『新・人間革命』第24巻 母の詩の章 38p
山本伸一は、側にいた男子部の幹部に言った。「やったね!壮挙だね!みんな負けなかった。それが、すごいことなんだ。負けないことが、勝つということなんだ!」
そして、彼は、メンバーに、こう伝言を託したのである。「倒れても、倒れてもまた立ち上がれーーこれが、学会精神です。獅子の心です。ここにこそ、人生の勝利があります。心から『おめでとう!』『万歳!』と申し上げます」
文化祭終了後、メンバーは、この伸一の伝言を涙で聞いた。そして、互いに抱き合い、「不倒の人生」を固く誓い合うのであった。
人間革命の大合唱が始まった。勝利と感動と歓喜の大合唱となった。皆が、人間革命をめざしての文化祭であった。自己自身への挑戦の文化祭であった。そして、それぞれが、"自分に勝った!"との実感と、その感動を噛み締めながらのフィナーレとなった。
伸一が、御礼のあいさつをした。「今日、人類は、あらゆる面で、行き詰まりの様相を呈しております。・・・今日の人間疎外をはじめ、現代の行き詰まりは、人類が政治優先、経済優先に陥り、人間を失ってしまった帰結であると、私は、申し上げたいのであります。
今こそ、人類は、『人間』という原点に返り、政治優先主義、経済優先主義から人間性の発露である、文化の復興を優先しなければなりません。全人類は、人間文化の復興を希求しています。戦争という武力の対極に立つのが文化であり、文化、芸術は生命の歓喜の発露であると、私は考えております」
伸一は、その人間文化の一つの結実が、この文化祭であると語った。「こうした民衆文化の運動が、日本のみならず、全世界に広がっていくならば、人と人の心は結ばれ、新たなルネサンスの夜明けが訪れると、確信いたします。この文化祭に象徴される大文化運動が、広宣流布という人間復興の運動なのであります」
母の容体が急変したとの連絡が入った。今日一日の彼の戦いを、母が見守っていてくれたような気がした。伸一は、平凡ではあるが、人間として最も大切なことを、母から教わったと、深く感謝している。
終戦の年となる1945年(昭和20年)春、空襲による類焼を防ぐため、家の取り壊しが決まり、近くの親戚の敷地に一棟を建て、越すことにし、家具も運び、皆で暮らそうとした時、空襲でその家が全焼してしまい、長持ち一つを運び出すのがやっとだったが、そこに入っていたのは、雛人形と一本のコウモリ傘だった。
その時母は、快活に言った。「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ」この言葉に、皆、どれだけ元気づけられたことか。
空襲を受けた時、撃墜されたB29から脱出した米兵が落下傘で降りてきた。自分とそれほど年齢も違わない20歳ぐらいの色白の少年の面影が残る若い米兵だった。その話を母に伝えると、「かわいそうに!怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう」母の口から、真っ先に出たのは、若い米兵の身を案ずる言葉であった。
米英への憎悪を煽り立てられ、婦人たちも竹槍訓練に明け暮れていた時代である。しかし、4人の息子の生還を願い、心を痛めていた母は、米兵の母親に、自分を重ね合わせていたのであろう。わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。
その母の心に立ち返る時、どんなに複雑な背景をもち、もつれた国家間の戦争の糸も、必ず解きほぐす手がかりが生まれよう。伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない。
明るく、忍耐強かった母。どんな時も、笑顔を失わなかった母。伸一は、その母が、声を押し殺し、背中を震わせて、すすり泣く後ろ姿を目にしたことがあった。長兄・喜久夫が、ビルマで戦死したとの公報が届いた時である。
悲嘆にくれる母の姿に、伸一は、残酷な戦争への激しい憤怒が込み上げてきた。とともに、子を思う母の愛の深さを、まざまざと感じ、兄の分まで自分が母孝行しなくてはと、固く心に誓った。
太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋
山本伸一は、側にいた男子部の幹部に言った。「やったね!壮挙だね!みんな負けなかった。それが、すごいことなんだ。負けないことが、勝つということなんだ!」
そして、彼は、メンバーに、こう伝言を託したのである。「倒れても、倒れてもまた立ち上がれーーこれが、学会精神です。獅子の心です。ここにこそ、人生の勝利があります。心から『おめでとう!』『万歳!』と申し上げます」
文化祭終了後、メンバーは、この伸一の伝言を涙で聞いた。そして、互いに抱き合い、「不倒の人生」を固く誓い合うのであった。
人間革命の大合唱が始まった。勝利と感動と歓喜の大合唱となった。皆が、人間革命をめざしての文化祭であった。自己自身への挑戦の文化祭であった。そして、それぞれが、"自分に勝った!"との実感と、その感動を噛み締めながらのフィナーレとなった。
伸一が、御礼のあいさつをした。「今日、人類は、あらゆる面で、行き詰まりの様相を呈しております。・・・今日の人間疎外をはじめ、現代の行き詰まりは、人類が政治優先、経済優先に陥り、人間を失ってしまった帰結であると、私は、申し上げたいのであります。
今こそ、人類は、『人間』という原点に返り、政治優先主義、経済優先主義から人間性の発露である、文化の復興を優先しなければなりません。全人類は、人間文化の復興を希求しています。戦争という武力の対極に立つのが文化であり、文化、芸術は生命の歓喜の発露であると、私は考えております」
伸一は、その人間文化の一つの結実が、この文化祭であると語った。「こうした民衆文化の運動が、日本のみならず、全世界に広がっていくならば、人と人の心は結ばれ、新たなルネサンスの夜明けが訪れると、確信いたします。この文化祭に象徴される大文化運動が、広宣流布という人間復興の運動なのであります」
母の容体が急変したとの連絡が入った。今日一日の彼の戦いを、母が見守っていてくれたような気がした。伸一は、平凡ではあるが、人間として最も大切なことを、母から教わったと、深く感謝している。
終戦の年となる1945年(昭和20年)春、空襲による類焼を防ぐため、家の取り壊しが決まり、近くの親戚の敷地に一棟を建て、越すことにし、家具も運び、皆で暮らそうとした時、空襲でその家が全焼してしまい、長持ち一つを運び出すのがやっとだったが、そこに入っていたのは、雛人形と一本のコウモリ傘だった。
その時母は、快活に言った。「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ」この言葉に、皆、どれだけ元気づけられたことか。
空襲を受けた時、撃墜されたB29から脱出した米兵が落下傘で降りてきた。自分とそれほど年齢も違わない20歳ぐらいの色白の少年の面影が残る若い米兵だった。その話を母に伝えると、「かわいそうに!怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう」母の口から、真っ先に出たのは、若い米兵の身を案ずる言葉であった。
米英への憎悪を煽り立てられ、婦人たちも竹槍訓練に明け暮れていた時代である。しかし、4人の息子の生還を願い、心を痛めていた母は、米兵の母親に、自分を重ね合わせていたのであろう。わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。
その母の心に立ち返る時、どんなに複雑な背景をもち、もつれた国家間の戦争の糸も、必ず解きほぐす手がかりが生まれよう。伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない。
明るく、忍耐強かった母。どんな時も、笑顔を失わなかった母。伸一は、その母が、声を押し殺し、背中を震わせて、すすり泣く後ろ姿を目にしたことがあった。長兄・喜久夫が、ビルマで戦死したとの公報が届いた時である。
悲嘆にくれる母の姿に、伸一は、残酷な戦争への激しい憤怒が込み上げてきた。とともに、子を思う母の愛の深さを、まざまざと感じ、兄の分まで自分が母孝行しなくてはと、固く心に誓った。
太字は 『新・人間革命』第24巻より 抜粋