『新・人間革命』第25巻 人材城の章 368p~
牧口は、すべての子どもに愛情を注いだが、貧しい子ども、悩める子どもには、特に心を砕いた。また、権力に迎合し、身の安泰を得るような生き方を嫌った。
大正小で、地元の有力者が、自分の子どもを特別扱いするように、頼みに来た。牧口が断ると、その有力者は、東京市政を牛耳る大物政治家に、牧口の排斥を要請する。大物政治家は、牧口を左遷する。牧口の転任の撤回を求め、教員が辞表を提出したり、保護者が同盟休校に踏み切るが辞令は撤回されず、西町小の校長に移動となる。
この赴任に際し、大物政治家のところへあいさつに行かなかったことで、大物政治家は、ますます怒り、赴任わずか3か月で、三笠尋常小学校へ転任となる。ここは、貧困家庭の子どもたちのために設けられた「特殊小学校」であった。教師の間では「辞めさせることが狙いだ」と囁かれ、同校は"首切り場所"などと言われていたのだ。
この転任に対しても、留任運動が起こったが、牧口は転任となり、代用教員となっていた戸田は、人生の師と定めていた牧口の後を追い三笠小に移った。
師匠が最大の窮地に立った時に、弟子が何をするのかーーそれこそが、本当の弟子か、口先だけの、あわよくば師を利用しようとする弟子かを見極める、試金石といえよう。
牧口常三郎は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。当時の三笠小は、15学級800人の児童が3部に分かれて教授を受けていて、4年以下が午前と午後、5、6年は 全部夜間ということになっていて、授業は21時乃至24時であった。
授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮らしたのは、まさに24時間、児童のために尽そうと覚悟していたからだ。
腹をすかせ、弁当も持たずに登校してくる子供のために、牧口は豆餅などを用意した。工場から自宅に帰れずに学校へ来る夜学生への、食事の給与も考えていた。
牧口の教育目的は、明快である。「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」ーー教育思想家としての彼の眼差しは、早くから、子どもの幸福の実現という一点を見すえていた。
彼は、教育現場にあって、児童の就学率の上昇、教育環境の整備、学力の向上など、多くの実績を残した。また、半日学校制度や小学校長登用試験制度などを提唱し、教育制度の改革にも力を尽くしていった。
子どもの幸福を実現するための教育をめざした牧口にとって、「幸福とは何か」ということは、最大のテーマであった。彼は、それは「価値の獲得」にあるとした。では、価値とは何かーー思索は掘り下げられていく。
牧口は、新カント派の哲学者が確立した「真・善・美」という価値の分類に対して、「美・利・善」という尺度を示した。「真理」の探究は、手段的なものであり、それ自体は目的とはなり得ないとして、「真」に代わって「利」すなわち「利益」を加えた。
生活苦に喘ぐ庶民の子らに接してきた牧口は、自身の経験のうえから、「利」の価値の大切さを痛感していたのであろう。彼は、「美醜・利害・善悪」を、価値判定の尺度としたのだ。画期的な、新たな価値論の提唱である。
日蓮仏法と出会った牧口は、その教えを価値論の画竜点睛とした。彼は、社会的価値である「善」には、人びとに金品を施すことなど、さまざまるが、現世限りの相対的な「善」ではなく、「大善」に生きることを訴えた。
牧口のいう「大善」とは、三世永遠にわたる生命の因果の法則に基づく生き方である。つまり、法華経の精髄たる日蓮仏法を奉持し、その教えを実践し、弘めゆくなかに「大善」があり、そこに自他共の真実の幸福があるというのが、牧口の結論であった。
「吾等各個の生活力は悉く大宇宙に具備している大生活力の示顕であり、従ってその生活力発動の機関として出現している宇宙の神羅万象ーーこれによって生活する吾吾人類もーーに具わる生活力の大本たる大法が即ち妙法として一切の生活法を摂する根源であり本体であらせられる」
そして、その妙法を根本とした生活法を、「大善生活法」と名づけた。この大善生活法を人びとに伝え、幸福の実験証明を行うことに、彼は生涯を捧げたのである。いわば、広宣流布という菩薩の行に生き抜くなかに、自己の幸福が、そして、社会の平和と繁栄があると、牧口は訴えたのである。
子どもの幸福を願う彼の一途な求道は、広宣流布という極善の峰へ到達したのだ。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
牧口は、すべての子どもに愛情を注いだが、貧しい子ども、悩める子どもには、特に心を砕いた。また、権力に迎合し、身の安泰を得るような生き方を嫌った。
大正小で、地元の有力者が、自分の子どもを特別扱いするように、頼みに来た。牧口が断ると、その有力者は、東京市政を牛耳る大物政治家に、牧口の排斥を要請する。大物政治家は、牧口を左遷する。牧口の転任の撤回を求め、教員が辞表を提出したり、保護者が同盟休校に踏み切るが辞令は撤回されず、西町小の校長に移動となる。
この赴任に際し、大物政治家のところへあいさつに行かなかったことで、大物政治家は、ますます怒り、赴任わずか3か月で、三笠尋常小学校へ転任となる。ここは、貧困家庭の子どもたちのために設けられた「特殊小学校」であった。教師の間では「辞めさせることが狙いだ」と囁かれ、同校は"首切り場所"などと言われていたのだ。
この転任に対しても、留任運動が起こったが、牧口は転任となり、代用教員となっていた戸田は、人生の師と定めていた牧口の後を追い三笠小に移った。
師匠が最大の窮地に立った時に、弟子が何をするのかーーそれこそが、本当の弟子か、口先だけの、あわよくば師を利用しようとする弟子かを見極める、試金石といえよう。
牧口常三郎は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。当時の三笠小は、15学級800人の児童が3部に分かれて教授を受けていて、4年以下が午前と午後、5、6年は 全部夜間ということになっていて、授業は21時乃至24時であった。
授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮らしたのは、まさに24時間、児童のために尽そうと覚悟していたからだ。
腹をすかせ、弁当も持たずに登校してくる子供のために、牧口は豆餅などを用意した。工場から自宅に帰れずに学校へ来る夜学生への、食事の給与も考えていた。
牧口の教育目的は、明快である。「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」ーー教育思想家としての彼の眼差しは、早くから、子どもの幸福の実現という一点を見すえていた。
彼は、教育現場にあって、児童の就学率の上昇、教育環境の整備、学力の向上など、多くの実績を残した。また、半日学校制度や小学校長登用試験制度などを提唱し、教育制度の改革にも力を尽くしていった。
子どもの幸福を実現するための教育をめざした牧口にとって、「幸福とは何か」ということは、最大のテーマであった。彼は、それは「価値の獲得」にあるとした。では、価値とは何かーー思索は掘り下げられていく。
牧口は、新カント派の哲学者が確立した「真・善・美」という価値の分類に対して、「美・利・善」という尺度を示した。「真理」の探究は、手段的なものであり、それ自体は目的とはなり得ないとして、「真」に代わって「利」すなわち「利益」を加えた。
生活苦に喘ぐ庶民の子らに接してきた牧口は、自身の経験のうえから、「利」の価値の大切さを痛感していたのであろう。彼は、「美醜・利害・善悪」を、価値判定の尺度としたのだ。画期的な、新たな価値論の提唱である。
日蓮仏法と出会った牧口は、その教えを価値論の画竜点睛とした。彼は、社会的価値である「善」には、人びとに金品を施すことなど、さまざまるが、現世限りの相対的な「善」ではなく、「大善」に生きることを訴えた。
牧口のいう「大善」とは、三世永遠にわたる生命の因果の法則に基づく生き方である。つまり、法華経の精髄たる日蓮仏法を奉持し、その教えを実践し、弘めゆくなかに「大善」があり、そこに自他共の真実の幸福があるというのが、牧口の結論であった。
「吾等各個の生活力は悉く大宇宙に具備している大生活力の示顕であり、従ってその生活力発動の機関として出現している宇宙の神羅万象ーーこれによって生活する吾吾人類もーーに具わる生活力の大本たる大法が即ち妙法として一切の生活法を摂する根源であり本体であらせられる」
そして、その妙法を根本とした生活法を、「大善生活法」と名づけた。この大善生活法を人びとに伝え、幸福の実験証明を行うことに、彼は生涯を捧げたのである。いわば、広宣流布という菩薩の行に生き抜くなかに、自己の幸福が、そして、社会の平和と繁栄があると、牧口は訴えたのである。
子どもの幸福を願う彼の一途な求道は、広宣流布という極善の峰へ到達したのだ。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋