。これが青年の使命です」

「何かを成し遂げよう、改革していくと思えば、必ず分厚い壁があり、矛盾に突き当たる。いや、現実は矛盾だらけだ。しかし、そのなかを、日々、聡明に、粘り強く、突き進むしかない。ましてや、世界広宣流布は、前人未到の新航路だ。誰もいないと思い、一人立つのだ!皆が“山本伸一”になるんです」

学会にあって「日本海の雄」「東北の雄」といわれてきた秋田が、今、未来へと大きく飛翔しようとしていた。1月14日夜、県内1500人の代表が、喜々として集い、第一回県青年部総会が開催されたのである。

「時間をどう使うかは、人生の大事なテーマです。仕事に力を注ぐことは当然だが、就業時間のあとに、自分の信条とする活動を成し遂げていくかどうかによって、人生に格段の違いが生ずることは間違いない。この時間は、私どもにとっては学会活動の時間です。

それは、自他共の永遠の幸福と繁栄のための行動であり、地域貢献の道であり、全世界の崩れざる平和を築く道でもある。

伸一は、“青年たちよ!学会を頼む。広布を頼む。21世紀を頼む”と心でよびかけていた。彼は、信じていたーーここに集った青年たちが、新世紀のリーダーとして立ち、友情と信頼のスクラムを社会に広げてくれることを!広布を担う人材の陣列を幾重にもつくってくれることを!

1979年(昭和54年)2月、鹿島地域の神栖に学会が建立寄進した寺院が落成した。同志は、この寺なら、清純な信心の話が聞けるだろうと希望をいだいた。しかし、落慶入仏式の席で、新任の住職から発せられたのは、学会を謗法呼ばわりする言葉であった。広宣流布を、僧俗和合を願っての赤誠は踏みにじられたのだ。

同志たちにとって、最も残念だったのは、つい先日まで一緒に広布に生きようと話し合ってきた友が、悪僧に踊らされていることが分からず、信心を狂わされ、人が変わったようになっていったことであった。

82年、山本伸一は、水戸婦人会館を視察したあと、茨城文化会館を訪問し、落成を祝う県代表者の集いに出席した。ここでは、学会の幹部でありながら、退転していったものの根本原因について言及していった。

「信心がむしばまれていってしまった人に共通しているのは、強い慢心があることです。そこに最大の原因があるといえます。慢心の人は、広布への責任をもたず、新しい挑戦や苦労を避けようとする。だから、進歩も成長もない。その結果、信心は淀み、心はエゴに支配され、憤懣があふれる。

また、慢心の人は、必ずといってよいほど、勤行を怠っている。傲慢さに毒され、信心の基本を軽く見ているんです。

結果としていえることは、“策の人”は長続きしない。“要領の人”は必ず行き詰っていく。“利害の人”は縁に紛動されてしまうーーということです」

その後も、伸一の力走は続いた。衣の権威による迫害に耐え、広宣流布の王道を歩み抜いた創価の勇者たちを讃え、励まし、師弟共戦の勝ち鬨をあげるために、全国津々浦々へ、尊き仏子のもとへ走った。
同志は勝った。また一つ、試練の峰を勝ち越えたのだ。希望の大空に凱歌が轟いた。

<勝鬨の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

騙されても

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 178p

11日夜、伸一は、秋田文化会館での県代表者会議に出席した。伸一は、まことの信仰者の生き方に言及していった。「それは、決して特別なことではありません。人生には、いろいろなことがあります。しかし、“何があっても、御本尊に向かい、唱題していこう!”という一念を持ち続け、堅実に、学会活動に邁進していくことです。そして、何よりも、自分の生き方の軸を広宣流布に定め、御書を根本に、法のために生き抜いていく人こそが、真実の信仰者です」

「私はずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられもしました。弟子を名乗る者の中にも、そうした人間がいることを知っていました。『あの男は下心があるから、早く遠ざけた方がよい』と言ってくる人もいました。

それでも私は、寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気強く、対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。なぜかーー騙されも、騙されても、弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎ尽くすのが師であるからです。それが、私の心です。

しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、広宣流布を破壊するならばそれは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに、躊躇があってはなりません。

人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃するーーそれが、私の三十年間にわたる信仰生活の実感です。だが、すべては、因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。

歪んだ眼には、すべては歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」

田沢本部の婦人部長関矢都美子は、1978年(昭和53年)2月、御講のために訪れた学会員を入場させないために、檀徒たちが入り口に立って、追い返した時、本堂に入って、理由を問いただした。一歩も引かず、学会の正義を訴えた。“ついに障魔が襲い始めた!”と感じた関矢は、学会員の激励に奔走した。

3年がたっていた。伸一は、語りかけた。「学会を守ってくださっているのは、何があっても、“自分が、皆を幸せにしていこう!一切の責任を担い立っていこう!”という、私と同じ決意の人です。これが、学会の側に立つということです。

学会を担う主体者として生きるのではなく、傍観者や、評論家のようになるのは、臆病だからです。また、すぐに付和雷同し、学会を批判するのは、毀誉褒貶の徒です。あなたは信念を貫き通してくださった。見事に勝ちましたね。ありがとう!さあ、新しい出発ですよ。」

1月12日、秋田文化会館の落成を祝う県幹部会が開催された。伸一は、“人生の最も深い思い出とは何か”に言及していった。日々、広宣流布に全力で走り抜くなかに、わが人生を荘厳する、黄金の思い出がつくられていくことを語った。

13日から、希望者は全員参加の自由勤行会が開催されることが決まった。この数年、秋田の同志は、歯ぎしりするような日々を過ごしてきた。悪僧たちは、葬儀の出席と引き換えに脱会を迫るというのが常套手段であった。また、信心をしていない親戚縁者も参列している葬儀で、延々と学会への悪口、中傷を繰り返してきた。挙句の果てに「故人は成仏していない!」と非道な言葉を浴びせもした。

そうした圧迫に耐え、はねのけて、今、伸一と共に21世紀への旅立を迎える宝友の胸には、「遂に春が来た!」との喜びが、ふつふつと込み上げてくるのである。

伸一が、白いアノラックに身を包んで、雪の中に姿を現した。気温は氷点下2.2度である。集った約1500人の同志から大歓声があがり、拍手が広がった。「今日は、秋田の大勝利の宣言として、『人間革命』の歌を大合唱しましょう!」雪も溶かすかのような熱唱が響いた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

冬の秋田指導

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 166p

1982年(昭和57年)1月10日、山本伸一たちは、秋田空港に到着した。「こんな真冬に行かなくても」という、周囲の声を退けての、約10年ぶりの秋田指導である。彼が、秋田行きを決行したのは、「西の大分」「東の秋田」と言われるほど、同志が正信会僧から激しい迫害を受けてきたからであった。

伸一は、秋田文化会館へ向かった。しばらく走ると、ガソリンスタンドの前に40人ほどの人影が見えた。「学会員です。皆、頑張ってくれました」伸一は、車を止めるように頼み、求道の友の方へ歩き始めた。革靴に、雪が解けた路面の水がしみていった。

「寒いところ、ご苦労様!」皆が歓声をあげた。子どもの頭をなで、壮年たちと握手を交わしていく。仕事のことや健康状態などを報告する人もいる。“街頭座談会”であった。そして、一緒に記念のカメラに納まった。

車が走り出して、しばらくすると、道路わきに立つ数人の人影があった。また車を止めてもらい、降りて励ましの言葉をかけ、一緒に写真を撮る。それが何度か続き、80人ほの一団がいた。行事の成功と晴天を祈って唱題していたメンバーであった。

「きっと先生は、この道を通るにちがいない。表に出て歓迎しよう」ということになり、待っていたのだ。伸一は、すぐに車を降りた。「普段はお会いできなくとも、私たちの心はつながっています」すると、一人の婦人が言った。「先生!私たちは大丈夫です。何を言われようが、信心への確信は揺らぎません。先生の弟子ですから。師子ですから!」

伸一は、言葉をついだ。「皆さんは負けなかった。“まことの時”に戦い抜き、勝ったんです。その果敢な闘争は、広布史に燦然と輝きます」伸一は、秋田文化会館に到着するまでに、9回、同志と激励の対話を続けたのである。

東北長の山中輝男は、その行動を身近に見て、深く心に思った。“これが先生の、学会の心なのだ。私も、同志を心から大切にして、励ましていこう!”精神の継承は、言葉だけでなされるものではない。それは、行動を通して、教え、示してこそ、なされていくのである。

東北代表者会議が行われた。その席で、正信会僧による過酷で理不尽な学会員への仕打ちも、つぶさに報告された。ある寺では、法事を頼むと、来てほしいなら学会を辞めよと、ここぞとばかりに迫ってきた。別の寺では、家族が他界し、悲しみと戦っている婦人が、坊主から、「学会なんかに入っているからだ」と、聖職者とは思えぬ暴言を浴びせられたこともあった。

伸一は、功労者宅を訪問した。かつて“日本海の雄”といわれた秋田支部の初代支部長を務めた故・佐藤幸治の家である。当時、秋田は、鎌田支部の矢口地区に所属しており、山本伸一の妻の両親である、春木洋次と明子が、地区部長と支部婦人部長をしていた。

二人は、毎月のように交代で、夜行列車に12時間も揺られて、秋田へ指導、激励に通い続けた。そして、佐藤達に、信心の基本から一つ一つ丁寧に、心を込めて教えていった。一緒に個人指導、折伏にも歩いた。御書を拝して、確信をもって、仏法の法理を語っていくことの大切さも訴えた。

信心の継承は、実践を通してこそ、なされる。先輩の行動を手本として、後輩は学び、成長していくのである。

佐藤は、温泉などを試掘するボーリングの仕事に従事していた。戸田城聖は、宗門の総本山に、十分にして安全な飲料水がないことから、地下水脈の試掘を彼に依頼した。総本山の水脈調査は、明治時代から、しばしば行われてきたが、「水脈はない」というのが、地質学者たちの結論であった。

佐藤は、目星を付けた場所を、約3か月かかって、200メートルほど掘ってみたが、地下水脈には至らなかった。戸田は、「宗門を外護し、仏子である同志を守るために、必ず掘り当てなさい」と、厳しく指導した。佐藤は、広宣流布を願うがゆえに、どこまでも宗門を大切にする、戸田の赤誠に胸が熱くなった。

佐藤は、断固たる一念で、真剣に唱題を重ねた。ある日、別の場所を掘り始めると、わずか26メートルほどで、奇跡のように地下水が噴出した。水量は1分間に約216リットルの水質良好の、こんこんたる水源であった。これによって、総本山境内に水道を敷設することができたのである。佐藤は、宗門の外護に尽くし抜いてきた学会の真心を踏みにじった悪僧たちを、終生、許さなかった。

佐藤は、肺癌と診断され、「余命三か月、長くて1年」と言われていた。佐藤は、率先して、学会員の家々を個人指導に歩いた。彼の励ましに触発され、多くの同志が、破邪顕正の熱き血潮を燃え上がらせた。彼は66歳の人生の幕を閉じた。癌と診断されてから3年も更賜寿命の実証を示しての永眠であった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋

勝利の春の田原坂

『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 149p

メンバーは、勇んで熊本文化会館をめざした。苦闘を勝ち越えた同志の胸には厳として師がいた。遠く離れていようが、何があろうが、共に広布に戦う師弟は金剛の絆で結ばれている。自由勤行会は、希望みなぎる新しき旅立の集いとなった。

「天草宣言」には、こうある。「我ら“妙法の天草四郎”は、生涯青春の信心をもって、生き生きと、広宣流布の模範の地としゆくことを、ここに誓う」

伸一は、確信のこもった声で言った。「広宣流布に生き、弘教に励むならば、経文、御書に照らして、難が競い起こることは間違いない。これまでに私たちが受けてきた難も、すべて法華経の信心をしたがゆえに起こったものです。

しかし、『開目抄』に説かれているように難即成仏です。広宣流布に戦い、難を呼び起こし、それをバネに偉大なる人生へ、無上の幸福へと大飛躍していく力が信心なんです。また、万策尽きて、生活や人生で敗れるようなことがあったとしても、私達には御本尊がある。信心さえ破られなければ、必ず最後は勝ちます。いや、すべての労苦を、その後の人生に、財産として生かしていけます。

安穏な人生が、必ずしも幸福とは言い切れません。また、難があるから不幸なのではない。要は、何があっても負けない、強い自己自身をつくることができれば、悠々と、あたかも波乗りを楽しむように、試練の荒波も乗り越えていくことができる。そのための信心であり、仏道修行なんです。

ゆえに、いかなる大難があろうが、感傷的になるのではなく、明るく、朗らかに、信念の人生を生き抜いていただきたい。

熊本といえば、『田原坂』の歌が有名ですが、人生には、いろいろな坂がある。広宣流布の道にも、“越すにこされぬ”険路がある。しかし、広布の使命に生きる私たちは、その宿命的な坂を、一つ一つ、なんとしても乗り越えていかねばならない。その戦いが人生であり
、信心です。小さな坂で、へこたれては、絶対になりません」

参加者は壱町畑公園に向かった。ここで記念撮影をすることになっていたのである。1500人という大人数の撮影となるため、高い場所からでないと、全員がカメラに納まりきらないのである。

伸一は、皆に提案した。「皆さんは、試練の坂を、見事に越え、“勝利の春”を迎えた。一緒に、胸を張って、「田原坂」を大合唱しましょう!」皆、”これからも、どんな苦難の坂があろうが、断固、越えてみせます!”と誓いながら、声を限りに歌った。

伸一は、年の瀬も、東京の板橋、江東、世田谷、江戸川の各区を訪問し、さらに神奈川文化会館を訪れている。御請訓に「火をきるに・やすみぬれば火をえず」と。全精魂を注いでの間断なき闘争によってこそ、広布の道は切り開かれるのだ。

1982年(昭和57年)学会は、この年を、「青年の年」と定め、はつらつと21世紀へのスタートを切った。“いよいよ青年の時代の幕が開いた!”彼は、各方面に行くたびに、そのことを強く実感していた。“創価の全同志よ!時は今だ。今こそ戦うのだ。青年と共に広布の上げ潮をつくろう”

彼は、この一年こそ、新世紀への勝利の流れを開く勝負の年であると心に決めていた。それには、自らが同志の中に入り、語らいを重ね、率先垂範をもって皆を鼓舞し、触発していく以外ないと結論していた。闘将は、闘将によってのみ育まれる。

1月2日、この日は伸一の54歳の誕生日であった。創価高校サッカー部の選手たちは、「初戦の勝利をもって、創立者の誕生日をお祝いしよう」と誓い合った。試合は、PK戦となった。そして、創価高校が勝利したのだ。“負けじ魂”が光る勝負であった。この試合は、テレビで中継されており、学園寮歌「草木は燃ゆる」の歌声が流れ、胸を張って熱唱する選手たちの凛々しい表情が放映された。

“苦闘する同志を応援しよう!”伸一は、年頭から激戦の地へと走ったのである。目黒の同志は、傲慢で冷酷な僧らの攻撃によってさんざん苦しめられてきた。それは、まさしく、学会の発展を妬んだ、広布破壊の悪行であった。

伸一は、日記に記した。「僧の悪逆には、皆が血の涙を流す。此の世にあるまじきこと也。多くの苦しんでいった友を思うと、紅涙したたる思いあり。御仏智と信心は必ず証明される」目黒の法友は、不屈の信心で立ち上がった。そして、この年、目黒の師子たちは「弘教1015世帯」という全国一の見事な発展を成し遂げていくのである。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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