『新・人間革命』第27巻 激闘の章 256p~
5月13日、山本伸一は九州へ飛んだ。“日本全国をくまなく回り、一人でも多くの同志と会って励まさねばならぬ!”宗門の悪侶による学会誹謗に、苦しんでいる会員のことを思うと、伸一の胸は激しく痛むのであった。
「法華行者諸難事」の「各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ」から「互いにつねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」を拝読して指導していった。
当時、大聖人に従う者は強く戒める旨の偽の御教書が出されるなど、迫害は一段と激しさを増していたのである。
そのなかで、大聖人は、たとえ大難を受け、命に及ぶようなことがあったとしても、絶対に退転してはならないと、弟子たちに呼びかけられている。そして、何があっても、皆が信心を貫いていくために、「互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」と指導されたのである。
伸一は、力を込めて訴えた。「人間は、一人になってしまうと弱い。ましてや、迫害の中では、おそれを感じ、自分の弱い心に引きずられ、次第に信心を後退させていってしまう。つまり、『臆病』という自分の心が、師匠になってしまうんです。
ゆえに大聖人は、『心の師とはなるとも心を師とすべからず』との経文をあげて、自分を正しい信心へと導く“心の師”の大切さを述べられています。仏道修行には、師匠が、また、同志が必要なんです」
伸一は、いかなる試練が競い起ころうが、一人たりとも、脱落させたくなかった。ゆえに彼は、皆が強情な信心を全うしていくうえで、学会の組織がいかに重要であるかを訴えていったのである。
「もともと『僧』という言葉自体が、仏になるための修行をする人びとの集団である『僧伽』の略であり、後に、個々の修行者のことも僧というようになった。つまり、本来、仏道修行は単独で行うものではなかったのであります。
成仏のためには、善智識といって、仏道へと自分を導き、励ましてくれる人の存在が必要なんです。その切磋琢磨し合う姿を、大聖人は『互いにつねに・いゐあわせて」と言われているんです。この通りに実践しているのが、学会の組織です。
大聖人は『日蓮が一門となりとをし給うべし』と仰せになっている。一門というのは、人と人の連帯です。組織です。そのなかで、共にスクラムを組み、異体同心の団結で進み抜いていきなさいと、大聖人は言われている。なぜなら、そこにしか、広宣流布の大前進も、自身の大成長もないからです。
戸田先生は、学会を『仏意仏勅の団体』と言われ、『創価学会仏』とさえ表現された。広宣流布をわが使命とし、異体同心のスクラムを組むなかで、創価学会仏の一員となり、崩れざる幸福を築くことができるんです。どうか、皆さんは、この尊い学会から、生涯、離れることなく、人間革命の大道を、誇らかに歩み抜いていってください」
学会を離れて、真実の仏法の実践はない。功徳爛漫の人生も、境涯革命も、一生成仏もないーーそれが、伸一の断固たる確信であった。
伸一は、「今日は、私どもの信心を妨げる第六点の魔王について、ともどもに思索してまいりたい」と前置きし、「辨殿尼御前御書」を拝していった。「広宣流布を進めようとするならば、必ず第六天の魔王が十軍を使って、戦を起こしてくる。
この第六天の魔王とは何か。人びとの成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。魔王という固有の存在がいるのではなく、人びとの己心に具わった生命の働きです。ゆえに、成仏というのは、本質的には、外敵との闘いではなく、わが生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。つまり、内なる魔性を克服していってこそ、人間革命、境涯革命があり、幸せを築く大道が開かれるんです」
第六天の魔王は、智慧の命を奪うところから「脱命」といわれる。また、「他化自在天」ともいって、人を支配し、意のままに操ることを喜びとする生命である。その結果、人びとの生命は委縮し、閉ざされ、一人ひとりがもっている可能性の芽は摘み取られていくことになる。戦争、核開発、独裁政治、あるいは、いじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようという「他化自在天」の生命であるといってよい。
それに対して、法華経の行者の実践は、万人が仏性を備えた尊厳無比なる存在であることを教え、一人ひとりの無限の可能性を開こうとするものである。両者は、人間を不幸にする働きと幸福にする働きであり、それが鬩ぎ合い、魔軍と仏の軍との熾烈な戦いとなる。この魔性の制覇は、仏法による以外にないのだ。
5月13日、山本伸一は九州へ飛んだ。“日本全国をくまなく回り、一人でも多くの同志と会って励まさねばならぬ!”宗門の悪侶による学会誹謗に、苦しんでいる会員のことを思うと、伸一の胸は激しく痛むのであった。
「法華行者諸難事」の「各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ」から「互いにつねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」を拝読して指導していった。
当時、大聖人に従う者は強く戒める旨の偽の御教書が出されるなど、迫害は一段と激しさを増していたのである。
そのなかで、大聖人は、たとえ大難を受け、命に及ぶようなことがあったとしても、絶対に退転してはならないと、弟子たちに呼びかけられている。そして、何があっても、皆が信心を貫いていくために、「互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」と指導されたのである。
伸一は、力を込めて訴えた。「人間は、一人になってしまうと弱い。ましてや、迫害の中では、おそれを感じ、自分の弱い心に引きずられ、次第に信心を後退させていってしまう。つまり、『臆病』という自分の心が、師匠になってしまうんです。
ゆえに大聖人は、『心の師とはなるとも心を師とすべからず』との経文をあげて、自分を正しい信心へと導く“心の師”の大切さを述べられています。仏道修行には、師匠が、また、同志が必要なんです」
伸一は、いかなる試練が競い起ころうが、一人たりとも、脱落させたくなかった。ゆえに彼は、皆が強情な信心を全うしていくうえで、学会の組織がいかに重要であるかを訴えていったのである。
「もともと『僧』という言葉自体が、仏になるための修行をする人びとの集団である『僧伽』の略であり、後に、個々の修行者のことも僧というようになった。つまり、本来、仏道修行は単独で行うものではなかったのであります。
成仏のためには、善智識といって、仏道へと自分を導き、励ましてくれる人の存在が必要なんです。その切磋琢磨し合う姿を、大聖人は『互いにつねに・いゐあわせて」と言われているんです。この通りに実践しているのが、学会の組織です。
大聖人は『日蓮が一門となりとをし給うべし』と仰せになっている。一門というのは、人と人の連帯です。組織です。そのなかで、共にスクラムを組み、異体同心の団結で進み抜いていきなさいと、大聖人は言われている。なぜなら、そこにしか、広宣流布の大前進も、自身の大成長もないからです。
戸田先生は、学会を『仏意仏勅の団体』と言われ、『創価学会仏』とさえ表現された。広宣流布をわが使命とし、異体同心のスクラムを組むなかで、創価学会仏の一員となり、崩れざる幸福を築くことができるんです。どうか、皆さんは、この尊い学会から、生涯、離れることなく、人間革命の大道を、誇らかに歩み抜いていってください」
学会を離れて、真実の仏法の実践はない。功徳爛漫の人生も、境涯革命も、一生成仏もないーーそれが、伸一の断固たる確信であった。
伸一は、「今日は、私どもの信心を妨げる第六点の魔王について、ともどもに思索してまいりたい」と前置きし、「辨殿尼御前御書」を拝していった。「広宣流布を進めようとするならば、必ず第六天の魔王が十軍を使って、戦を起こしてくる。
この第六天の魔王とは何か。人びとの成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。魔王という固有の存在がいるのではなく、人びとの己心に具わった生命の働きです。ゆえに、成仏というのは、本質的には、外敵との闘いではなく、わが生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。つまり、内なる魔性を克服していってこそ、人間革命、境涯革命があり、幸せを築く大道が開かれるんです」
第六天の魔王は、智慧の命を奪うところから「脱命」といわれる。また、「他化自在天」ともいって、人を支配し、意のままに操ることを喜びとする生命である。その結果、人びとの生命は委縮し、閉ざされ、一人ひとりがもっている可能性の芽は摘み取られていくことになる。戦争、核開発、独裁政治、あるいは、いじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようという「他化自在天」の生命であるといってよい。
それに対して、法華経の行者の実践は、万人が仏性を備えた尊厳無比なる存在であることを教え、一人ひとりの無限の可能性を開こうとするものである。両者は、人間を不幸にする働きと幸福にする働きであり、それが鬩ぎ合い、魔軍と仏の軍との熾烈な戦いとなる。この魔性の制覇は、仏法による以外にないのだ。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋