小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

May 2021

周恩来と鄧頴超

『新・人間革命』第28巻 革心の章 295p~

梅園新村記念館には、机やソファ、ベッド、書籍などが、当時のまま保管されていた。展示品のなかに、赤い数個の石があった。それは、雨花台で犠牲になった、殉難者たちの、血潮に染まったものであるという。

夫妻が、何度となく、激務の間を縫うようにして雨花台に足を運び、拾って持ち帰ったのだ。同志たちに、その石を見せ、尊い命を散らした先人の魂を受け継ぎ、新しい中国を築いていくように訴えてきたのである。

殉難を恐れぬ敢闘の精神と行動があってこそ、改革は、成就する。平和建設の道においても、同じだ。いくら高邁な理想を口にしても、それを成し遂げる強靭な意思と具体的な実践なくしては、平和を勝ち取ることはできない。

伸一は、峯子に言った。「北京で奥様の鄧頴超先生とお会いできるんだね。楽しみだな」彼女の生涯は、まさに、疾風怒濤であった。艱難辛苦であった。

中国医学を学んだ母親の楊振徳が、女で一つで娘を育てた。成績優秀な
鄧頴超は、わずか12歳で天津の女子師範学校の本科に進学した。そして、19年、15歳の時に、あの「5・4運動」に参加したのである。このころ、日本留学から帰国した周恩来と出会う。周恩来は、天津学生連合会の中核メンバーで「覚悟社」を結成し、「覚悟社宣言」を起草した。

そこには、「革心」と「革新」の精神を根本にして、運動を進めていくことが述べられている。社会の「革新」のためには、「革心」すなわち、心を革めることが不可欠であるーーそのとらえ方に、若き周恩来の慧眼がある。自信を見つめ、正すこと、すなわち「革心」なくしては、真の社会改革もない。

天津では、男女学生が中心となって、帝国主義国家への抗議の声が大きく広がっていった。1920年鄧頴超は女子師範学校を卒業し、北京の小学校に教師として赴任した。まだ16歳の教師の誕生である。周恩来は、フランスに留学することになる。

女性の苦しみを解決するには、社会そのものを変革するしかない。それには何が必要か。“教育の門戸を開こう、教育こそ、人民を支え、育む力である”と、彼女は結論する。天津には、百を超える平民学校がつくられたといわれる。鄧頴超は、まだ二十歳であった。しかし、既に教育者としての名声は高かった。この間、周恩来と文通を続けた。

共産主義に自らの進路を見いだした周恩来は、それを鄧頴超に手紙で知らせた。彼女も、「私はあなたたちと同じ道をともに進みたいと思います」と、伝えてきた。改革の同志は、生涯の伴侶となっていくのである。

鄧頴超は、中国の改革に生涯を捧げようと、共産主義の運動に加わる。国民党と共産党は、協力して軍閥と闘うために、国共合作に踏み切った。天津で彼女は、共産党と国民党の若き女性リーダーとなった。孫文が死去するが、彼女は、黙々と自身の定めた信念の道を突き進んでいった。

孫文亡きあと、国民党に亀裂が走る。国民党左派の中心であり、中日友好協会の会長廖承志の父親である、廖仲愷が暗殺された。鄧頴超は、廖夫人の何香凝を支え続け、夫人が推進してきた女性解放運動を大きく発展させていった。

上海で、国民党右派の蒋介石らは、反共クーデターを起こす。共産党員を次々と捕らえ、殺害していった。また、北伐の伸展にともない、国民党左派の主導で移された武漢政府に対して、蒋介石は南京に政府を樹立。国共合作にピリオドが打たれた。

共産党への弾圧は激しさを増し、周恩来には、多額の懸賞金が懸けられた。広州にいた鄧頴超の身も危険にさらされた。夫妻は、5年間にわたって地下活動を展開しなければならなかった。その間、多くの同志が殺されていった。裏切りにもあった。それでも、二人は闘争を続けた。

鄧頴超は、髪を切り、紅軍の帽子、軍服に身を固めた。食料も満足にないなかで、皆を励ましながら、働き通した。しかも、冗談を絶やさず、苦労を笑いのめすかのように、いつも周囲に、明るい笑いの輪を広げた。理想も、信念も、振る舞いに表れる。一つの微笑に、その人の思想、哲学の発光がある。

国民党軍は、猛攻撃を開始し、拠点は次々と落とされていった。共産党は中央根拠地の瑞金からの撤退を決めていた。当時は、不治の病とされていた肺結核になった鄧頴超は、死を覚悟で紅軍の撤退作戦に「長征」に参加する。行程は、約1万2千5百キロメートルにわたった。しかも、戦闘を続けながらの行軍である。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

雨花台烈士陵園で献花

『新・人間革命』第28巻 革心の章 278p~

復但大学での図書贈呈式を終えた訪中団一行は、13日午後、上海から急行列車で蘇州へ向かった。車中3年5か月ぶりに訪れた上海の印象を語り合った。4年前に中国を初訪問した折、孫秘書長が、魯迅の『故郷』の一説を引いて語った言葉が忘れられなかった。

「『もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』魯迅先生は、こう言われております。私は、友好の道というものも、そうして出来上がると思っています。たくさんの人が、一歩、また一歩と、踏み固め、行き来する、その積み重ねが、平和の大道となっていく。それは、一朝一夕では、決してできません」

今回の訪問では、随所に中国側の配慮が感じられた。このころ中国は、まだ自動車の数は少なかった。そうしたなかで、上海でも、蘇州でも、一行の移動はバスではなく、メンバー一人ないし二人に、乗用車1台が提供されたのである。

孫平化秘書長は、力を込めて語った。「山本先生をはじめ、創価学会の皆さんが、どんな思いをされて、中日友好の流れを開かれてきたか、また、それが歴史的にいかに偉大なことであったかを、私たちはよく存じ上げているからです。山本先生がおられたからこそ、中日国交正常化があり、平和友好条約の締結にいたった。その信義と恩義とを、私たちは永遠に忘れません」

9月14日、訪中団一行は、刺繍研究所を訪れ、千年の歴史をもつという、蘇州の刺繍ができあがる工程を見学した。伸一たちは、行く先々で対話の橋を架け、無錫から列車に乗り、南京へ向かった。

南京は、1937年(昭和12年)には、日中戦争で日本軍が侵攻し、大きな惨禍を刻む歴史の舞台となったのである。伸一は、「日中平和友好条約」が結ばれる今、中国を訪問し、日中戦争の最も悲惨な歴史が刻印された南京の地に立ったことに、深い意義を感じていた。

“これから、日中の平和の行進が始まる。南京を、その新出発の起点とするのだ。戦争の凄惨な歴史を刻んだ地なればこそ、平和と友好の一大拠点としていかねばならない。過去を直視し、未来建設の力としていくーーそこに、今を生きる人間の使命がある”

翌日、市内にある雨花台烈士陵園へ向かった。美しい名とは反対に、ここは、南京の国民党政府に抗して、新中国の建設に命を懸けた多くの烈士たちが、処刑された地である。陵園の責任者は、凄惨な雨花台の歴史を一行に説明した。

「中国人民にとって雨花台は、人びとの血で染まった忘れ得ぬ地なんです。しかし、これは、一部の軍国主義者たちのやったことであり、日本人民には関係ありません。また、中国は確かに多大な犠牲を払いましたが、この戦争は、日本人民にも多くの悲劇をもたらしました。

中日二千年の文化交流の歴史から見ると、両国は、平和友好条約の調印後、さらに信頼を深める努力を重ねていくならば、必ずや世々代々、友好的におつき合いしていけるものと確信しています」

伸一は、深く思った。“こうした歴史から絶対に目を背けず、今こそ、万代の日中の平和と友好の道を開くことだ。それが、この痛ましい犠牲者への追悼である。それが、その殉難に報いる道である”

訪中団一行は、殉難の記念碑に献花を行った。一行は、尊い命を散らせた烈士たちをはじめ、日中戦争で犠牲になったすべての人々の冥福を祈って、唱題した。亡くなった人を悼み、冥福を祈る心に国境はない。祈りの心は、人間を結ぶ。

烈士陵園をあとにした一行は、南京市の北西部に位置する南京長江大橋を視察した。長江とは揚子江のことであり、長江大橋は、中国東部を南北に結ぶ大動脈である。

9月16日、訪中団一行は、梅園新村記念館を訪れた。ここは、1946年5月から翌年3月まで、中国の国民党と共産党の和平交渉が行われた折、周恩来が事務所、宿舎とした場所である。

妻の鄧頴超も、ここに住み、和平の道を開こうと懸命に務めた。彼女は、この時、政治協商会議の中国共産党代表7人のうち、唯一の女性であった。

太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

相互理解と友情の絆を結ぶ

『新・人間革命』第28巻 革心の章 259p~

9月11日夕刻、山本伸一は孫中山故居を見学しながら、同行のメンバーに語った。「孫文先生の生き方のなかには、”天道”という考え方が確立されていた。この天道に従うという考えのもとに、革命を組み上げていった。だから、そこには、自分を律する力が働き、困難に屈しない力が沸く。

“法”が根本になければ、結局は、崇高な理想を掲げた運動も欲望に蝕まれ、頓挫してしまう。いかなる革命も、人間革命なくしては、本当の意味で成就することはできない」

私利私欲、立身出世といった“小物語”を越え、人びとのため、世界のためという、“大物語”を編むなかに、人生は真実の輝きを放つ。

伸一たちは、上海市の関係者が主催する歓迎宴に出席した。「周総理が御健在であれば、どれほど、『日中友好条約』を喜ばれたことでありましょう。『画餅に帰す』との言葉があります。条約は調印されたとしても、これまでの諸先生方のご苦労を偲び、その条約の文言に血を通わせて行かなくては、条約は一枚の紙と同じことになってしまいます。断じて、そうさせてはならない。

私どもは、日中の友好こそが、アジアの平和、世界平和の大きなカギになることを知っております。新しい時代の、新しい出発のために、誠心誠意、力を尽くし、世々代々にわたって、日中友好の永遠の流れを開いてまいります」

伸一は、文化の交流をもって、人びとの相互理解と信頼を育み、心を結び合わせようとしていた。それこそが、万代の平和の礎であると確信していたからである。

訪中団一行は、宿舎の錦江飯店で、中日友好協会の孫平化秘書長らと共に朝食をとった。日本への留学
経験をもつ孫平化には、「対日接待」の仕事が与えられた。これが、彼が中日友好に従事するようになるきっかけとなったのである。

伸一の一行は、周西人民公社を参観した。現代化に向かい、皆、喜々として働いていた。なかでも若い女性たちの姿が目立った。伸一は未来を展望する時、女性の社会進出は、とどめることのできない時代の趨勢であろうと思った。

そのためには、制度をはじめ、女性が働きやすい、環境づくりが求められることはいうまでもない。そして、その根本の第一歩こそ、男性の意識改革であろう。従来の「女性は家にいて家事をこなし、子育ては女性が行うもの」という発想も、転換が迫られる時代を迎えたといってよい。

時とともに生活様式など、さまざまな事柄が、大きく変わっていく。変化、変化のなかで人は生きていかざるを得ない。ゆえに、自身の観念や、これまでの経験にばかり固執するのではなく、変化への対応能力を磨いていくことが、よりよく生きるための不可欠な要件となる。

その国の未来を知りたければ、青年と語ればよい。青年に、人びとのため、社会のために尽くそうという決意はあるか。向上しようという情熱はあるか。努力はあるかーーそれが、未来のすべてを雄弁に語る。

12日の午後には、一行は、上海の楊浦区少年宮を訪問した。友誼の泉は、未来へ、子々孫々へと、大河となって流れなければならない。伸一は、一過性の交流に終わらせぬために、ありとあらゆる努力を重ねようとしていたのだ。

翌13日、山本伸一は創価大学の創立者として、復旦大学を訪問した。1975年に引き続き、教育交流の一環として、図書を贈呈するためである。「蘇歩青学部長も仙台の東北大学で学ばれたと伺っております。こうした教育面の交流は、両国の文化を豊かにしい、明るい未来創造の大きな力になっています」

友誼の絆を永遠のものにしていくには、大学交流は極めて重要になる。政治や外交の世界で、日中関係が揺らぐことがあったとしても、学術・教育の交流があれば、中国の将来を担う若きリーダーたちと相互理解を図り、より強い友情の絆を結ぶことができるからだ。

あいさつを終えた伸一は、蘇学長に、一千冊の贈呈目録と、その本の一部を手渡した。蘇学長は、中日の平和友好条約の締結は、一衣帯水の間にある両国の友好善隣関係を子々孫々まで伝え、引き続き新たな輝かしい歴史を書き加えていくものであるとの確信を語った。

太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

近代中国の父・孫文

『新・人間革命』第28巻 革心の章 247p~

錦江飯店での交感の席で、伸一は、中国人民対外友好協会上海市分会の責任者である猛波に笑顔を向けた。猛波は一昨年、「中国上海京劇団」の副団長として来日していた。その折、信濃町の聖教新聞社と八王子の市の創価大学で、彼と交流する機会があった。

伸一の一行は、上海体育館の見学に向かった。この体育館は、円形のモダンな建物で、最新の設備を整えていた。伸一は、今後、中国は、目覚ましい勢いで発展を遂げていくと思った。しかし、短日月のうちに、急速に現代化を進めるとなれば、さまざまな困難がともなうにちがいない。また、日本の例に見られるように、急激な発展は、公害問題など、多くの弊害をもたらすおそれがある。彼は、八億をはるかに超える人民のために、中国の現代化が成功することを、心から願わずにはいられなかった。

一行は、近代中国の父・孫文が晩年を過ごした故居を訪れた。遺品など、由来の品々には、いつ、どこで、どのように使われたかという物語がある。ゆえに、それは、故人を偲び、その生き方と行動、思想、精神を学ぶ大事な縁となり、時空を超えた“心の対話”の懸け橋となる。

孫中山の故居に立って山本伸一は、孫文と宮崎滔天、梅屋庄吉ら日本人との、友情を思い起こしていた。孫文は、白衣を脱ぎ捨て、革命のメスを手にした。清朝を打倒し、民主主義国家をつくって祖国を救おうと、ハワイで秘密政治結社・興中会を結成。広州での蜂起を計画するが、失敗し、日本に亡命したのである。彼は、日本の明治維新に、中国における革命のあるべき姿を見ていた。

日本では、宮崎滔天をはじめ、多くの日本人が、彼に協力を惜しまなかった。宮崎は、自らの半生を綴った『三十三年の夢』に、孫文への思いを述べている。この本のなかで、彼は、孫文の思想、人物を描き、讃嘆した。この本は、多くの中国人留学生の目に触れ、また、中国語に翻訳されていった。そして、それが清朝を倒し、中華民国を樹立することになる辛亥革命に、大きな影響を与えたといわれる。
孫文への資金面での支援者に、梅屋庄吉がいる。

辛亥革命により、孫文を臨時大総統とする中華民国政府が誕生した。清朝を代表して、この革命政府との講和にあたった内閣総理大臣の袁世凱は、清の宣統帝・溥儀を退位させ、孫文に代わって、自分が中華民国の臨時大総統となった。ここに清朝は滅びたのである。

袁世凱は、孫文らの弾圧に乗り出す。正式に大総統に就任した彼は、独裁化の一途をたどり、帝政を復活させ、自ら皇帝となることを目論む。孫文が描いた革命の理想とは、正反対の事態を招いていくのだ。

文豪ビクトル・ユゴーは叫ぶ。「私利私欲から発した動きと、主義主張から生まれた動きとをはっきり区別して、前者と戦い、後者を助ける、これこそ偉大な革命家たちの天分であり、道義なのである」人間のもつ利己心の克服、つまり、人間革命あってこそ、真実の革命の成就がある。

1915年(大正4年)日本は、権益拡大のために、第一次世界大戦に乗じて山東省におけるドイツの権益の継承や南満州権益期限の延長など、21か条の要求を中国へ突き付けた。袁世凱は、これを受諾するが、中国人の対日感情は悪化した。

19年、第一次大戦後のパリ講和会議によって、日本の21か条要求がほぼ認められ、山東省の権益もドイツから日本が受け継ぐことになったのである。それは、中国の人びとにとって、最大の恥辱であった。反日愛国運動の火は、中国全土に広がっていった。いわゆる「5・4運動」である。

また、日本は、18年、米英仏などとともに、ロシア革命への干渉のため、シベリアに出兵。ほかの国々が撤退したあとも駐留し続けていた。こうした日本の大陸進出が、中国の不安と脅威を駆り立てたことはいうまでもない。

19年、孫文は、民族主義、民権主義、民生主義の「三民主義」を政綱に掲げて中国国民党を結成し、党首となった。孫文の妻・宋慶齢は、夫の死後、国民党の中央執行委員となった。
宋慶齢は、孫文の志を受け継ぐ道を、共産党に見いだしていた。

中華人民共和国誕生後は、中央人民政府副主席、国家副主席を務めるなど、新生・中国を支えてきた。彼女は、伸一の第4次訪中の時には、既に85歳の高齢であったが、全人代常務委員会副委員長に就いており、国家を代表する存在として活躍していたのである。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

日中平和友好条約調印への道

『新・人間革命』第28巻 革心の章 233p~

<革心の章 開始>

歴史は動く、時代は変わる。それを成し遂げていくのは、人間の一念であり、行動である。1978年(昭和53年)8月12日、日本と中国の間で「日中平和友好条約」が調印され、今、“日中”新時代の幕が開かれようとしていた。

9月11日、中日友好協会の招聘を受けた、山本伸一を団長とする第4次訪中団22人は、上海虹橋国際空港に到着した。伸一の訪中は、3年5か月ぶりである。

中日友好協会の孫平化秘書長らの笑顔が迎えてくれた。孫平化は、第一次訪中以来、誼を結ぶ、既に「老朋友」である。このころ、日中間の友好ムードは急速に高まり、それにともない、中日友好協会の秘書長である彼は、多忙を極めていたにちがいない。そのなかを、上海まで来てくれたのである。

“あの日中国交正常化提言から、ちょうど10年か…”伸一は、10年の来し方を振り返った。1968年9月8日、第11回学生部総会の席上、伸一は、日中問題について言及し、問題解決への方途として、三点を訴えたのである。

第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。第二に、中国の国連における正当な地位を回復すること。第三に、日中の経済的・文化的な交流を推進すること。

この提言に、大反響が広がった。激しい非難中傷の集中砲火を浴びた。日米安全保障会議の席でも、外務省の高官が、強い不満の意を表明している。しかし、提言はすべてを覚悟のうえでのことであった。命を懸ける覚悟なくして、信念は貫けない。

中国の周恩来総理は注目した。松村健三は、周総理と会見することを強く勧めた。しかし、伸一は、“宗教者の私が、今、訪中すべきではない“と考え、公明党の訪中を提案したのである。1971年6月公明党の訪中が実現し、周総理との会見が行われる。総理は、国交正常化の条件を示した。共同声明が、公明党訪中代表団と中日友好協会代表団との間で作成され、調印が行われたのである。

国交正常化への突破口が開かれたのだ。この共同声明は「復交5原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となっていった。政府間交渉は進み、遂に、72年9月、田中角栄首相、大平正芳外相と、周恩来総理、姫鵬飛外相によって、「日中共同声明」が調印されたのである。

そこでは、日中国交正常化をはじめ、中国の対日賠償請求の放棄、平和5原則による友好関係の確立などが謡われていた。伸一の提言は、現実のものとなったのだ。声を発するのだ!行動を起こすのだ!そこから変革への回転が開始する。

伸一が、周総理と会ったのは、12月の5日であった。総理は病床にあったが、医師の静止を押し切って会見したのだ。「中日平和友好条約の早期締結を希望します」その言葉は、遺言のように、伸一の胸に響いた。翌年1月、伸一はアメリカでキッシンジャー国務長官と会見、賛同の意思を確認した。そして、訪米中の大平正芳蔵相と日本大使館で会った際に、その旨を伝えた。

4月、伸一は3回目の中国訪問を果たし、鄧小平副総理と会談した。伸一は、忌憚なく反覇権条項についての中国の見解、鄧小平に尋ねた。これによって、中国の見解が確認されたのである。76年、周恩来総理が死去したのだ。「四人組」により鄧小平が失脚するが、毛沢東主席が死去すると、文化大革命は収束に向かっていく。鄧小平は、要職を担い、活躍していくことになる。

78年8月12日、遂に「日中平和友好条約」が北京で調印されたのである。調整が難航された覇権反対は、「第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と記された。ソ連への配慮である。

伸一の日中国交正常化提言から満10年にして“日中新時代”を迎えたのだ。歴史は変わる。人間と人間が胸襟を開き、真摯に対話を重ねていくならば、不信を信頼に変え、憎悪を友愛に変え、戦争を平和へと転じていくことができるーーそれが、彼の哲学であり、信念であり、確信であった。

今回の中国訪問には、創価学会側の通訳として周志英も参加していた。香港生まれで、創価大学の大学院生であった。人類の平和と繁栄を願い、世界の指導者との対話を進めるには、各国語の優れた通訳が必要である。ましてや伸一の場合、仏法について論じることが多いため、通訳には、仏法用語等の正しく深い理解が求められる。

未来を展望する時、それらを習得し、伸一の心を相手に伝えることができる通訳の育成が、極めて重要なテーマであったのである。周は、北京語の猛勉強を開始した。使命を自覚し、志という種子を胸中にもってこそ、向学心は燃え、才能の芽は急速に育ち、開花する。志のある人は強い。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

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