小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

November 2020

学は光 無学は闇

『新・人間革命』第23巻 学光の章 121p

創価大学の通信教育は、「学校教育法」に基づいて行われる正規の大学教育である。高等学校卒業又は同等の資格を有する人が入学でき、正課課程を卒業すれば、「学士号」を取得できる。76年2月から、通信教育部の入学願書の受け付けが始まった。願書は全国各地から寄せられ、昭和51年度一期生は2千人を超えたのである。

伸一が、テーマとしていたことの一つは、通信教育は卒業生が少ないという問題を、どうやって乗り越えるかであった。彼は、大学側にも、「入学してくる通教生が、少しでも多く、卒業できるよう、最大の尽力をしていただきたい」と要望していた。

人間が情熱を燃やし、信念を貫き通していくには、「人」の存在が不可欠なのだ。そのために、善き人間関係を築く組織が、どうしても必要になってくるのである。

教員たちは考え抜いた。まず、出発段階にできることとして、通教生の相談にのり、アドバイスする「指導員」を、各都道府県に置いたらどうだろうか。伸一も、大賛成であった。

通信教育部で発行する機関誌の名前が決まらないというので、「学光」はどうだろうかと言った。「『学は光、無学は闇」と言うじゃないか。それにちなんで、学ぶ光、『学光』と書くんだ」「学光」--学の光をもって、わが人生を、そして、社会を照らしゆくのだ。それは、創価大学の通信教育を象徴する、永遠の指針が決まった瞬間であった。

満を持しての通信教育部の開学であった。ガイダンスが終わったころから、雨が降り始めた。傘を持っていない人も多かった。通学課程の学生たちが並んで、左右から傘を差し掛けてくれていた。その"花道"は、八王子駅までの臨時バスが出る、ロータリーまで続いていた。

通学生たちは、働きながら学ぶ"学友"たちを誇りに思い、尊敬し、心から祝福したかったのである。それが創大生の心である。いよいよ通信教育がスタートした。

通教生のもとには、ダンボールに梱包されて、何冊もの教科書が送られてきた。通信教育の勉強は、教科書を読み、与えられている課題についてのリポートを書くことと、スクーリングで直接、授業を受けることに大別される。

リポート提出という関門のあと、さらに、科目試験が待っているのである。通教生は、卒業に必要な124単位のうち、スクーリングで、30単位以上を習得する。この単位はリポートでは修得できず、夏か秋のスクーリングに参加し、授業を受け、試験を受けなければならなかった。

スクーリングに参加すること自体が、大変な"戦い"であった。教室の席は、先を争うようにして前から順に埋まっていった。

スクーリングは、直接、講義を聴くことができる貴重な時間である。職場や家族の理解と協力を得て、時間をつくり、費用を捻出して参加したのだ。決して無駄にするわけにはいかなかった。

厳しい条件のなかで挑戦する人は、真剣である。その真剣さが、自らを鍛え、強くし、大成への力となっていくのだ。ゆえに、苦境こそ、幸福の母となるのである。

通信教育部の授業を担当するのは、通学課程同様、学長をはじめ、学部長、教授などの、優れた教授陣である。その教員たちを驚嘆させたのは、通教生の真剣な受講態度であった。

なかには、教員よりも年上の学生もいる。その人たちが、目を輝かせ、一言も聞き漏らすまいと講義に耳を傾ける姿に、教員たちは新鮮な息吹を感じた。

講義にも、自然に力がこもっていった。教員たちは、通教生には幅広い年代や、さまざまな学歴の人がいるだけに、専門用語も、わかりやすく、かみ砕いて説明した。いかに、わかりやすく伝えるかーーそこにこそ、民衆に聞かれた教育の生命線がある。

どんな高邁な内容の話であっても、それが人びとに伝わらなければ、話し手の自己満足に終わってしまう。そこに、ともすれば、学者や専門家が陥りがちな落とし穴がある。

多くの教員が、通信教育の教科書も、自分たちで執筆したのである。授業が終わると、通教生たちは、質問するために、教員を取り囲んだ。教員たちは、むしろ、それを喜び、休み時間を返上して、一つ一つの質問に、親切に答えていった。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

創価大学通信教育部

『新・人間革命』第23巻 学光の章 105p

1976年5月16日、スーツ姿に身を包んだ男女青年や婦人、壮年など、幅広い年代の人たちが、中央体育館に向かっていた。なかには、白髪の老婦人や、杖を手にした老紳士の姿もあった。創価大学の通信教育部の開学式に参加するため、北は北海道、南は九州、沖縄など、全国各地から集ってきた通信教育第一期生の学生たちである。

録音テープに吹き込まれた、伸一の力強い声が、体育館に響いていった。「5月16日は、重大な歴史の日となりました。晴れやかな開学式、まことにおめでとうございます。」

生涯が学習である、生涯が勉強である。それが、人間らしく生きるということなのだ。知識を創造へ、生き生きと転ずる力とは、いったい何かーー。伸一は、メッセージのなかで論じていった。「それは、社会を担う人間としての自覚と責任であると申し上げたい。」

「皆さん方は、"創価教育体現の第一期生"であると申し上げておきたい!」
伸一は、深い感慨を込めて、その"戸田大学"での講義の実感を語った。「それは文字通り、人生の師と弟子との間に"信"を"通"わせた教育でありました」

伸一は、創価大学の通信教育の「通信」という意味も、郵便による伝達ということではなく、師と弟子が、互いに"信"を"通"わせ合う教育であるととらえていたのである。

伸一は、祈るような思いで訴えていった。「学識を深める道は、日々の粘り強い研鑽の積み重ねのなかにのみあることを明記していただきたいのであります。仕事や家庭の事情等、さまざまな問題に直面するでありましょうが、5年かかろうが、10年かかろうが、断じて初志を貫き、全員が卒業の栄冠を勝ち得ていただきたいのであります」

卒業は、一つの結果にすぎないかもしれない。しかし、その目標の踏破のなかに、人間完成への確かなる歩みがある。一歩一歩の前進なくして、栄光への走破はない。

「まずもって向学の走者は、自己を制覇し、試練の障壁に信念のバネで挑み、生涯の自己錬磨の飛躍台にされんことを念願するものであります。」

「皆さんの大きな励ましとなり、力となるのが、同じ志をいだく友人との交流であります。相互に連携をはかり、切磋琢磨していっていただきたい。大学で学ぶ意味の一つは、人生の友を得ることであります。互いに啓発し合える友の存在は、何にも増して尊い財産であります」

「第一期生の皆さんこそ、通信教育部の創立者であります。それを忘れないでいただきたい。開拓の道は険しくも、その向学の軌跡は、創価大学の名とともに、永遠に顕彰されていくことでありましょう。」参加者は、伸一の深い真心と、余りにも大きな期待を感じながら、身震いする思いでメッセージのテープを聴いた。この時、通教生の心田に、誓いの種子が植えられたのだ。

牧口常三郎も、1905年から3年ほど、通信教育に携わってきた。女子に学問は不要であるというのが、当時の風潮であった。そのなかで牧口は、"好学の心"を抑えつけてきた時代は過ぎ去ったと断言し、訴えている。女性を、民衆を、賢明にすることが、社会の繁栄を築く、根本の改革となるのだ。

創価大学の通信教育部開発は、人びとの幸福のための教育を実現しようとした牧口の、悲願の結実であったともいえよう。その先師の苦闘を知っていた山本伸一は。"孫弟子の自分が、牧口先生の念願を果たそう"と心に決めていたのだ。永遠なる師弟の道が、大事業を成就させるのだ。

また、牧口の弟子・戸田城聖もまた、通信教育には、ことのほか力を注いできた。"万人に教育の機会を与えたい。民衆が賢明にならずしては、本当の民主主義はない。それには教育しかない!"それが、戸田の信念であった。

創価大学は、日本で12番目に通信教育に着手した大学となった。大事なのは、学歴ではない。学び抜く心である。学ばずは卑しである。

大学の開学と同時に通信教育を行うという構想は、実現しなかった。そういう前例がないことから、文部省の認可を受けられなかったのである。卒業生を出したあとなら、申請を受け付けるとのことであった。伸一は、一日千秋の思いで、通信教育の開設の日を待ち続けてきたのだ。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

教育の種を植えれば 幸の花園になる

『新・人間革命』第23巻 未来の章 92p

1995年(平成7年)4月には、マレーシア創価幼稚園の開園式が行われた。マレーシアも、多民族国家であり、同幼稚園も、世界市民の育成に力を注いできた。

マレー語、中国語(北京語)、英語の三つの言語の学習が、カリキュラムに盛り込まれている。園児が、各家庭で使っているのは、マレー語、中国語、英語、タミル語、などである。しかも、中国語は、北京語、福建語、広東語などに分かれる。それだけに、意思の疎通、相互理解のためには、語学教育が極めて重要であると考え、実施されたものだ。

言葉の習得だけでなく、文化も学んでいく。世界市民を育むうえで大切なことは、ただ言葉を理解するだけではなく、人種、民族、文化の違いを知り、その差異を尊重することであるとの考えに基づくものだ。

創価幼稚園の教育には、カントの主張の実現がある。それは、21世紀は世界が一つになる「地球民族主義」の時代、人間共和の時代にしなければならないとの、明確なビジョンがあってこそ、成り立つといってよい。

母親は、幼稚園で、「地球も人間も同じ生命であり、すべてのものが、互いに関係し合って成り立っている」と、教えていることを知ったのだ。それは、世界市民教育の基礎と言えよう。そこには、創立者の山本伸一の哲学がある。

ーー人間は、自然の恩恵を受けて生きている。したがって、自然を大切にすることが、人間を守ることになる。また、人間は、一人では生きられない。だから、両親や先生、友達などに感謝し、大切にすることだ。そうした考え方が、マレーシア創価幼稚園では、子どもたちの心に育まれている。

また、園児たちが、幼稚園生活のなかで、体験を通して、さまざまな物事を学べるように努力している。料理作りも、その一つである。そのため、子ども用の調理場がある。

子どもたちは、料理の準備を通して、いろいろな食材を知り、幾つ必要なのかなど、楽しみながら、算数も学んでいく。どうすれば安全で、危険なのかを体得し、その作業を通して、日々料理を作ってくれる人への感謝の思いも増していく。

生活のなかで身につけたことは忘れない。それは、一生の土台となる。マレーシア創価幼稚園もマレーシア模範の幼稚園として、高い評価を得ている。

2001年6月ブラジルのサンパウロで、ブラジル創価幼稚園の開園式が行われた。ブラジルSGIでは、1994年から、教育部が、牧口の「創価教育学」に基づく、教育プログラム「牧口プロジェクト」を推進してきた。

初等教育学校で、この授業を受けた子どもたちは、学ぶことに喜びを見いだし、思いやりを身につけるなど、人格的にも大きな成長を遂げていった。その教育実績を知り、「牧口プロジェクト」を取り入れる学校が広がり、百校ほどが実践校となっていった。

その本格的な創価教育の場として、ブラジル創価幼稚園が誕生したのである。同幼稚園では、子どもたちが興味をもてる、生活に即した作業を通して、総合的に、さまざまな事柄が学べるような学習方法がとられていった。

その一つが野菜作りである。子どもたちが、土を耕し、種を蒔き、野菜を育て、収穫する。栽培の仕方だけでなく、生命の不思議さ、尊さを教えていくのである。

子どもたちに、単に知識を詰め込むのではなく、想像力を培い、善、慈悲の心を育む教育への、社会の関心は強く、評価は高い。

ブラジルでは、幼稚園に続いて、初等教育学校も開校。ブラジル創価学園として、人間主義に基づいた一貫教育をめざしている。

2008年の3月には、韓国のソウルに、世界で6番目となる「創価の人間教育」の幼稚園が開園した。
世界のすべての子どもたちが、自ら価値を創造し、幸福を実現していくために、創価教育はある。
伸一は、先師の、その慈愛の一念から生まれた創価教育を、人間主義教育を、人類の未来のために、伝え、生かしていくことを、自らの使命とし、最後の事業としていたのだ。

伸一は、深く、強く、心に誓っていた。
「教育の種を植えれば、未来は、幸の花園になる。
 教育の道を開けば、未来は、平和の沃野へとつながる。
 私は、種を蒔く。
 今日も、明日も・・・。
 私は、この道を開く。
 全精魂を注ぎ尽くして、
 生命ある限り、生命ある限り・・・。
 私の一切は、若き人びとのためにある」とーー。

<未来の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

シンガポール創価幼稚園開園

『新・人間革命』第23巻 未来の章 78p

山本伸一が、香港創価幼稚園を初訪問したのは、開園の翌年となる1993年(平成5年)の5月のことであった。「香港幼稚園は、私の生命也」通訳が、その言葉を伝えると、教員たちは、胸を詰まらせた。感動を覚えた。いや、園児たちも、小さな胸に、伸一の思いを、強く感じ取っていた。

真心には、国境も、年代の壁もない。相手を思う一念から紡ぎ出された言葉は、魂の共鳴板を激しく叩くのだ。

香港創価幼稚園は、開園1年目から高い評価を得ていった。視察に来た園長らは、「多くの教育者に、この幼稚園を見学してもらいたい。きっと教育に対する考え方を、根本から変えることになると思う」との意見もあった。

この香港創価幼稚園の中心となってきたのが、園長の黄瑞玉であった。

彼女は、開園から6年ほどしたころ、癌が発見され、入院した。"園児たちが、山本先生が、私を待っていてくれる。私は、山本先生に代わって、園児たちに生涯を捧げるのだ。絶対に負けるもんか!"やがて、黄園長は病を乗り越え、再び、幼稚園の玄関に立った。

人間教育の根幹をなすものーーそれは、子どもへの愛情である。愛情は、子どもの幸福への願いとなり、その実現こそが、教育の目的であるからだ。

2003年、香港で新型肺炎SARSが猛威をふるった。山本伸一は、ニュースを聞くや、直ちに、子ども用のマスクを大量に購入し、香港創価幼稚園に送った。香港の人びとが、事態の深刻さを意識し、皆がマスクを着用するようになる前のことである。

香港では、すべての幼稚園や学校が休園・休校となった。幼稚園の休園は、2か月近くも続くことになる。教員たちは、知恵を絞った。そして、休園中でも、家庭で学習できるよう、ビデオCDを自分たちでつくり、園児の家庭に送ったのだ。

幼稚園のこの対応は、高く評価され、香港の新聞にも大きく取り上げられたのである。

2006年には、香港政府教育局による香港創価幼稚園の視察が行われた。視察の対象となった35園のうち、創価幼稚園は、卓越した実績で高い評価を受けた4つの幼稚園の1つとなった。

そして、こう総括している「香港創価幼稚園は、保護者のみならず、社会的にも高い評価を得ている。その設備と環境は、まさに教育にふさわしいもので、園児たちはそのなかで楽しく学習している。」

2008年にも視察があり、この評定リポートでも、総合的に高く評価され絶賛されたのである。さらに、2009年には、香港創価幼稚園の教員3人が優れた教育実績をあげた教員に与えられる「行政長官卓越教学賞」に輝いた。同幼稚園「学齢期前教育機関の部」で唯一の受賞となった。

これらは、香港創価幼稚園が、最優秀幼稚園であるとの、政府による証明である。創価教育は、世界普遍の人間教育なのだ。

香港創価幼稚園の開園から4か月半後の1993年1月には、シンガポール創価幼稚園が開園している。シンガポールは、中国系、マレー系、インド系など、民族共存の国である。シンガポール創価幼稚園では、英語と中国とで授業・保育が行われる。

教員たちは、園児が、民族、宗教などの違いを超えて、どうすれば、互いによく理解し合い、心を結び合うことができるかに、力を注いでいった。

伸一は、園長や教員らに訴えた「シンガポール創価幼稚園は、世界市民をつくる、創価教育の原点です。その自負をもって、堂々と進んでください」ここには、民族を越えた、麗しき人間共和の縮図がある――その広がりが、未来の社会となるのだ。

シンガポール創価幼稚園は、開園以来、世界市民を育む語学教育、人間性を育む情操教育、パソコンなどの最新設備を駆使した先端教育が社会の注目を浴びてきた。シンガポール政府からは、「優れた教育プログラムと環境を有する"モデル幼稚園"」と認定されている。

さらに、2007年、同幼稚園の教員が、教育者の「幼児教育最優秀教師賞」に輝いている。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

約束は成長の種子

『新・人間革命』第23巻 未来の章 65p

開園三年目の、1978年(昭和53年)4月の入園式にも、彼はメッセージを贈った。そのなかで伸一は、園児たちに、「三つの約束」をしようと呼びかけた。
一、自分のことは自分でしましょう
一、お友たちと仲よくしましょう
一、明るく元気にあいさつしましょう

約束は、成長の種子である。約束したことは果たそうと心に決めて、日々、努力していくなかに、人間は成長を遂げていくのだ。

未来に希望があれば、人生は幸福である。未来への挑戦があれば、生命は躍動する。羽ばたけ!大いなる明日へ!人類の平和と勝利のために!
山本伸一は、札幌創価幼稚園の園児に、卒園生に、常に、こう心で呼びかけていた。

教員たちも、創価の幼児教育の新しい道を開こうと、懸命であった。基本を教え込むには、忍耐強さが求められる。地味で目立たぬ労作業である。しかし、そこから、すべては開花していくのだ。子どもは、自分のことは自分でできるようになりたいと思っている。

時間はかかっても、やり方を教えるだけで、代わりにやることはしない。問われるのは、教員の粘り強さである。教育は根比べでもある。"だめだ!"と、投げ出すことは、教員自身の敗北を意味する。人を育てることは、自身を磨き、自分を育てていくことでもある。

子どもは、お友だちと仲よくしようとすることで、人を思いやる心を育む。友だちと仲よくしようとするなかで、子どもたちは、社会感覚を培っていく。

園児が、みんなで遊ぶようになると、遊具の奪い合いが始まる。しかし、教員たちは、すぐには止めない。トラブルは、子どもたちが成長していくチャンスだからだ。話し合いをさせるのである。園児たちは、どうすれば、少ない道具で、みんなが遊べるかを考える。そして、順番で使おうということになる。ルール作りが始まるのだ。

教員は、園児の意見を整理しながら、そこに至るまで、忍耐強く待つ。子どもの考えは柔軟である。問題解決の力も持っている。それをいかに引き出していくかが教育である。

札幌創価幼稚園で、最も力を入れてきたのが、山本伸一との「三つの約束」にもある、あいさつの励行であった。

札幌創価幼稚園は開園から35周年(2011年現在)を迎えた。卒園生は6千人を超えている。そのなかには、工学博士もいれば、弁護士もいる。幼稚園・小学校・中学校・高校の教師や、大学で教壇に立つ人など、教育者も多い。また、看護師、栄養士、飛行機の客室乗務員など、実に多彩である。

札幌創価幼稚園の教員にも数人がなっている。「子ども心にも、園児の人格を尊重し、話し合うなかで、物事を解決していこうという先生方の姿勢が感じられました。また、何よりも子どもに体当たりしてくるような情熱を感じていました。だから、幼稚園が、大好きになっていました。そして、大きくなったら、この幼稚園の先生になりたいと思ったんです」

山本伸一は、園児たちに「生涯、この幼稚園を守り抜いてください」と伝言したことがあった。その言葉は、卒園生の心に深く刻まれていったようだ。卒園生の多くが、卒園式や運動会などの催しがあると、勇んで手伝いに駆けつけて来る。それは、よき伝統となっている。

札幌の地に誕生した創価幼稚園に続いて、その後、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル、韓国にも、現地のSGIによって、創価幼稚園が開設されていった。

香港社会は、青年層の占める割合が高い。香港の未来のためには、その子どもたちの世代を育む、幼児教育を充実させる必要がある。それには、まず、優れた幼稚園をつくることだ。一つの立派な手本ができれば、全体が向上、発展するーー伸一は、そう考えていたのである。

また、当時は、97年の香港の中国への返還を前に、海外に移住する動きなどがあり、人びとの心も微妙に揺れていた。そのなかで、伸一は、幼稚園の創立を通して、揺るぎない未来への規模部を送ろうと決意したのである。

1992年の9月、3歳から5歳までの170人が、第一期生として入園し、香港創価幼稚園はスタートした。

太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

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