『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 345p~
1978年10月7日、第一回となる離島本部の総会が、学会本部の創価文化会館内にある広宣会館で
沖縄の同志は、会長・山本伸一の訪問を強く願っていた。4年以上、彼の沖縄訪問はなかった。沖縄の首脳幹部は、県長の高見福安を中心に話し合った。高見は、静かな口調で語り始めた。
「世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、10日、20日と休みをとってやって来ると聞いている。その求道心こそが、信心ではないだろうか!弟子の道ではないだろうか!
私は今、自分の姿勢を振り返って、深く反省しています。求道心を失い、先生に甘えていたことに気づき、申し訳ない思いでいっぱいなんです」
高見は、学会本部と連絡を取り、離島本部総会の前に、広布第二章の支部長・婦人部長、男女青年部の代表による第一回「沖縄支部長会」の開催が決まったのだ。
伸一は、沖縄のメンバー一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。「私は沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、幸福を創造していくことはできない。そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになってしまう。実は、そこに不幸の要因があるんです。
仏法は、人を頼むのではなく、“自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ!”という自立の哲学なんです。自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第二章が、始まったということです。私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです」
伸一は、離島に対する自分の思いを語っていった。戦後、日本は、大都市を中心に目覚ましい発展をとげてきたが、その流れに大きく取り残されてきたのが、本土から隔絶した離島であった。「離島振興法」が制定、公布された。
しかし、高度成長期に入ると、本土での労働力需要が高まり、島から働き手が失われていった。電気水道などが整っても、島の産業の抜本的な振興がないのだ。政府の離島振興は、表面的な「本土並み」の生活環境を整えることばかりに目がいき、長期的な展望や、島民の立場からの視点が欠落していたのだ。
「皆さんは、偶然、それぞれの島に暮らしているのではない。日蓮大聖人から、その島の広宣流布を託され、仏の使いとして、地涌の菩薩として、各島々に出現したんです。仏から遣わされた仏子が負けるわけがありません。不幸になるわけがありません。ですから、どんなに苦しかろうが、歯を食いしばり、強い心で、大きな心で、勇気をもって、頑張り抜いていただきたい」
島に広宣流布の戦いを起こすのは、決して、生易しいものではない。島に逃げ場はない。あまりの非道な仕打ちに訴え出ようにも、法律よりも、島の習わしや無言の掟の方が重く受けとめられてしまうこともある。そうしたなかで、同志は、島の繁栄を願って、広宣流布の旗を掲げてきたのである。
九州北西部の本土から約2キロのところに、人口三千人ほどの島がある。この島で、1960年代に迫害の嵐が吹き荒れた。59年島で最初の学会員夫妻が誕生した。近野春好と妻のマツである。会員世帯が大幅に拡大すると、障魔の嵐が猛り始めたのである。
座談会の帰り道、島の若者たちが鍬や棒を持って道畑に群がり、学会員に罵声を浴びせた。地域の有力者の差し金であった。家主から、家を出るよう言われた学会員もいた。村有地の借地権を奪われた人もいた。組合からも除名された。学会員には、どの店も商品を売ってくれなかった。非道な仕打ちは子どもにも及んだ。周囲の子どもたちに、じめられた。
同志は負けなかった。“弾圧ーー本望ではないか!御書に仰せの通りではないか私たちの信心も、いよいよ本物になったということだ。今こそ、折伏だ!”それが、皆の心意気であった。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋
1978年10月7日、第一回となる離島本部の総会が、学会本部の創価文化会館内にある広宣会館で
開催されるのだ。約120の島の代表が集っての、待ちに待った離島本部の総会である。各島の同志は、はるばると海を渡り、求道の心を燃やして、意気軒昂に学会本部へと集ってきたのだ。
沖縄の同志は、会長・山本伸一の訪問を強く願っていた。4年以上、彼の沖縄訪問はなかった。沖縄の首脳幹部は、県長の高見福安を中心に話し合った。高見は、静かな口調で語り始めた。
「世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、10日、20日と休みをとってやって来ると聞いている。その求道心こそが、信心ではないだろうか!弟子の道ではないだろうか!
私は今、自分の姿勢を振り返って、深く反省しています。求道心を失い、先生に甘えていたことに気づき、申し訳ない思いでいっぱいなんです」
伸一は、沖縄のメンバー一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。「私は沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、幸福を創造していくことはできない。そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになってしまう。実は、そこに不幸の要因があるんです。
仏法は、人を頼むのではなく、“自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ!”という自立の哲学なんです。自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第二章が、始まったということです。私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです」
伸一は、離島に対する自分の思いを語っていった。戦後、日本は、大都市を中心に目覚ましい発展をとげてきたが、その流れに大きく取り残されてきたのが、本土から隔絶した離島であった。「離島振興法」が制定、公布された。
しかし、高度成長期に入ると、本土での労働力需要が高まり、島から働き手が失われていった。電気水道などが整っても、島の産業の抜本的な振興がないのだ。政府の離島振興は、表面的な「本土並み」の生活環境を整えることばかりに目がいき、長期的な展望や、島民の立場からの視点が欠落していたのだ。
「皆さんは、偶然、それぞれの島に暮らしているのではない。日蓮大聖人から、その島の広宣流布を託され、仏の使いとして、地涌の菩薩として、各島々に出現したんです。仏から遣わされた仏子が負けるわけがありません。不幸になるわけがありません。ですから、どんなに苦しかろうが、歯を食いしばり、強い心で、大きな心で、勇気をもって、頑張り抜いていただきたい」
島に広宣流布の戦いを起こすのは、決して、生易しいものではない。島に逃げ場はない。あまりの非道な仕打ちに訴え出ようにも、法律よりも、島の習わしや無言の掟の方が重く受けとめられてしまうこともある。そうしたなかで、同志は、島の繁栄を願って、広宣流布の旗を掲げてきたのである。
九州北西部の本土から約2キロのところに、人口三千人ほどの島がある。この島で、1960年代に迫害の嵐が吹き荒れた。59年島で最初の学会員夫妻が誕生した。近野春好と妻のマツである。会員世帯が大幅に拡大すると、障魔の嵐が猛り始めたのである。
座談会の帰り道、島の若者たちが鍬や棒を持って道畑に群がり、学会員に罵声を浴びせた。地域の有力者の差し金であった。家主から、家を出るよう言われた学会員もいた。村有地の借地権を奪われた人もいた。組合からも除名された。学会員には、どの店も商品を売ってくれなかった。非道な仕打ちは子どもにも及んだ。周囲の子どもたちに、じめられた。
同志は負けなかった。“弾圧ーー本望ではないか!御書に仰せの通りではないか私たちの信心も、いよいよ本物になったということだ。今こそ、折伏だ!”それが、皆の心意気であった。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋