小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

November 2020

民衆教育の大城

『新・人間革命』第23巻 学光の章 178p

卒業式であいさつに立った、山本伸一の声も弾んでいた。二百人を超す通教生が卒業の栄冠を手にしたことが嬉しくて、嬉しくて仕方なかったのである。この日、彼は、「たゆまぬ努力と実践で、社会で信用を勝ち取ってもらいたい」「生涯、学問をするという姿勢を貫いてもらいたい」との二点を要望し、はなむけの言葉とした。

式典終了後、一人ひとりに卒業証書と、伸一が卒業生のために揮毫した「学光」という書が手渡されていった。その光景を、教室の後方から、家族たちが喜びの涙を浮かべながら見守っていた。

心に勇気の光源をもつ人は、苦しみの暗夜に打ち勝つことができる。闇が深ければ深いほど、仰ぎ見る太陽はまばゆい。

第5回学光祭には、山本伸一も、初めて出席した。通教生は、北は北海道、南は、沖縄、さらに遠く、海外はイラクからも参加していた。「学は光」の合唱を聴いた伸一は、真っ先に拍手を送りながら、「通教生の負けじ魂が、あふれていますね。この"負けるものか!"という一念が、人間を鍛え、強くするんです」

自己に勝つことから、すべての勝利が始まる。ゆえに自分に勝つ心を培うことに、創価の人間教育の眼目がある。

「皆さんは、他人との比較においてではなく、自分自身に根を張った人間の王道を、自分で見いだして、自分でつくり、自分で仕上げていっていただきたい。名誉や、有名であるといったことなどに、とらわれるのではなく生涯、勉学を深めながら、自分らしい、無名の王者の道を生きてください」

1982年(昭和57年)4月には、教育学部の通信教育課程が開設された。これによって、小学校や幼稚園の教員免許状、社会教育主事任用資格の取得も可能になったのである。

84年、学生同士が「建学の精神」学びつつ、互いに励まし合い、卒業をめざすために、希望者からなる都道府県別組織を整備することになった。その学生会の命名を依頼された山本伸一は、「光友会」と名づけた。「学は光」との指針を深く胸に刻み、自らを輝かせながら前進していく友のグループであってほしいーーとの思いからの命名であった。

1985年第10回学光祭が、第一回光友総会の意義を込め、創価大学のグラウンドで行われた。これには、全国から、6千人が喜々として集ってきたのである。

「学問は、宇宙の真理の探究であり、そこには、王道はない。それゆえに、学問の道には、覚悟と努力、そして、強靭な探求心が必要とされます。"なんとかなるだろう"といった安易な気持ちでは、決して達成されるものではないことをしっていただきたい。大学を卒業したといっても、ただ大卒の資格を得ただけで、学問的にも、人間的にも、なんの成長もなければ、大学に学んだ意味はありません。それは、虚像にすぎない。」

伸一は、創立者として、真の人間の生き方を教えたかった。人間の道を教えることにこそ、人間教育のテーマがある。

第13回学光祭にも出席し、フランスの文豪エミール・ゾラの生き方を通して、人間にとって最も大切なことは何かを訴えていった。「強靭な知性があるからこそ、正を正、邪を邪と見抜き、雑音などに紛動されない。また、自己のちっぽけな、濁った私情に負けることなく、恐れなく正義の信念に殉じることができる。」

「学問と教養によって、耕され、練り鍛えられた確固たる人格と知性ーー諸君は、そうした揺るぎなき『人格の人』『知性の人』になっていただきたい」

1999年創価大学本部棟の落成式が行われた。その本部棟の前には、「学光の塔」が凛々しく立っている。搭には、伸一が、創価大学に学ぶ一人ひとりへの期待を込めて綴った一文が刻まれている。「『学は光、無学は闇、知は力、無知は悲劇』これ、創価教育の父・牧口常三郎先生の精神なり。この『学光』を以って永遠に世界を照らしゆくことが、我が創価の誉れある使命である」

創大通教生は日本国内だけでなく、世界に広がっている。また、夫婦や親子で通教に学ぶ人もいる。
何人もの博士号取得者が出ている。

通教生がつかんだ栄冠は、自らの血と汗で勝ち取った人間王者の冠である。創大通教は、まさに「民衆教育の大城」「生涯教育の光城」として、21世紀の大空に燦然とそびえ立ったのだ。創価の師弟の、勝利の光を放ちながら!

<学光の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

通信教育生 第1回卒業式

『新・人間革命』第23巻 学光の章 166p

78年(昭和53年)、第一期生は3年次に入った。3年次からは、すべて専門教育科目となる。30歳を超えたばかりの青年が、専門教育科目の難しさに、投げ出したいと弱音を吐いた。すると、初老の通教生が力を込めて言った。「私はこの年代だから、君よりも大変だ。私の場合、限界に挑戦するなんていうもんじゃない。限界からの挑戦なんだ。君は私よりずっと若いじゃないか。頑張ろうよ!」

厳しくも温かい言葉に、青年は奮起した。限界とは、自らの心がつくりだした幻影ともいえよう。学光祭のこの年のテーマは「限界からの挑戦」であった。それは、通教生たちの実感であり、また、心意気でもあったにちがいない。

夏季スクーリングでは、国家試験の説明会が行われた。参加者の共感を呼んだのは、司法試験に現役合格した創大生の体験発表であった。その挑戦のドラマは、皆の心を大いに鼓舞した。

競艇の選手をしている通教生が参加していた。徳島県の岩川武志である。岩川は決意した。"俺も、国家試験に挑戦してみよう!"体験には、現実に立ち向かう人間の苦悩があり、挑戦があり、実証がある。それゆえに、体験には説得力があり、人の心を動かすのだ。

岩川は競艇選手を引退し、勉強に専念した。しばらくは退職金で生活できるが、それも、2年間が限度である。翌80年初めて司法書士筆記試験を受けた。気ばかり焦り、さんざんな結果に終わった。学光祭に山本伸一が出席し、「自分自身に勝っていく人生を」と訴えた。

岩川は、"そうだ。自分が克服すべき本当の相手は試験ではない。自分自身だ!自分に勝てばよいのだ"彼は、奮い立った。通教生として社会に実証を示したいと、心の底から思った。創大通教の卒業生となり、2度目の司法書士筆記試験を受けた。8月からはタクシーの運転手をしながら発表を待った。
合格だった。その後、口述試験も合格し、晴れて司法書士となったのである。

2度目の国家試験の説明会で、社会保険労務士の合格体験を発表したのが、通教の法学部で4年目を迎えた藤野悦代であった。彼女は8年前に34歳で合格していた。

藤野の夫は、多額の借金を残して行方不明となり、負債が残り、祖母の家に子どもたちと母を連れて身を寄せた。昼は税理士事務所に勤め、夜も経理の仕事をした。将来のことを考え、社会保険労務士の資格を取るしかないと思った。

2度目の挑戦で合格した。女性の社会保険労務士としては、滋賀県の近江八幡市で第一号となった。仕事に取り組むなかで彼女は、民法や民事訴訟法など、多くの法律知識の必要性を痛感した。そして、創価大学に通信教育部が開設されると、法学部に入学したのである。

国家試験の説明会で、藤野の合格体験は、大きな反響を呼んだ。女で一つで三人の子どもを育てながらの、婦人の体験は、多くの参加者に共感をもたらし、"自分もやればできる!"との勇気を与えたのだ。苦労の度が深ければ深いほど、その体験は、多くの人に希望を与えることができる。自分の労苦は、人びとの光となるのである。

彼女は、通信教育も6年間で卒業を勝ち取り、さらに、裁判所の調停委員、司法委員としても活躍。通教で学んだ法律の知識を生かしながら、社会貢献していくことになる。

"通教生が集う機会があれば、私も、できる限り、なんらかのかたちで激励したい!"それが、山本伸一の思いであった。第一回「全国通教生大会」では、終了後に皆と記念撮影をした。

第二回大会では、合宿所でスピーチをした。「万人に学ぶ権利がある。ましてや、懸命に働いている人には、教育を受ける最大の権利がある。」

「大事なことは、前に向かい、光に向かい、向上のための努力をし続けた人が、真実の価値を創造することができるということです。また、そこに幸福があることを忘れないでください」皆が人生の勝利者に、皆が幸福博士にーーそれが、伸一の心からの願いであった。

3月には、創価大学で卒業面接試験が実施された。そして、経済学部、法学部、合計229人の卒業が決まったのである。

3月22日、第6回卒業式が行われたのである。通信教育部にとっては、初めての卒業生を送り出す、記念すべき式典となった。二階席には、通教生を支えた家族たちの姿もあった。

何事かを成し遂げるために、最大の力となるのは、家族の理解と協力である。一人の人の奮闘の陰には、必ず、それを支える人たちがいる。人間として大事なことは、その人たちへの感謝を絶対に忘れないことだ。



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

通信教育部の創立者の自覚

『新・人間革命』第23巻 学光の章 155p

熊本県の洗足信子という婦人は、戦時中英語は敵性後とされ、満足な授業は受けられなかった。戦後は 夫を空襲で亡くし、女で一つで娘を育て働いた。終戦から30年後、再婚後に生まれた次女が創価大学に入学。通信教育部が開設されると、特修生となり、正科生の資格認定試験をめざし、塾にも通って勉強した。

英語は不合格となったが、学べること自体が嬉しくて仕方なかった。あくなき向上心と挑戦心の中にこそ、人生の輝きがあり、充実があるのだ。翌年、洗足は試験に再挑戦して合格。法学部の正科生となった。

スクーリングの時には、世代を超えて、たくさんの友だちもできた。また、創大生の娘と会って、母子で、学業や人生について語り合うことも楽しかった。

通信教育部は、開設から2年目の1977年(昭和52年)には、教職課程が設けられた。既定の科目を履修すると、中学校教諭一級、高等学校教諭2級の社会科の教員免許状を習得できるようになったのである。創価大学の通教からも、教育界に雄飛できる道が開かれたのだ。

創価大学の第7回入学式の祝辞で伸一は 通学課程の新入生にこう語った。「諸君の何倍かの青年たちが、無念の涙をのんでおります。私は、この青年たちがくじけることなく、たくましく立ち上がってくれていると信じてやみません」

この伸一の言葉は、通教第一期生で、埼玉県から参加した福満寿々子の、胸を射貫いた。自分への励ましのように思え、目頭が潤んだ。"私には通信教育がある!"この入学式に参加した福満は決意した。"山本先生は、すべて、わかってくださっている!通教第一期生として卒業しよう"

日の当たる人より陰の人に、勝利の栄冠を手にした人より涙をのんだ人に心を向けることから、人間主義は始まるのだ。

多くの通教生を悩ませたのは、スクーリングに参加する時間を、いかに確保するかであった。全期間の参加となれば、二週間余の休暇が必要となる。それを卒業するまでに、4年間は続けることになるのだ。難色を示す職場も少なくなかった。


宮城県の平山成勝は、医薬品販売会社の社員となった。彼は、新入社員だけに、長期の休暇を取りたいとは、なかなか言い出しかねていた。意を決して上司に打ち明けると、「社員全員の了解がもらえたら、許可しよう」と言われる。平山は 20人ほどの社員、一人ひとりに頭下げて回った。

懸命に仕事に取り組む彼の真剣な訴えに折れ、結局、皆が了解してくれた。熱意なくして成就するものなど何もない。

スクーリングの開校式の時、参加者の代表と記念写真を撮った伸一は、平山に「頑張るんだよ。卒業を待っているよ」と声をかけた。一言の励ましが、人を奮い立たせることもある。「声」は勇気を呼び起こす新風となる。

平山の仕事への真剣な取り組みと、学業への情熱は、社内でも評判になっていった。3年目の夏季スクーリングは、会社の方から「行ってらっしゃい」と言われた。卒業した時には、上司と同僚が祝賀会を開いてくれた。彼は、会社にとって、なくてはならぬ存在になり、職場に信頼の輪を広げていたのである。

何事かをなすには、周囲の理解と協力が必要である。それには、決して周囲に甘えるのではなく、どこまでも、自己に厳しく挑戦していくことを忘れてはならない。その真剣な生き方に、人びとは共感し、支援もしてくれるのである。

スクーリング参加者のなかで、生後5か月の子どもを背負い、授業に出席していた女性がいた。母乳しか飲まないために、連れて来ざるを得なかったのだ。

"無理だとあきらめる前に、挑戦しよう!必ず来年も来ようと"と心に誓った。3回目の時は、3人目の子どもを宿していた。二人の子どもを夫に預けて参加した。そして、山本伸一との心の約束を果たし、通信教育を4年で卒業したのである。その後、創価大学では、検討を重ね、子どもを連れてのスクーリングの参加は自粛することとなっている。

通信教育が2年目を迎えたころから各地で、通教生が集い、定期的な学習会が行われるようになっていった。皆が互いに助け合い、励まし合おうという連帯が、具体的な形となって花開いていったのである。"大学が何をしてくれるかではなく、自分たちが何をするかだ!伝統は、自分たちの手で作っていくものだ!"それが通教生たちの決意であった。

山本伸一が開学式のメッセージで訴えた、皆が「通信教育部の創立者」という呼びかけは、通教生の揺るぎない自覚となっていたのである。

太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

通教生の覚悟

『新・人間革命』第23巻 学光の章 145p

教職員のなかに、この年の春に、通信教育部のインストラクター(添削指導員)として採用された佐江一志がいた。彼は理容師をしながら、定時制高校、大学の通信教育部、二部に学び、大学院の修士・博士課程に進んだ青年であった。

佐江の生い立ちは複雑であった。父親の記憶はなく、父については何も知らされずに育ち、妹たちは、母に育てられたが、彼は祖父母のもとで幼少期を送った。母親への反発から非行に走った。

母親は息子の未来を憂えて学会に入会した。母親が懸命に唱題に励むと、後ろでギターをかき鳴らして妨害した。子を思う母の祈りが通じぬわけがない。佐江は理容師の免許を取り、店に出て働くようになった。この年、親孝行になればとの思いから勧めに従ったのだ。

18歳で、定時制高校に入学した。創価大学の通信教育の構想を知った時、母に尋ねた。「この信心は、必ず願いが叶うというのは本当かな。もし、そうなら、真剣に祈れば、俺でも創価大学の先生になれるのか」ささやかな願望ではあったが、本当になろうなどとは考えていなかった。

なれないに決まっていると思っていたからだ。むしろ、信心に熱心な母親を、困らせてみたいという気持ちの方が強かった。しかし、予想外の言葉が返ってきた。「なれますよ。なれますとも。お前がしっかりと題目を唱え、努力を続けていけば、絶対になれます!」その声は確信にあふれていた。

自分を信じ、期待してくれている人がいるーーそう自覚する時、人は大きな力を発揮することができる。"よしやってみよう!"彼は決意した。

22歳で定時制高校を卒業した佐江は、中央大学法学部の通信教育課程に進んだ。通信教育で単位を修得することは、佐江が予想していたより、はるかに困難であった。彼は二部へ転籍した。しかし、仕事の関係で、授業に出られるのは、定休日の月曜日だけであった。

夏期講習会の時に幹部に指導を受けた時、「本気で現在の境遇と戦う決意が感じられない」と厳しく指導される。その幹部から報告を受けた山本伸一から「勇気」と認めた色紙がおくられる。

佐江の前進に電撃が走った。まさに、自分に足りなかったのは、勇気であると思った。この瞬間彼の一念が変わった。すると、断じて勝ってみせるという挑戦の心がみなぎるのであった。一念の転換こそ、自分の境遇を変え、すべてを変革していく原動力となる。必死の一念は、苦境の岩盤を打ち砕く。

懸命に勉強し、中央大学二部を卒業。さらに、駒澤大学大学院の法学研究科に学び、行政書士、宅地建物取引主任者などの資格試験に合格。創価大学に通信教育部が開設されると、インストラクターに採用されたのだ。

彼は、通信教育部の建設に力を注ぎ、後年、教授となるのである。"創価大学の教員に"との、定時制高校生の夢は現実となった。固い決意、強盛な祈り、不断の努力がある限り、夢は叶う。いや、断じて叶えるのだ。そのための信仰である。

教職員たちは、決意した。"通信教育部から、ダイヤモンドのような多くの逸材を出そう!あらゆる面で、日本一、そして世界最高の通信教育にしよう!"

冬期試験が行われた12月19日には、全国の会場で、第1回正科生資格認定試験も実施された。これは、高校卒業などの資格はないが、通教で科目等を履修してきた特修生が、正科生となるための試験である。科目は、英語、国語、社会であった。試験は、決して容易ではない。しかし、特修生の多くが目標にし、なんと受験者の半数近くが合格し、正科生となったのである。

沖縄県の与那原盛治は、1930年宮古島島で生まれ、国民学校高等科を経て、当時、日本の植民地であった台湾の、逓信講習所の電信科に入った。仕事を始めて8か月で終戦を迎えた。15歳であった。もっと勉強したいという思いはあったが、戦後の激動期を生き抜くのに精いっぱいであった。通信教育部が開設されると、特修生となり、正科生資格認定試験に合格したのだ。46歳の挑戦であった。

与那原は、経済学部の学生となり、4年間で卒業単位を修得。沖縄で、創価大学通信教育部の第一号の卒業生となるのである。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

友情の絆を結ぶスクーリング

『新・人間革命』第23巻 学光の章 131p

夜、伸一は、大学の構内を車で回った。学生寮の近くを通ると、各部屋には、煌々と明かりがともっていた。「通教生は、みんな勉強しているんだね。夜食にパンと牛乳を届けるようにしよう。」
翌日、伸一は、通教生の激励に向かった。

各方面の通教生の代表10人と懇談することにしていた。ブロンズ像の前で、伸一を囲み、立ったまま、語らいが始まった。「このメンバーを『通信使命会』としてはどうでしょうか。何事も、発展していくためには、核となる人たちが必要です。皆さんには、ぜひ、通教生の核となっていただきたい。そして、母校を愛し、母校を守り、発展させていってください。また、まず皆さんが、あらゆる困難を乗り越え、卒業される日を待っています」

通教生たちは、語り合った。「これまで、"経済的に恵まれないために、通教生になった"という思いが強くあった。しかし、今は、むしろ、僕たちこそが、創価教育を体現する使命を担っているんだと思えるようになった。もう闘志満々だ。必ず頑張って、4年で卒業してみせるよ」
人間教育の本義は、一念を転換させ、自分の大いなる価値を目覚めさせることにある。

夏季スクーリングの前期の最終日、「学光祭」が行われた。これは、通教生を慰労し、親睦を深める"夏祭り"として、企画された催しであった。この「学光祭」は、毎年、夏季スクーリング中に行われ、創価大学に学ぶ通教生の伝統行事となっていくのである。

閉講式には、メッセージを託し、奮闘を心から讃えたのである。帰途に就く通教生たちの姿があった。伸一は、急いで車を降りた。"直接会って励まそう!今しかない"瞬時を逃すな。時は再び巡りくると思うなーーそれが、「臨終只今」の決意に生きる、彼の行動哲学であった。

伸一は、メンバーと次々と握手を交わしていった。そして、決意をかみしめるように語った。「私も勉強します。これから、さらに、世界の学者や指導者と、人類の未来のために対談を重ねていきます。学ぼう。学びに学んでいこうよ」伸一の言葉に、通教生たちは粛然とした。その炎のような向学心に、感嘆したのだ。

札幌農学校で初代教頭として教育に当たったクラーク博士は、農学校を去る時、見送りに来た学生たちに「boys be ambitious」との、有名な言葉を残している。クラーク博士の教え子で、札幌農学校の教授も務めた大島正健によれば、クラーク博士は、その言葉に続いて、「like this old man」と語ったという。「この老人」とは、博士自身である。つまり、"自分のように、君たちは大志を抱くのだ!"と叫んだのである。

真の人間教育とは、生き方を通しての、人格的触発によってなされるものだ。ゆえに伸一は常に新しき前進と向上と挑戦を、自らに課し続けていたのである。

通教生たちにとってスクーリングの大きな収穫の一つが、全国各地の学友を知ったことであった。友情という絆を結ぶなかで、個人のもつ勇気が、力が、発揮されるのである。

9月から11月までは、日曜などの休日に行われる秋期スクーリングが実施された。山本伸一は、通教生が集っていることを聞くと、授業終了後、一緒に記念撮影をするよう提案した。そのあと、通信教育を担当している教職員たちにイスを勧め、懇談した。

伸一は、懇願する思いで語った。「通教生は、わが大学の誇りであり、宝です。みんな、苦労しながら学んでいる。そうした人たちのなかから、ダイヤモンドのような逸材が出てくるんです。どうか先生方は、一人ひとりを、心から大切にしていただきたい」

試練に身をさらし、生命を磨いてこそ、人は光り輝いていく。したがって、見方を変えるならば、通教生こそ、自らを輝かせる最高の環境にいるといってもよい。


太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋

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新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


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