小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

August 2021

雌伏から飛翔へ

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 220p

1980年(昭和55年)2月17日、奄美の女子部員が、伸一のいる東京・立川文化会館に到着した。メンバーは、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島から参加した総勢86人である。奄美の女子部として未曽有の弘教に挑戦し、勝利の歴史を開いて集ってきた法友の顔は、晴れやかであった。

信心は、年齢でも立場でもない。広宣流布のために、健気に戦い、未来への門を開く人こそが、最も大切な創価の宝であるーーそれが伸一の実感であり、信念であった。壮年・婦人の中心者や草創の同志、会館の管理者などの近況を、次々と尋ねていった。そして、一人ひとりへの伝言と、書籍などの激励の品を、彼女に託したのである。

試練の嵐のなかで、同志は奮戦していた。創価の新しき力の胎動が始まっていたのだ。山本伸一の会長就任から、間もなく1年がたとうとしていた。しかし、学会を取り巻く状況は、いまだ騒然としていた。

宗門として、学会に対する誹謗や中傷はやめ、檀徒づくりをしないと約束したにもかかわらず、若手僧の大多数は、それを無視した。むしろ、この時とばかりに、学会への非道な攻撃を繰り返したのだ。学会を敵視する宗門僧の勢力は、ますます増大し、宗内の教師資格をもつ僧のうち、三分の二ほどになっていた。

彼らは、伸一が会長辞任、法華講総講頭の辞任を発表した直後の1979年4月末に、学会批判のために檀徒新聞「継命」を創刊していた。勢いづく彼らを、学会攻撃へと煽り続けたのが、山脇友政であった。

さらに7月、師僧であった日達が他界し、阿部信雄が日顕を名乗り、法主になると、彼の指導に随おうとはせず対決姿勢をあらわにしていった。年が明けた2月、自分たちが宗会を牛耳り、学会をさらに追い込んでいこうと企んだのだ。

学会の行く手には、障魔の激浪が牙を剥いていた。伸一は、十条潔をはじめ、首脳幹部たちが、宗門僧らの学会攻撃など、諸問題の対応に神経をすり減らし、苦悩していることをよく知っていた。しかし、学会の運営については、執行部に任せ、見守っていくしかなかった。

会長を辞任してから伸一は毎月の本部幹部会に出席することも、本部職員が一堂に集う会議に出ることも、ほとんどなかった。また、彼の行動が聖教新聞に報道されることもわずかであった。それは、伸一を封じ込めれば、学会員を自分たちの思い通りに従わせていくことができるという、退転・反逆者や宗門僧らの策略であったのだ。

そうしたなかでも、多くの学会員は創価の師弟の誇りを抱いて、試練の逆風に立ち向かっていった。だが、一部には、広布への覇気や確信をなくしたり、わがままな言動が目立ったりする幹部も出始めた。

これまで伸一は、常に広宣流布への闘魂を発光し続けてきた。その光こそが、同志の前進の原動力であった。しかし、伸一が会合で自由に話をすることもできない状況が一年近くも続くなかで、皆の活力は次第に失われつつあったのである。

師による弟子たちへの生命の触発があってこそ、勇気と確信は増し、歓喜が沸き起こる。広布に生きる創価の師弟は不二であり、その絆は、永遠不滅でなければならない。伸一は、心を定めた。

“本来、師弟の結合を阻む権利など、誰にもない。たとえ宗門僧から、いかなる攻撃を受けようが、仏子である会員を守るために、この魔の暗雲を、断じて打ち破らねばならぬ!”彼は、時を逸してはならないと思った。熾烈な攻防戦になればなるほど、一瞬一瞬が勝負であり、迅速な行動こそが勝利の門を開くからだ。

伸一は今、一年にわたる雌伏の時を経て、勇躍、飛翔を開始しようとしていた。反転攻勢の朝の到来を感じた。学会という民衆の大地には、随所に師弟共戦の闘魂がほとばしり、あふれていた。

師弟離間の工作が進み、「先生!」と呼ぶことさえ許されないなか、創価の城を守るために、われに「師匠あり」と、勇気の歌声を響かせた丈夫の壮年・男子の代表もいた。

四国から、はるばる船で伸一のいる横浜を訪れた求道の勇者たち、遠く奄美の地から東京へ駆けつけた健気なる花の女子部・・・。また、全国各地の同志から、不撓不屈の前進を誓う、十万通を超える便りも届いていた。

吹雪は激しく猛っていたが、深雪の下では、新生の芽が躍り出ているのだ。この草の根の強さこそが、学会の強さである。その人たちこそが、創価の宝である。“この同志と共に、この同志のために、われは立つ!”伸一は、深く心に誓った。

<雌伏の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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さんふらわ7号で訪れた四国の同志

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 206p~

四国のメンバーは、神奈川文化会館の館内や、会館の敷地内にある戸田平和記念館を見学した。同記念館は、前年の1979年(昭和54年)8月にオープンしており、通称「イギリス7番館」といわれていた、歴史ある赤レンガ造りの建物を、補修・改修したものである。

第二代会長・戸田城聖が、「原水爆禁止宣言」を発表したことから、その精神と意義をとどめるとともに、反戦・平和の資料を展示し、広く市民に公開するために誕生した記念館であった。四国の同志は、展示品を鑑賞し、テープを聴き、戦争の悲惨さを再確認しただけでなく創価学会が世界平和の大潮流を巻き起こしていることを実感した。そして、平和建設への誓いを新たにしたのである。

伸一は、何人かの同志に、次々と声をかけていった。そして、四国の壮年幹部らに語り始めた。「幹部は、決して威張ったり、人を叱ったりしてはいけないよ。戸田先生は、弟子を叱られることがあったが、そこには、深い意味がありました。第一に、広宣流布のために弟子を訓練し、自分と同じ境涯に高め、一切を託そうとされる場合です。

第二に、魔に信心を妨げられている人を、どうしても立ち上がらせたいという時に、その魔を打ち破るために、叱られた。人間には、直情径行であるために皆と調和できない人や、自滅的な考えに陥ってしまう人、困難を避けて通ろうとする人、いざとなると責任転換をしたり、ごまかそうとしたりする人もいる。

そうした傾向性や、その背後に潜む弱さ、ずるさ、臆病が一因となり、魔となって、自身の信心の成長を妨げ、さらに幸福への道を誤らせてしまう。ゆえに戸田先生は、その一凶を自覚させ、断ち切るために、叱られることがありました。

第三に、多くの人びとに迷惑をかけ、広宣流布の団結を乱している時などは、本人のため、皆のために、それをやめさせようとして叱ることがありました。つまり、いかなる場合も戸田先生の一念の奥底にあるのは、大慈大悲でした。

それもわからず、言動の一端を真似て、同志を叱るようなことがあっては絶対にならないし、どんな幹部にもそんな権利はありません。誤りを正さなければならない場合でも、諄々と話していけばよいことです」

“私たちは、断じて学会精神を継承していきます。いかなる事態になろうが、広宣流布の道を開き抜いていきます。四国は負けません。創価の勝利の旗を翻してまいります!”求道の思い熱き同志の目に、涙が光った。

「さんふらわあ7」号の出航を告げる汽笛が夜の海に響いた。船は静かに離岸し始めた。文化会館の明かりが一斉に消えた。上層階の窓に、幾つもの小さな光が揺れている。「今、山本先生と奥様が、最上階で懐中電灯を振って,見送ってくださっています」伸一たちは、船が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも懐中電灯振り続けた。

1か月後の2月17日、鹿児島県奄美大島地域本部の女子部員86人が、山本伸一がいた東京・立川文化会館を訪問したのである。かつて、奄美大島の一部の地域で、学会員への激しい迫害事件があった。村の有力者らが御本尊を没収したり、学会員の働き場所を奪ったりするなどの仕打ちが続いた。

生活必需品も売ってもらえなかった。車を連ねて学会排斥のデモが行われたこともあった。奄美の女子部員は、少女時代にそうした逆風のなかで、父や母たちが悔し涙を堪え、自他共の幸せを願って、懸命に弘教に励む姿を目の当たりにしてきた。

奄美大島地域本部の女子部長である長田麗も、その一人であった。長田は、宗門による学会批判が激しさを増した時、地元寺院の住職の妻から呼び出され、学会の悪口を聞かされ、宗門につくのか、学会につくのかを迫られた。

彼女は、毅然としていった。「私たちに信心を教えてくれたのは学会です。私たちを励ましてくれたのも、山本先生であり、学会です。宗門ではありません!」奄美に脈打つ、「スットゴレ!」(負けてたまるか)の敢闘精神は、時代を担う若き世代に、しっかりと受け継がれていたのだ。

長田は、皆に訴えた。「今こそ私たちは、創価の勝利を打ち立てて、東京へ、創価女子会館へ、山本先生のもとへ行きましょう!」彼女は、女子部員の激励に、島から島へと走った。どんなに、地理的に遠い地域にいても、広布に進む師弟に心の距離はない。広大な海も、峨々たる山々も、師弟の心を引き離すことはできなかった。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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荒川区民会館での第三回鼓笛隊総会

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 183p~

話題が1957年8月の、伸一の荒川指導に及ぶと、彼は言った。「私は、あの闘争で、草創の同志と共に、あえて困難な課題に挑戦し、“勝利王・荒川”の歴史を創りました。この戦いによって、皆が、“広宣流布の苦難の峰を乗り越えてこそ、大勝利の歓喜と感動が生まれ、崩れざる幸福境涯を築くことができる”との大確信を、深く生命に刻みました。あれから20余年がたつ、今度は、皆さんがその伝統のうえに、さらに新しい勝利の歴史を創り、後輩たちに伝えていってください。

広宣流布の勝利の伝統というのは、同じことを繰り返しているだけでは、守ることも、創ることもできません。時代も、社会も、大きく変わっていくからです。常に創意工夫を重ね、新しい挑戦を続け、勝ち抜いていってこそ、それが伝統になるんです。つまり、伝えるべきは“戦う心”です」

“戦う心”という精神の遺産は、話だけで受け継がれていくものではない。共に活動に励む実践のなかで生まれる魂の共通と触発によって、先輩から後輩へ、人から人へと、伝わり流れていくのである。

「今こそ、荒川の一人ひとりが、山本伸一となって敢闘してほしい。一つの区に、未来へと続く『不敗』『常勝』の伝統ができれば、学会は永遠に栄えます。皆が、そこを模範として学んでいくからです。荒川には、その大使命があることを忘れないでください。

先日、足立の婦人から手紙をもらったんだよ。あれが、みんなの思いなんだろな。“・・・でも、負けません。今こそ、学会の、先生の正義を叫び抜いていきます”この闘魂が『不屈の王者・足立』の心意気なんです。

第三回鼓笛隊総会の最終公演が、荒川区民会館で華やかに行われた。第二部「希望の行進」では、交響詩「民衆」となった。詩「民衆」は、1971年(昭和46年)9月、女子部幹部会を祝して、伸一が贈った詩である。

伸一は、女子部員には、虚栄に生きるのではなく、“民衆の子”であることを誇りとして、民衆の大地に根を張り、民衆と共に、民衆のために生き抜いてほしかった。そこにこそ現実があり、そこで築いた幸せこそが、幸福の実像であるからだ。

伸一は、交響詩を聴きながら、学会が担っている使命の意味を、深く噛み締めていた。“あらゆる権力の軛から、そして、宿命の鉄鎖から民衆を解放するーーそれが創価学会の使命だ!それがわれらの人間主義だ!私は戦う!民衆のため、広布のために。そして何があっても民衆を守り抜き、民衆の時代を開いてみせる!”

伸一は、あいさつの要請を受けていた。「今日の総会のテーマに掲げたように、まさしく『2001年 大いなる希望の行進』の開幕でした」鼓笛隊総会は、歴史の大きな節目となった1979年の有終の美を飾り、21世紀への新しい出発を告げるファンファーレとなったのである。

創価学会創立50周年を迎える1980年が明けた。元日付の「聖教新聞」3面には、山本伸一の近影と、新春を祝賀して彼が詠んだ2種の和歌が掲載された。それを目にした多くの学会員から、伸一のもとへ、また、学会本部や聖教新聞社へ、喜びの便りが寄せられたのである。

新しき10年の開幕となるこの年、世界は激動していた。世界の行く手は極めて不透明であり、不安の雲が垂れ込めるなかでの新年の出発であった。

1月14日の正午前、山本伸一は、妻の峯子と共に、横浜にある神奈川文化会館の一室から海を見ていた。この日、四国の同志約800人が客船を借り切り、丸一日がかりで、伸一を訪ねて神奈川文化会館へやってきたのだ。

四国長の久米川誠太郎は胸を痛めた。“先生が会長を辞められてから、皆の心には、空虚感のようなものが広がり、歓喜も次第に薄れてきているように感じる。今こそ、弟子が立ち上がるべき時であることは、よくわかる。しかし、そのための契機となる起爆剤が必要なのだ”

「先生の行動が制約されているのなら、私たちの方から、お伺いしよう!」1月13日の午後1時、大型客船「さんふらわあ7」号は、香川県の高松港から海に船出した。

四国の同志がタラップを下りてくると、出迎えた神奈川の同志の大拍手に包まれた。伸一は、下船してきた壮年たちを笑顔で包み込み、肩を抱き、握手を交わし、励ましの言葉をかけていった。この伸一の歓迎風景も、「聖教新聞」に報じられることはなかった。新聞では、彼の姿はカットされ、拍手する腕から先だけが写っているに過ぎなかった。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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学会の永遠の黄金則

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 175p~

活動の方法に、“絶対”や“完璧”ということはありません。メリットもあれば、なんらかのデメリットもあるものです。したがって、問題点があったら、皆で知恵を出し合って、それをフォローする方法を考えていくんです。柔軟に、大きな心で、互いに力を合わせていくことが大切です。

どの団体や宗教も、多くは運動上の意見、方法論の違いから対立や憎悪を生み、分裂しています。学会は、断じて、そんな轍を踏むようなことがあってはならない!今日は、将来のために、広宣流布をめざすうえでの、最大一の鉄則とは何かを、あえて言い残しておきます。それは、金剛不壊の異体同心の団結です。

大聖人は、こう仰せになっている。『総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か』

ここには、すべての日蓮大聖人の弟子・檀那ら、つまり、広宣流布に生きる私どもが拝すべき根本精神が述べられています。いっさいの差異にとらわれることなく、共に同志である。等しく地涌の菩薩であるとの原点に、常に立ち返っていかなくてはならない。

同志は皆、親密な、切っても切れない関係にあることを自覚し、互いに尊重し合い、守り合っていくことです。今、共に信心に励んでいるのは、決して偶然ではない。過去遠遠劫からの深い縁に結ばれ、一緒に久遠の誓いを果たすために末法濁世に出現したんです。

何があろうが、“広宣流布のために心を合わせ、団結していこう”という一念で、異体同心の信心で進むことこそが私たちの鉄則です。いや、学会の永遠の“黄金則”です。

最大の悪とは、内部から広宣流布をめざす異体同心の団結を攪乱、破壊することです。異体同心を破る者は、いかに自己正当化しようが、第六天の魔王の働きをなすものです」

「自分が中心になると、御書や学会指導に立ち返ることも、異体同心を第一義にすることもなくなってしまう。つまり、本来、仏法者の基本である、自身を見つめ、内省するという姿勢が失われていく。また、自分の心が“師”となってしまうから、自身を制御できず、その結果、我欲に翻弄され、名聞名利に走ったり、自分勝手なことをしたりする。そして、皆に迷惑をかけ、さまざまな不祥事を引き起こす。
これが退転・反逆していく共通の構図といえます」

この伸一の言葉通り、やがて、学会支配を狙い、陰で宗門僧と結託していた悪徳弁護士らが仮面を脱ぎ、正体を明らかにしていくのである。

「戸田先生を知る人は多い。しかし、先生に仕え抜き、その遺志を受け継いで、仰せ通りに広宣流布の道を開いてきたのは私だけです。したがって、あえて申し上げるけれども、学会のことも、先生の真実も、誰よりも私がいちばんよく知っている。

その意味からも私は、世界の同志が、また、広宣流布のバトンを受け継ぐ後世の人たちが、創価の師弟の道をまっすぐに歩み通していけるように、小説『人間革命』を書き残してきたんです。君たちは、常に、勇んで試練に身を置き、自らを磨き、鍛えてほしい。そして、どこまでも団結第一で、共に前へ、前へと進んで、21世紀の学会を創り上げていくんだよ」

同志の中へ、心の中へーー山本伸一は、日々、激励行を重ねていった。激動の1979年(昭和54年)は師走に入り、あわただしい年の瀬を迎えた。12月26日伸一は、東京・荒川文化会館を訪問した。第三回鼓笛隊総会に出席することになっており、それに先立って、同志を励ましたかったのである。

伸一の荒川への思いは、人一倍強かった。1957年の大阪事件から1か月後の8月、広布の開拓に東奔西走したのが荒川区であったからだ。不当な権力に抗し得るものは、民衆の力の拡大と連帯しかないと、心の底から痛感していた。

ゆえに、人情味豊かな下町の気質を受け継ぐこの荒川の地で、広宣流布の大いなる拡大の金字塔を打ち立てることを決意したのだ。伸一は、“荒川闘争”にあたって、ある目標を深く心に定めていた。それは、1週間ほどの活動であるが、区内の学会世帯の1割を超える拡大をすることであった。

皆が、想像もできない激戦となるが、ここで勝つならば、その勝利は、誇らかな自身となり、各人が永遠に自らの生命を飾る栄光、福運の大勲章となろう。伸一は荒川の同志には、困難を克服し、確固不動たる“東京の王者”の伝統を築いてほしかったのである。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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東京戸田講堂で初の学会歌指揮

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 167p~

11月16日、創価学会創立49周年を記念する本部幹部会が、東京・巣鴨の東京戸田記念講堂で開催された。講堂の立つ豊島区には、初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖が軍部政府の弾圧によって投獄された東京拘置所があった。牧口は、ここで殉教の生涯を終えたのだ。

戸田記念講堂は、その場所にも近く、両先生の死身弘法の精神をとどめる創価の新法城として
工事が進められ、この年の6月に完成したのである。しかし、山本伸一落成式への出席を控えた。
そうしたなかでも、講堂のオープンに尽力してくれている方々を讃え、御礼を述べようと、
式典の前日に行動を訪れ、同志と語らい、励ましたのである。

伸一は、先師の殉難の地である豊島区から、東京勝利の広布の大波を起こそうと決意していた。戦い抜こうという一念があれば、いかなる状況にあろうが、戦うことはできる。鉄格子のなかでさえ闘争の道はある。伸一は今、彼を封じ込め、仏意仏勅の広宣流布の団体である学会を崩壊させようとする策謀のなかで、必ず突破口を開こうと、懸命な戦いを開始していた。

伸一は、11月16日の本部幹部会は学会創立49周年を記念する式典であるだけに、わずかな時間でも出席し、同志と共に新しい広宣流布のスタートを切りたかった。彼は、長い話をすることは自粛し、上着を脱ぎ、扇を手に壇上の中央に立った。

「今日は、学会歌の指揮を執ります。『威風堂々の歌』にしよう!」会長辞任後、初めての伸一の指揮である。講演ばかりが、指導・激励ではない。戦いは智慧である。工夫である。創造である。どんなに動きを封じられようが、広宣流布への不屈の一念があれば、前進の道が絶たれることはない。伸一は、一曲の指揮で、皆の魂を奮い立たせようと、決意したのである。

彼は、まさに威風堂々と、大鷲のごとく、力強く舞った。“大東京よ、立ち上がれ!全同志よ、立ち上がれ!”と心で叫びながら。皆の息はピタリと合い、生命は一つにとけ合った。吹き荒れる嵐のなかで、この日、東京から、再び凱歌の行進が開始されたのだ。

山本伸一は、来る日も来る日も、各地や各部の代表らと懇談し、指導・激励を続けた。伸一は、青年たちとも好んで懇談した。男子部の幹部が、「先生が会合で指導されることがなくなってしまい、皆、寂しい思いをしています」と話すと、「そう感じたならば、青年が立ち上がるんです。そうでなければ、傍観者であり、主体者ではない。自分が一切を担おうと決めて、前進の原動力となっていくのが青年です」

「新しい活動などを提案しても、壮年の先輩たちは、なかなか賛成してくれません」と困惑した顔で
語ると、「年配者には、豊富な経験がある。この経験則という裏づけがあるだけに、年配者の判断には
間違いが少ない。しかし、自分が経験していない物事には否定的になりやすい。

壮年幹部の側は、その点を心して、青年の意見に、積極的に耳を傾けていくべきです。青年幹部の
側は、先輩の壮年や婦人の幹部に賛成してもらうためには、まず、説得力を培っていくことです。
それには、“なぜ、それが大事なのか”を、明快に、理路整然と説明できなくてはならない。

また、その根拠を示すことが大事です。道理に適った話であれば、誰もが納得せざるを得ない。その説得力を最も磨いていけるのが折伏です。さらに、青年らしい、一途な情熱が大事です。結局、人の魂を揺り動かした時に、事態は大きく進展するんです。

そして、実績を積むことです。実証が信頼につながっていきます。すぐにあきらめたり、挫けたり
しないことです。指摘された問題点を検討し、改善し、何度でも案をぶつけていくことです。
粘り強さが大事だよ」伸一の言葉は、自身の体験に裏づけられていた。

「意見というのは、人の数だけあるといっても過言ではない。でも、どれかに決めなければならないので、皆で協議して決まったことに対しては、自分の希望通りではなくても、心を合わせ、成功するように最大の努力を払っていくことが大事です。

座談会を運営していく側の人は、参加できないメンバーのことを考慮して、別の日に、小さな単位での語らいの場をもつとか、たまには曜日を変えてみるとか、皆が平等に、喜々として信心に励めるように工夫をしていくことが必要です。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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