『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 248P~
ペッチェイ博士は、破滅へと向かう人類の歩みを回避するために、新たな突破口を見いだそうと、必死であったにちがいない。その懸命な一念と強い責任感が、鋭い眼光となって、仏法者の伸一に注がれた。
進歩した技術を人間の幸福と繁栄のために使っていくうえで、何が必要かを、博士は力を込めて語った。「それは『人間精神のルネサンス』です。『人間自身の革命』です。山本先生は、そのことを以前から主張されてきた。私はそこに注目しておりました。」大至急、手を打て!まだ、時間があるうちにーーそれが博士の叫びであった。
そして、怒りをかみしめるように、拳を握って言った。「私は、変節漢が一番嫌いです!」山本伸一は博士の気持ちがよくわかった。
青年時代、戸田城聖の会社に勤務していた時、戸田の事業が行き詰まると、社員たちのなかには、戸田を恨み、罵倒しながら去っていく者が後を絶たなかった。伸一は、その変節と臆病に、強い憤りと、哀れさを覚えたことが忘れられなかった。
変節は自身の敗北であるだけでなく、同志への裏切りである。裏切りは古来、人間として最も醜悪な行為であった。
日本の進むべき道が話題になった時、伸一は、言った。「日本は、政治、経済の次元で世界をリードしていこうというのではなく、新たな方向性を考えるべきです。」
「これからの日本は、平和主義、文化主義の旗頭として、国際社会に、人類に貢献すべきです。つまり、"軍事大国""経済大国"をめざすのではなく、"平和大国""文化大国"をめざすべきです。そして世界にあって、東西の、また、南北の、文化の架け橋となっていくことです。そのためには、グローバルな視野に立った人間教育、平和教育が必要になります」
対談は、人間革命に始まり、また、人間革命に至った。博士は尋ねた。「人類の人間革命を成し遂げていくには、どれぐらいの時間が必要でしょうか。人間自身の変革を百年待つことは、とてもできません。急がねばならないのです」
伸一は、答えた。「人間を変革する運動は漸進的です。かなりの時を要します。しかし、行動せずしては、種を蒔かずしては、事態は開けません。私は、今世紀に解決の端緒だけは開きたいと思っています。そのために、これまでにも増して、さまざまな角度から、さらに提言を重ね、警鐘を発していく決意です。また、エゴイズムの根本的な解決のために、私どもの人間革命運動に、一段と力を注ぎます」
約束の二時間半は、あっという間に過ぎてしまった。そこで二人は、今後も会談と書簡によって意見交換を続け、将来は人類の啓発のために、対談集を出版していくことを確認し合った。
博士は各国語での発刊を希望し、出版を急ぎたいとの意向であった。「人類の未来のために一刻も早く!」というのが、口癖であった。
最後の会談となった83年のパリでの会談では、パリの空港で、荷物を全部盗まれたが、盗難届を出すのも後回しにして、駆けつけてくれたのだ。翌1984年3月、博士は75歳で他界した。
その直後、対談集は、まずドイツ語版『手遅れにならないうちに』が発刊になった。日本語版タイトルは『21世紀への警鐘』である。対談集は、その後、中国語、スペイン語などに翻訳され、17点が出版されることになる。
ペッチェイ博士との会談を終えた山本伸一と峯子は、パリ会館を隈なく見て回った。彼は、陰の力として、それを支えてきた役員をねぎらい、励ましたかったのである。
川崎が、20代半ばの、温厚そうな日本人青年を紹介した。千田芳人は、フランスの菓子コンクールのなかでも伝統と権威がある「シャルル・ブルースト杯コンクール」で金賞を受賞した。日本人初の金賞受賞者となったのである。彼がパリに来たのは、7年前のことであった。
千田の一家は、彼が小学生の時に、学会に入会していたが、千田自身は自覚はなかった。それでも、パリで、創価学会と聞くと、懐かしい響きを感じ、誘われるままに学会の会館に行ってみた。この時、フランス人メンバーの言葉が、彼の胸に突き刺さった。
「この最高にすばらしい生命哲学は、日本から起こっているのよ。それなのに、なんで日本人のあなたが、信心に励まないのですか」千田は「灯台下暗し」であったと思った。恥ずかしい気がした。
太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋
ペッチェイ博士は、破滅へと向かう人類の歩みを回避するために、新たな突破口を見いだそうと、必死であったにちがいない。その懸命な一念と強い責任感が、鋭い眼光となって、仏法者の伸一に注がれた。
進歩した技術を人間の幸福と繁栄のために使っていくうえで、何が必要かを、博士は力を込めて語った。「それは『人間精神のルネサンス』です。『人間自身の革命』です。山本先生は、そのことを以前から主張されてきた。私はそこに注目しておりました。」大至急、手を打て!まだ、時間があるうちにーーそれが博士の叫びであった。
そして、怒りをかみしめるように、拳を握って言った。「私は、変節漢が一番嫌いです!」山本伸一は博士の気持ちがよくわかった。
青年時代、戸田城聖の会社に勤務していた時、戸田の事業が行き詰まると、社員たちのなかには、戸田を恨み、罵倒しながら去っていく者が後を絶たなかった。伸一は、その変節と臆病に、強い憤りと、哀れさを覚えたことが忘れられなかった。
変節は自身の敗北であるだけでなく、同志への裏切りである。裏切りは古来、人間として最も醜悪な行為であった。
日本の進むべき道が話題になった時、伸一は、言った。「日本は、政治、経済の次元で世界をリードしていこうというのではなく、新たな方向性を考えるべきです。」
「これからの日本は、平和主義、文化主義の旗頭として、国際社会に、人類に貢献すべきです。つまり、"軍事大国""経済大国"をめざすのではなく、"平和大国""文化大国"をめざすべきです。そして世界にあって、東西の、また、南北の、文化の架け橋となっていくことです。そのためには、グローバルな視野に立った人間教育、平和教育が必要になります」
対談は、人間革命に始まり、また、人間革命に至った。博士は尋ねた。「人類の人間革命を成し遂げていくには、どれぐらいの時間が必要でしょうか。人間自身の変革を百年待つことは、とてもできません。急がねばならないのです」
伸一は、答えた。「人間を変革する運動は漸進的です。かなりの時を要します。しかし、行動せずしては、種を蒔かずしては、事態は開けません。私は、今世紀に解決の端緒だけは開きたいと思っています。そのために、これまでにも増して、さまざまな角度から、さらに提言を重ね、警鐘を発していく決意です。また、エゴイズムの根本的な解決のために、私どもの人間革命運動に、一段と力を注ぎます」
約束の二時間半は、あっという間に過ぎてしまった。そこで二人は、今後も会談と書簡によって意見交換を続け、将来は人類の啓発のために、対談集を出版していくことを確認し合った。
博士は各国語での発刊を希望し、出版を急ぎたいとの意向であった。「人類の未来のために一刻も早く!」というのが、口癖であった。
最後の会談となった83年のパリでの会談では、パリの空港で、荷物を全部盗まれたが、盗難届を出すのも後回しにして、駆けつけてくれたのだ。翌1984年3月、博士は75歳で他界した。
その直後、対談集は、まずドイツ語版『手遅れにならないうちに』が発刊になった。日本語版タイトルは『21世紀への警鐘』である。対談集は、その後、中国語、スペイン語などに翻訳され、17点が出版されることになる。
ペッチェイ博士との会談を終えた山本伸一と峯子は、パリ会館を隈なく見て回った。彼は、陰の力として、それを支えてきた役員をねぎらい、励ましたかったのである。
川崎が、20代半ばの、温厚そうな日本人青年を紹介した。千田芳人は、フランスの菓子コンクールのなかでも伝統と権威がある「シャルル・ブルースト杯コンクール」で金賞を受賞した。日本人初の金賞受賞者となったのである。彼がパリに来たのは、7年前のことであった。
千田の一家は、彼が小学生の時に、学会に入会していたが、千田自身は自覚はなかった。それでも、パリで、創価学会と聞くと、懐かしい響きを感じ、誘われるままに学会の会館に行ってみた。この時、フランス人メンバーの言葉が、彼の胸に突き刺さった。
「この最高にすばらしい生命哲学は、日本から起こっているのよ。それなのに、なんで日本人のあなたが、信心に励まないのですか」千田は「灯台下暗し」であったと思った。恥ずかしい気がした。
太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋