小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

September 2020

ペッチェイ博士との対談集「手遅れにならないうちに」

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 248P~ 

ペッチェイ博士は、破滅へと向かう人類の歩みを回避するために、新たな突破口を見いだそうと、必死であったにちがいない。その懸命な一念と強い責任感が、鋭い眼光となって、仏法者の伸一に注がれた。


進歩した技術を人間の幸福と繁栄のために使っていくうえで、何が必要かを、博士は力を込めて語った。「それは『人間精神のルネサンス』です。『人間自身の革命』です。山本先生は、そのことを以前から主張されてきた。私はそこに注目しておりました。」大至急、手を打て!まだ、時間があるうちにーーそれが博士の叫びであった。

そして、怒りをかみしめるように、拳を握って言った。「私は、変節漢が一番嫌いです!」山本伸一は博士の気持ちがよくわかった。

青年時代、戸田城聖の会社に勤務していた時、戸田の事業が行き詰まると、社員たちのなかには、戸田を恨み、罵倒しながら去っていく者が後を絶たなかった。伸一は、その変節と臆病に、強い憤りと、哀れさを覚えたことが忘れられなかった。

変節は自身の敗北であるだけでなく、同志への裏切りである。裏切りは古来、人間として最も醜悪な行為であった。

日本の進むべき道が話題になった時、伸一は、言った。「日本は、政治、経済の次元で世界をリードしていこうというのではなく、新たな方向性を考えるべきです。」

「これからの日本は、平和主義、文化主義の旗頭として、国際社会に、人類に貢献すべきです。つまり、"軍事大国""経済大国"をめざすのではなく、"平和大国""文化大国"をめざすべきです。そして世界にあって、東西の、また、南北の、文化の架け橋となっていくことです。そのためには、グローバルな視野に立った人間教育、平和教育が必要になります」

対談は、人間革命に始まり、また、人間革命に至った。博士は尋ねた。「人類の人間革命を成し遂げていくには、どれぐらいの時間が必要でしょうか。人間自身の変革を百年待つことは、とてもできません。急がねばならないのです」

伸一は、答えた。「人間を変革する運動は漸進的です。かなりの時を要します。しかし、行動せずしては、種を蒔かずしては、事態は開けません。私は、今世紀に解決の端緒だけは開きたいと思っています。そのために、これまでにも増して、さまざまな角度から、さらに提言を重ね、警鐘を発していく決意です。また、エゴイズムの根本的な解決のために、私どもの人間革命運動に、一段と力を注ぎます」

約束の二時間半は、あっという間に過ぎてしまった。そこで二人は、今後も会談と書簡によって意見交換を続け、将来は人類の啓発のために、対談集を出版していくことを確認し合った。

博士は各国語での発刊を希望し、出版を急ぎたいとの意向であった。「人類の未来のために一刻も早く!」というのが、口癖であった。

最後の会談となった83年のパリでの会談では、パリの空港で、荷物を全部盗まれたが、盗難届を出すのも後回しにして、駆けつけてくれたのだ。翌1984年3月、博士は75歳で他界した。

その直後、対談集は、まずドイツ語版『手遅れにならないうちに』が発刊になった。日本語版タイトルは『21世紀への警鐘』である。対談集は、その後、中国語、スペイン語などに翻訳され、17点が出版されることになる。

ペッチェイ博士との会談を終えた山本伸一と峯子は、パリ会館を隈なく見て回った。彼は、陰の力として、それを支えてきた役員をねぎらい、励ましたかったのである。

川崎が、20代半ばの、温厚そうな日本人青年を紹介した。千田芳人は、フランスの菓子コンクールのなかでも伝統と権威がある「シャルル・ブルースト杯コンクール」で金賞を受賞した。日本人初の金賞受賞者となったのである。彼がパリに来たのは、7年前のことであった。

千田の一家は、彼が小学生の時に、学会に入会していたが、千田自身は自覚はなかった。それでも、パリで、創価学会と聞くと、懐かしい響きを感じ、誘われるままに学会の会館に行ってみた。この時、フランス人メンバーの言葉が、彼の胸に突き刺さった。

「この最高にすばらしい生命哲学は、日本から起こっているのよ。それなのに、なんで日本人のあなたが、信心に励まないのですか」千田は「灯台下暗し」であったと思った。恥ずかしい気がした。



太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


励まし社会の創出

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 248P~ 

ヂュプロン総長とは、二年前のパリ大学ソルボンヌ校訪問の折にも語り合っていた。伸一は、グローバルな視野に立つ世界市民の育成という役割を、教育は担わなければならないことを訴えた。教育談義は弾み、深い意義を刻みながら時間は過ぎていった。

翌15日、川崎鋭治が1961年9月にヨーロッパに渡って、今年で15年目になることから、その記念の意義を込めた集会がパリ会館で行われた。これは、ヨーロッパの中心者として道を切り開いてきた川崎の功労を讃えるために、伸一が提案したものであった。

励ましとは、安心と希望と勇気を与えることである。相手の生命を燃え上がらせ、何ものにも負けない力を引き出す、精神の触発作業である。励ましの本義は、相手の幸福を願う心にある。

法華経に説かれた不軽菩薩は、あらゆる人びとに対して、礼儀を、正義を尽くして、礼拝していった。だが、人びとは彼を杖や木で打ちすえ、瓦や石をぶつけた。それでも、彼は、それぞれのもつ無限の可能性を教え抜いていったのだ。この不軽菩薩の生き方にこそ、励ましの原点がある。

創価学会のめざす広宣流布とは一次元から言えば、"励まし社会"の創出である。競争社会の様相を濃くし、互いに足を引っ張り合い、嫉妬、憎悪、いじめなどが横行しているのが現代社会である。利己主義が蔓延し、人びとの心と心は分断され、閉ざされているといっても過言ではない。

励ましの対話によって、その心を開き、勇気と希望の光を送り、人間と人間の善の連帯をつくりあげていくのが、創価学会の運動である。

伸一は、川崎鋭治に創価学会「副会長」の称号を授与した。苦楽を共にしてきたメンバーは、心から祝福の拍手を送った。共に喜べてこそ、真の同志であり、高く大きな境涯の人と言えよう。また、皆と団結していくことができる異体同心の信心の人である。


しかし、同志を羨み、さらには嫉妬したりするのは、名聞名利の心に支配された、低く小さな境涯の表れといえよう。また、異体異心の信心の姿といわざるをえない。

小さな自己を乗り越えて、同志の栄光を心から喜べる自分になることこそが、人間革命なのである。

5月16日、伸一は川崎鋭治と共に、フランスの大統領官邸であるエリゼ宮を訪問し、クロード・ピエール・ブロソレット大統領府事務局長と会見した。

会談が終わると、パリ会館で、ローマクラブの創立者であるアウレリオ・ペッチェイ博士を迎えることになっていた。二年前、トインビー博士が「これは、私の友人の名前です。可能ならば、お会いしていただければと思う人たちです」と言って何人もの錚々たる世界的な学識者などの名を記したメモを伸一あてに託したのだ。

その一人がペッチェイ博士であった。彼は、人類の未来のためには、人間性を革命しなければならないと訴え、人類の危機を回避するために、民間組織ローマクラブを発足した。

「人類の危機」リポートを発表し、このままでは、100年以内に人類は破滅的な事態を迎えかねないと警告を発したのだ。

伸一は、ローマ法王庁から正式な招待を受け、バチカンでローマ法王と会見することが決まっていた。ローマ法王庁の関係者とは、既に8年前から対話を始めていた。カトリックと仏教が互いに理解を深め、世界平和を築くための共通の土台をつくっていきたいとの、意見の一致も見ていたのだ。

しかし、出発直前になって、日蓮正宗の宗門は難色を示し始めた。宗門の最終的な賛同が得られない限り、中止せざるをえなかった。この会見が実現すれば、どれほど有意義な世界平和への語らいがなされたことだろうか。


イタリアの空港がストライキで便の発着が不安定な状態でもあり、ローマ訪問を取りやめた。すると、博士は、自ら パリ会館に訪れたのである。この日は、ちょうど、ペッチェイ博士の婦人の誕生日であった。そんな大切な日に、わざわざ伸一に会うためにイタリアから駆けつけてくれたのである。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


伸一会結成

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 238P~

青年部長をはじめ、百人近い青年たちがいた。いずれも青年部の最高幹部や各方面の男子部、学生部の中心幹部たちである。「私はこの日を待っていたんだ。」

「このグループは、あえて私の名を取って、『伸一会』と命名します。『俺たちがいれば大丈夫だ!学会は微動だにしない!』と胸を張って言えるようになってもらいたい。それには、団結だ。」

「決して、"自分たちは特別だ!"などという意識をもってはならない。そういう思い上がった心をもった者は、必ず退転していきます」伸一は、鋭い視線で参加者を見渡した。

伸一はこのメンバーには、なんとしても、自分の「志」を受け継ぐ後継者として立ち上がってほしいとの念願から、自信が第三代会長として立った、この5月3日を、「伸一会」の結成の日としたのである。

「5・3」の祝賀行事として、5日には 記念の本部幹部会が、開催された。全国の同志は、伸一の会長就任15周年を心から祝福しようと、この一連の記念行事に集ってきた。しかし、その集いは、伸一の方が皆を祝福し、励ます場となった。

彼は、いかなる団体や組織も、繁栄、安定していった時に、衰退の要因がつくられることをよく知っていた。「魚は頭から腐る」といわれるように、繁栄に慣れると、ともすれば幹部が、怠惰や傲慢、保身に陥り、皆のために尽そうといいう心を忘れてしまうからである。

学会の幹部は広宣流布と同志に奉仕するためにいるのだ。それを忘れてしまえば、待っているのは崩壊である。しかし、健気な奉仕の実践が幹部にあるならば、学会は永遠に栄えていくことは間違いない。

大切なのは、"あそこまで自分を犠牲にして尽くすのがリーダーなのか"と、皆が驚くような率先垂範の行動だ。伸一は会長就任15周年の佳節にあたり、そのことを身をもって示しておきたかったのである。

記念行事を終えた山本伸一は、5月13日には、フランス・イギリス・ソ連訪問に出発した。アメリカ、中国に続いて、この年、3度目となる海外訪問である。

伸一は語りかけた。「出迎え、ありがとう。川崎さん、私は、新しい歴史を創る旅をするからね。これまでの何倍も懸命に働きます。一日一日が真剣勝負です」

川崎は、これまで伸一と共に、ヨーロッパ各地を回ってきた。常に伸一は真剣勝負であった。息継ぐ間もないほどの、全力投球の連続であった。それなのに今回は、その何倍も、懸命に働くというのだ。

「私と一緒に行動していくなかで、境涯を大きく開いてほしい。私の身近にいる日本の最高幹部が、惰性に陥ったりした時には、すぐに指摘し、励ましてあげることができる。しかし、海外の中心者というのは、普段は励ましてくれる人も、指導してくれる人もいない。」

「自由でいいように思えるかもしれないが、それだと、どうしても惰性に陥り、新しい挑戦の意欲を失ってしまいがちだ。また、ともすれば、わがままや自分勝手になってしまい、場合によっては信心の軌道を踏み外してしまうことにもなりかねない。」

「惰性というのは怖いものだ。いつの間にか、自分をむしばんでいく。たとえば、本来、百の力をもっていたとしても、惰性に陥り、挑戦を怠り、70の力しか出さなければ、70が、30の力しか出さなければ30が、自分の力になってしまう。」

「人間というものは、どうしても、人に言われないと、自分の弱い面、悪い面に傾斜していってしまい、挑戦の心を失ってしまうものだ。それを打ち破るためには、常に求道心を燃やして、師匠を求めていくことが大事になる。」

「師匠というのは、惰性を破り、自信を高めていくための触発の力なんだよ。その触発がないということほど、不幸なものはない」

翌14日、山本伸一は妻の峯子らとともに、パリ大学ソルボンヌ校を訪問し、アルフォンス・デュプロン総長と会談した。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


会長就任15周年

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 225P~

<共鳴音の章 開始>

1975年(昭和50年)5月3日は、山本伸一の会長就任15周年の佳節であった。彼が第三代か町会長に就任して以来、創価学会は未曽有の大発展を遂げ、15年前と現在とでは、隔世の感があった。

今や、事実上、日本第一の大教団に発展し、世界各地にメンバーのスクラムは広がっていた。また、東京の創価牛学・高校、創価大学、大阪の創価女子中学・高校、民音、富士美術館などが相次いで創立され、教育・文化面でも、社会に大きく貢献してきた。

さらに、政治の分野では公明党が結成され、福祉をはじめ、民衆のための政治を推進し、日本の政治を支える柱の一つとなった。

創価学会の目的は広宣流布にあり、さらには「立正安国」の実現にある。「安国」なき「立正」は、宗教の無力さを意味していよう。また、「安国」がなければ、個人の幸福の実現もない。ゆえに、「立正安国」にこそ、仏法者の使命がある。

伸一は「立正安国」を実現するために、仏法の人間主義の旗のもと、教育、文化、政治など、あらゆる分野の建設に着手してきた。それは、苦闘の歳月であった。

5月3日には、東京・八王子の創価大学中央体育館で「5・3」記念式典が開催された。「祝典序曲」の力強い演奏で幕を開けた式典は、「創価功労章」「国際功労賞」「広布文化賞」「広布功労賞」の受賞が行われた。これらの賞は、"功労のあった同志を最大に顕彰したい"との思いから、伸一が提案し、設けられたものである。

伸一は、共に学会のため、広宣流布のために奮闘してくれた同志を賞讃し、顕彰していく流れを厳然とつくっておきたかったのである。

「日興遺誡置文」には『身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信教を致す可き事』と認められている。広宣流布の功労者、実践者、智者を敬いなさいという、こうした遺誡は、26箇条のうち4箇条もあるのだ。

伸一は、青年部のリーダーであった時から、戸田の精神を継承し、同志の賞賛と励ましには最も心を配ってきたのだ。貯金をはたいてノートや筆記用具などを大量に購入し、健気に奮闘する同志にプレゼントし、激励してきた。持ってきた品々がなくなると、自分が使っている万年筆や、ネクタイ、時にはベルトまで贈って励ますことさえあった。

一度の励ましや顕彰が、人生の大きな転機となることもある。ゆえに伸一は、物を惜しむ気にはなれなかった。

伸一が「戸田大学」で懸命に学んでいたある時、戸田は、机の上にあった一輪の花を取って伸一の胸に挿した。「この講義を終了した優等生への勲章だ。伸一は、本当によくやってくれているな。金時計でも授けたいが、何もない。すまんな」広宣流布の大師匠からの真心の賞賛である。伸一は、その花こそ、世界中のいかなるものにも勝る、最高に栄誉ある勲章であると思った。感動を覚えた。

伸一は、後年、世界各国から、多くの国家勲章を受けている。彼は、その根本原因こそ、生命の因果の法則のうえから、師匠より賜った一輪の花に対する感謝と、ますますの精進を誓った「心」にそあったと、深く、強く、確信しているのである。

式典は、伸一の話となった。「・・・前進が加速すればするほど、風も強くなるのは道理であります。したがって、ますます発展しゆく創価学会に、さまざまな試練が待ち受けているのは当然であります。"まさか!"と思うような予想外の大難も必ずあるでしょう。だからこそ、日蓮大聖人は『魔競わずは正法と知るべからず』と仰せなんです」未来を予見するかのような言葉であった。

「私は、いかなる事態になろうとも、情勢がどう変わろうとも、今までの10倍、20倍、30倍、50倍と力を尽くし、皆さんを、創価学会を守り抜いてまいります。」

このあと、伸一は、海外からの来賓と会談し、さらに創価大学の構内で行われた男子部、学生部の代表の集いに出席したのである。

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


武漢、上海と結ぶ 人間の絆

『新・人間革命』第21巻 人間外交の章 200P~

1975年(昭和50年)4月17日、北京でシアヌーク殿下との会見を終えた山本伸一は、この夜、武漢に移動した。殿下との会見のあと、記者会見や中日友好協会のメンバーとの懇談会を行い、午後7時10分発の列車で、慌ただしく武漢へ出発したのである。北京からは、河北省、河南省を縦断し、黄河を越える約17時間の旅となる。

日中戦争では、日本軍は武漢を攻略。その折、ここで毒ガスを使用するなど、非道な蹂躙が行われたのだ。伸一の長兄も、徴兵され、武漢に行かされたことあった。「日本兵は残虐だ。あれでは、中国人がかわいそうだ。日本はいい気になっている!」兄は何を見たかを語ろうとはしなかった。しかし、温厚な長兄が、怒りと悲しみに顔を赤くしながら語る姿に、伸一は胸を突かれた。

伸一は、"いつの日か、武漢に足を運び、犠牲者の方々へ追善の祈りを捧げよう。そして、二度と悲惨な戦争を起こさないためにも、確固たる友好の絆を結ぼう"と、心に誓っていたのである。

宿舎の勝利飯店に移動すると、すぐに歓迎宴となった。歓迎宴が終わると、伸一の一行は、武漢大学へ向かった。寄贈した図書の贈呈式に出席するためである。大勢の教員、学生が、歓声をあげて拍手をし、銅鑼と太鼓を打ち鳴らして、山本伸一の一行を迎えてくれた。

1か月ぶりの再会となった、呉月娥に声をかけた。出迎えの人は、千人以上はいたであろうか。文字通り、大学をあげての熱烈歓迎であった。呉は待機していた彼女の三人の子どもを紹介した。「お母様は日中友好の功労者です。皆さんも、後に続いてください。そして、どうか日本に留学してください。
私の創立した創価大学に来てください」

19歳の次女は後年創価大学に留学し、その後も日中交流のために活躍することになる。個人から家族へーーその友好の広がりが、未来を開く力となる。

20日、上海へ移動し、21日には、黄浦江で船に乗り、長江見学に出かけ、船上で上海市の関係者らと、中国の未来像について語り合った。伸一は、長江を展望するうちに、日中両国はまさに一衣帯水であると、しみじみと感じた。

上海の名門校・復旦大学を訪問すると 日本語の書籍二千冊の寄贈を申し出た。北京大学、武漢大学に続いて、中国3校目の教育交流の道が開かれたのである。

上海市の関係者によって歓迎宴がもたれた。伸一は、創価大学に留学した学生たちについて語った。「魯迅先生と藤野先生の交流を思い起こします」「お二人の間には、民族、国家の壁を超えた人間と人間の温かい心の触れ合いがありました」

魯迅は「藤野先生」に記している。「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ,もっとも私を励ましてくれたひとりだ」と。藤野は、"なんとしても、彼には大成してほしい"との思いで、心血を注いで励まし続けたのであろう。それが師の心だ。

魯迅はやがて、仙台医学専門学校を辞めて帰国し、中国人民の精神改造のために、正義のペンを執ることになる。

「良心」を、そして、「勇気」を呼び覚ましてくれるのが師である。だから、正しい師をもつ人は、正義の道を歩みぬくことができる。強く勇敢に気抜くことができる。人生の師をもつ人は幸福である。

創価大学に学んだ中国からの、6人の留学生は、その後、それぞれが使命の大空に羽ばたき、日中友好のために大活躍していくことになる。

伸一が結ぼうとしていたのは、政治や経済のための友誼ではない。本当の意味での「信頼の絆」であり、「友情の絆」であった。利害を超えた「人間の絆」であった。

伸一の行動は、21世紀の人類共存の大河を、平和の大潮流を開くための人間外交であった。そこに彼は、生命をかけていたのだ。伸一は確信していた。"後世の歴史は、必ずやわれらを、世界平和の開拓者として絶賛するであろう"と。

<人間外交の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


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