小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

August 2020

日本協会主催の歓迎レセプションでのスピーチ

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 370P~

ワルトハイム国連事務総長との会談を終えた山本伸一は、国連本部内で記者会見した。詰めかけた50人ほどの記者たちの質問に答えながら、伸一は、国連への期待と、国連を守る決意を語った。

さらに彼は、日本の、国連大使と懇談した後、日本協会主催の歓迎レセプションに向かった。レセプションには、学界、経済界などのリーダーら80人が集った。伸一は、この席でスピーチをするように依頼されていたのである。

彼は約40分にわたって、新しき時代を開く人間哲学について語った。伸一は、科学技術の進歩に伴うさまざまな人類の危機が指摘されているが、今こそ、「人間」に眼を向けることの大切さを強調。新しいヒューマニズム、人間の心のルネサンスが求められていることを語った。

伸一は、人間の心のルネサンスのためには、人間とは何かを解明し、生命変革の実践法理を打ち立てた仏法哲理が不可欠であると訴えた。次いで、その仏法の理念に立脚して、人類が究極的にめざすべき新しい方向を示したのである。

「一つには、20世紀後半の人類が持たなければならない価値観とは、単に一つの社会、国家に基盤をおいた狭隘なものではなく、全人類的な視点、全地球的な視野に立ったものでなければならない。二つには、人間が生命的存在であるという認識に立つことであります。」

「人間が生命的存在であるということは、いかなる社会、国家、民族をも超えて普遍的であり、かつ絶対的な事実であります。それに対して、社会的存在としての人間は、時代、民族、国家の違いによってことなってくる。」

「つまり、『縦には人間存在の根源である生命的存在に立脚し、現実行動のうえでは、ヨコに、その生命的存在を共通とする地球人類という不変の連帯をもつこと』こそ、現代に必要な視座であると訴えたいのであります」

皆、初めて聞く話である。仏法の生命観を根本にした伸一の話に、参加者は頷きながら真剣に耳を澄ましていた。さらに、伸一は、自分が「教育国連」の設置を提唱してきたのも、各分野での国際協力を底流で支える、"われら地球人"という意識を根付かせる啓発的教育のためであることを述べった。

地球人類という不変の連帯を築くことは、厳しいイデオロギーの対立、国家エゴの渦巻く現実から見る時、あまりにも理想的すぎると一笑されるかもしれない。しかし、彼は、「あえて、このインポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)を、私の生ある限り追い求めていきたい」と宣言したのである。

「これからも人類の頭上には幾たびも冬の季節が猛然と襲ってくるでありましょう。人間連帯の平和の拠点を不屈の信念と勇気で築き上げていかねば、人類の輝かしい明日はありえません。志を同じくするすべての人びとと手を取り合い、平和へ、果敢なる挑戦をしていきたいというのが私の偽りのない心情です」スピーチが終わると、大拍手が会場に響きわたった。

参加者からは「学会の理念とするヒューマニズムの意味を理解することができ、大変に感銘を深くした」など、多くの共感の声が寄せられた。伸一は、すべてに真剣勝負であった。このスピーチも世界の指導者たちに語りかける思いで、仏法の英知から導き出された時代開拓の道を、全力で訴えたのである。原稿の作成にも何日も費やし、推敲に推敲を重ねた。

”集ってくる日本協会の方々は、私のスピーチを聴かれるのは初めてであろうし、ほとんどの参加者は、もう、こうした機会はないにちがいない。まさに一期一会といえよう。それならば、仏法哲理との鮮烈な出会いとなる講演にしなくてはならぬ”彼は、その思いで、ここに臨んだのだ。

いや、このスピーチに限らず、各国の要人と会う時も、メンバーを激励する時も、学会のさまざまな会合に出席する時も、常にその覚悟で準備にあたり、渾身の力を振り絞ってきたのである。だからこそ、魂をゆさぶるのだ。だからこそ、共感があり、感動が広がるのだ。それが、人と会い、会合に臨む、すべての幹部の心構えでなければならない。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

核廃絶の1千万人署名

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 355P~

学会として「教育・家庭の年」と定めた1975年(昭和50年)の幕が開いた。1月6日には、早くも山本伸一はアメリカに飛んだのである。対立が続く中国とソ連を訪問し、さらに、訪米する山本伸一に、アメリカ社会は驚嘆と戸惑いを見せていたようだ。

有力紙「タイム」は、揶揄するような、「驚異の伝道者」との見出しを立て、伸一と創価学会についてのリポートを掲載した。伸一が、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理と相次ぎ会見し、今回の訪米では、ワルトハイム国連事務総長と会見する予定であることも報じていた。

さらに、世界食糧銀行創設や核兵器の廃絶など、これまでの伸一の提言にも触れ、彼は「民衆と民衆を結ぶ国際的な反戦運動を起こすことに、最も強い情熱を傾けている」としていた。ところがリポートは、それらの伸一の行動や提案は、学会が権力を手に入れるための手段であるかのように報じていたのである。彼の平和への信念を理解できなかったのであろう。

伸一は、ロサンゼルスに到着。ニューヨーク入りした彼は、翌9日エール大学客員教授で評論家の加藤周一と会談した。その後、コロンビア大学を公式訪問。伸一は、教育国連、世界大学総長会議、世界学生会議などの構想を語り、活発に意見交換し合った。

大業とは、目立たぬ、忍耐強い作業の繰り返しによって、成就されるものなのだ。翌10日には、国連本部を訪問し、ワルトハイム国連事務総長と会談した。伸一が国連を訪れたのは 3度目であった。全人類の未来に責任をもとうとする事務総長は、伸一の思想と提案に着目し、高く評価してくれていたのである。世界は、仏法の智慧を求めているのだ。

伸一は、まず、核廃絶の問題を提起した。次に中東の和平をいかに実現するのかーーそれは山本伸一の悲願であった。伸一は、トルコ系住民とギリシャ系住民の紛争が続くキプロス島の問題や、飢餓に苦しむ国々の食糧問題、また、戦火が絶えないインドシナ情勢について見解を尋ねていった。そして、国連の役割に関しても、率直に質問をぶつけた。

「『国連を守る世界市民の会』をつくる時がきているのではないかと考えています」国連を中心として団結し、地球の恒久平和をめざすことだ。それが伸一の信念であり、決意であった。

「事務総長は、世界平和を妨げている元凶は、なんであるとお思いでしょうか」即座に答えが返ってきた。「それは不信です」

「全く同感です」「その『不信感』を『信頼』に変えていく道が、私は『対話』であり、さらに『文化の交流』『人間の交流』であると確信しています。」

伸一は、製本された三冊の署名簿をワルトハイムに差し出した。「これは『戦争絶滅、核廃絶を訴える署名』です。創価学会の青年部が戦争の絶滅と核廃絶の署名運動を展開し、日本全国で1千万人を超す人びとの署名を集めました」

事務総長は、署名簿を受け取ると、ページを開いた。それから、署名簿を捧げ持つようにして、伸一に語った。「非常に価値あるものです。その行為に敬意を表します。感銘を受けました・・・」

この署名運動は、伸一が1972年11月に人類の生存の権利を守る運動を青年部に期待したことに端を発し、これを受けて、男子部が「生存の権利を守る青年部アピール」を採択。そのための運動の一つとして「核兵器、戦争廃絶のための署名運動」が発表されたのである。

74年1月、青年部では年内を目標に、署名1千万をめざすことを決議し、総力をあげて、署名運動に取り組んだ。青年たちの奮闘が実り、9月には、遂に署名は1千万を突破し、千百万となった。1万人分で約6センチの高さである。全員の署名簿を積み上げれば、66メートルの高さということになる。

1千万の署名を、どのようにして国連に届けるかの議論を重ねていた時、山本先生が事務総長に会う時、持っていくとの伝言があったのだ。弟子の苦労に最大限報いようというのが、伸一の心であった。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

ソ連と中国関係正常化への貢献

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 349P~

1975年の4月、創価大学は日本で初となる新中国からの正式な国費留学生6人を、キャンパスに迎えたのである。その留学生の身元保証人となったのが、山本伸一であった。また、留学生らの手で、周恩来総理の健康を祈り、構内に「周桜」が植樹された。

だが、翌76年には、周恩来総理が、さらに毛沢東主席が、相次いで亡くなったのである。やがて、華国鋒党主席が誕生するが、中ソの関係は冷え切ったままであった。

80年4月、伸一が5度目に訪中した時には、ソ連のアフガニスタン侵攻を非難する声が渦巻いていた。会談した人たちから、こんな要請もあった。「山本先生がソ連に行かれると、せっかく先生が架けられた日中の友誼の橋は固まりません。ソ連訪問はできる限り控えていただきたい」

伸一は、答えた。「お気持ちはわかります。しかし、時代はどんどん変化しています。21世紀を前に、全人類を平和の方向へと向けていかなくてはならない。もはや大国が争い、憎み合っている時ではありません。『お互いのよいところを引き出しながら、調和していこう』『人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう』という人間主義こそが、必要なのではないでしょうか」

伸一は、真心を込めて訴えたが、なかなか納得してもらえなかった。最後は、中国とソ連と、どちらが大切なのかという話になってしまうのだ。

「私は中国を愛しています。中国は大事です。同時に人間を愛します。人類全体が大事なんです。」どんなに厳しい状況になっても、伸一は、あきらめなかった。

何があってもあきらめずに、信念の道を進むことが、"勝つ"ということなのだ。伸一は、あらゆる人の「仏性」を信じて、人類の平和を願う心を確信して語りかけ続けた。彼は、この第5次訪中では、華国鋒党主席と会見し、今後の中国の方向性を尋ねている。

そして、翌1981年(昭和56年)には、三度目のソ連訪問を果たし、チーホノフ首相と会見した。全人類を平和の方向へとの強き一念で、行動し抜いたのだ。

ソ連のブレジネフ書記長が、中国に、両国の関係改善を呼びかけたのは82年3月のことであった。時代は動きはじめたのだ。89年5月には、ソ連の最高指導者としては30年ぶりに、ゴルバチョフ書記長が中国を訪問する。そして、中国の最高実力者となっていた、あの鄧小平国家中央軍事委員会主席と会談し、双方が、遂に関係正常化を宣言したのだ。

この首脳会談は、世界を冷戦から緊張緩和へと回転させる新しき時代の曙光となったのである。
山本伸一は、進展する中ソ関係正常化のニュースに、熱い感慨が込み上げてきて仕方なかった。

彼は、中ソ両国の平和共存を胸に描き、祈りに祈ってきた。また、一民間人という立場で動きに動き、両国首脳たちに、相互の平和友好を訴え続けてきた。それは、小さな波を起こしたに過ぎなかったかもしれないが、中ソの和解という伸一の念願は、結実を見たのである。

「人類の幸福と世界の平和の実現が、広宣流布だ。私は仏法者として、そのために走り抜くよ。人が見ていようがいまいが、社会がどう評価しようが、そんなことはどうでもいい。いつか歴史が審判を下すからだ。どんなことがあっても、平和のための戦いをやめるわけにはいかないのだ。それが私の信念だ!」

伸一の第一次訪ソ当時、ソ連駐日大使館の参事官であったY・D・クズネツォフは、1974年に伸一が中国とソ連を訪問し、両国首脳と対話したことについて、後年、次のように語っている。「ソ連と中国の関係の正常化に貢献したという事実は否定できません。あの時の正常化への行動がなければ、現在のような幅広いロシアと中国の関係の発展はなかったと私は思うのです」

水面下の流れは見えにくい。しかし、信念の行動は、必ず時代を動かす底流となることを、伸一は確信していたのだ。人類の英知の結晶である平和の建設が広宣流布だ。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

信義の絆

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 338P~

伸一が右手を差し出すと、総理は微笑を浮かべて、その手を握った。伸一は、総理の右腕を支えるように、そっと左手を添えた。総理は革命闘争のさなかの1939年(昭和14年)、落馬がもとで右肘の上部を骨折した。その後遺症で右腕が曲がったままになったことを、伸一は知っていたのだ。

総理の手は白かった。衰弱した晩年の戸田城聖の手に似ていた。伸一は胸を突かれた。周総理は76歳、伸一は46歳である。総理は、伸一の若さの可能性にかけていたのかもしれない。

峯子は、総理と伸一のやりとりを、懸命にノートに書き留め始めた。彼女は、これは重要な歴史的な会見になるにちがいないと思った。しかし、会見会場に記者は入っていなかった。峯子は、責任の重大さを感じながら、必死になってペンを走らせた。

「ぜひ、また、桜の咲くころに日本へ来てください」しかし、総理は寂しそうに微笑んだ。「願望はありますが、実現は無理でしょう」伸一は胸が痛んだ。その時、通訳の林のもとに、一枚のメモが回ってきた。そこには、「総理、そろそろ、おやすみください」と記されていたのである。医師団からのものであった。

周総理には、命を縮めても、今、会って、伸一と話しておかなければならないとの、強い思いがあったようだ。伸一は、同席していた廖承志会長に、会見を切り上げた方がいいのではないかと、何度か目配せした。しかし、廖承志はそのたびに、"まだいい"と合図を返してきた。

総理は、力を振り絞るようにして語り始めた。「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です。全世界の人びとが、お互いに平等な立場で助け合い、努力することが必要です」伸一は、遺言を聞く思いであった。

会見は、30分に及ぼうとしていた。伸一は、もうこれ以上、時間を延ばしてはならないと思った。伸一は、感謝の思いを伝え、会見を切り上げた。伸一は、さやかな記念の品として、"萩と御所車"の日本画を贈った。総理は、その夜から、それまで部屋に飾ってあった絵を、伸一が贈った絵に掛け替えたという。

周総理と伸一は、これが最初で最後の、生涯でただ一度だけの語らいとなった。しかし、その友情は永遠の契りとなり、信義の絆となった。総理の心は伸一の胸に、注ぎ込まれたのである。
山本伸一の第二次訪中は、日中友好の新しい黄金の歴史を刻んだ。

だが、伸一の思いとは反対に、中ソの関係は悪化の一途をたどっていくかに見えた。1975年1月中国は
、憲法を改正し、明確に反ソ路線を打ち出したのだ。「四人組」が一切を牛耳っていた時である。彼らにはコスイギン首相の言葉は伝わっていなかったのであろう。

この75年の全人代で周恩来総理は、病身を押して「政府活動報告」を行い、4つの現代化政策の推進を提起した。この「4つの現代化」という壮大な計画は、その後の中国がとった「改革・開放」路線の基盤となり、今日の大発展へとつながっていく。

周総理がその政策を提起しえた背景について、後年、南海大学周恩来研究センターの所長を務めた孔繁豊は、こう語っている。「この計画の実現には正確な国際情勢の判断が不可欠だった。その時、名誉会長を通じてソ連の態度を知り、周総理は『中ソ開戦はありえない』との確信を深め、国家の再建計画を大胆に実行することができたのだ」

山本伸一は、強く心に誓っていた。いかなる事態になろうが、私は絶対にあきらめない。それには粘り強い対話しかない。伸一は、中国が憲法の前文を変え、反ソ路線を打ち出した3か月後の1975年(昭和50年)4月、三たび中国を訪れた。そして、再び鄧小平副総理と会談した。

鄧小平は、ソ連への不信を強めていた。「ソ連の指導部の態度によります。」伸一は、思った。中国は本来、ソ連との平和共存を望んでいることは間違いない。ソ連もまた、それを望んでいるのだ。複雑な状況があるにせよ、両国の関係を改善できぬわけがない。」

この第3次訪中の翌月、伸一は、再度、ソ連を訪問し、コスイギン首相をはじめ、ソ連首脳と会談していった。あきらめ、絶望ーーそれに打ち勝つ勇気が時代を開く力となる。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

鄧小平副総理との会談

『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 327P~

5日には、鄧小平副総理との会談が予定されていた。伸一が鄧副総理と初対面のあいさつを交わし、握手をした時、副総理は傍らの廖承志を見ながら言った。「山本会長のお話は廖承志同志から伺いました。しかし、問題は複雑です」一瞬、副総理の顔が曇った。人民大会堂での会談が始まった。

伸一は、明年が国連の「国際婦人年」となることから、周恩来夫人の鄧頴超ら女性リーダー、さらに、青年リーダーの訪日を提案した。伸一は、心の隔たりを、一日も早く取り除きたかったのである。そして、そのための焦点となるのが、婦人と青年であると考えていた。

アジアの平和に話が及んだ時、伸一は言った。「ソ連は中国を攻めようとは考えていません」すると鄧副総理は、「それは大変に難しい判断を必要とします」と言って、話を制するように、胸のあたりまで手をあげた。伸一は、前回の訪中を通して、文化大革命の混乱のなかで、一部の人間が権力を握り、党と国家を意のままに動かしていることを感じた。

その彼らの情報網が張り巡らされ、政府首脳さえ、発言には至って慎重にならざるを得ないことを知ったのである。伸一は、ソ連は中国を攻めないとのコスイギン首相の言葉などを、事前に、詳しく廖承志会長に伝えておいてよかったと思った。伸一は、話題を変えた。

伸一は、率直に尋ねた。毛沢東主席や周恩来総理の健康状態についても、率直に尋ねた。また、「前回、お会いした李千念副総理にもよろしくお伝えください」

伸一は、全人代(全国人民代表大会)の開催時期についても、単刀直入に尋ねた。全人代は、かつては毎年、開催されてきたが、1964年12月下旬から翌年1月初めにかけて行われたのを最後に、文化大革命期に入ってからは、開催されていなかった。

伸一は、こんな事態が続き、中国が国家として信頼をなくしてしまうことを、深く憂慮していたのだ。鄧副総理は答えた。「全人代の開催は、もう近いと思います」全人代の開催を表明すれば、世界各国は中国がルールに則った国家の運営をしようとしていることを認識し、安心するはずである。

ゆえに伸一は、あえて全人代の開催を尋ねたのである。彼はどうすれば、中国が、世界の理解、信頼を勝ち得るか、真剣に考えていたのだ。伸一は、この会談終了後の記者会見で、全人代開催についての副総理の回答を伝えた。

真の友好とは、親身になって相手のことを思う、誠意と信念の結実にほかならない。伸一の中国への思いは、鄧小平の胸に、強く響いたにちがいない。一時間近い会談の最後に、鄧副総理は言った。「これからは、山本会長のご都合のよい時に、いつでも中国を訪問してください。」

滞在最後の夜となる5日、山本伸一、峯子による答礼園が行われた。伸一は、必ず相手の名前を呼んで話を始めた。伸一の頭の中には、一人ひとりの顔と名前はもとより、これまでのやり取りや、どのように尽力してくれたかが、克明に記憶されていた。

通り一編のあいさつでは、儀礼的な交流しかできない。真実の人間交流のためには、徹底して相手を知り、琴線に触れる言葉を交わすことだ。

答礼園が終わりに近づいたころ、廖承志会長に電話がかかってきて、小声で伸一に「実は周総理が待っておられます」と告げた。突然の話であった。

周恩来総理の病状が思っていた以上に重いと聞いていた伸一は、会見を丁重に辞退した。廖会長は、いかにも困ったという顔で言った。「会見は、周総理の強い希望なのです」周総理の医師団も、こぞって、伸一との会見に反対したのだ。「命の保証はできません」だが、周総理は、毅然として言った。「山本会長には、どんなことがあっても会わねばならない!」

やむなく夫人の鄧夫人に相談し、説得してもらおうとしたが、夫人は周総理の意思を尊重した。総理が入院中のの305病院に入ると人民服を着た周総理が立って、待っていてくれた。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

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