『新・人間革命』第25巻 福光の章 46p~
伸一は、県・圏幹部ら80人との懇談会に出席した。県指導長の鈴村アイと常磐圏指導長の菅田歌枝に声をかけた。「80歳になろうが、90歳になろうが、命ある限り戦い、人びとを励まし続けるんです。『生涯青春』でいくんですよ。」
「あなたたちは、生涯、自らの行動を通して、皆に学会精神を伝え抜いていってほしいんです。私と一緒に、文京支部員として戦った同志ではないですか!」
鈴村は、肺結核にかかり、死の不安に怯え、断崖にたたずんだこともあった。夫の裕孝も、病んだ妻をかかえ、仕事と子育てに追われ、心身ともに疲弊していった時、兄から創価学会のことを聞く。「この信心で必ず乗り越えられます!」との確信の言葉に、入会する。
アイは、クリスチャンで、実家には教会が建てられ、兄は牧師だったことから大反対するが、自宅に来るメンバーの話を聞くうちに、その確信に打たれ、入会する。
地区部長から「自行化他」と言って、自分が勤行し、題目を唱えるとともに、人にも信心を教えていかなければならない。自分の幸せばかりを祈るならば、それは利己主義の信心だとの話を聞く。
自分はまだ、悩みを解決できたわけではないので、解決したら頑張るというと、「病気で苦しんでいる時、動くのが辛いから、病気が治って元気になったら病院に行こうと思うか」と言われ、「今の苦しみを乗り越えたいと思うなら、いつか頑張ろうと考えるのではなく、今すぐに行動を起こすことだ。体調が悪いなら、無理をする必要はない。折伏は、家に来た人や近所の人に、仏法の話をしていけばいいんです。ともかく、みんなを幸せにしようとの一念で、正法を語り抜いていくことが大事なんです」
「自分にできることから、やればいいんです。なぜ、自分が信心してみようと思ったかを語ることも立派な折伏です。ご主人と一緒に折伏に行って、ご主人が話をしたら、『そうなんです。おの通りですよ』と、一生懸命に相づちを打つだけでもいいんですよ」
"日々、悩み苦しんでいる、こんな自分の宿命を変えたい!"アイは、その一身で、近隣の知人を訪ね、仏法を語った。驚いたのは、知人たちであった。いつも陰鬱な顔をして、床に就いてばかりいた彼女が、自ら訪ねてきては、一生懸命に信心の話をするのだ。周囲の人々は、生気のなかった鈴村アイが、布教に歩く姿に驚き、彼女の話に熱心に耳を傾けた。この鈴村を励まし続けてきたのが、菅田歌枝であった。
菅田は、宗教の勧誘にきた婦人たちに、「ご主人を亡くし、三人のお子さんも早世するでしょう」と言われ、不安を覚え、その宗教の布教に積極的に歩き、多額の布施もしたが、夫病状は悪化していった。自分は、騙されたと思い、もう宗教はこりごりだと思った。
病に苦しんでいた夫の留太郎は、学会の書籍を読み、宗教には、高低浅深があることを知り、創価学会に入会した。歌枝は、憤慨し、大反対したが、夫は、日増しに健康を回復し、一方、歌枝は、原因不明の頭痛に悩まされ、眠れぬ日が続いていった。夫の病は、3年かかると言われたが、半年で回復し、職場復帰した。その実証を前に、歌枝も入会する。
彼女は、東京での会合にも 福島県から勇んで出かけて行った。文京支部長代理の山本伸一ともしばしば顔を合わせる機会があった。鈴村が入会した直後の6月、山本伸一は、7月の活動として、1班10世帯の弘教の目標を打ち出す。
戸田会長が掲げた会員75万世帯達成が間近に迫っていた。伸一は、"この75万世帯体制の大闘争に加わるということは、広宣流布の前進に、燦然たる自身の足跡を刻むことになる。子々孫々までも誇り得る歴史となる。その意義は、どれほど大きく尊いことであろうか・・・"
そう思うと、一人でも多くの同志を、その戦列に加えたかった。そして、班10世帯の弘教を提案したのだ。特に、これまで折伏を実らせずにいた人や、新入会の同志などに、弘教の大歓喜の闘争史を創ってほしかったのである。
伸一は、県・圏幹部ら80人との懇談会に出席した。県指導長の鈴村アイと常磐圏指導長の菅田歌枝に声をかけた。「80歳になろうが、90歳になろうが、命ある限り戦い、人びとを励まし続けるんです。『生涯青春』でいくんですよ。」
「あなたたちは、生涯、自らの行動を通して、皆に学会精神を伝え抜いていってほしいんです。私と一緒に、文京支部員として戦った同志ではないですか!」
鈴村は、肺結核にかかり、死の不安に怯え、断崖にたたずんだこともあった。夫の裕孝も、病んだ妻をかかえ、仕事と子育てに追われ、心身ともに疲弊していった時、兄から創価学会のことを聞く。「この信心で必ず乗り越えられます!」との確信の言葉に、入会する。
アイは、クリスチャンで、実家には教会が建てられ、兄は牧師だったことから大反対するが、自宅に来るメンバーの話を聞くうちに、その確信に打たれ、入会する。
地区部長から「自行化他」と言って、自分が勤行し、題目を唱えるとともに、人にも信心を教えていかなければならない。自分の幸せばかりを祈るならば、それは利己主義の信心だとの話を聞く。
自分はまだ、悩みを解決できたわけではないので、解決したら頑張るというと、「病気で苦しんでいる時、動くのが辛いから、病気が治って元気になったら病院に行こうと思うか」と言われ、「今の苦しみを乗り越えたいと思うなら、いつか頑張ろうと考えるのではなく、今すぐに行動を起こすことだ。体調が悪いなら、無理をする必要はない。折伏は、家に来た人や近所の人に、仏法の話をしていけばいいんです。ともかく、みんなを幸せにしようとの一念で、正法を語り抜いていくことが大事なんです」
「自分にできることから、やればいいんです。なぜ、自分が信心してみようと思ったかを語ることも立派な折伏です。ご主人と一緒に折伏に行って、ご主人が話をしたら、『そうなんです。おの通りですよ』と、一生懸命に相づちを打つだけでもいいんですよ」
"日々、悩み苦しんでいる、こんな自分の宿命を変えたい!"アイは、その一身で、近隣の知人を訪ね、仏法を語った。驚いたのは、知人たちであった。いつも陰鬱な顔をして、床に就いてばかりいた彼女が、自ら訪ねてきては、一生懸命に信心の話をするのだ。周囲の人々は、生気のなかった鈴村アイが、布教に歩く姿に驚き、彼女の話に熱心に耳を傾けた。この鈴村を励まし続けてきたのが、菅田歌枝であった。
菅田は、宗教の勧誘にきた婦人たちに、「ご主人を亡くし、三人のお子さんも早世するでしょう」と言われ、不安を覚え、その宗教の布教に積極的に歩き、多額の布施もしたが、夫病状は悪化していった。自分は、騙されたと思い、もう宗教はこりごりだと思った。
病に苦しんでいた夫の留太郎は、学会の書籍を読み、宗教には、高低浅深があることを知り、創価学会に入会した。歌枝は、憤慨し、大反対したが、夫は、日増しに健康を回復し、一方、歌枝は、原因不明の頭痛に悩まされ、眠れぬ日が続いていった。夫の病は、3年かかると言われたが、半年で回復し、職場復帰した。その実証を前に、歌枝も入会する。
彼女は、東京での会合にも 福島県から勇んで出かけて行った。文京支部長代理の山本伸一ともしばしば顔を合わせる機会があった。鈴村が入会した直後の6月、山本伸一は、7月の活動として、1班10世帯の弘教の目標を打ち出す。
戸田会長が掲げた会員75万世帯達成が間近に迫っていた。伸一は、"この75万世帯体制の大闘争に加わるということは、広宣流布の前進に、燦然たる自身の足跡を刻むことになる。子々孫々までも誇り得る歴史となる。その意義は、どれほど大きく尊いことであろうか・・・"
そう思うと、一人でも多くの同志を、その戦列に加えたかった。そして、班10世帯の弘教を提案したのだ。特に、これまで折伏を実らせずにいた人や、新入会の同志などに、弘教の大歓喜の闘争史を創ってほしかったのである。