『新・人間革命』第21巻 宝冠の章 333p
ソ連滞在の三日目、5月24日、山本伸一は、ソ連のスポーツ施設を視察した。5年後に開催されるモスクワ・オリンピックに向けて、着々と施設の整備が進んでいた。この24日、ソ連は、有人宇宙船ソユーズ18号を打ち上げた。
アメリカとソ連は、7月には両国の宇宙船をドッキングさせ、共同の実験飛行を計画していた。伸一は、米ソ宇宙船の共同飛行が成功すれば、緊張緩和の象徴となり、宇宙での国際協力から、新たな米ソの、そして、東西両陣営の強力が開かれていく可能性があるからだ。
伸一は、確信していた。"宇宙船から見た地球には、国境も、社会体制による色分けもない。青く輝く、たった一つの人類の故郷だ。米ソの宇宙飛行士たちは、美しき地球をみながら、このかけがえのない星を、力を合わせて守ろうと思うにちがいない・・・"
憎悪、戦争は波及する。しかし、協力、平和も波及するのだ。人間の強力がもたらす感動は、イデオロギーの壁を超えて、心から心へと波動していくにちがいない。それが見えざる平和の潮流となることを彼は願った。
人びとを始動すべきリーダーたちが、当初の目的を忘れて、保身や怠惰、安逸、私利私欲に走るところから、組織の腐敗と堕落が始まり、崩壊に至るのである。人びとの心に巣くう、それらの念々を克服しゆく「人間革命」がなければ、いかに隆盛を誇った組織や国も、いつか、必ず、行き詰ってしまうものだ。
ゴールキ・レーニンスキエは、家族連れや子どもたちでにぎわっていた。山本伸一は行く先々で、子どもたちを見ると声をかけた。幼い時の西洋人を身近に感じた出会いを語った。
「大事なことは出会いです。幼い心に、良き思い出の種子が植えられれば、それは、いつか芽を出し、友好の花を咲かせます。そして、平和の実を結びます。種を蒔かなければ、花は咲きません。実も結びません。機会があれば、全力で種を蒔き続けようというのが、私の決意なんです」
"
「一日一日が、黄金の歴史になる。さあ、今日も力の限り頑張り抜くぞ!」26日朝、山本伸一は クレムリンに向かった。ソ連最高会議は、連邦会議と民族会議の二院制である。伸一は、前回の訪ソで民族会議の議長と会見しており、今回のシチコフ連邦会議議長との会見で、両院の議長と対話することになる。
その後、伸一一行は、モスクワ市庁舎を表敬訪問した。その後、一行は海運省を訪れ、ソ日協会会長のグジェンコ海運相と会談した。彼は、自分がなぜ、創価学会を大切に考えるかについて語った。ソ連の海運労働者が 日本人と交流した時、創価学会のこと、そのリーダーである会長のヒューマニズムに富んだ行動が、人びとから高く評価されていることを報告されていたというのだ。
「庶民のため、民衆のために何をしたかーー私たちは、そこに着目しています。」「会長がどのようにして青年を育成されているのか、世界中が知りたがっているのではないでしょうか」伸一は、海運相が創価学会に強い関心をもち、深く理解、認識していることに感嘆した。伸一は、グジェンコ海運相とも、心と心が海のように深くつながった思いがした。二人は、その後も対話を重ねていくことになる。
その後、婦人部、女子部の訪問団と共に、ソ連婦人委員会を訪問した。この1975年(昭和50年)が「国際婦人年」であることも踏まえ、ソ連の女性と、学会の女性との交流の場をもつことにしたのである。
婦人委員会のV・V・テレシコワ議長は1963年6月、ボストーク6号で宇宙を旅した、世界初の女性宇宙飛行士として知られている。
太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋
ソ連滞在の三日目、5月24日、山本伸一は、ソ連のスポーツ施設を視察した。5年後に開催されるモスクワ・オリンピックに向けて、着々と施設の整備が進んでいた。この24日、ソ連は、有人宇宙船ソユーズ18号を打ち上げた。
アメリカとソ連は、7月には両国の宇宙船をドッキングさせ、共同の実験飛行を計画していた。伸一は、米ソ宇宙船の共同飛行が成功すれば、緊張緩和の象徴となり、宇宙での国際協力から、新たな米ソの、そして、東西両陣営の強力が開かれていく可能性があるからだ。
伸一は、確信していた。"宇宙船から見た地球には、国境も、社会体制による色分けもない。青く輝く、たった一つの人類の故郷だ。米ソの宇宙飛行士たちは、美しき地球をみながら、このかけがえのない星を、力を合わせて守ろうと思うにちがいない・・・"
憎悪、戦争は波及する。しかし、協力、平和も波及するのだ。人間の強力がもたらす感動は、イデオロギーの壁を超えて、心から心へと波動していくにちがいない。それが見えざる平和の潮流となることを彼は願った。
人びとを始動すべきリーダーたちが、当初の目的を忘れて、保身や怠惰、安逸、私利私欲に走るところから、組織の腐敗と堕落が始まり、崩壊に至るのである。人びとの心に巣くう、それらの念々を克服しゆく「人間革命」がなければ、いかに隆盛を誇った組織や国も、いつか、必ず、行き詰ってしまうものだ。
ゴールキ・レーニンスキエは、家族連れや子どもたちでにぎわっていた。山本伸一は行く先々で、子どもたちを見ると声をかけた。幼い時の西洋人を身近に感じた出会いを語った。
「大事なことは出会いです。幼い心に、良き思い出の種子が植えられれば、それは、いつか芽を出し、友好の花を咲かせます。そして、平和の実を結びます。種を蒔かなければ、花は咲きません。実も結びません。機会があれば、全力で種を蒔き続けようというのが、私の決意なんです」
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「一日一日が、黄金の歴史になる。さあ、今日も力の限り頑張り抜くぞ!」26日朝、山本伸一は クレムリンに向かった。ソ連最高会議は、連邦会議と民族会議の二院制である。伸一は、前回の訪ソで民族会議の議長と会見しており、今回のシチコフ連邦会議議長との会見で、両院の議長と対話することになる。
その後、伸一一行は、モスクワ市庁舎を表敬訪問した。その後、一行は海運省を訪れ、ソ日協会会長のグジェンコ海運相と会談した。彼は、自分がなぜ、創価学会を大切に考えるかについて語った。ソ連の海運労働者が 日本人と交流した時、創価学会のこと、そのリーダーである会長のヒューマニズムに富んだ行動が、人びとから高く評価されていることを報告されていたというのだ。
「庶民のため、民衆のために何をしたかーー私たちは、そこに着目しています。」「会長がどのようにして青年を育成されているのか、世界中が知りたがっているのではないでしょうか」伸一は、海運相が創価学会に強い関心をもち、深く理解、認識していることに感嘆した。伸一は、グジェンコ海運相とも、心と心が海のように深くつながった思いがした。二人は、その後も対話を重ねていくことになる。
その後、婦人部、女子部の訪問団と共に、ソ連婦人委員会を訪問した。この1975年(昭和50年)が「国際婦人年」であることも踏まえ、ソ連の女性と、学会の女性との交流の場をもつことにしたのである。
婦人委員会のV・V・テレシコワ議長は1963年6月、ボストーク6号で宇宙を旅した、世界初の女性宇宙飛行士として知られている。
太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋