小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

May 2021

勝利島

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 345p~

1978年10月7日、第一回となる離島本部の総会が、学会本部の創価文化会館内にある広宣会館で
開催されるのだ。約120の島の代表が集っての、待ちに待った離島本部の総会である。各島の同志は、はるばると海を渡り、求道の心を燃やして、意気軒昂に学会本部へと集ってきたのだ。

沖縄の同志は、会長・山本伸一の訪問を強く願っていた。4年以上、彼の沖縄訪問はなかった。沖縄の首脳幹部は、県長の高見福安を中心に話し合った。高見は、静かな口調で語り始めた。

「世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、10日、20日と休みをとってやって来ると聞いている。その求道心こそが、信心ではないだろうか!弟子の道ではないだろうか!

私は今、自分の姿勢を振り返って、深く反省しています。求道心を失い、先生に甘えていたことに気づき、申し訳ない思いでいっぱいなんです」

高見は、学会本部と連絡を取り、離島本部総会の前に、広布第二章の支部長・婦人部長、男女青年部の代表による第一回「沖縄支部長会」の開催が決まったのだ。

伸一は、沖縄のメンバー一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。「私は沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、幸福を創造していくことはできない。そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになってしまう。実は、そこに不幸の要因があるんです。

仏法は、人を頼むのではなく、“自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ!”という自立の哲学なんです。自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第二章が、始まったということです。私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです」

伸一は、離島に対する自分の思いを語っていった。戦後、日本は、大都市を中心に目覚ましい発展をとげてきたが、その流れに大きく取り残されてきたのが、本土から隔絶した離島であった。「離島振興法」が制定、公布された。

しかし、高度成長期に入ると、本土での労働力需要が高まり、島から働き手が失われていった。電気水道などが整っても、島の産業の抜本的な振興がないのだ。政府の離島振興は、表面的な「本土並み」の生活環境を整えることばかりに目がいき、長期的な展望や、島民の立場からの視点が欠落していたのだ。

「皆さんは、偶然、それぞれの島に暮らしているのではない。日蓮大聖人から、その島の広宣流布を託され、仏の使いとして、地涌の菩薩として、各島々に出現したんです。仏から遣わされた仏子が負けるわけがありません。不幸になるわけがありません。ですから、どんなに苦しかろうが、歯を食いしばり、強い心で、大きな心で、勇気をもって、頑張り抜いていただきたい」

島に広宣流布の戦いを起こすのは、決して、生易しいものではない。島に逃げ場はない。あまりの非道な仕打ちに訴え出ようにも、法律よりも、島の習わしや無言の掟の方が重く受けとめられてしまうこともある。そうしたなかで、同志は、島の繁栄を願って、広宣流布の旗を掲げてきたのである。

九州北西部の本土から約2キロのところに、人口三千人ほどの島がある。この島で、1960年代に迫害の嵐が吹き荒れた。59年島で最初の学会員夫妻が誕生した。近野春好と妻のマツである。会員世帯が大幅に拡大すると、障魔の嵐が猛り始めたのである。

座談会の帰り道、島の若者たちが鍬や棒を持って道畑に群がり、学会員に罵声を浴びせた。地域の有力者の差し金であった。家主から、家を出るよう言われた学会員もいた。村有地の借地権を奪われた人もいた。組合からも除名された。学会員には、どの店も商品を売ってくれなかった。非道な仕打ちは子どもにも及んだ。周囲の子どもたちに、じめられた。

同志は負けなかった。“弾圧ーー本望ではないか!御書に仰せの通りではないか私たちの信心も、いよいよ本物になったということだ。今こそ、折伏だ!”それが、皆の心意気であった。



太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

リーダーの在り方

『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 345p~
< 勝利島の章 開始 >

1978年(昭和53年)の9月20日、第四次訪中から帰国した彼は、翌21日には、訪中について、マスコミ各社のインタビューに応じるとともに、依頼を受けていた新聞社などの原稿執筆に余念がなかった。彼は、1日に、4回、5回と、会合に出席し、激励を重ねることも珍しくなかった。

広宣流布は着々と進み、今や、創価の太陽は世界を照らし始めた。それゆえに、障魔の暗雲は沸き起こり、学会への攻撃が繰り返されていた。伸一は、“わが同志を断じて守らねばならぬ”と、深く心に決めていた。

伸一は、世界平和の確かな潮流をつくるために行動することも、今世の自身の使命であると、強く自覚していた。それゆえに、各国の識者、指導者との語らいを重ね続けた。また、創価大学をはじめ、創価教育各校の創立者として、その諸行事にもできる限り出席した。伸一の行動はとどまるところを知らなかった。

全国の県長会議で、彼は語った。「広宣流布の活動の世界、舞台は、あくまでも現実の社会です。社会を離れて仏法はありません。したがって、私たちは、社会にあって、断固、勝たねばならない。そのために、まず皆さん自身が、社会の誰が見ても立派だという、人格の人に育っていただきたいんです。

信心の深化は、人間性となって結実し、豊かな思いやりにあふれた、具体的な言動となって表れます。その人間性こそが、今後の広宣流布の決め手となっていきます」

仏法の偉大な力は、何によって証明されるかーー実証である。病苦や経済苦人間関係の悩み等々を克服した功徳の体験も、すばらしい実証である。同時に、自分自身が人間として、ここまで変わり、向上したという人格革命があってこそ、仏法の真実を証明しきっていくことができる。

伸一は、新しい時代を担う、新しい人材の育成に懸命であった。人格の輝きを放つためのリーダーの心構えについて、諄々と諭すように訴えている。

「細かいようだが、リーダーは、約束した時間は、必ず守ることです。自分は忙しいのだから、少しぐらい遅れてもいいだろうといった考えは、絶対にあってはなりません。それは、慢心であり、甘えです。自分の信用を、学会の幹部への信頼を崩すことになります」

伸一は、各地を訪問した折に、家族のなかで、ただ一人、信心に励んでいる婦人などと、懇談する機会がよくあった。夫が、なぜ、活動から遠ざかってしまったのかを尋ねると、人間関係に起因しており、こんな答えが返ってきた。「男子部のころ、先輩が横柄だったことで、嫌気が差したと言っておりました」

また、学会活動に参加しなくなってしまった娘のことで悩む母親は、こう語った。「なぜ折伏をするのかなど、一つ一つの活動の意味がよくわかっていないのに、やるように言われるのがいやで、やめてしまったとのことです」

学会活動することの意味が理解できずにいるのに、ただ、やれと言われたのでは、苦痛に感じもしよう。そこで大切になるのが、納得の対話である。「なぜ折伏を行ずる必要があるのか」「その実践を通して、自分は、どんな体験をつかんだのか」などを語っていくことである。

広宣流布を推進するリーダーにとって大事なことは、自分の担当した組織のすべてのメンバーに、必ず幸せになってもらおうという強き一念をもつことだ。そして、人間対人間として、誠実に交流を図り、深い信頼関係を結んでいくことである。その素地があってこそ、励ましも、指導も、強く胸を打ち、共鳴の調べを奏でることができるといえよう。

それは、学会員に対してだけでなく、すべての人間関係についても同様である。日ごろからの交流があってこそ、信頼も芽生え、胸襟を開いた対話もできる。リーダーが麗しい人間関係をつくり上げることに最大の努力を払っていくならば、広宣流布は、着実にますます大きな広がりを見せていくにちがいない。

本来、創価学会の人間の絆ほど、尊く美しいものはない。友の幸せを願う思いやりがあり、同苦の心がある。まさに、創価の友によって結ばれた人間の連帯は、かけがえのない社会の宝になりつつあるといってよい。

それだけに伸一は、幹部との人間関係で活動から遠ざかってしまったという話を聞くたびに、激しく胸が痛んだ。ゆえに彼は、リーダーの在り方について、さまざまな角度から、指導し続けたのである。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

革心の人 鄧頴超

『新・人間革命』第28巻 革心の章 333p~

伸一は、李先念副主席に「中国は、ジュネーブの軍縮委員会に参加するか」「社会主義民主化の基礎である法律整備について」『四つの現代化』に呼応しての宗教政策」「核兵器廃絶への方途」など次々と質問し、意見交換した。語らいは1時間10分に及んだ。会見の模様は、新聞各紙が大々的に報じた。

この直後、カーター大統領はワシントン駐在の中国連絡事務所長と接触。両国が国交樹立を電撃的に発表したのは、その3か月後、12月16日のことであった。

李先念副主席との会見が行われた19日の夜中国側の関係者を招待して、山本伸一主催の答礼園が開かれた。鄧頴超が招待に応じ、歓迎宴に続いて、再び出席してくれたのだ。国家的な指導者との会見は、滞在中に1度という慣例を破っての出席であった。

平和友好の道もまた“長征”である。風雨の吹き荒れる時も未来に向かって、信義の歩みを運び続けてこそ、栄光の踏破がある。

食事が始まると、鄧頴超は言った。「食事がとてもおいしいですね。今日のメニューは、西太后の晩年の食事を真似たもので、おばあさんに食べやすいように、柔らかく調理されています。私に、ぴったりの食事ですよ」飾らず、ユーモアあふれる言葉であった。

伸一は、鄧頴超が、“鄧大姐”と多くの人から慕われ、敬愛されている理由がわかる気がした。こまやかな気遣いと深い配慮があり、素朴で、ユーモアあふれ、人を包み込む温かさ、明るさがある。それは人民の解放のために、新中国建設に身を投じ、社会の不正や差別、そして、何よりも自己自身と闘い続けるなかで、磨き鍛え抜かれた、人格の放つ輝きといえよう。

鄧頴超は、今回、伸一の通訳として同行した、周志英にも気遣いの目を向けた。彼女は、周志英の使う中国語(北京語)を聞くや、すぐに尋ねた。「あなたは、香港の出身ですね」微妙な発音の違いから、北京語の通訳に不慣れなことや、出身地まで洞察していたのだ。

鄧頴超は、周志英が香港の出身であると聞くと、広東語で話し始めた。周恩来と結婚したあと、広東省で活動した経験を持つ彼女は、広東語も堪能であったのだ。母国語でない北京語と日本語を駆使して通訳に奮闘してきた周志英にとって、広東語を使えることで、どれほど気持ちが軽くなったか。

鄧頴超の語る広東語を日本語に訳す彼の言葉に、真剣に耳をそばだてていたのが、中日友好協会の孫平化秘書長や、中国側の通訳たちであった。皆、広東語がよくわからないために、周が訳す日本語を聞くまで、鄧頴超が何を話しているのか理解できないのである。

鄧頴超は、伸一に言った。「山本先生は、一生懸命に若い人を育てようとされているんですね。それが、いちばん大事なことです。どんなに大変でも、今、苗を植えて、育てていかなければ、未来に果実は実りません。10年20年とたてば、青年は大成していきます。それなくして中日友好の大道は開けません。楽しみですね」

孫平化たちは、周志英の通訳ぶりを、じっと見てきた。彼が日本で、日本語と北京語を猛勉強したとはいえ、中国の一流の通訳には、どちらの言葉もたどたどしく、心もとなく感じられていたのであろう。“山本会長は、どうして彼を通訳に使っているのだろう”と疑問にも思っていたようだ。

孫平化も、永遠なる中日の平和友好を願い、若い通訳を育成しようという伸一の心を知り、強く共感したという。孫平化らは、以後、周志英に、公式の場で使う言葉や表現などを、懇切丁寧に教えてくれるようになった。未来に果実を実らせたいと、伸一と同じ心で臨んでくれたのである。

答礼宴の最後に、周志英に「敬愛する周総理」という、中国の歌を歌わせた。
♪敬愛する周総理 私たちはあなたを偲びます…
あなたは大河とともに永久にあり あなたは泰山のようにそびえ立つ♪

廖承志の目には、うっすら光るものがあった。夫人もあふれる涙をナプキンで拭った。料理を運んでいた人たちも、立ち止まって耳を傾けていた。偉大な指導者への敬慕の念が、皆、自然にあふれ出てくるのであろう。歌が終わった。万雷の拍手が起こった。席に戻ってきた周志英に、鄧頴超は、「ありがとう!」と言って、ことのほか嬉しそうに手を差し伸べるのであった。答礼宴は、感動のなかに幕を閉じた。

翌日、帰国の見送りに来てくれた人たちと対話が弾んだ。廖承志会長夫人の経普椿は言った。「夫人の泣いたのを見たことがありません。“自分が泣いたら、皆を、さらに悲しませてしまう”と、ご自身と戦い、感情を押し殺していたんです。強い人です。人民の母です。最愛の人を失った悲しみさえも、中国建設の力にされているように思います」

鄧頴超は、まさに“革心の人”であった。常に自らの心と戦い、信念を貫き通してこそ、人間も、人生も、不滅の輝きを放つ。彼女は、「恩来戦友」と書いて、夫の周恩来を追悼した。そこには、生涯、革命精神を貫くとの万感の決意が込められていた。

<革心の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

日中の留学生交流の歴史

『新・人間革命』第28巻 革心の章 323p~

歓迎宴は、和気あいあいとした雰囲気のなか、各テーブルで語らいが始まった。伸一は、鄧頴超に尋ねた。「鄧頴超先生も、日本にいらっしゃいませんか」「ええ、日本へは、ぜひ行きたいと思います」全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周恩来の夫人である鄧頴超が、訪日の意向を明らかにしたのだ。伸一は「嬉しいです!いつごろお出でくださいますか」と重ねて尋ねた。

「周恩来も桜が好きでしたので、桜の一番美しい、満開の時に行きたいと思います。山本先生は、賛成されますでしょうか」「もちろん大賛成です!創価大学には、周総理を讃える『周桜』が植樹されております。来日の折には、ぜひ、ご覧いただきたい。できれば、周総理と恋愛をされていた時のような気持ちで、日本を訪問していただければと思います」

鄧頴超は70代半ばであったが、人民に奉仕し抜こうとの気概は、いささかも後退することはなかった。思想、信念が本物であるかどうかは、晩年の生き方が証明するといえよう。

孫平化秘書長が、二人の青年を手招きした。新中国からの最初の国費留学生として創価大学に入学し、帰国した二人であった。友好交流の種子は、ここでも大きく育っていたのだ。

翌18日、山本伸一は、中日友好協会を表敬訪問。午後には、趙樸初副会長を訪ね、懇談した。4時過ぎ、北京大学を訪問した。季羨林副学長は、中国を代表する知識人であり、仏教学、言語学、インド学の碩学である。文化大革命では、「走資派」のレッテルを貼られ、残酷な暴行や拷問を受けた。そんな逆境のなかでも、学問への情熱を失うことなく、4年の歳月をかけて、古代インドの大叙事詩「ラーマーヤナ」の翻訳を完成させている。

帰国前日の9月19日山本伸一は、人民大会堂で、副総理でもある李先念党副主席と会見した。現在中国が進めている農業、工業、国防、科学技術の「四つの現代化」の柱は何かを尋ねた。「まず農業です」そして、日本から科学技術などを学びたいとして、こう語った。「留学生や研修生を貴国に送るとともに、こちらで講義をしていただくために、日本からも来ていただきたい」「留学生は1万人ほどになるかもしれません」

伸一は、今こそ日本は、中国からの留学生を全面的に支援し、教育交流を実施する大事な時を迎えていると思った。--日中の留学生交流の歴史は、遥か千四百年前にさかのぼる。日本は、遣隋使、遣唐使として大陸に使節を派遣し、国際情勢や文化を学んだ。

また、清朝末期から中華民国の時代にあたる、明治の後期から日中戦争の開戦まで、今度は、日本が中国から多くの留学生を受け入れた。多い時には、一万人近い留学生が来日したという。終戦、そして、中華人民共和国の成立を経て、再び日本が正式に中国の留学生を迎えたのは、1975年(昭和50年)のことであった。創価大学が、国交正常化後、初となる6人の留学生を受け入れたのである。

もし、李先念副主席の言葉が実現すれば、史上三度目の日中留学生交流の高潮期を迎えることになる。日本への留学は、中国の国家建設に役立つだけではない。青年たちが信頼に結ばれれば、政治や経済が困難な局面を迎えても、時流に流されない友情を育む、万代の友誼の土台となるにちがいない。

そのためには、留学の制度を整えることはもとより、受け入れる日本人も、また、留学生も、さまざまな違いを超えて、“友”として接していこうとする心をもつことである。

会見で伸一は、中国と米国の関係についても、率直に質問した。「国交正常化を前提として、中米条約のようなものを結ぶ考えはおもちでしょうか」77年1月、カーター大統領が誕生し、中米の国交樹立へ動きだすが、交渉は難航。先行きは不透明であるといえた。

伸一は、日中の平和友好条約が調印された今こそ、膠着状態にある中米関係が正常化することを、強く願っていたのだ。李副主席は端的に語った。「国交正常化を前提とした中米条約を結ぶ用意はあります。これは相手のあることで、カーター大統領の胸三寸にかかっています」伸一は、両国の関係正常化を確信した。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

鄧頴超と母

『新・人間革命』第28巻 革心の章 308p~

毛沢東、朱徳、そして周恩来らの第一方面軍は、党職員や、その家族など合わせて8万6千余人であり、女性も、老人も、傷病者もいた。鄧頴超は、病に侵されながら、この長征に加わった。担架で運ばれての行軍であった。

鄧頴超は、病と戦いながらも、努めて明るく振る舞い、自身が体験してきた闘争の数々を語り、皆を勇気づけ、希望の光を注いだ。闘争を開始した“初心”を確認し合い、同志の心を鼓舞した。彼女の人生の勝因は、自分に負けずに戦い続けてきたことにあったといえよう。病に侵され、担架に身を横たえ、窮地に立たされても、その心は、決して屈しなかった。

彼女には、自身の闘争を先延ばしにして、“状況が好転したら、何かしよう”という発想はなかった。「今」を全力で戦い抜いた。いつか、ではない。常に今の自分に何ができるのかを問い、なすべき事柄を見つけ、それをわが使命と決めて、果たし抜いていくのだ。そこに、人生を勝利する要諦もある。

長征は肉体の限界を超えた行軍であった。食料もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も超えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。そして、遂に、「長征」に勝利したのだ。

1937年7月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。

鄧頴超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。彼女は、娘にこう語ってきた。「あなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、頴超として尊敬される人になりなさい」独立した人間であれーーそれが、母の教えであった。

フランスの作家アンドレ・モーロワは言う。「数々の失敗や不幸にもかかわらず、人生に対する信頼を最後まで持ちつづける楽天家は、しばしばよき母親の手で育てられた人々である」

1945年、日本の無条件降伏によって中国の対日戦争は終わる。ところが、それは新たな国共の内戦の始まりであった。周恩来と鄧頴超は、国民党との和平交渉を行った。だが、和平はならず、内戦は激化し、悲惨な全面戦争となっていった。

そして、共産党が国民党を制圧し、49年10月、中華人民共和国が成立するのである。一方、国民党の蒋介石は、台湾へ移っていった。

伸一は、梅園新村記念館を見学しながら、妻の峯子に言った。「お二人が“夫婦”というだけでなく、“同志”の絆に結ばれていたからだろうね」二人が共通の理想、目的をもち、共に同じ方向を向いて進んでいく“同志”の関係にあるならば、切磋琢磨し、励まし合いながら、向上、前進していくことができる。

続いて訪中団一行が訪れたのは、紫金山であった。まず伸一たちが訪れたのは、廖承志会長の両親の墓所「廖陵」であった。中国の要人たちの誰もが、激闘の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。

革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花し、冥福を祈り、題目を三唱した。

夕方には、空路、北京へ向かったのである。翌日、もう主席記念堂へ向かった。その後、定陵を巡りながら、伸一と趙樸樸初副会長と仏教について意見交換した。

17日夜、人民大会堂で歓迎宴が行われた。廖承志が紹介したのは、全国人民代表大会常務委員会副委員長であり、周総理の夫人として大中国を担う柱を支え続けてきた鄧頴超その人であった。

答礼のあいさつに立った伸一は、真心こもる歓迎に、深く謝意を表するとともに、周総理との思い出を語っていった。「私どもは、尊き先人が切り開いた『金剛の道』『金の橋』を、さらに強く、固く、広く、長く構築していく努力をしていかなくてはならない。その道を、新しき未来の世紀の人びとに、立派に継承していくべき使命と責任があることを、痛感するものであります。その軸となる根本は、「信義」の二字であると申し上げたいのであります!」

信義の柱あってこそ、平和の橋は架かる。信義がなければ、条約は砂上の楼閣となる。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋

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