『新・人間革命』第29巻 力走の章 169p~
12月4日、山本伸一は峯子と共に、三重研修道場から、車や列車を乗り継いで大阪へ行き、伊丹空港から、空路、高知へと向かうことになっていた。高知空港は、雨のため視界が悪く、上空を旋回していた。予定より、1時間近く遅れての到着であったが、乗客は皆、大喜びであった。伸一は、機長への感謝を込め、和歌を詠み贈った。
「新しい高知の歴史をつくろう!」本部職員の島寺が、高知県長として派遣されたのは、2年前の12月であった。彼は、東京の日本橋で生まれ育ち、35歳にして初めて暮らす異郷の地が高知であった。県長の任命を受けた時、彼はなんの逡巡も迷いもなかった。“広宣流布のためなら、どこへでも行こう!わが生涯を、山本先生と共に広布にかけよう!”と、心を定めていたからである。
広宣流布のバトンを受け継ぐ青年たちは、いかなる時代になっても、この心意気を忘れてはなるまい。
広布をめざすなかに個人の幸福もあり、自他共の幸福のために、広布に走るのである。
いかなる団体であれ、“基本”と“精神”の継承は、永続と発展の生命線である。そのうえに、時代に即応した知恵が発揮され続けていってこそ、永遠の栄えがある。
島寺は、地道に県内を回った。村八分のなかで、敢然と信心を貫き、地域の大多数の人びとを学会の理解者にしていった、多くの草創の同志がいた。幾つもの病苦や経済苦を信心で乗り越えて、大きな信頼を勝ち取ったという“実証の人”も随所にいた。島寺は、心から感動を覚えた。頭が下がった。
かつて高知では、草創期の中心幹部が、不祥事を起こした末に、退転、反逆していくという事件があった。そのためか、なかには、「幹部には頼らん。自分の組織は自分で守る」という草創からの幹部もいた。彼は、言葉を失った。幹部への信頼が、ひとたび崩れてしまったならば、それを取り戻すのは容易ではないことを、肌で感じた。伸一は、島寺のことを気にかけ、彼と顔を合わせるたびに、さまざまなアドバイスを重ねた。
伸一は、新しい県長・婦人部長を支え、共に戦ってくれた功労の同志に、御礼を言いたかった。高知でも、会員を学会から離反させて、寺の檀徒にするため、宗門僧らによる学会への陰湿な誹謗・中傷が繰り返されてきた。そうした中で、歯を食いしばって創価の正義を叫び抜き、学会員を守り抜いてきた人たちを讃え、励ましたかったのである。
伸一が真っ先に出席したのは、草創からの功労者の代表150人との懇談会であった。懐かしい多くの顔があった。風雪に耐えて、広宣流布の険路を勝ち越えてきた勇者たちの頭髪は、既に薄くなり、また白いものが目立ち、額には幾重にも皺が刻まれていた。しかし、その瞳は、歓喜と求道と闘魂に燃え輝いていた。
「広宣流布は、現実社会のなかを、一歩一歩、切り開いて進む、長い、長い遠征です。その前途には、不況など、生活を圧迫する、さまざまな大波もあります。したがって、生活においても明確な長期の展望を立てるとともに、特に足元の経済的な基盤を固めていくことが大切になっていきます。
“信心をしているから、どうにかなるだろう”という考えは誤りです。仏法は道理です。展望なき生き方は、長続きしません。すべて『信心即生活』です。身近な一歩を大切にしながら、生活の安定と向上をめざし、強情な信心を貫いていただきたい」
さらに、法華経の「普賢菩薩勧発品」の門を引いて指導していった。「信心を貫いていくうえで必要なのは、勇気です。勇気とは、本来、外に向けられるものではありません。弱い自分、苦労を回避しようとする自分、新しい挑戦をしり込みしてしまう自分、嫌なことがあると他人のせいにして人を恨んでしまう自分など、自己の迷いや殻を打ち破っていく心であり、それが幸福を確立していくうえで最も大切な力なんです。高知の皆さんは、自分に打ち勝つ、勇気ある信心の人であってください」
太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋