『新・人間革命』第30巻(下) 勝鬨の章 209p
<誓願の章 開始>
新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある。ゆえに山本伸一は、常に青年の育成に焦点を当て、一切の力を注いできた。
青年が、広布の後継者として大成していくうえで大切な要件は、何よりも信心への揺るぎない確信をつかむことである。そして、地涌の深き使命を自覚し、自身を磨き鍛え、人格を陶冶していくことである。それには、挑戦心、忍耐力、責任感等々を身につけ、自身の人間的な成長を図っていくことが極めて重要になる。
伸一は、そのための一つの場として、青年たちを中心に、各方面や県で文化祭を開催することを提案してきた。
21世紀に向かって飛翔する創価学会の文化祭の先駆となったのは、関西であった。1982年(昭和57年)3月22日、第一回関西青年平和文化祭が開催されたのである。関西青年部には、この文化祭を超える、芸術性と学会魂にあふれた感動の舞台にしなければならぬとの、強い挑戦の気概があった。
文化祭は、安全、無事故が鉄則である。事故を起こしては、取り返しがつかないーー関西の青年たちは、そう深く自覚し、6段円塔への挑戦が始まると、絶対無事故を決意し、事故を起こさぬための工夫、研究を重ね、皆で真剣に唱題に励んだ。
屋外の練習場では、怪我などさせてはならないと、近くの壮年・婦人部が、自主的にガラスの破片や小石を拾い、清掃に努めた。仏法は道理である。御書に「前前の用心」と示されているように、万全な備えがあってこそ、すべての成功がある。
22日午後1時半、関西平和文化祭は、新入会1万人の青年による平和の行進で幕を開けた。やがて、男子部の組体操となった。中央では六段円塔が組まれ始めた。最上段で青年は、両手を広げた。円筒のてっぺんで、青年が何かを叫んだ。「弘治、やったぞ!」
円塔に立った青年は菊田弘幸といい、弘治とは、5日前に他界した親友で男子部員の上野弘治のことである。「不可能を可能にする!」これが、上野の最後の言葉となった。彼は、原発性くも膜下出血と診断され、呼吸停止となったが、4日間生き続け、3月16日の翌日、安らかに息を引き取った。
18日、菊田は、上野の写真を胸に、練習会場へ向かった。この時、初めて至難の円塔が完成したのだ。彼の母は述懐する。「あの子は、中学2年の時、紫斑病で生死の境をさまよいました。今、思えば、それ以来、御本尊様に寿命を延ばしていただいたと実感しています」
彼の妻は、伸一への手紙に、こう記した。「宿命と戦った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生きぬいて教えてくれました」
文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに、“負けるな!”と励まし合ってきた。
そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。
“関西魂”は、どこから生まれたのかーー。1956年5月大阪支部で1か月に1万1千百十一世帯という弘教を成し遂げた。同年7月、学会が初めて推薦候補を立てた参議院選挙で、“当選など不可能である”との、大方の予想を覆し、「“まさか”が実現」と新聞で報じられた劇的な大勝利をした。
翌57年、7月3日、伸一は、4月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反をしたという無実の罪を着せられ、逮捕される。“無実の山本室長を、なぜ逮捕したのか!権力の魔性を、私たちは断じて許さない!”
同志の心に正義の炎は、赤々と燃え上がった。その胸中深く、“常勝”の誓いが刻まれ、目覚めた民衆の大行進が始まったのだ。その時の、背中の子どもたちも、今、凛々しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
<誓願の章 開始>
新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある。ゆえに山本伸一は、常に青年の育成に焦点を当て、一切の力を注いできた。
青年が、広布の後継者として大成していくうえで大切な要件は、何よりも信心への揺るぎない確信をつかむことである。そして、地涌の深き使命を自覚し、自身を磨き鍛え、人格を陶冶していくことである。それには、挑戦心、忍耐力、責任感等々を身につけ、自身の人間的な成長を図っていくことが極めて重要になる。
伸一は、そのための一つの場として、青年たちを中心に、各方面や県で文化祭を開催することを提案してきた。
21世紀に向かって飛翔する創価学会の文化祭の先駆となったのは、関西であった。1982年(昭和57年)3月22日、第一回関西青年平和文化祭が開催されたのである。関西青年部には、この文化祭を超える、芸術性と学会魂にあふれた感動の舞台にしなければならぬとの、強い挑戦の気概があった。
文化祭は、安全、無事故が鉄則である。事故を起こしては、取り返しがつかないーー関西の青年たちは、そう深く自覚し、6段円塔への挑戦が始まると、絶対無事故を決意し、事故を起こさぬための工夫、研究を重ね、皆で真剣に唱題に励んだ。
屋外の練習場では、怪我などさせてはならないと、近くの壮年・婦人部が、自主的にガラスの破片や小石を拾い、清掃に努めた。仏法は道理である。御書に「前前の用心」と示されているように、万全な備えがあってこそ、すべての成功がある。
22日午後1時半、関西平和文化祭は、新入会1万人の青年による平和の行進で幕を開けた。やがて、男子部の組体操となった。中央では六段円塔が組まれ始めた。最上段で青年は、両手を広げた。円筒のてっぺんで、青年が何かを叫んだ。「弘治、やったぞ!」
円塔に立った青年は菊田弘幸といい、弘治とは、5日前に他界した親友で男子部員の上野弘治のことである。「不可能を可能にする!」これが、上野の最後の言葉となった。彼は、原発性くも膜下出血と診断され、呼吸停止となったが、4日間生き続け、3月16日の翌日、安らかに息を引き取った。
18日、菊田は、上野の写真を胸に、練習会場へ向かった。この時、初めて至難の円塔が完成したのだ。彼の母は述懐する。「あの子は、中学2年の時、紫斑病で生死の境をさまよいました。今、思えば、それ以来、御本尊様に寿命を延ばしていただいたと実感しています」
彼の妻は、伸一への手紙に、こう記した。「宿命と戦った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生きぬいて教えてくれました」
文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに、“負けるな!”と励まし合ってきた。
そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。
“関西魂”は、どこから生まれたのかーー。1956年5月大阪支部で1か月に1万1千百十一世帯という弘教を成し遂げた。同年7月、学会が初めて推薦候補を立てた参議院選挙で、“当選など不可能である”との、大方の予想を覆し、「“まさか”が実現」と新聞で報じられた劇的な大勝利をした。
翌57年、7月3日、伸一は、4月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反をしたという無実の罪を着せられ、逮捕される。“無実の山本室長を、なぜ逮捕したのか!権力の魔性を、私たちは断じて許さない!”
同志の心に正義の炎は、赤々と燃え上がった。その胸中深く、“常勝”の誓いが刻まれ、目覚めた民衆の大行進が始まったのだ。その時の、背中の子どもたちも、今、凛々しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋