『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 220p
1980年(昭和55年)2月17日、奄美の女子部員が、伸一のいる東京・立川文化会館に到着した。メンバーは、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島から参加した総勢86人である。奄美の女子部として未曽有の弘教に挑戦し、勝利の歴史を開いて集ってきた法友の顔は、晴れやかであった。
信心は、年齢でも立場でもない。広宣流布のために、健気に戦い、未来への門を開く人こそが、最も大切な創価の宝であるーーそれが伸一の実感であり、信念であった。壮年・婦人の中心者や草創の同志、会館の管理者などの近況を、次々と尋ねていった。そして、一人ひとりへの伝言と、書籍などの激励の品を、彼女に託したのである。
試練の嵐のなかで、同志は奮戦していた。創価の新しき力の胎動が始まっていたのだ。山本伸一の会長就任から、間もなく1年がたとうとしていた。しかし、学会を取り巻く状況は、いまだ騒然としていた。
宗門として、学会に対する誹謗や中傷はやめ、檀徒づくりをしないと約束したにもかかわらず、若手僧の大多数は、それを無視した。むしろ、この時とばかりに、学会への非道な攻撃を繰り返したのだ。学会を敵視する宗門僧の勢力は、ますます増大し、宗内の教師資格をもつ僧のうち、三分の二ほどになっていた。
彼らは、伸一が会長辞任、法華講総講頭の辞任を発表した直後の1979年4月末に、学会批判のために檀徒新聞「継命」を創刊していた。勢いづく彼らを、学会攻撃へと煽り続けたのが、山脇友政であった。
さらに7月、師僧であった日達が他界し、阿部信雄が日顕を名乗り、法主になると、彼の指導に随おうとはせず対決姿勢をあらわにしていった。年が明けた2月、自分たちが宗会を牛耳り、学会をさらに追い込んでいこうと企んだのだ。
学会の行く手には、障魔の激浪が牙を剥いていた。伸一は、十条潔をはじめ、首脳幹部たちが、宗門僧らの学会攻撃など、諸問題の対応に神経をすり減らし、苦悩していることをよく知っていた。しかし、学会の運営については、執行部に任せ、見守っていくしかなかった。
会長を辞任してから伸一は毎月の本部幹部会に出席することも、本部職員が一堂に集う会議に出ることも、ほとんどなかった。また、彼の行動が聖教新聞に報道されることもわずかであった。それは、伸一を封じ込めれば、学会員を自分たちの思い通りに従わせていくことができるという、退転・反逆者や宗門僧らの策略であったのだ。
そうしたなかでも、多くの学会員は創価の師弟の誇りを抱いて、試練の逆風に立ち向かっていった。だが、一部には、広布への覇気や確信をなくしたり、わがままな言動が目立ったりする幹部も出始めた。
これまで伸一は、常に広宣流布への闘魂を発光し続けてきた。その光こそが、同志の前進の原動力であった。しかし、伸一が会合で自由に話をすることもできない状況が一年近くも続くなかで、皆の活力は次第に失われつつあったのである。
師による弟子たちへの生命の触発があってこそ、勇気と確信は増し、歓喜が沸き起こる。広布に生きる創価の師弟は不二であり、その絆は、永遠不滅でなければならない。伸一は、心を定めた。
“本来、師弟の結合を阻む権利など、誰にもない。たとえ宗門僧から、いかなる攻撃を受けようが、仏子である会員を守るために、この魔の暗雲を、断じて打ち破らねばならぬ!”彼は、時を逸してはならないと思った。熾烈な攻防戦になればなるほど、一瞬一瞬が勝負であり、迅速な行動こそが勝利の門を開くからだ。
伸一は今、一年にわたる雌伏の時を経て、勇躍、飛翔を開始しようとしていた。反転攻勢の朝の到来を感じた。学会という民衆の大地には、随所に師弟共戦の闘魂がほとばしり、あふれていた。
師弟離間の工作が進み、「先生!」と呼ぶことさえ許されないなか、創価の城を守るために、われに「師匠あり」と、勇気の歌声を響かせた丈夫の壮年・男子の代表もいた。
四国から、はるばる船で伸一のいる横浜を訪れた求道の勇者たち、遠く奄美の地から東京へ駆けつけた健気なる花の女子部・・・。また、全国各地の同志から、不撓不屈の前進を誓う、十万通を超える便りも届いていた。
吹雪は激しく猛っていたが、深雪の下では、新生の芽が躍り出ているのだ。この草の根の強さこそが、学会の強さである。その人たちこそが、創価の宝である。“この同志と共に、この同志のために、われは立つ!”伸一は、深く心に誓った。
<雌伏の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
1980年(昭和55年)2月17日、奄美の女子部員が、伸一のいる東京・立川文化会館に到着した。メンバーは、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島から参加した総勢86人である。奄美の女子部として未曽有の弘教に挑戦し、勝利の歴史を開いて集ってきた法友の顔は、晴れやかであった。
信心は、年齢でも立場でもない。広宣流布のために、健気に戦い、未来への門を開く人こそが、最も大切な創価の宝であるーーそれが伸一の実感であり、信念であった。壮年・婦人の中心者や草創の同志、会館の管理者などの近況を、次々と尋ねていった。そして、一人ひとりへの伝言と、書籍などの激励の品を、彼女に託したのである。
試練の嵐のなかで、同志は奮戦していた。創価の新しき力の胎動が始まっていたのだ。山本伸一の会長就任から、間もなく1年がたとうとしていた。しかし、学会を取り巻く状況は、いまだ騒然としていた。
宗門として、学会に対する誹謗や中傷はやめ、檀徒づくりをしないと約束したにもかかわらず、若手僧の大多数は、それを無視した。むしろ、この時とばかりに、学会への非道な攻撃を繰り返したのだ。学会を敵視する宗門僧の勢力は、ますます増大し、宗内の教師資格をもつ僧のうち、三分の二ほどになっていた。
彼らは、伸一が会長辞任、法華講総講頭の辞任を発表した直後の1979年4月末に、学会批判のために檀徒新聞「継命」を創刊していた。勢いづく彼らを、学会攻撃へと煽り続けたのが、山脇友政であった。
さらに7月、師僧であった日達が他界し、阿部信雄が日顕を名乗り、法主になると、彼の指導に随おうとはせず対決姿勢をあらわにしていった。年が明けた2月、自分たちが宗会を牛耳り、学会をさらに追い込んでいこうと企んだのだ。
学会の行く手には、障魔の激浪が牙を剥いていた。伸一は、十条潔をはじめ、首脳幹部たちが、宗門僧らの学会攻撃など、諸問題の対応に神経をすり減らし、苦悩していることをよく知っていた。しかし、学会の運営については、執行部に任せ、見守っていくしかなかった。
会長を辞任してから伸一は毎月の本部幹部会に出席することも、本部職員が一堂に集う会議に出ることも、ほとんどなかった。また、彼の行動が聖教新聞に報道されることもわずかであった。それは、伸一を封じ込めれば、学会員を自分たちの思い通りに従わせていくことができるという、退転・反逆者や宗門僧らの策略であったのだ。
そうしたなかでも、多くの学会員は創価の師弟の誇りを抱いて、試練の逆風に立ち向かっていった。だが、一部には、広布への覇気や確信をなくしたり、わがままな言動が目立ったりする幹部も出始めた。
これまで伸一は、常に広宣流布への闘魂を発光し続けてきた。その光こそが、同志の前進の原動力であった。しかし、伸一が会合で自由に話をすることもできない状況が一年近くも続くなかで、皆の活力は次第に失われつつあったのである。
師による弟子たちへの生命の触発があってこそ、勇気と確信は増し、歓喜が沸き起こる。広布に生きる創価の師弟は不二であり、その絆は、永遠不滅でなければならない。伸一は、心を定めた。
“本来、師弟の結合を阻む権利など、誰にもない。たとえ宗門僧から、いかなる攻撃を受けようが、仏子である会員を守るために、この魔の暗雲を、断じて打ち破らねばならぬ!”彼は、時を逸してはならないと思った。熾烈な攻防戦になればなるほど、一瞬一瞬が勝負であり、迅速な行動こそが勝利の門を開くからだ。
伸一は今、一年にわたる雌伏の時を経て、勇躍、飛翔を開始しようとしていた。反転攻勢の朝の到来を感じた。学会という民衆の大地には、随所に師弟共戦の闘魂がほとばしり、あふれていた。
師弟離間の工作が進み、「先生!」と呼ぶことさえ許されないなか、創価の城を守るために、われに「師匠あり」と、勇気の歌声を響かせた丈夫の壮年・男子の代表もいた。
四国から、はるばる船で伸一のいる横浜を訪れた求道の勇者たち、遠く奄美の地から東京へ駆けつけた健気なる花の女子部・・・。また、全国各地の同志から、不撓不屈の前進を誓う、十万通を超える便りも届いていた。
吹雪は激しく猛っていたが、深雪の下では、新生の芽が躍り出ているのだ。この草の根の強さこそが、学会の強さである。その人たちこそが、創価の宝である。“この同志と共に、この同志のために、われは立つ!”伸一は、深く心に誓った。
<雌伏の章 終了>