小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

October 2020

創価学会は 生涯人生学習

『新・人間革命』第22巻 波濤の章 291p 

女子部の部長から正役職と副役職の関係について質問があった。伸一は、副役職の根本姿勢は、副役職は遠慮し、活動に消極的になったり、組織から遠ざかってはいけないと話し、広宣流布の責任を、どこまで担っているかが、信心のバロメーターだと話した。

「組織につき切って戦い抜いた人と、離れていった人とでは、二年、三年、五年とたった時に、その差は歴然と現れます。」「人間と人間の絆、即ち組織のなかにこそ、仏道修行のための切磋琢磨があり、それによって、教えの流布も可能となるからだ」

「戸田先生は『創価学会仏』と言われた。末法万年の広宣流布のために、大聖人の御意思を受け継いで出現したのが創価学会です。だから、先生は、学会の組織は、ご自身の命よりも大事であると語られている。たとえ、時間的には制約があったとしても、戦う一念は、一歩たりとも退いてはならない」

「正役職の人は、副役職の人が、遠慮して力が発揮できなかったり、寂しさを感じたりすることがないように、しっかり抱きかかえる思いで、スクラムを組むことです。副部長との団結こそが、組織を重厚にし、何があっても崩れない万全な態勢をつくる力になります。」

「それには、まず、情報を共有し合い、副役職の人の意見をよく聞き、動きやすいようにしてあげることもです。何かの部門を担当してもらうこともいいでしょう。」伸一は、組織論の要諦を、未来の指導者となる彼女たちに、しっかりと語っておかなければならないと思った。

組織の強さというのは、正役職者と副役職者との、連携、協力によって決まってしまうといってよい。正役職者が、一人で、すべてをやっていれば、いつか疲れて、行き詰ってしまう。正役職者と心を合わせて働いてくれる副役職者が、何人もいれば、活動も、より重層的になる。

組織の団結とは、まず、この正・副の団結から始まる。そこから異体同心の連帯が広がり、難攻不落の城の石垣のように、堅固にして盤石な組織が出来上がるのだ。

伸一は、小説『坂の上の雲』に登場した大山巌元帥の例を通し、彼は、総参謀長の児玉源太郎らが、やりやすいように一切を任せ、細かな指図などしなかった。最後は、自分が責任をもつから安心して頑張れという、真の包容力があった。「あなたたちもそういう度量の、女性リーダーに育っていくんだよ」

グループ員が自分の言うことを聞いてくれないという質問に伸一は「根本的には題目です。一生懸命に唱題していけば、生命が輝く。そうなれば、磁石のように、人を引き付けていくことができる。みんなが、あなたの言うことを聞くようになっていきます。」

題目をあげていっても 断られてしまうという彼女に「それは、結論を急ぎ過ぎるからです。まず、心を通わせ合うことだよ。人間として打ち解け合い、理解し合っていくことから始めるんです。世間話から、人生には生き方の哲学が必要だという話をし、それから、教学を勉強しようとか、学会の会合に参加してみようと言ってみるんです」

「女子部、婦人部という組織自体が、最大の女性教育機関であることは間違いありません」「学会の女性たちは、仏法の生命哲理を根本に、さまざまな勉強をしている。幸福論、価値論、宗教論、教育論、平和論も学べば、政治、芸術、文化なども勉強している。そして、何よりも人間学に精通している」

「学会には、『知情意』を培う人間教育があります。しかも、学会では、単に教わるだけでなく、同時に、自分も教える側になり、互いに励まし合うという、切磋琢磨がある。また、信心には定年はない。したがって、学会には永遠の生涯教育がある。この伝統を守り、発展させていくことが必要です」

「組織といっても人間関係です。あなたたちが、自分の組織で、一人ひとりと、つながっていくんです。あなたたちが皆から、"あの人に励まされ、私は困難を克服した""あの人に勇気をもらった"と言われる存在になることです。」

伸一は、「青春会」の結成を記念し、記念写真を撮り、色紙に署名した。この日、21世紀の新しき創価の女性運動の流れを開く、人材の核がつくられたのである。新世紀建設の布石がなされたのだ。

「青春会」は、次々と各方面に誕生していった。結成から10年がたち、メンバーの多くは、既に結婚し、婦人部の最前線組織の先頭に立って活躍していた。彼女たちにとっては、環境の大きな変化の時であり、試練の時代であったともいえよう。

ここで、どう頑張り抜くかによって、広宣流布のリーダーとして、頭角を現していけるかどうかが、決定づけられてしまう。いわば、人生の飛躍を決定する正念場であった。

"「女性の世紀」である21世紀を、「青春会」に託すのだ!"伸一も、峯子も、その心で、生命を注ぐ思いで激励し、成長を見守り続けてきた。

遂に、目標とした21世紀。「青春会」は、見事に、婦人部の中核に育った。また、小学校の校長や国会議員など、社会の重責を担っている人もいる。「青春会」は、誓い通りに、皆が人生の本舞台に立った。いよいよ、この世の使命を果たすべき勝負の時を迎えた。創価学会、広宣流布は、その双肩にかかっているのだ。

人間として何をなすのか!弟子として、広宣流布のために何を残すのか!伸一は、師弟の道を貫く彼女たちの、尊き栄光の人生を、峯子と共に、ますます健康で、永遠に見守り続けていこうと、心に誓うのであった。
<波濤の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

女子部 人材育成グループ 青春会結成

『新・人間革命』第22巻 波濤の章 277p 

女子学生との師弟の語らいが行われた9月9日は、後に「女子学生部の日」となるのである。青春時代に「誓い」という種子を植えなくては、人は大樹へと育つことはない。誓いこそが、青春の源泉となるの
だ。

山本伸一は、「御殿場家族友好の集い」に出席した。彼は、御殿場の大発展への期待を述べたあと、集った女子部員への指針ともなるよう、人生の幸福について語っていった。「人生には、嬉しいこともあれば、辛く、悲しいこともあります。しかし、病や経済苦など、さまざまな試練が打ち続いたからと言って、それが、そのまま、不幸につながるとは限りません。」

"よし、負けないぞ必ず勝利して見せる"との強い心で、希望に燃えて前進している人にとっては、苦難もまた、歓喜となります。その強き心を培い、挑戦と歓喜の生命を湧現させていく根源の力が題目なんです。」

「皆さんは胸中に、永遠に崩れざることのない、最高の宮殿があるんです。その宮殿の扉を開くカギこそ、南無妙法蓮華経であり、信心であると訴えておきたい」

「女子部の皆さんは、やがて結婚し、ご主人のご両親と、一緒に暮らすようになる人もいるでしょう。その時に、お舅さん、お姑さんを、恩人と思い、大切な人生の先輩として、最高に遇していくことです。お年寄りを大切にすれば、将来、自分が大切にされます。それが因果の理法です。」

女子部の人材育成グルーフ゜のメンバーと一緒に勤行をすることにしていた。「今日で、21世紀の新しい流れが決まるよ。今日、集まったメンバーは、やがて、21世紀の大リーダーとなる女子たちだ。女子部が総力をあげ、探しに探し選びに選んだ、多彩な一級の人材だよ」

伸一は女子部から人材育成グループを結成してほしいとの話を受け、次代の婦人部の中核、21世紀を担う、女性リーダーを育成するグループにしようと提案。メンバーの人選の基準を尋ねられた。

「人選基準の第一は、学会の組織のリーダーとしてふさわしい人だけを選ぶのではなく、社会で活躍し、各界の女性リーダーとなる人も選んでいくことだ。『仏法即社会』という観点から、多彩な人材を集めるようにしてはどうだろうか」「それから教学の力をのある人を選ぼう。」

「さらに、最も大事なことは、広宣流布の使命に生き抜く決意がある人を探すことだ。」「そして、人間的な魅力も大事だね。誰もが、"さわやかな人だ。私も、あのようになりたい"と憧れをいだくような人だ」

「ともかく、女子部の首脳が、みんなで力を合わせて、人材を探し出すんだよ。人材を見つけるということは、自分の眼、境涯が試されることでもある。」「自分に人材を見極める目がなく、境涯が低くければ、相手のすばらしさを見抜くことができない。だから、自分を見つめ、唱題し、境涯を高めていくことだ」

人材を見つけようとすることは、人の長所を見抜く力を磨くことだ。それには、自身の慢心を打ち破り、万人から学ぼうとする、謙虚な心がなければならない。まさに、人間革命の戦いであるといってよい。

人を育てることによって、自分も成長することができる。「人材は見つけて、育てるものだ。共に広宣流布へ戦うなかで、共に育つのだ」とは、戸田城聖の教えであった。

人材育成グループの結成式となる懇談会が始まった。グループの名前は「青春会」と決まった。21世紀の女性リーダーに育っていくために、読書の大切さを訴えた。

「人生の確かな哲学の骨格をつくる意味から、まず、御書を読破していくようにしたい。私の著作も、よく読んで思索し、そこから未来の展望を開いていっていただきたい。私は、これからも、皆さんのために、後世のために、あらゆることを書き残していきます」

"広宣流布の道は、熾烈な攻防戦だ。慢心や甘え、いい加減さ、うまく立ち回って楽をしようなどという心があれば、広宣流布は衰退を招いてしまうだろう。あなたたちは、21世紀初めの広宣流布を担う、責任世代だ。あなたたちの決意と成長と戦いのいかんで、21世紀は決まる。創価学会を永遠ならしめるかどうかのカギは、まさに、あなたたちが握っているのだ。"伸一は、彼女たちを育てるために、全生命を注ぎ尽くそうと、決意を固めるのであった。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

女子部学生局への開目抄講義

『新・人間革命』第22巻 波濤の章 262p 

伸一は、自分と同じ心で、平和・文化交流の道を切り開こうとするメンバーの意思を、何よりも大事にしたかったのである。そして、極東大学と「波濤会」の共催による、ロシアのウラジオストク市での写真展が決まったのである。

師に応えようとの弟子の一念が、世界での初の写真展を実現したのだ。師弟の道に生きる時、無限の力と知恵ががみなぎる。

2008年(平成20年)の6月には、イギリスのロンドンにあるIMO(国際海事機関)の本部でも開催された。海外10カ国目の開催となった、この写真展には、英国王室をはじめ、各国の大使など多くの来賓が訪れて鑑賞し、大好評を博したのである。

「波濤会」は外国航路の船員という、日ごろ、学会活動に参加できず、悩んでいた青年たちに光を当てるところから始まったグループである。しかし、使命を自覚した彼らは、逆境をはねのけ、世界広布の先駆者として立ったのだ。

そして、海運業界に勇気の光を送る、希望の灯台となった。また、世界に平和と文化の橋を架ける、民衆交流のパイロット(水先案内人)となったのである。誰もが使命の人なのだ。誰もが勝利の人なのだ。

山本伸一は、1975年の秋、未来のために、若い女性たちを育てることに、全力を注いでいた。伸一は、女子部学生局の幹部会に出席した。伸一を初めて目の当たりにしたメンバーも少なくなかった。

『開目抄』の「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」をひき、ここには、大聖人の透徹した信念の獅子吼があり、一生成仏という自信の崩れざる幸福境涯を確立し、万人の幸福と平和の道を開くには、広宣流布の「誓願」に生き抜かなければならない。だが、そこには、大難が待ち受けている。ゆえに、「不退の心」が不可欠となる。

集った女子学生の前途には、就職、結婚、出産など、さまざまな人生の転機や、環境の変化があろう。そこで、負け、信心から離れてしまえば、退転の道に堕していってしまうことになる。

「『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』と仰せになっている。いかなる理由があろうが、信心を捨てれば敗北です。不幸です。地獄のような、厳しい苦悩の生命に堕ちていく。どうか、この御聖訓を絶対に忘れないでいただきたい。」

「大聖人は、一切経を学び究めており、いかなる批判も、木っ端微塵に粉砕していった。まさに言論闘争の王者であられた。いかに最高の法を持っていても、論破されてしまえば、正法正義とは言えません。正義なればこそ、断じて勝たねばならない。ゆえに、言論の王者となって、学会を守り、民衆を守っていくことは、最高学府で学んだ皆さんの責任であり、使命です。そのために、学びに学び、書きに書いていくんです。これからは、女性が言論の潮流を、世論をつくる時代です」

「今や学会は日本一の大教団になりました。嫉妬されて、非難・中傷されるのは当然です。船が動けば波が立つようなものです。創価学会も、また私も、さらに攻撃されるでしょう。戸田先生はよく『社会
が創価学会の真価をわかるまでには、二百年かかるだろう。学会は歴史上、かつてない団体だから、誰も、その本当のすばらしさがわからないのだ』と言われておりました。」

「どうか皆さんは、いかなる試練があったとしても、目先のことに一喜一憂するのではなく、もっと長い尺度で物事を見ながら、信念の人生を歩み抜いていただきたいのであります」伸一の話は「開目抄」を通しての信心の究極の指導であった。自身の生涯にわたる生き方が問われる、峻厳な内容であった。

「信心、学会活動は、若い時代に、"自分としてやるべきことは、すべてやった。ここまでやった。悔いはない"と言えるようにがんばることです。『所願満足』と言いますが、広宣流布のために戦い切ったという満足感が、人生の『所願満足』の土台となり、未来にわたる幸福、福運の、盤石な礎になっていくんです。また、今世の広宣流布に生き抜いた満足感が、来世を決定づけていきます。ゆえに、信心を離れては、未来の幸福も、来世の幸福もないことを知ってください」

伸一は、この日、夜の会合の終了時間は 8時30分にするとの提案を行い「8・30」運動は翌日決議された。時間革命である。これは、一人ひとりの価値創造につながっていく大事な提案であった。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

波濤を越えて「働く海の男の写真展」

『新・人間革命』第22巻 波濤の章 246p 

「尾道丸」の海難事故を受け、運輸省は、船の強度や三角波の実態など、本格的に研究が進めれた。その結果、コンピューターによる安全運行システムが開発され、船の設計基準も大きく変わっていった。それによって、"魔の海域"での海難事故は激減していくことになる。

「だんぴあ丸」による「尾道丸」の救助活動は、その後、何度か、テレビのドキュメンタリー番組などに取り上げられ、NHK総合テレビの「プロジェクトX~挑戦者たち~」が、この救出劇を取り上げた。それは日本中に大きな感動を広げた。

1982年(昭和57年)3月第1回の「波濤会総会」が開催された。伸一は、全精魂を傾ける思いでスピーチした。「行き詰ってしまい、もう自分の人生は駄目なのかと、思うこともあるかもしれない。しかし、何があろうが、信心から離れてはならない。苦境に陥った時こそ、祈って祈って、祈り抜くんです。広宣流布のために戦い切っていくんです。その時こそが、宿命打開のチャンスなんです」

伸一は必死であった。海運業界は、今後、ますます厳しくなっていくであろうことを、強く感じていた。1985年9月、ドル高修正に向けて協調介入をとっていく「プラザ合意」で1ドル240円前後から、2年後には、120円台になるという、急速な円高となっていった。

海運会社は日本人船員の削減を進め、5万5千人近かった日本人船員が、89年には1万1千となった。海運業界の前途は暗澹としていた。

"船員たちになんらかのかたちで、希望と勇気と誇りを与えることはできないものか"メンバーの間から「波濤会」のメンバーによる写真展の開催が提案された。

学会の週刊写真誌「聖教グラフ」では、「波濤を越えて」と題するメンバーが撮影したカラー写真と紀行文からなる連載を続けていた。なかなか行けない場所や、航海中でなければ出会えない珍しい光景が撮影され、迫力に富み、好評を博していたのである。

山本伸一に、メンバーの考えと決意を伝える手紙をしたためた。伸一は手紙を読むと「メンバーは、自分たちの明日が、どうなるかもわからないような状況のなかで、海運業界を元気づけようというのだ。その心意気が嬉しいね。これが、学会の精神だ。」

「学会の草創期、学会員は、みんな貧しく、病気や家庭不和などの悩みをかかえていた。しかし、そのなかで、自分たちが日本中の人を幸せにするのだといって、意気揚々と折伏に走った。自分の悩みなどを突き抜けて、友のため、社会のために、懸命に戦ってきた。大事なことは心意気だ」


写真展は「波濤を越えてーー働く海の男の写真展」のタイトルで、横浜にある、日本丸メモリアルパークの訓練センターで開催されることが決まった。彼らは会社の社長や上司、同僚、組合関係者、海運の各種団体などを回っては、写真展の趣旨を訴え、出席を呼びかけた。


海運会社のある重役の問いに、メンバーは胸を張って答えた。「仏法を持った者として、業界が大変な時だけに、なんらかのかたちでエールを送りたいと思いました」

開幕式には東京商船大学の学長や日本船長協会の会長をはじめ、多くの海運関係者が出席。鑑賞者は最終的に2千人を超えた。

第二回の写真展が開幕した1988年、伸一は 波濤会の代表を招いて懇談した。そして、「波濤会」の写真を、伸一の写真展と一緒にセットで 世界に巡回させることを伝えた。さらに、ソ連の海運大臣と会談した折、波濤会のメンバーの活躍を紹介し、交流を検討するよう話した。

それを知ったメンバーは"日ソ友好のために、力を尽くしていこう!"とさまざまな可能性を探った。ロシアを訪問する豪華客船の乗組員のなかにいた波濤会メンバーが、通訳にあたっていたロシアの極東国立総合大学の学生たちと友好を結び、個人的にも交流に努め、何度かウラジオストクを訪問した。

交流の種子が蒔かれた、丹精して育て上げることだ。誠実な交流を重ねてこそ、種は芽吹き、友情の花は開く。彼らは、学生たちからS・N・イリイン東洋学部長を紹介され、大学で、写真展を開催してはどうかと提案し、実現させようとの話がまとまった。

メンバーから報告を聞き、学会本部の首脳たちは戸惑った。大学に打診する前に、学会本部とよく連携を取り、一つ一つ判断を仰いで事を進めるのが、鉄則である。事は、創価学会と極東大学、創価学会とロシアという問題になるからだ。

当時、ロシアではソ連崩壊後の社会的な混乱が続いていた。そのなかにあって、極東大学で写真展を開催することに、学会本部の首脳たちは慎重にならざるを得なかったのだ。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

魔の海域での 救助活動

『新・人間革命』第22巻 波濤の章 216p 

「波濤会」の結成大会が行われたのは、1971年(昭和46年)8月10日であった。

「波濤会」の結成は、機関誌である聖教新聞にも報じられ、その知らせは、大きな衝撃をもたらした。船員のメンバーの多くが、自己の使命を自覚し、仕事に誇りをもった。

そして、「波濤会」のメンバーになることを目標に、喜び勇んで信心に励むようになっていった。自分の一念が変わる時、自分のいる世界が変わる。それが仏法の変革の方程式である。

創価大学で開催された、の75年の夏期講習会には、約70人のメンバーが参加し、念願であった、山本会長との記念撮影が行われたのである。伸一は言った。「一人立つのが獅子です。」「諸君も"広布丸"の船長の自覚で、いかなる人生の怒涛も、嵐も堂々と乗り越えていっていただきたい。」

実は、このころ、海運業界にかげりが見え始めていたのだ。1973年に起こった、第一次オイルショックによる世界的な不況のなかで、海上輸送量は減少し、海運業界は深刻な経営不振に陥っていた。賃金の安い外国人を乗組員として雇い入れ、コストを下げるのである。それは、日本人船員の雇用を脅かしていった。

伸一は、そうした海運業界の厳しい状況を知り、心を痛めていた。それだけに、「波濤会」のメンバーには、断固として未来の活路を切り開いていってほしかった。

結成10周年にあたる81年の4月には「波濤会」の家族勤行会が学会本部で行われた。

これは、伸一の提案によって開催されたものであった。「みんなが、そうして頑張れるのも、留守を支える奥さんや家族の陰の力があるからだ。」

夫の働きを支えているのは妻の力である。男性は、妻や家族の応援を当然と思うのではなく、感謝の心を忘れないことだ。


この勤行会で、大きな感動を呼んだのが、「波濤会」第6期生の大崎哲也が行った、難波船の救助活動の体験発表であった。

前年の1980年12月30日、大崎が船長を務める大型鉱石専用船「だんぴあ丸」は、鉄鉱石を満載して、南米チリから日本をめざし、千葉県・野島崎の東南東約1500キロの北太平洋上を航行していた。この辺りは、冬場は大しけが続き、"魔の海域"と言われ、以前から、海難事故が絶えない場所であった。

「だんぴあ丸」はSOSを受信した。救助を求めてきたのは貨物船「尾道丸」で、大シケで船首をへし折られたというのだ。避難場所までは、約30マイル(50キロ)ほど離れていた。救助に向かえば「だんぴあ丸」が、遭難しかねない暴風雨である。

到着予定も2日遅れになっていた。船の遅れは1日につき、約250万円の損害をもたらすといわれていた。しかし、大崎は救助に向かう決断をする。「波濤会」の誇りが、万難を排して救援に向かう、勇断をもたらしたのだ。

大崎は「尾道丸」の船体が水平に保たれていることや、船倉に粉炭を満載していて、浸水には時間がかかると判断。すぐには沈まないことを告げ、乗組員を安心させ、救助は夜明けを待ってからと告げた。
操機長の赤城は「題目をあげましょう」と励ましてくれた。

夜が明けても海は大シケのままであった。「尾道丸」の乗組員の忍耐は限界に達していた。その時、大波が船を襲う状況を見て、「尾道丸」は、焦らず、もう一日待つとの連絡が入る。
大崎は守られたと思った。乗組員が冷静さを取り戻し、待つ気持ちになってくれたのだ。

元日の午前7時半、救助が開始された。途中強いスコールに襲われたが、救助作業にあたった乗組員は団結し、全員無事に救助することに成功した。一人でも犠牲を出していたら、「尾道丸」の船長は"生きてはいられなかった"と打ち明けた。

船長の大崎はじめ、「だんぴあ丸」の乗組員は、民間の海難救助として、初の総理大臣表彰を受けることになる。大崎は、ふさぎこむ船長の北川が気がかりで、励まし続けるうちに仏法対話となり、北川は、この救助の翌年に入会している。

運輸省は、海難事故の技術検討会を設置し、大型船遭難のメカニズムの研究に乗り出し、事故の原因は、波浪による衝撃現象の実態が解明されていないためであると審判が下され、北川には、職務上の過失はなかったことが明らかになったのである。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋

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