小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

February 2021

牧口常三郎 大善生活法

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 368p~

牧口は、すべての子どもに愛情を注いだが、貧しい子ども、悩める子どもには、特に心を砕いた。また、権力に迎合し、身の安泰を得るような生き方を嫌った。

大正小で、地元の有力者が、自分の子どもを特別扱いするように、頼みに来た。牧口が断ると、その有力者は、東京市政を牛耳る大物政治家に、牧口の排斥を要請する。大物政治家は、牧口を左遷する。牧口の転任の撤回を求め、教員が辞表を提出したり、保護者が同盟休校に踏み切るが辞令は撤回されず、西町小の校長に移動となる。

この赴任に際し、大物政治家のところへあいさつに行かなかったことで、大物政治家は、ますます怒り、赴任わずか3か月で、三笠尋常小学校へ転任となる。ここは、貧困家庭の子どもたちのために設けられた「特殊小学校」であった。教師の間では「辞めさせることが狙いだ」と囁かれ、同校は"首切り場所"などと言われていたのだ。

この転任に対しても、留任運動が起こったが、牧口は転任となり、代用教員となっていた戸田は、人生の師と定めていた牧口の後を追い三笠小に移った。

師匠が最大の窮地に立った時に、弟子が何をするのかーーそれこそが、本当の弟子か、口先だけの、あわよくば師を利用しようとする弟子かを見極める、試金石といえよう。

牧口常三郎は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。当時の三笠小は、15学級800人の児童が3部に分かれて教授を受けていて、4年以下が午前と午後、5、6年は 全部夜間ということになっていて、授業は21時乃至24時であった。

授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮らしたのは、まさに24時間、児童のために尽そうと覚悟していたからだ。

腹をすかせ、弁当も持たずに登校してくる子供のために、牧口は豆餅などを用意した。工場から自宅に帰れずに学校へ来る夜学生への、食事の給与も考えていた。

牧口の教育目的は、明快である。「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」ーー教育思想家としての彼の眼差しは、早くから、子どもの幸福の実現という一点を見すえていた。


彼は、教育現場にあって、児童の就学率の上昇、教育環境の整備、学力の向上など、多くの実績を残した。また、半日学校制度や小学校長登用試験制度などを提唱し、教育制度の改革にも力を尽くしていった。

子どもの幸福を実現するための教育をめざした牧口にとって、「幸福とは何か」ということは、最大のテーマであった。彼は、それは「価値の獲得」にあるとした。では、価値とは何かーー思索は掘り下げられていく。

牧口は、新カント派の哲学者が確立した「真・善・美」という価値の分類に対して、「美・利・善」という尺度を示した。「真理」の探究は、手段的なものであり、それ自体は目的とはなり得ないとして、「真」に代わって「利」すなわち「利益」を加えた。

生活苦に喘ぐ庶民の子らに接してきた牧口は、自身の経験のうえから、「利」の価値の大切さを痛感していたのであろう。彼は、「美醜・利害・善悪」を、価値判定の尺度としたのだ。画期的な、新たな価値論の提唱である。

日蓮仏法と出会った牧口は、その教えを価値論の画竜点睛とした。彼は、社会的価値である「善」には、人びとに金品を施すことなど、さまざまるが、現世限りの相対的な「善」ではなく、「大善」に生きることを訴えた。

牧口のいう「大善」とは、三世永遠にわたる生命の因果の法則に基づく生き方である。つまり、法華経の精髄たる日蓮仏法を奉持し、その教えを実践し、弘めゆくなかに「大善」があり、そこに自他共の真実の幸福があるというのが、牧口の結論であった。

「吾等各個の生活力は悉く大宇宙に具備している大生活力の示顕であり、従ってその生活力発動の機関として出現している宇宙の神羅万象ーーこれによって生活する吾吾人類もーーに具わる生活力の大本たる大法が即ち妙法として一切の生活法を摂する根源であり本体であらせられる」

そして、その妙法を根本とした生活法を、「大善生活法」と名づけた。この大善生活法を人びとに伝え、幸福の実験証明を行うことに、彼は生涯を捧げたのである。いわば、広宣流布という菩薩の行に生き抜くなかに、自己の幸福が、そして、社会の平和と繁栄があると、牧口は訴えたのである。

子どもの幸福を願う彼の一途な求道は、広宣流布という極善の峰へ到達したのだ。


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

教育者 牧口常三郎

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 356p~

五木村でも、死者・行方不明者11人、流失・全壊家屋144戸、半壊家屋45戸という甚大な被害に見舞われたのである。学会では、直ちに、派遣隊を結成し、被災地入りした。川は随所で氾濫し、家が流され、山津波にのみ込まれた家も続出した。道が土砂で埋もれ、孤立してしまった集落もある。

五木の同志は、派遣隊への伸一の伝言を聞くと涙が止まらなかった。そして、被災者である彼らの多くが、派遣隊と共に、救援活動に奔走したのだ。

五木村は旧習が深く、土俗信仰が盛んな地域であった。学会への無認識と偏見から、反発が起こった。ある集落では、周囲の反対のうえに、会員間の怨嫉問題もあり、十数世帯ほどいた学会員が、一時は、3世帯にまでなってしまったという歴史があった。困難とは、発展のための階段である。

そのなかで起こった集中豪雨であった。学会の派遣隊は、川に架けられたロープを使って、濁流を越え、孤立した集落に救援物資を運んだ。派遣隊が背負った物資の荷物には、同志のための「聖教新聞」もくくりつけられていた。

五木村では、同志の奮闘が、大きく学会理解の輪を広げる結果となった。「学会の人が、自身も被災しながら、派遣隊と一緒に救援活動する姿に、勇気を得た」と語る人もいた。非常事態は、人間のさまざまな虚飾を取り除く、その時、信仰によって培われた人間性の地肌が、輝きを放つのである。

治水のため、ダム建設の計画が具体化していったのである。幾人ものメンバーから村の様子について綴られた手紙が伸一に届く。伸一は、長男が生まれたころ「五木の子守歌」を聞いた時、その哀切な調べが胸を突いた。守子は、7歳~15歳ぐらいまでの少女で、多くは、他郷から守子に出された貧しい家の子であり、学校も通わせてもらえなかったいたいけな娘の姿が、目に浮かんだ。

歌には自分の境遇への諦めが漂っているように感じられたが、後年、70ほどの子守歌を収めた一冊の本を読んで、守子たちの強かな感情の表出を見た思いがした。そこには、自分の置かれた境遇をただ嘆きつつ、耐え忍ぶだけの、か弱い乙女の姿とは、別の顔が浮かび上がる。不条理への抗議の心が、あふれ出ていた。人間には、誰もが力を秘め、そして、誰にでも、幸せになる権利があるのだ。

守子たちは、路上などに集まって子守をした。彼女たちの強かさを支えたものの一つは、守子同士の"姉妹的結合"であったことは間違いない。孤独感は、心を弱くするが、人との強い絆を自覚するならば、心は鉄の強さを持つ。

大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態を、教育者としてつぶさに見て、改革に立ち上がったのが、初代会長の牧口常三郎であった。牧口自身も、その幼少期は不遇であったといってよい。

牧口は、1871年(明治4年)の6月6日新潟県柏崎市荒浜に生まれた。渡辺長松・イネの長男であり、長七と名づけられた。父は、北海道へ出稼ぎに行ったまま行方不明となり、母は再婚し、長七は、父長松の妹の嫁ぎ先牧口善太夫の養子となった。

13歳の時、北海道へ渡り、寸暇を見つけては読書と勉学に励み、推薦され、北海道尋常師範学校(北海道教育大学)に入学する。卒業すると同校付属小学校の教員としてスタートを切る。21歳の時、「長七」の名を「常三郎」と改めた。

彼は、地理学の研究を重ね、書き溜めた原稿を携え東京に渡った。1903年10月『人生地理学』を出版する。風土、地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探求した書であった。

出版直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理学』を翻訳して、発刊している。

"学びたくとも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい"というのが、教育者・牧口の、一貫した姿勢であった。

その後、牧口は、東盛尋常小学校をはじめ、大正、西町、三笠、白金、麻布新堀の尋常小学校で、校長を歴任することになる。


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

玉名の兄弟の宿命転換ドラマ

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 332p~

伸一は、11月16日を「三角の日」と決めて頑張っているとの話から、学会の記念日の意義について、皆に語っていった。「大事なことは、その淵源に立ち返り、歴史と精神を子々孫々にまで伝え、毎年、新しい決意で出発していくことです。

学会の儀式は、広宣流布への決意を確認し合い、新しい出発を誓い合う、信心、精神の触発の場です。そのためにには、各記念日の淵源を、しっかり学ぶことも大事でしょう。これまでの歴史も、記念日も、すべて現在の力へと変えていってこそ、意味をもつんです。」

県北の玉名の本部長原谷永太は、父親が千五百万円を越える借金を残して夜逃げしたが、信心を根本に、工務店を営む二人の弟と協力して、全額、返済することができたと伸一に報告した。

信心に反対するだけでなく、仕事でも理不尽で身勝手な要求をしてきた父親に対して、怒りがこみ上げ、家族を裏切ったと許せない気持ちだった。

先輩幹部が「どんな父親であれ、親父さんがいたからこそ、君たちはこの世に生を受け、御本尊に巡り合うことができたんじゃないか。その恩を感じているのか!今、親父さんがどれだけ辛い思いをしているか、考えたことがあるのか。

この試練を、兄弟三人で乗り越えることができれば、君たちは、信心の面でも、人間的にも大成長できるよ」と指導を受け、父親によって信心の確信をつかむことができたので、今は、父親に心から感謝していると話した。

彼らは、「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うげからず」との御聖訓を思い起こした。"学会に傷などをつけてたまるか!"と思った。

"広宣流布に生きよう!学会に傷をつけまい"という彼らの使命感、責任感が、勇気を奮い起こさせた。
人間は窮地に陥った時、根底にいかなる一念があるかによって、弱くもなれば、強くもなる。例えば、自分の身だけを守ろうとする心は、もろく弱いが、必死になって我が子を守ろうとする母の心は強い。利他の念が、人を強くするのである。

広宣流布は、最高善、最大利他の実践である。その広布のために、"絶対に学会に傷をつけまい"その一念こそ、人間の力を最大に開花させる原動力といえよう。


父に代わって借金を返済するために、ひたむきに仕事に取り組む兄弟に、周囲の人々は、関心の目を向け始めた。いつの間にか、彼らが、それぞれ営んでいた工務店への仕事の注文は、いずれも父親の失踪以前の三倍にもなっていた。当初、返済は10年の計画であったが、なんと、わずか、3年で完済できたのである。

失踪していた父は、中風で寝たきりになっていた。兄弟は父を連れて帰り、治療の末、回復し、父親も信心に励むようになったのである。長い、長い、試練の坂であった。しかし、原谷兄弟は見事に、"人生の田原坂"を越え、勝利したのだ。

県長の柳節夫が『五木の子守歌』で有名な人吉本部が伸一の激励をもらい頑張っているとの報告をした。五木村は、川辺川ダム建設計画によって、村の世帯の半数近くが、水中に没してしまうことになり、その村の学会員の活躍を紹介した聖教新聞の記事を読んだ伸一が、励ましの言葉と記念品を贈ったのである。

ダム建設や炭鉱の閉山などで、故郷や住み慣れた地を後にする人たちは少なくない。その地域を大切にし、深い愛着を感じていればいるほど、離れていかねばならない辛さ、苦しさは、想像を絶するものがあろう。伸一は、そうした同志の胸中を思うと、励まさずにはいられなかったのだ。

日蓮大聖人は、「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし」と仰せのように、どこに行こうが、その場所が、最高の幸福を築く場所であり、広宣流布の使命の舞台となるのだ。

彼らが、伸一の五木へ思いを、最初に痛感したのは、1963年(昭和38年)8月、熊本県中南部を襲った集中豪雨の時であった。

太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

人材の熊本

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 321p~

女子部の若いリーダーには、年長の部員さんに信頼されるように、適切なアドバイスができない場合には、先輩幹部や、経験豊かな婦人部の幹部に会わせ、相談にのってもらうことが大事だと話す。

「皆さんに、新しい時代の、新しい幹部像をつくっていってほしいんです。これまで、幹部というと、"号令をかける人"との印象があったかもしれない。しかし、これからは、そうではありません。"自ら率先垂範で、何をすべきかを示していく人"が、新時代のリーダーです。

自分が真っ先に行動を起こして、『こうやって実践しています』と語っていくことが重要なんです。失敗も語ってください。結果は実っていなくとも、挑戦の苦闘と喜びを、ありのままに語り、頑張り続けていくという決意をぶつけていくんです。

そうすれば皆が、"それなら、私にだってできる。私も挑戦しよう"という思いをいだいていきます。一生懸命で健気な姿勢に、人は、世代を超えて共感するんです。ありのままの自分、等身大の自分でいいんです」伸一は、一人ひとりを知り、未来の大成のために、発心の種子を植えておきたかったのである。

「広宣流布の主体者になることこそが、福運を増す要諦なのであります。ゆえに、"守られる側から、同志を守る側になろう""受働から能動の姿勢に立とう"とするなかに、大聖人につながる信心の確立があることを、私は訴えておきたいのであります」

「人材は自然に育つものではありません。人材を育成しようとする先輩幹部の、誠意あふれた行動によってのみ、後輩たちの人材たろうとする使命の自覚がなされていきます。人間を育むのは、どこまでも人間です。"ここまで自分を信頼し、期待してくれているのか!""自分のことを思い、尽くしてくれるのか!"という、熱い真心に触れて、使命に生きようという意志力が燃え上がるんです」

「先輩幹部は、"どうすれば人材の活躍の場をつくれるのか"を常に、一生懸命に悩み考えていくことが大事なんです。どうか、熊本県の皆さんは、今後は『人材の熊本』を合言葉として、幹部自らが"人材になろう!人材をつくろう!"と、強い祈りと持続の実践をもって、多くの逸材を育んでもらいたいのであります」

伸一は、さらに、「広宣流布は、長途の旅ゆえに、健康に留意し、リズム正しい信心即生活の日々であれ」と訴えた。「生活のなかに運動を上手に取り入れて、体を鍛えていくことも必要です。また、無理をしても、信心しているんだから…という安易な考えで、非常識な行動をし、生活のリズムを崩し、体を壊すようなことがあっては、絶対になりません」

初めて熊本県を訪問した折のことを話す伸一。「戸田先生は、『熊本に行きたい』と言われていたが、実現できずに、4月に亡くなられた。だから、"戸田先生に代わって、私が熊本へ行こう!そして、皆が、心から歓喜、感動し、決意を新たにする支部結成大会にしよう"と、心に決めていたんです。

師を凌ぐ戦いができてこそ、本当の弟子なんです。師が指揮を執っていた以上に、広宣流布を前進させてこそ、令法久住なんです。その勝利のなかに、師弟不二があるんです」

それは、恩師の逝去から、7か月後のことであった。当時、学会の一切の責任は、事実上、30歳の伸一の双肩にかかっていたのだ。

益城本部長の坂上良江は、熊本県の三角に第一歩をしるされた日を「三角の日」と決め、当時、三角駅にあった長椅子を地元の佐々井ユリが譲り受け宝としていると話す。

「私の基準は、御書であり、それを実際に身で読まれ、実践されてきた戸田先生です。"こう
いう時、先生ならどうされるか""自分の今日の行動は、先生のご精神にかなったものであるのか""先生が今の自分を見たら、喜ばれるのか、悲しまれるか"そして、"必ず、先生にお喜びいただける勝利の戦いをしよう"と、自分を鼓舞してきたんです。それが、私の勇気の源泉です。常勝の原動力なんです」

師弟不二とは、師の心をわが心として生きることであり、いつ、いかなる時も、己心に厳として師匠がいることから始まる。師匠を"自分の心の外にいる存在"ととらえれば、師の振る舞いも、指導も、自身の内面的な規範とはならない。

そして、師匠が自分をどう見ているかという、師の"目"や"評価"が行動の基準となってしまう。そうなると、"師匠が厳しく言うから頑張るが、折あらば手を抜こう"という要領主義に出していくことになりかねない。そこには、自己の信心の深化もなければ、人間革命もない。



太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋

熊本での人材育成

『新・人間革命』第25巻 人材城の章 307p~
<人材城の章 開始> 

中国の名宰相・諸葛孔明は、「国を治める道は、力を尽くし、優秀な人材を見出し、登用することにある」との言葉を残している。創価学会の未来もまた、一に、どれだけ多彩な、たくさんの人材が育成できるかにかかっている。

1977年(昭和52年)熊本文化会館に到着した。石碑の除幕を行い、県青年部長勝山平八郎に碑文を読むよう指示。彼は「聳ゆ」などの読み方でつまづく。「青年は、未来のために、どんなに忙しくても、日々、猛勉強するんだよ」と教養を深く身につけ、一流の人材に育ってほしいと、あえて、厳しく指導したのだ。

「学会の人材の要件とは何かーー。根本的には、生涯、広宣流布のために生き抜く人です。学会と共に、師弟不二の大道を歩み続けていこうと決意し、それを実践している人です。しかし、人間の心のなかを見ることはできない。自分が偉くなって権勢を得ようという、野心である場合もあります。最悪なケースは、中心幹部が、それを見抜けずに、そういう人たちにおだてられ、乗せられてしまうことです。ゆえに、リーダーは、一人ひとりの奥底の一念を見極めていく眼をもつことです。

奥底の一念を見極めていくには、自身の生命に濁りがあってはならない。わが生命の鏡が、曇っていたり、歪んでいたりすれば、一人ひとりを正しく見極めていくことはできないからです。結局は、我見になり、自分の好き嫌いで、人を見ていってしまうことになる。ゆえに、常に唱題第一で、わが生命を磨き抜くんです。

それでも、人間の奥底の一念は、すぐにはわからないものです。短期間で見極めることは難しいこともある。しかし、一年、二年と、長い時間をかけて見ていればわかります。どんなに表面を装っていても、ふとした時に、驚くような傲慢極まりない言動や、怠惰な態度が出てしまうものだからです。

また、人が見ていない時に、何をしているかに、その人の本質が表れます。ともかく、人材の根本要件を、一言でいえば、"労を惜しまず、広宣流布の師弟の道に生き抜く人"ということです」

どんな優れた能力をもち、社会的に高く評価される立場にあったとしても、信心の一念という根本が揺らいでいたのでは、広宣流布の本当の人材とはなり得ない。奥底の一念を"広宣流布のため"という大目的に定めてこそ、性格も、能力も、地位も、すべてが生かされ、人びとの幸福実現のための大きな力となるのである。

「入会した時から、広宣流布のために生きようと決意している人はほとんどいないでしょう。今度は皆さんが、広宣流布の大願に生き抜こうという、決定した信心の人たちを育てていくんです」

「皆、さまざまな宿業をもっていますから、何があるかわからないのが人生なんです。ですから、若い世代に、福運をたくさん積み、宿命の転換に励むとともに、何があっても負けない心の強さを培うことが大事になる。そのための信心なんです」伸一は、女子部員は、一人も残らず幸せになってほしかった。

本当の幸福は、自分で創り上げていくものだ。誰かから与えられるものではない。幸せになるには、「幸せとは何か」を明らかにした「哲学」が必要になる。「哲学」というのは、生き方の根本となる考え方である。

仏法では、生命の因果の理法によって、その原因を明快に説き示している。過去世からの自身の言動や心が、宿業を形成する。そして、現在の自身の生き方が、未来を決していくと。

しかも、自身のあらゆる「宿命」は、それを転換して幸福の実証を示し、人びとに希望と勇気を与えるための、尊き「使命」となることを教えているのである。

「学会の根本精神は、どんなに時代が変化しても、変わってはなりません。しかし、活動形態などは、時代とともに、また、世代によって、当然、変化していかなくてはならない」

「『激励』というのは、年長者が、年少の人に対して行うものであるかのように思い込んでいませんか。『激励』は、双方から発信できるんです。人間は、たとえ、自分より年下の人であっても、"いつも自分のことを思ってくれ、一生懸命励ましてくれる""信頼し、尊敬してくれている"という人がいれば、嬉しく、力強いものです。人間は人との絆のなかで、勇気を得るし、希望を得ていきます。その麗しい励ましの絆を、社会の隅々にまで広げていくのが、広宣流布とも言えます」


太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
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