小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

December 2020

創価教育学体系発刊

『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 287p

<敢闘の章 開始>


時代も、社会も、時々刻々と変化を遂げていく。創価学会も、新しい人材が陸続と育ち、新しい会館や研修所も次々と誕生し、新時代を迎えようとしていた。しかし、いかに時代や環境が変わろうが、絶対に変わってはならないものがある。それは、広宣流布に生き抜く「創価の師弟の精神」である。

1976年(昭和51年)男女青年部が結成25周年を迎え、広宣流布の新しい時代に入った今こそ、後継の青年たちに、その精神を脈々と伝え抜いていかねばならないと考えていた。

全国から集って来た女子部「青春会」のメンバーと共に勤行し、指導・激励した。伸一は、何のための信仰かを、メンバーに心の底からわかってもらいたいとの思いから、女子柄の一生に即して、宿命について語っていった。

苦悩なき人生はない。それらの苦悩、宿命との格闘劇が、人生といえるかもしれない。その宿命を転換し、人生を勝ち越えていく、勇気と力の源泉が、仏法であり、信仰なのだ。そして、苦脳に負けない自信をつくり上げる場こそが、学会活動なのである。

伸一は、さらに、「生老病死」のなかの、「老」について語っていった。「若い時代に、懸命に信心に励み、将来、何のがあっても負けない、強い生命を培い、福運を積んでいくことが大事です。皆さんには、年老いて、"もっと、題目をあげておけばよかった""真面目に信心に励んでいればよかった""もっと、社会に貢献しておけばよかった"と、後になって悔いるような人生を送ってもらいたくない」

「ともかく、何があろうが、生涯、広宣流布に生き抜いていくことです。いざという時、『よし、やるぞ!』と決然と立ち上がり、勝利の旗を打ち立て、学会を守り抜いてください。そのための『青春会』です。21世紀の広宣流布の責任を担うのが皆さんです。その使命を絶対に忘れないでいただきたい」伸一は、未来の広宣流布を託すつもりで、全力で激励を重ねた。

三重の中部第一総合研修所に向かった。研修所の館内にある三重記念館内に入ると、初代・二代会長の遺品やゆかりの品々が展示されていた。

各地に、歴代会長の遺品等を展示した記念館や記念室をつくろうと提案したのは、山本伸一であった。牧口や戸田の闘争と、その精神を学び、継承していくうえで、遺品や、ゆかりの品々に触れることは、必要不可欠であると考えたからだ。

遺品や写真などを、直接、見ることができれば、師を偲ぶ縁となり、その存在を身近に感じることができる。また、その品々は、師の偉業を裏づける証拠ともなる。

「学会を永遠ならしめるために、師匠の魂魄を永遠にとどめる場所をつくらねばならない」というのが、戸田城聖の考えであった。戸田は、自分が使う会長室よりも立派な一室を、「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口の写真を飾った。

戸田は、それから、遺言を伝えるような厳粛な目で、伸一を見た。「将来、広宣流布のために、日本各地に会館をつくることになるだろう。いや、世界にも、多くの会館が誕生することになるだろう。また、断じて、そうしなければならない。その時には、『師と共に』という学会精神を、永遠ならしめるために、『恩師記念室』を設けて、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくのだ」

戸田の言葉は、伸一の胸を射た。どこまでも師匠の精神を伝え抜き、宣揚していこうとする心に、伸一は、熱いものが、胸に込み上げてきてならなかった。

創価学会の創立の日となった、1930年11月18日は、『創価教育学体系』の発行日である。思えば、この発刊自体が、師弟共戦の産物であった。

冬のある夜、牧口と戸田は、深夜まで語らいを続けていた。その席で、教育学説を残したいという牧口の考えを、戸田は、聞いたのだ。一小学校長の学説を出版したところで、売れる見込みはなく、引き受ける出版社もないことは明らかであった。

「先生、私がやります!」師の教育学説を実証しようと、私塾・時習学館を営んでいた戸田は、牧口の教育思想を世に残すために、全財産をなげうつ覚悟を定めたのである。

「私の教育学説に、どんな名前をつけるべきか・・・」「先生の教育学は、何が目的ですか」「一言すれば、価値を創造することだ」「創造の『創』と価値の『価』をとって『創価教育学』としたらどうでしょうか」師弟の語らいのなかから、「創価」の言葉は紡ぎ出されたのである。



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

師弟の共戦譜 人間革命の歌

『新・人間革命』第23巻 勇気の章 274p

伸一は、思った。"広宣流布の使命に生きる学会のなかにも、牧口先生の時代から、メ歳の利害や、安逸、保身のために、あるいは、迫害を恐れるゆえに、同志を、いや、師匠をも裏切っていった人間がいた。これからも現れるにちがいない。しかし、断じて、そんな人間に屈してはならないし、翻弄されてもならない"

そして、全会員に"広宣流布という人生最極の理想に生き抜き、三世に輝く永遠の勝利者の道を歩んでほしい"と呼びかける思いで、「同志」という言葉を使ったのである。しかし、あえて、その二行を、削る決断をしたのだ。

新しいものを創造するには、時には、これまで作り上げてきたものへのこだわりを、躊躇なく捨てる勇気が必要な場合もある。

歌詞にも、曲にも、また、手直ししたい個所が出てきた。「ここは、『正義と勇気の 旗高く』にしようと思う。平和、慈悲といっても、仏法の正義を断じて貫こうという勇気から始まる。」「臆病を打ち破り、勇気をもって戦いを起こしてこそ、自身の人間革命がある」

一つ一つの事柄を、徹して完全無欠なものにしていくーーそれは、広宣流布の"戦人"ともいうべき彼の哲学であった。会合一つとっても、焦点の定まらぬ、歓喜の爆発がない会合など、絶対に開かなかった。それでは、忙しいなか、集ってきてくださった方々に、失礼であり、貴重な時間を奪うことにもなると考えたからだ。妥協は、敗因の温床であるからだ。

"参加者の心を一新させ、大歓喜と闘魂を燃え上がらせることができるか!"彼は、必死であった。おざなりの行動で、その場を取り繕うことはできても、待っているのは敗北である。

「『人間革命の歌』を作ったよ。みんなに勇気を送ろうと作った歌だよ。私の生命の叫びだ。今から、歌を流すからね」そして、電話口をカセットデッキの前に置き、テープをかけるのである。「この歌を歌いながら、一緒に、この世の使命を果たすために、頑張ろうよ!」

皆が歌いやすいように、転調され、低い音程に移調された。この日の夜には、早くも各地の会合で、「人間革命の歌」が、声高らかに歌われた。「人間革命の歌」は、瞬く間に、全国で、さらに、世界各地の同志にも歌われるようになっていくのである。

山本伸一は、「人間革命の歌」で戸田城聖が獄中で悟達した「われ地涌の菩薩なり」との魂の叫びを、いかに表現し、伝えるかに、最も心を砕いた。

この悟達にこそ、日蓮大聖人に直結し、広宣流布に生きる、仏意仏勅の団体である創価学会の「確信」
の原点がある。

「地涌の菩薩」の使命の自覚とは、自分は、人びとの幸福に寄与する使命をもって生まれてきたという、人生の根源的な意味を知り、実践していくことである。それは人生の最高の価値創造をもたらす源泉となる。また、利己のみにとらわれた「小我」の生命を利他へと転じ、全民衆、全人類をも包み込む、「大我」の生命を確立する原動力である。いわば、この「地涌の菩薩」の使命に生き抜くなかに、人間革命の大道があるのだ。

伸一は、若者たちが、人生の意味を見いだせず、閉そく化した精神の状況を呈している時代であるだけに、何のための人生かを、訴え抜いてきた。

この年の暮れに、学会本部の前提に「人間革命の歌」の碑が建立された。

「人間革命の歌」は、師弟の共戦譜である。そしt生命の賛歌である。碑の歌詞の最後に、伸一は、刻んだ。「恩師戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 山本伸一」

<勇気の章 終了>









太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

人間革命の歌に込めた決意

『新・人間革命』第23巻 勇気の章 260p

日蓮大聖人は仰せである。「魔競はずは正法と知るベからず」大聖人の仰せ通りに仏法を行じて広宣流布を推進し、事実上、日本第一の教団として、民衆の幸福の道を開いてきた創価学会である。それゆえに、御聖訓に照らして、世界広布の大海原に船出した創価学会丸に、諸難の嵐が競わぬわけがないというのが、伸一の覚悟であり、確信でもあったのだ。

その吹きすさぶ嵐に向かい、広宣流布のために戦うことによって、我が胸中に、地涌の菩薩の生命が脈動し、人間革命がなされるのだ。ゆえに、伸一は、愛する同志が、何ものにも負けぬ闘魂を燃え上がらせる、勇気の歌を作らねばならないと思った。

伸一は、新しき人間文化の創造と人間主義の時代を築き上げるために、同志の心を奮い立たせる生命の賛歌を作りたかったのである。

伸一は、新しい歌を作ろうと考えた時、既に、タイトルは「人間革命の歌」にしようと決めていた。それ以外にはないと思った。

それぞれの幸福境涯の確立も、家庭革命も、社会の建設も、世界平和の創造も、すべては人間革命から始まるからだ。そして、その人間の変革を推進している。唯一無二の団体が創価学会である。まさに創価学会は「人間革命の宗教」であるからだ。

「私は、戸田先生を偲び、心で対話しながら、師弟の共戦譜となる『人間革命の歌』の制作に取り組もうと思っているんだよ。今年の後半からは、この歌を皆で声高らかに歌って、誇らかに前進していくんだ。」広宣流布の歩みは、学会歌の調べとともにある。躍動する生命の歌声とともにあるのだ。

彼は、後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから安易に妥協したくはなかった。"努力を重ねてきたのだから、もうこれでいいのではないか"との思いが、進歩、向上を止めてしまう。その心を打ち破り、断じて最高のものを作ろうとする真剣勝負の一念から、新しい知恵が、力が、創造が、生まれるのだ。

本部幹部会で、伸一は、広宣流布の指導者として銘記すべき、6つの心得を示した。
「個人指導を大切に」
「小会合を大切に」
「言葉遣いを大切に」
「ふだんの交流を大切に」
「その家庭を大切に」
「その人の立場を大切に」

皆に意見を求めながら、伸一は、曲作りを進めていった。しかし、納得のいく曲はできないまま、時が過ぎていった。伸一は、もう一度、歌詞を遂行した。歌詞は、5行詞である。どうやら、これが、作曲を難しくしているようだ。「五行ある歌詞を、思い切って4行にしては、どうだろうか」

"歌詞のどの部分を削るのか"となると、山本伸一は、困惑せざるを得なかった。熟慮に熟慮を重ねてきた歌詞である。一言一言に、深い思いが込められていた。「残念だが、二行目を削ろう。この『同志の人びと』というところには、深い意義があるんだがね・・・。でも、仕方ないな」

伸一が、この言葉を使った背景には、若き日に読んだ、山本有三の戯曲『同志の人々』への共感があった。『同志の人々』は、幕末の、寺田屋騒動で捕らえられた8人の薩摩藩士が、薩摩に護送されていく船の中が舞台である。

船底に幽閉されている、公家の臣下である父と子を殺害すれば、軽い刑にすると告げられる藩士の同志たち。助からないなら、討幕の再挙をはかるために、殺害することもやむを得ないという意見が出される。是枝という藩士は、父と子に、維新を成就させるため、同志の犠牲となって切腹するよう、説得にあたる。父親は、是枝に自分たちの死を無駄にすることなく、維新の成就を訴える。父親の遺言は「ただ同志の方々に、よろしくとお伝えください」であった。

山本伸一は、青年時代に『同志の人々』を読んだとき、強く胸に打たれた。志をもった人間の生き方に、鋭い示唆を投げかける作品であると思った。是枝の苦渋の選択に、理想と現実の狭間で、矛盾と向き合い、葛藤を越えねばならぬ、革命に生きる人生の厳しさを感じた。

また、再挙を理由に、同志の殺害を決めた藩士たちと、死んでいった公家臣下の父子と、人間として、どちらが勝者で、どちらが敗者かを考えざるを得なかった。

やがて幕府は倒れ、明治維新は訪れる。しかし、いかに自己正当化しようとも、藩士たちが、討幕を誓い合った父子の殺害を決めたことは、同志への裏切りにほかならない。同志を裏切ったという事実は、自身の生命に無残な傷跡を刻み、永遠にうずき、さいなみ続けるにちがいない。



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

常勝関西の不敗の原点

『新・人間革命』第23巻 勇気の章 247p

山本伸一は、7月に行われる参議院議員選挙でも、大阪地方区の支援の最高責任者として指揮を執った。支援する会員の世帯数から見ても、東京地方区での当選は、ほぼ間違いないが、大阪地方区での当選は不可能であるというのが、大方の予測であった。

しかし、結果は、人びとの予想を覆して、なんと東京が落選し、大阪が当選を果たしたのである。大阪の勝利は、朝日新聞が「"まさか"が実現」との見出しを掲げるほどの、壮挙であったのである。

翌1957年(昭和32年)4月、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた。山本伸一は、再び戸田城聖から、この選挙支援の最高責任者に任命された。この補欠選挙は、一議席をめぐっての戦いである。学会が推薦したが当選することなど、あり得ない選挙戦といえた。しかし、戸田は、あえてその選挙戦の指揮を、伸一に執らせた。

獅子が、我が子を谷底に突き落とすといわれるように、戸田は、伸一を、勝算のない、熾烈な戦線に投げ入れたのだ。

選挙戦の終盤、候補者の名前を書いたタバコを配るなどの、選挙違反事件が大々的に報じられた。公明選挙を訴え続けてきた伸一には、寝耳に水の出来事であった。悪質な選挙妨害ではないかとさえ思った。しかし、なんとそれは、東京から英雄気取りで乗り込んで来た、心ない会員が引き起こした事件であることが、やがて明らかになるのだ。

この違反事件が、勝利を決するうえでの大きな障害となった。結果は敗北に終わった。補欠選挙から二か月余が過ぎた7月3日、伸一は、この選挙違反について事情聴取を求められ、自ら大阪府警本部に出頭した。そして、違反は彼の指示であるとの事実無根の容疑で、逮捕されたのである。

拘留は15日間に及んだ。過酷な取り調べが続いた。容疑を認めない伸一に対し、検察は、罪を認めなければ、「会長の戸田を逮捕する」と言いだしたのだ。戸田が、逝去する9か月前のことである。戸田の衰弱は、既に激しかった。逮捕は、死にもつながりかねない。独房での苦悶の末、伸一は、容疑を認め、裁判の場で真実を明らかにすることを決意したのである。

ひとたびは一身に罪を被り、法廷で正義を証明しようと決意した山本伸一が、大阪拘置所を出たのが、1957年の7月17日であった。この日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪大会が行われた。それは、伸一の不当逮捕への憤怒と、権力の魔性を打ち砕き、断じて創価の正義を証明せんとする、関西の決起の日となったのである。

「最後は、信心しきった者が、大御本尊様を受持しきった者が、また、正しい仏法が、必ず勝つという信心をやろうではありませんか!」その叫びが、皆の心に突き刺さった。"権力なんかに、負けられへん。負けたらあかん!"戦いは、絶対に勝たなあかん!」

伸一と共に、創価の勝利を涙で誓った。この日が「常勝関西」の"不敗の原点"となったのである。伸一が、この「大阪事件」の法廷闘争に勝利し、無罪の判決が出たのは、釈放から4年半後の、1962年1月25日である。もともと無実の罪である。検察の控訴が懸念されたが、有罪に持ち込むことは、不可能であると判断したのであろう。控訴はなく、一審で伸一の無罪が確定したのである。

山本伸一が、出獄し、関西の同志と共に創価の正義を勝利を誓い合った「7・17」は、権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立の日である。

ゆえに、伸一は、以来20年目を迎える、この1976年の「7・17」を記念して、全同志の広宣流布への誓いを託した「人間革命の歌」の制作に取り組んできたのである。

彼は、以前から、創価学会の精神と思想を表現した、創価学会の歌ともいうべきものが必要であると考えていた。学会の精神と思想を端的に表現し、未来に歌い継がれていく、歌いやすい、新たな感覚の歌を作ろうと思っていたのである。

さらに、伸一が、新しい歌を作り、同志を勇気づけようと考えたのは、学会をめぐる不穏な動きを、ひしひしと感じ取っていたからでもある。この前年から、一部のマスコミなどによる、学会への攻撃が激しくなりつつあったのである。

伸一は、世界の平和を築くために、イデオロギーの壁を超え、友誼と信頼の道を開こうと必死であった。しかし、偏狭な心の眼では、その真実を見ることができなかったのであろう。

広宣流布を阻まんとする「魔」が、いよいよ牙をむいて襲いかかってくる予兆を感じていた。





太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

7月17日 出獄の日

『新・人間革命』第23巻 勇気の章 238p

1976年(昭和51年)7月18日。伸一は、前日の夜から作曲に没頭していた。新しい学会歌となる「人間革命の歌」を作ろうとしていたのだ。

「7・17」それは、1957年の7月3日に事実無根の公職選挙法違反の容疑をかけられ、大阪府警に不当逮捕された山本伸一が、出獄した日である。伸一は、この前年にあたる56年、戸田城聖から、関西を東京と並ぶ、いや、それ以上の、広宣流布の盤石な城にすることを託され、担当幹部として、年頭から大阪に派遣されたのである。

伸一は、この年、早くも 1月4日には、大阪に向かった。以来何度となく、関西指導を重ねていくことになる。交通費をはじめ、活動にかかるすべての費用も、自分で賄わなければならない。それを捻出するのも大変であった。

また、大東商工の営業部長としての仕事のほか、青年部の室長、文京支部長代理など、幾つもの役職を兼務していいるなかでの関西指導である。不滅の大関西城を築き上げることは、何があろうが、絶対に、成し遂げねばならない最重要課題であった。もし、実現できなければ、師匠・戸田城聖の、広宣流布の構想を破綻させることになるからだ。

自分の双肩にかかる、あまりにも重い責任を考えると、激しい緊張で胸が締めつけられる思いがし、食事も喉を通らなかった。新年早々、発熱さえした。正月だといって浮かれる幹部たちが、この上なく、のんきに感じられてならなかった。

関西の歴史を開く大闘争が始まった。彼には、勝利を収めるために、自らに課していた鉄則があった。それは"人を頼み、人にやらせようなどと、絶対に考えてはならない。すべて、自らが率先し、自らが動くことによって、波動を起こしていくのだ"ということであった。

伸一は、関西本部で、ただ一人、祈りを開始した。すべては祈りから始まる。懸命に、真剣に、唱題に励む伸一の姿を見て、支部長らの幹部も加わるようになった。そして、次第に参加者が増え、最後には仏間がいっぱいになった。伸一は、朝の勤行のあとには、御書の講義を行った。それが、皆の勇気を燃え上がらせた。

彼は、まず、大阪中をくまなく回り、同志の激励に奔走した。小さな小さな家々が軒を連ね、狭い路地で魚を焼く煙が立ち込める地域も回り、同志を激励した。果てしなく田畑が続く地域にも足を延ばした。どんな人をも、笑顔で堤、対話し、励ましていったのである。

勝利への力は、魂の触発にある。自身の燃え盛る生命が、同志の生命を燃え上がらせるのだ。伸一の敢闘を目の当たりにして、関西の幹部たちは深く思った。"これが、ほんまのリーダーなんや。生命を削って戦うから境涯革命があるんや。やったろやないか!"山本伸一の率先垂範の行動が、全同志を触発し、共に戦う何人もの"山本伸一"をつくり出していったのである。

また、伸一は、戸田城聖こそ、広宣流布に、ただ一人立ち上がった、我らの師であり、この大阪、関西から、いや、日本、世界から不幸に泣く人をなくしたいというのが、戸田の誓いであることを語り抜いた。

そして、こう訴えたのである。「戸田先生の心を、わが心として、先生に代わった戦おうではないですか!先生を思えば、勇気が涌きます。自分が鼓舞されます。"先生は、じっと見ていてくださる""先生ならどうされるか"と、日々、己心の師匠と対話しながら戦っていこうではありませんか!」広宣流布の戦いを進めるうえで、仏法の師と心を合わせていくことこそが、団結の根本である。そこに勝利への前進がある。

伸一の指揮のもと、関西は、怒涛の大前進を開始した。戸田城聖の会長就任5周年となる5月にはついに、大阪支部1万1千111世帯、堺支部1515世帯という弘教を成し遂げた。まさに、前代未聞の快挙であり不滅の金字塔が打ち立てられたのだ。関西に、見事なる広宣流布の大城が築かれたのだ。

この年の7月には、第4回参議院選挙が行われた。日蓮仏法は「立正安国」の宗教である。社会の平和、繁栄なくしては個人の幸福もない。宗教は、決して宗教のための宗教にとどまってはならない。「安国」という、社会の平和と繁栄を実現してこそ、民衆の救済という宗教本来の使命を全うすることができ、人間のための宗教たり得るのだ。

この立正安国の使命を果たすために、創価学会は社会の建設に立ち上がったのである。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

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