小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

September 2020

国際婦人年

『新・人間革命』第21巻 宝冠の章 333p

ソ連滞在の三日目、5月24日、山本伸一は、ソ連のスポーツ施設を視察した。5年後に開催されるモスクワ・オリンピックに向けて、着々と施設の整備が進んでいた。この24日、ソ連は、有人宇宙船ソユーズ18号を打ち上げた。

アメリカとソ連は、7月には両国の宇宙船をドッキングさせ、共同の実験飛行を計画していた。伸一は、米ソ宇宙船の共同飛行が成功すれば、緊張緩和の象徴となり、宇宙での国際協力から、新たな米ソの、そして、東西両陣営の強力が開かれていく可能性があるからだ。

伸一は、確信していた。"宇宙船から見た地球には、国境も、社会体制による色分けもない。青く輝く、たった一つの人類の故郷だ。米ソの宇宙飛行士たちは、美しき地球をみながら、このかけがえのない星を、力を合わせて守ろうと思うにちがいない・・・"

憎悪、戦争は波及する。しかし、協力、平和も波及するのだ。人間の強力がもたらす感動は、イデオロギーの壁を超えて、心から心へと波動していくにちがいない。それが見えざる平和の潮流となることを彼は願った。

人びとを始動すべきリーダーたちが、当初の目的を忘れて、保身や怠惰、安逸、私利私欲に走るところから、組織の腐敗と堕落が始まり、崩壊に至るのである。人びとの心に巣くう、それらの念々を克服しゆく「人間革命」がなければ、いかに隆盛を誇った組織や国も、いつか、必ず、行き詰ってしまうものだ。

ゴールキ・レーニンスキエは、家族連れや子どもたちでにぎわっていた。山本伸一は行く先々で、子どもたちを見ると声をかけた。
幼い時の西洋人を身近に感じた出会いを語った。

「大事なことは出会いです。幼い心に、良き思い出の種子が植えられれば、それは、いつか芽を出し、友好の花を咲かせます。そして、平和の実を結びます。種を蒔かなければ、花は咲きません。実も結びません。機会があれば、全力で種を蒔き続けようというのが、私の決意なんです」
"

「一日一日が、黄金の歴史になる。さあ、今日も力の限り頑張り抜くぞ!」26日朝、山本伸一は クレムリンに向かった。ソ連最高会議は、連邦会議と民族会議の二院制である。伸一は、前回の訪ソで民族会議の議長と会見しており、今回のシチコフ連邦会議議長との会見で、両院の議長と対話することになる。

その後、伸一一行は、モスクワ市庁舎を表敬訪問した。その後、一行は海運省を訪れ、ソ日協会会長のグジェンコ海運相と会談した。彼は、自分がなぜ、創価学会を大切に考えるかについて語った。
ソ連の海運労働者が 日本人と交流した時、創価学会のこと、そのリーダーである会長のヒューマニズムに富んだ行動が、人びとから高く評価されていることを報告されていたというのだ。

「庶民のため、民衆のために何をしたかーー私たちは、そこに着目しています。」「会長がどのようにして青年を育成されているのか、世界中が知りたがっているのではないでしょうか」伸一は、海運相が創価学会に強い関心をもち、深く理解、認識していることに感嘆した。伸一は、グジェンコ海運相とも、心と心が海のように深くつながった思いがした。二人は、その後も対話を重ねていくことになる。

その後、婦人部、女子部の訪問団と共に、ソ連婦人委員会を訪問した。この1975年(昭和50年)が「国際婦人年」であることも踏まえ、ソ連の女性と、学会の女性との交流の場をもつことにしたのである。

婦人委員会のV・V・テレシコワ議長は1963年6月、ボストーク6号で宇宙を旅した、世界初の女性宇宙飛行士として知られている。

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


ショーロホフ生誕70周年記念式典

『新・人間革命』第21巻 宝冠の章 315p

1975年(昭和50年)5月22日、モスクワに向かった。今回の訪ソは前回、招聘元となったモスクワ大学だけでなく、ソ連対文連、ソ連作家同盟も招聘元として名を連ねていた。

空港には、多数の人びとが待っていた。ソ日協会のコワレンコ副会長は、対日外交で強硬姿勢を貫くことで知られる、党中央委員会国際部のメンバーである。

彼を「強面」と敬遠する日本人も少なくなかった。そのコワレンコが、相好を崩し、声をあげて笑った。前回の訪問で、何度か忌憚のない対話を交わすなかで、深い友情と強い信頼の絆が結ばれていたのだ。

今回の訪ソ団には、婦人部、男女青年部、ドクター部の代表、創価大学、民音、富士美術館の代表が加わっていた。

ホテルでは、訪ソ団一行の打ち合わせが遅くまで続いた。伸一は、力を込めて訴えた。「二回目というのは極めて重要です。今後の流れが決まってしまうからです。対話だって、二の句が継げなければ、それで終わってしまう。」

「二回目を成功させるには、どうすればよいか。それには前回と同じことを、ただ繰り返すのではなく、一つ一つの物事を、すべて前進、発展させていくことです。"今こそ日ソ友好の新しい歴史を開くぞ!"と決めて、情熱を燃やし、真剣勝負で臨むことです。形式的、儀礼的な交流は惰性です。」

翌5月23日、山本伸一たちは、ソ連対文連を訪問。ポポワ議長が歓迎のあいさつをした。「山本会長の第一次訪ソのことを、私たちは決して忘れません。」また、議長は、学会の平和運動に言及していった。

コワレンコ副議長は、「山本会長が、生命の危険も顧みず、常に平和を主張し、人間と人間の友好に生き抜いてこられたことは、よく存じております。今、私は、山本会長と会うのが遅かったことを、非常に残念に思っています」

その後、文化省を訪問し、P・N・デミチェフ文化相と会見した。「これまで提起された文化交流については、実現の見通しがつきました!」富士美術館への出展や民音による民族舞踏団の招聘などの方向性が決まった。

伸一は、文化交流は、民衆と民衆の相互理解を促す要諦であると痛感していた。互いの文化への無理解から、摩擦が生じる場合も少なくない。ヒンズー教では牛を神聖な動物と考え、食べたりはしない。もし、それを知らずに、ヒンズー教徒に牛肉料理をすすめれば、人間関係はこじれてしまいかねない。風俗、習慣を含め、文化の理解は、人間交流の基本事項といってよい。

午後、文豪ショーロホフの生誕70周年の記念レセプションに出席するため、ソ連作家同盟中央会館に向かった。会場には、ソ連をはじめ、イギリス、東ドイツ、キューバなど14ヵ国から、ショーロホフと親交のある作家ら約50人が集っていた。

ショーロホフは病気療養中のため、出席することができなかった。伸一の胸には、前年の訪ソの折、ショーロホフが手を握り締めながら語った言葉が響いていた。

レセプションでは、伸一がスピーチを求められた。伸一がユーモアを交えてあいさつしたことから、場の雰囲気は大きく変わった。皆がジョークを言うようになった。

引き続き、午後5時から、記念式典がボリショイ劇場で盛大に行われた。

帰途「ショーロホフ先生は、世界の文豪なのだと、しみじみ思います」という峯子の言葉に伸一は、「『すべての作りもので不自然なもの、すべての虚偽のものは、時間の経過とともに消えさり、長くは生きられないでしょう』と。また先生は『真実のみを書くことです』とも述べている。」

「ショーロホフ文学には人間の真実が描かれている。だから、世界中の人びとに親しまれ、愛されているんだ。」

峯子は「創価学会が強いのも、そこに真実があるからだと思いますわ。その真実は、どうやって否定しようとしても、否定しきれませんものね」と語った。

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


精神の共鳴音

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 311P

マルロー邸は、芝生の広がる緑の館であった。会談では、日本の針路をはじめ、世界情勢と21世紀の展望などについて語り合った。"行動する作家"は訴えた。「今、何が大事かーーそれは人間です。人間の精神革命から始まります。自分は一個の人間として何ができるかを考え、行動を起こしていくことです。」

伸一は、このアンドレ・マルローとも、これらの語らいをまとめ、翌年8月、対談集『人間革命と人間の条件』を発刊している。

伸一は、5月20日は、パリ会館でアカデミー・フランセーズ会員で美術史家のルネ・ユイグと会談した。彼とも、前年、聖教新聞社で初めて会い、会談していた。戦時中、学芸員であった彼が、ナチスの手からルーブル美術館の至宝を守り抜いたことは、よく知られている。彼との対話も対談集『闇は暁を求めて』となって結実するのだ。

さらに翌22日の午前、伸一はパリの南ベトナム臨時革命政府の大使館を訪れ、レ・キ・バン代理大使と会談した。北ベトナム軍の戦車がサイゴンに無血入城し、南ベトナムが解放され、戦争にピリオドが打たれたのは、まだ二十日あまり前のことである。

会談では、今後の日本との外交、南と北の統一の問題などについて意見が交わされた。「どうか、会長から日本の人びとへ、われわれベトナム人民の心を伝えてください」その言葉に伸一は、平和と友好を願う魂の声を聞いた思いがした。

そして午後には、フランス社会党の執行委員で社会運動の論客として知られるジル・マルチネ宅を訪ねた。マルチネとも前年の3月に東京で会談しており、二度目の語らいであった。

伸一はこのヨーロッパ訪問では、可能な限り、識者と対話を重ねた。彼の胸には、トインビー博士の「人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください」との言葉がこだましていた。

そして、語り合った一人ひとりが、人間の変革を志向し、伸一の語る人間革命の哲理に感銘し、精神の共鳴音を高らかに響かせたのである。

19世紀後半、ビクトル・ユゴーは「フランス革命を完遂すること、そして、人間的な革命を始めることを義務とする、今世紀」と記した。

今、まさに、その「人間革命」の本格的な時代が、遂に、到来したのだ!
時は来たのだ!

<共鳴音の章 終了>






太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


大英帝国の闘将

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 293P

伸一は、庭に名前をつけ、お祝いに名を書いた記念碑を贈った。長谷部の家には、たくさんのメンバーが集まっていた。

伸一は一つ一つの質問に対して、全力で、誠実に答えていった。悩みに押しつぶされそうな眼前の同志を、同励まし、勇気づけるか。暗から明へ、絶望から希望へ、敗北から勝利へ、いかにして一念を転換させるかーーそれができてこそ、広宣流布のリーダーである。そのためにこそ、幹部がいるのだ。

伸一は、一人ひとりへの激励に、大きな会合での指導の何倍、何十倍もの精力を費やしてきた。それがあったからこそ、学会は強く、広宣流布の大前進があったのだ。

5月18日、山本伸一はロンドンに向かった。このイギリス訪問の目的の一つは、トインビー博士との対談集の特装本と、創価大学名誉教授の称号の証書を、博士に届けることであった。しかし、博士はイングランド北東部のヨークで病気療養中とのことであった。

伸一は、イギリスの代表者会に出席した。席上、彼は、イギリスの組織が法人資格を取得したことを祝福するとともに、メンバーの健闘を讃え、ロンドンに会館を設置することを提案した。

イギリスの法人の理事長に就任した、レイモンド・ゴードンがあいさつした。「私たちは、学会が試練に遭うなどの、"大変な時こそ頑張る"をモットーに、勇んで困難に挑み、勝利を築いていくことを、山本先生にお誓い申し上げます」伸一は、ゴードンの決意を聞いて感動を覚えた。世界広宣流布の新しい曙光を見る思いがしたのである。

彼は、職業軍人となり、第二次世界大戦の時には、日本軍と戦った。"われわれは、なんと愚かなことをしているのか"この戦争が、彼の平和主義の原点となった。

横浜に居を構えた時、日本人の知人から『人間革命』の英語版を渡された。冒頭の「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど・・・」の言葉は、彼の胸を突き刺すように迫ってきた。著者の伸一に興味をもち、伸一の兄がビルマで戦死していることを聞き、罪の意識を感じた。

座談会に出、題目を唱え始め、生命力がわくのを覚えたが、それでも、仏教徒として生きて行く決断を下すには、かなりの時間がかかった。

住居を東京に移したのを機に信心することを決意。『人間革命』の本を渡してくれた日本人女性と結婚した。入会した彼は、自宅を外国人のための「国際座談会」の会場を提供し、仏法を学んだ。

夏期講習会で、彼にあった時、伸一は「次はロンドンで会うのはどうでしょう」と言った。その日から、彼は、真剣に唱題し、熟慮を重ね、イギリスの広宣流布に生きることを決断した。

日本での安定した生活を捨てて、イギリスに戻ったゴードン夫妻の生活は苦しく、靴の底がはがれても買い替える余裕もなく、自宅の冷蔵庫は空っぽのことが多かった。

ゴードンは負けなかった。大英帝国の闘将は、平和と幸福の広宣流布の大将軍となって、民衆の大地をひた走った。そして、イギリス社会に真実の仏法を根付かせ、その後の発展の基盤を築いていくのである。

伸一は、ロンドン市内の王立国際問題研究所を訪ね、トインビー博士を支えてきたルイーズ・オール秘書に、博士と伸一の対談集『21世紀への対話』の特装本を手渡し、トインビー博士への創価大学名誉教授称号の証書を託した。

5月19日の午後には、ロンドンからパリに戻り、アンドレ・マルロー宅を訪問した。1974年5月フランス政府特派大使として来日した際に、聖教新聞社で会談して以来、1年ぶりの語らいである。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


真剣勝負の励まし

『新・人間革命』第21巻 共鳴音の章 276P

千田は御本尊を受け、活動にも参加した。彼の願いは、菓子作りを学べる、よい修行先が見つかることであり、それを真剣に祈った。仕事を命じられてもフランス語がわからず、怒鳴られることもたびたびであった。

昼休みも、昼食を早々に切り上げ、搾り袋を使って、クリームで文字や模様を描く練習をした。寸暇を惜しんで、努力に努力を重ね、また、懸命に唱題に励んだ。

72年には、フランスの伝統ある菓子コンクールの一つである「ガストロノミック・アルバジョン・コンクール」で銅賞を獲得する、日本人としては、初めての入賞であった。

パリ会館の食堂で、伸一は、料理担当のメンバー全員に語りかけた。「食事を担当してくださっている皆さんの陰の力があるからこそ、行事の大成功もある。心から感謝申し上げます。」

伸一は、料理担当のメンバーでグループを結成しようと提案し、美しいマロニエの花にちなみ、マロニエ・グループと名づけた。

「マロニエ・グループは、自分自身を磨き、鍛えるマロニエ大学、人間大学であると思ってください。人生は挑戦です。努力です。勉強です。工夫です。その積み重ねのなかに勝利があります」

伸一は、友を励ますために、一瞬一瞬、真剣勝負で臨んでいた。「励ます」の「励」という字は「万」と「力」からなっている。全力を尽くしてこそ、真の励ましなのだ。

この5月16日の夜、文化ホール「サル・プレイエル」で、16か国三千人のメンバーが集って、欧州友好祭が晴れやかに行われた。

「やがてヨーロッパが統合され、国境でパスポートを提示する必要がなくなる時代がきっときますよ。それが時代の流れです。そのために、ヨーロッパに求められるのは、精神の連帯です。国家民族などを越えて、心と心を結び合うことができる哲学が、必要不可欠になります。それを担うのが、私たちの人間主義の運動なんです。今日は、そのスタートとなる集いです。」

伸一は語った。「学会の組織は、各人の主体性を生かすためにあり、拘束するためのものではありません。創価学会という組織のなかに個人があるのではなく、個人の心のなかに創価学会があるんです。つまり、創価学会員であるという自覚こそ、個人の良心の要であり、勇気の源泉となるんです。」

それから伸一は、フランスの中核の一人である、画家の長谷部彰太郎の家へ向かった。

長谷部は、前年来日した折に、フランスに家を買うべきかどうか、山本伸一に相談した。伸一は言った。「将来ではなく、すぐにでも買える境涯になってください。フランス社会で信用を勝ち得ていくには、フランスに家を持ち、地域に根を張り、信頼を獲得していくことが大事だからです。それには、断じてフランスに家を購入するぞと決めて、真剣に祈ることです。」

「フランスの人びとの幸福と繁栄のために、広宣流布を誓願し、祈り抜いていくことです。たとえば、”私はフランス広布に生き抜きます。それには、社会の信用を勝ち取るためにも、皆が集える会場にするためにも、家が必要です。どうか、大きなすばらしい家を授けてください”と祈るんです」


「人びとに絶対的幸福の道を教える広宣流布を誓い、願う題目は、仏の題目であり、地涌の菩薩の題目です。その祈りを捧げていく時、わが生命の仏界は開かれ、大宇宙をも動かしていける境涯になる。ゆえに、家を購入したいという願いも、確実に叶っていくんです。」

「ただ大きくて立派な家をくださいというだけの祈りでは、自分の境涯はなかなか開けない。
祈りの根本は、どこまでも広宣流布であり、広布のためにという一念から発する唱題に、無量無辺の功徳があるんです」広宣流布の誓願のなかにこそ、所願満足の道があるのだ。

長谷部は、来る日も来る日も、必死になって祈り続けた。気に入った家が見つかったが、問題は金額であった。ところが、幸いにも、公的な金融機関が、頭金以外の全額を融資してくれることになったのだ。そしてなんと、伸一が訪問する1か月ほど前に、家を購入することができたのである。

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』