小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

April 2021

間断なき激闘

『新・人間革命』第27巻 激闘の章 316p~

彼は、直ちに、日ごろから会員奉仕に徹してくれている職員への感謝の思いを込め、共に、記念のカメラに収まった。それから、文化会館の倉庫などを視察した。倉庫内では、自ら物品の整理にあたり、合理的な整理整頓の仕方などを職員らに語った。

徒歩で近隣を回り、立ち寄った喫茶店でも、女子職員や婦人部の方面幹部らと懇談を重ねた。伸一は集っていた最高幹部に言った。「広宣流布の大闘争といっても、特別なことなど何もないんです。日々、月々、同じことの繰り返しといってよい。日本国中、いや、世界各国、どこへ行こうが同じです。

その一つ一つに全生命を注ぎ込む思いで、真剣に取り組むんです。“もう一歩深く、心の中へ入ろう!”“もっと強く、魂を揺さぶる思いで励まそう!”と、いつも自分に言い聞かせながら、戦い挑んでいます。どんなに高い峰も、登攀するには、一歩、また一歩と、着実に力強く、足を踏み出し続けていくしかない。地道即大前進なんです」

「今や学会は、各方面や各県で堂々とした本部幹部会が開けるようになった。私は、各地方が力をつけて、東京をリードしていく時代を、早くつくりたいんです。中央のための地方ではないし、地方の上に中央があるのでもない。むしろ、地方のために中央があるんです。それを、はき違えると、各方面や各県区の発展の芽を摘んでしまうことになります。

日本の政治がそうです。地方と東京との経済格差や、地方の文化的環境整備の遅れなどは、東京中心の構造がつくられてきたからといえます」

山本伸一は訴えていった。「日蓮大聖人は、『本迹の相違は水火天地の異目なり』と仰せになっております。迹門と本門とでは、大きな違いがあることを述べられている御文です」

「大聖人の仏法を広宣流布していく私どもの立場から、この『本』と『迹』について考えるならば、次のようにとらえることができます。広宣流布を口にしても、本当の実践がなく、ただ単に、観念的な理論を振り回しているだけであれば、それは『迹』にすぎません。

それに対して、現実のうえでの実践、振る舞いこそが『本』となります。広宣流布を推進するために、実際に諸活動に参加する。功徳の実証を示し、信仰体験をもって、仏法対話を展開していくーーそうした事実上の行動こそが、最も重要な『本』なんです。つまり、いちばん大事なことは、“現実に広宣流布のために何をしたか”ということです」

貧しさに耐え、病に苦しみ、蔑まれ、諍いに疲れ、生きる気力さえ失った友を励まし、その心に、妙法という勇気と希望と蘇生の火をともし続けてきたのは誰か!社会の底辺に追いやられてきた民衆を、社会建設の主体者として立ち上がらせ、立正安国の道を切り開いてきたのは誰か!

冷笑、非難、中傷、罵詈、罵倒…の飛礫にさらされても、友のために、不幸に泣く人のために、汗を流し、足を棒にして、来る日も来る日も、広宣流布に走り抜いてきたのは誰か!

上品ぶった偽善家は眉をひそめて見て見ぬふりをし、保身の批評家が背を向けた。苦悩する人びとのなかに、同志は飛び込み、事実の上に、民衆勝利の旗を打ち立ててきたのだ。

最後に、伸一は力強く訴えた。「広宣流布を現実に推進している創価学会の活動こそ、社会の一大変革運動であります。そして、それは、地涌の菩薩の行の実践であり、日蓮大聖人の『本門』の教えの実践にほかなりません。私どもは『本門』の大道を進む誇りを胸に、勇躍、新たな前進を開始していこうではありませんか!」

“単なる決意に終わってはならない。勇気ある行動だ!果敢なる実践だ!”参加者は頬を紅潮させながら、広宣流布を誓願し、平和原点の地・広島から、新しい挑戦への第一歩を踏み出したのである。

5月21日午後岡山へ向かった。岡山県女子部の第一回合唱祭に出席するためである。伸一の体調は、決して思わしくなかった。疲労が蓄積していた。しかし、「岡山へ行こう。女子部が待ってるんだもの。励ましたいんだ」と車に乗り込むのであった。

合唱祭のフィナーレは、750人の出演者による女子部歌「青春桜」の大合唱であった。伸一が女子部長らに、「歌詞を見てください」と頼まれ、筆を加えた歌である。女子部員は、伸一の心を噛み締め、この歌とともに、新世紀へのスタートを切ったのだ。

<激闘の賞 終了>

太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

座談会の在り方

『新・人間革命』第27巻 激闘の章 298p~

伸一は、青年時代、よく自分のアパートに男子部員を招いて、激励した。「私が、多くの幹部を見てきて感じることは、個人指導を徹底してやり抜いてきた方は、退転していないということなんです。個人指導は、地味で目立たない永続的な忍耐の労作業であり、それを実践していくなかで、本当の信心の真価が図れるからです。さらに個人指導を重ねていくなかで、自分自身を見つめ、指導することができるようになるんです。だから退転しないんです。

折伏の成果は、すぐに目に見えるかたちで表れるので、周囲の同志から賞賛もされます。それによって慢心になり、信心が崩れていってしまった人もいました。したがって、折伏とともに、個人指導に全力を傾けていくことが、自分の信心を鍛え、境涯を高めていく必須条件なんです。」

5月18日、伸一の活動の舞台は、福岡から山口に移っていた。伸一は、座談会の在り方について、この山口の地から、全国に向けて、発信しようと考えていたのである。伸一は、座談会を構成する柱について言及していった。「座談会で重要なものは、なんといっても功徳の体験です。そして、信心の確信に満ち満ちた指導です。

それは、皆の信心の、また生活の、活力源となっていきます。活動の真実の成果というのは、単に弘教などの数ではなく、何人の方が、功徳の体験をもつ、どれだけ信心への確信を深めていったかなんです。幹部は、自身がたくさんの功徳の体験を積み、歓喜と躍動の生命で、激励と指導にあたっていただきたいんです。

根本は、信心の大確信であり、それが、参加者に伝わって、皆が“よーし、がんばるぞ!”と、決意できてこそ、本当の指導なんです。次に、幹部は、参加者の信心と努力の結晶である、それぞれの尊い発言を、どこまでも尊重していくべきであると、申し上げておきたい。

座談会は、仏法を現代に展開していく学会の伝統行事といえます。座談会では、御書をはじめ、仏法のさまざまな法理も学びます。そして、その法理を、それぞれが自身の生活の場で実践して、体験をもって正しさを証明してきました。さらに、その体験を座談会で語り合い、仏法への確信を再確認し合ってきました。

仏法の法理を生活の場で実験証明した結果が、生き生きと語り合われる座談会には、仏法を社会に開く実験的展開があります。ゆえに、広宣流布の前進は、座談会に始まり、座談会に終わることを、深く銘記していただきたいのであります」

伸一は、要約して信心の基本姿勢について語った。「南無妙法蓮華経とは、宇宙の根本法則であり、それを曼荼羅として顕したのが、御本尊であります。その御本尊に対しては、何があっても決して疑うこと無く、純粋な信心を貫いていくことが肝要なんです。

私たちには、過去世からの様々な宿業があります。悪業ももっています。したがって、信心を始めたからといって、すぐに宿命の転換ができるわけではありません。一生成仏といっても、それなりの時間が必要です。

皆さんも、信心をして、何か大変な事態に遭遇したならば、こう自覚していくことです。“いよいよ悪業が出始めたな。よし、変毒為薬していこう。これを乗り越えれば、大きく境涯を開いていけるぞ!”どうか、苦難に遭うごとに確信を強め、勇んで仏道修行に励んでいってください」彼は、全国の幹部たちに、本当の座談会の姿を学んでほしいとの思いから、自ら手本を示したのである。

5月19日、山口文化会館を発ち、広島文化会館に到着した。

太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

個人指導の基本姿勢

『新・人間革命』第27巻 激闘の章 289p~

伸一は、創価大学出身の青年部員と会い、近況を尋ねた。伸一は、言った。「今は、ともかく職場で実証を示し、なくてはならない人になることが大事です。同時に、創価学会の組織こそ、自分が根を張る大地であると、心を定めることです。“学会活動したい”と思っても、仕事が多忙なために、十分に動けない時期もあるでしょう。しかし、“忙しいから仕方がない”と、心の中で、信心、学会活動を切り捨ててはならない。まして、それほど忙しくもないのに、活動に出ようとしないのは、わがままであり、敗北です。

どこまでも、学会と共に生き、広宣流布をわが生涯の目的と定め、弘教し抜いていくというのが、学会員としての生き方の原点です。仕事が忙しく、会合に出られない時こそ、“必ず、活動に参加できるようになろう”と、心に決めるんです。その一念が成長につながっていくし、やがて事態を変えていく力になっていきます。

そして、一生懸命に、御書をはじめ、『聖教新聞』などを読み、学会活動できるように真剣に唱題するんです。また、少しでも時間を見つけては、同志と会い、広宣流布への決意を新たにしていくことが大切です」孤立は、勇気、活力を奪っていく。同志の連帯が、生命の燃焼をもたらすのだ。

「もしも、信仰について、とやかく言われることがあっても、『信教の自由は憲法で保障されているではありませんか。激流の社会で生き抜いていくには、確かな哲学が必要です。仏法というのは、その哲学の根本なんです』と、胸を張っていくんです。

草創期の学会員の多くが、信心をしているということから、職場で意地悪をされたり、仲間外れにされたりしてきた。でも、そのなかで堂々と信心を貫き、職場で勝利の実証を積み重ね、信頼と尊敬を勝ち取ってきたんです。諸君も、そうなってください」

就職先が見つからないというメンバーには、「仕事は、生きるために不可欠なものだから、必ずしも、自分が希望する職場ではなくとも、我慢することが必要です。“広宣流布の使命を果たしていくために仕事を与えてください。道を開いてください”と、しっかり祈っていくんです。広宣流布につながる祈りは、仏・菩薩の祈りであり、その真剣な唱題が大宇宙をも動かしていきます」

翌日、伸一は、福岡に向かった。彼はこれまで、全会員が誤りなく幸福の大道を歩んでいくためにも、組織を強化して広宣流布を伸展させていくためにも、個人指導の重要性を強調してきた。そして、全幹部が個人指導に励もうとする機運が、学会内にみなぎり始めていたのである。

伸一は、個人指導の基本姿勢について述べていった。「第一に、決して、感情的になってはならないということであります。指導する側が感情的になれば、相手は、心を開こうとはしなくなります。そうなれば、指導も、激励も成り立ちません」

「第二に、個人指導は、どこまでも新人の確信が根本であるということです。したがって、個人指導を行う際には、しっかり唱題し、強い生命力を湧現させていくことが大事です。また、自分の体験や、多くの同志の体験を語っていくことも必要です。

第三に、相談を受けた内容を他言しては、絶対にならないということを銘記していただきたい。特に、宗教者には守秘義務があります。万が一にも、相談を受けた話が漏れるようなことがあれば、それは、学会全体への不信となり、仏法のうえから見ても、結果的に、広宣流布を破壊する重罪となります。

第四に、粘り強く、包容力豊かに、指導の任に徹していくべきであります。すぐに発心することは、むしろ、まれです。折を見て、また、お伺いしては、根気強く、励まし続けていく。個人指導に求められるのは、持続力なんです。

第五に、抜苦与楽の精神こそ、個人指導の大目的であることを忘れないでください。『大丈夫ですよ。長い人生なんですから、焦ることはありません。祈りは必ず通じますよ』個人指導には、人を大事にする心、相手への深い思いやりが不可欠である。その心が、さまざまな気遣いとなり、配慮と励ましの言葉となって表れるのである。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

広宣流布即地域貢献

『新・人間革命』第27巻 激闘の章 272p~

伸一は、利安の話に頷いた。「ともかく、何があったとしても、決して臆することなく、勇気をもって仏法を語り抜いていくことが、地域広布の根本です」「奄美の同志は、学会として打ち出した運動は、中途半端に終わらせず、徹底して行ってきました」

「鋭い視点です。他には、どんなことが奄美の発展の力になってきたと思いますか」利安は、言葉を継いだ。「学会員一人ひとりが、大きく地域に貢献してきたことではないでしょうか。地域のために何もしなければ、口でどんなに立派なことを言っても、誰も信用してくれません」

「学会員は、先生のご指導の通りに、積極的に地域の人々のために身を粉にして働いてきました。ほとんどの方が、集落の区長や、農業委員、民生委員、PTA、消防団、老人クラブ、婦人会の役員として活躍しております」

伸一は言った「『仏法即社会』です。これからは、「広宣流布即地域貢献」と考えるべきでしょう。学会員が、本腰を入れて地域貢献に尽くしていくならば、地域の皆さんにとっては大きな力になるでしょう。いつも学会員だけで集まって、何かしているというのでは、社会での信頼を勝ち取ることはできません」

伸一は、利安に県総会などの予定を聞く。「いつでも同じことだけをやって、良しとしていたのでは、その組織は、時代遅れの白黒テレビのようなものです。希望が膨らむ大きな行事を考えていけば、皆が楽しく、いかんなく力を発揮し、組織の総合力も強まっていくんです」

「行うとなれば、多彩な人材必要になる。それを機に、人材を掘り起こし、一歩踏み出した活動を展開していくことができる。これが大事なんです。皆が、唱題にも真剣に励み、新たな挑戦を開始することができる。

学会の活動というのは、一人ひとりの信心の活性化につながるものであるし、また、そうさせていかなければなりません。各人が、自身の成長と境涯革命、また、功徳を実感していくための催しなんです」

伸一が第三代会長に就任して18年で、日本の広宣流布の盤石な基盤が整い、学会は世界へと飛翔した。また、人間主義を基調とした平和・文化運動の潮流も大きく広がった。それを可能にしたのは、彼の柔軟にして迅速な決断と、電光石火の行動であったといえよう。

思えば、伸一が出席して鹿児島会館落成の式典が開かれたのは、1963年(昭和38年)11月23日のことであった。この日の朝、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が銃弾に倒れた。この時、伸一は、人類の平和実現への誓いを、一段と深く心に刻んだのである。

あいさつに立った伸一は、常識豊かな行動が大切であることを訴えた「周囲の人から見て、『あの人は、本当に日々楽しそうに生きている』『あの人のところへ行くと、なんとなく信心をしたくなってしまう』と言われる人生を歩むことこそ、仏法が真実であることの証明なんです」

その日から14年半の歳月が流れていた。
彼が向かったのは、鹿児島県婦人部長の宮中直子の家であった。

宮中栄蔵の妻・直子は、何不自由ない家庭に育ち、結婚後も暮らしは豊であった。直子は、信心によって事業の倒産の危機を乗り越えた自分の両親から学会の話を聞かされ、親孝行のつもりで入会した。しかし、夫は信心には大反対だった。

彼女は、信心を始めたものの、御本尊を安置することもできなかったが、夫が出勤したあと、御本尊を出して、勤行し、学会活動にも参加した。学会活動が楽しくて仕方なかった。夫は、厄介な嫁さんをもらったと思った。

一人娘でわがまま放題に育ち、家事は、ほとんどせず、買い物好きでデパート通いをし、今度は信心を始めた。直子は 夫が「離婚するか、信心を辞めさせるしかない」と真剣に思っていることを知り、自分が主婦として、妻としていかに失格であったかに気づく。

“夫が信心をしないのは、私が悪かったからだ”直子は、自身の人間革命を御本尊に誓い、真剣に唱題し始めた。直子は、根は純粋であった。学会の指導を実践し、良き主婦、良き妻、良き母をめざした。その目覚ましい変化に、夫の栄蔵も目を見張った。そして、彼は信心への態度を改め、直子の入会から一年後に、信心を始めたのである。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋

十軍の己心の魔との戦い

『新・人間革命』第27巻 激闘の章 262p~

魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍は、種々の煩悩を十種に分類したもので、伸一は、その一つ一つについて、実践に即して語っていった。「第一の『欲』とは、自分の欲望に振り回されて、信心が破られていくことです。

第二の「憂愁」は、心配や悲しみに心が奪われ、信心に励めない状態です。第三の『飢渇』は、飢えと渇きで、何もできないことです。空腹で体を動かす気力もない。第四の『渇愛』は、頭でわかっていても、抑えることのできない自分の執着に突き動かされていってしまう。第五の『睡眠』は、睡魔のことです。第六の『怖畏』は、信心をすることによって、周囲の人から奇異な目で見られたり、仲間外れにされるかもしれない。迫害されるかもしれないことを恐れ、信心を後退させてしまうこと。結局臆病なんです。信心とは勇気なんです」

「第七の『疑悔』は、せっかく信心をすることができたのに、御本尊を疑い、学会を疑い、悔やむ。第八の『瞋恚』は、怒りの心です。学会の先輩が、本人のために誤りを指摘すると、腹を立て、恨む。悪事に対して怒りを感じることは必要です。いい加減な先輩に怒りを感じるのは、当然ですが、だから学会活動をやらない。会合にも出ないということになれば、『瞋恚』にという魔に破られた姿なんです。

自分が、人間革命を、一生成仏を目指して仏道修行していくことと、先輩幹部がだらしないこととは、本来、別の問題です。それを一緒にして、自分の信心の後退を正当化しようとする心こそ、克服すべき対象なんです。第九の『利養虚称』は、名聞名利を追い求め、信心を軽んじ、成仏への道を踏み外してしまう生き方です。

学会の人事でも、自分が軽視されたように思いこんで、新しく幹部に登用された人を嫉妬し、学会活動への意欲をなくしてしまう人がいます。それは『虚称』の心によるものです。その心を打ち破っていく戦いが信心なんです。

『自高蔑人』これは、自らおごり高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。誰の言うことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。最後は惨めです」

熱のこもった講義であった。一人として魔に敗れ、退転していく人など出すまいとする、伸一の魂の叫びであった。研修は、まだ終わらなかった。「富木殿御返事」の「『但生涯本より思い切て候今に翻返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善智識なり』とあります。この御文を生命に刻んでいただきたい。これを心肝に染めていくならば、何があろうが、信心を貫き通していくことができる」

「諸の悪人による迫害に遭うことによって、法華経の行者であることが立証できるからです。風があって風車が回るように、迫害あってこそ、悪業を転換し、一生成仏することができる。魔が競い起これば起こるほど、強情に信心を燃え上がらせていくならば、悪知識も、すべて善智識へと変えていくことができる。むしろ、それが、真実の信仰の姿です。

善智識にするのも、悪知識にするのも、最終的には本人の信心なんです。どんな逆境に遭遇しても、それが、そのまま魔になるわけではない。どう受けとめるかで、一念次第で、魔にもなれば、信心向上の力にもなっていくんです。

どうか、第六天の魔王が率いる十軍という己心の魔に打ち勝ってください。この魔を打ち破る力は唱題です。生命の根本的な迷い、すなわち無明を断ち切ることができるのは、南無妙法蓮華経の利剣です。どこまでも、唱題第一に戦おうではありませんか!」伸一は、集った人たちの魂を揺さぶる思いで、語り抜いた。叫び抜いた。訴え抜いた。全生命を振り絞っての指導であった。

鹿児島の県長である利安真吉と共に、鹿児島会館を訪れた。車中で鹿児島創価学会の現況などについて詳しく訪ねていった。利安の話では、奄美の広宣流布が大きく進展し、広布模範の地域になりつつあるということであった。

「奄美の皆さんは、あれだけの弾圧がありながらも、一歩も引かずに、折伏をし抜いてまいりました。弾圧をした人の多くが行き詰まりを感じたようです。まさに現証を通して仏法の力が明らかになり、皆、学会員の言葉に耳を傾けるようになりました。これが奄美広布伸展の第一の要因であると思います」伸一は、利安の話に頷いた。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋
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