小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

July 2020

初の中国訪問

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 16P~

中国の革命家・孫文は叫んだ「大きな事業をやり遂げるには、何よりも大きな志をいだき、大きな度胸をもち、大きな決心をしなければならない」壮大な志をもって、勇気をもって、行動を起こすとき、歴史を創る大事業の幕が開かれる。

7月半ば、ニクソン大統領は、中国を敵視してきたアジア政策を転換し、中国を訪問し、米中は日本の頭越しに、国交樹立へと踏み出した。国連総会では、中華人民共和国を中国の唯一の政府と認め、国連に招請することを可決した。

世界の大きな動きに、日本は危うく取り残されるところであった。伸一の布石の重さを、心ある識者は、今更ながら実感するのであった。公明党は5月と7月に中国へ代表団を派遣。田中内閣が発足すると国交正常化への政府とのパイプ役を務め、国交回復への問題点を周総理と煮詰めていった。

日本政府にとっての最大の難問は、日本が中国に与えた戦争被害の賠償であった。中国側の死傷者は、3500万人、経済的損失は、直接・間接合わせて総額6千億ドルともいわれる。しかし、周総理は、公明党との会談で、その対日賠償の請求を放棄すると言明したのである。

日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを日本の人民に味わわせてはならない。それが周総理の考え方であった。これによって、日本がどれほど救われるかーー伸一はそう思うと、いかに感謝してもしきれるものではないと思った。日本は、その恩義を、永遠に忘れることがあってはならない。

周総理は、公明党との会談の最後に、これまで語りあってきた事柄をまとめ、国交正常化のための、日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。公明党の訪中団は、それを必死にメモして、帰国後、田中首相、大平外相に伝えたのである。

日中国交正常化のお膳立ては整った。1972年(昭和47年)国交正常化の日中共同声明の調印式が行われたのである。公明党がそのパイプ役となりえた理由を、中日友好協会や新華社の関係者は山本伸一が行った「日中国交正常化提言」によるものと断言している。提言を高く評価した周総理が、その伸一によって創立された公明党に大きな信頼を寄せてのことだというのである。

勇気の言葉は、必ず歴史を変える。ゆえに、恐れなく、真実を、正義を、信念を語り抜くのだ。

国交正常化御後、伸一は幾たびとなく、訪中の要請を受けていたが、多忙を極めスケジュールが確保できなかった。1974年、5月22日に、中日友好協会から招請電報が届いた。5月29日、山本伸一の一行は、羽田の国際空港を発った。

伸一は、国交の眼目とは、ただモノなどが行き交うことではなく、人間と人間の交流にこそあると考えていた。さらに青年と青年の交流があれば、万代にわたる「友誼の道」を開くことができると確信していた。青年のために、道を創れ、その道は、はるかなる未来に通じるーーそれが伸一の信念であった。

中国は文化大革命が続いており、日本では、学者や文化人が三角帽を被せられ、街中を引きずり回され、自己批判させられるような出来事ばかりが報じられてきた。だから、皆の頭のなかには、"中国は怖い国である"との印象が刷り込まれていたのである。

いよいよ山本伸一は、中国・深圳への第一歩を踏みしめたのだ。午前11時50分を指していた。中日友好協会の葉敬蒲と広州市の殷蓮玉が流暢な日本語で語った。葉は、伸一の著書「人間革命」を熟読していた。

広州駅に到着すると広東迎賓館に案内され、食事を共にしながら、広州の文化や、中国の食文化などが話題にのぼり、相互理解を深める、和やかな語らいとなった。会食を終え、飛行機で北京へ向かうと午後10時近かったが、中国友好協会の最高スタッフと廖承志会長が先頭で出迎えてくれた。

山本伸一が宿舎の北京飯店に着くと、日本人記者団が待っており、インタビューに快く丁寧に記者会見に応じた。日本と中国の未来のためにも、世界の平和のためにも、日中の友好がいかにたいせつかを、あらゆる機会を通して訴えたかったのである。伸一が打ち合わせを終えた時には、午前零時を回っていた。



太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

日中国交正常化提言

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 7P~

新・人間革命 第20巻 開始
< 友誼の章 開始 >

新しい時代の扉は、待っていては開きはしない。自らの手で、自らの果敢な行動で、勇気をもって開け放つのだ!

1974年(昭和49年)5月30日、午前10時半、伸一を団長とする創価学会第一次訪中団は、中華人民共和国を訪問するため、イギリス領・香港の九竜を列車で出発した。1時間ほどで香港最後の駅となる羅湖に着き、ここで通関手続きを済ませた。羅湖駅から百メートルほど歩き、中国の深圳駅に入るのである。まだ、日本から中国への直行便はなかった。

伸一は、先人たちの言葉を遺言として受け止めた。そして、日中友好の「金の橋」を架けることを、自らの使命と定めてきたのである。大願は、一代では成就できない。弟子が師の心を受け継いで立ち上がり、実現していくのだ。そこにこそ、弟子の使命があり、師弟の大願成就がある。

伸一は、時を待った。そして、1964年11月公明党の結党に際して、彼はこう提案した。「外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に真剣に努めてもらいたい」

さらに、その4年後、第11回学生部総会で、あの歴史的な「日中国交正常化提言」を行ったのである。当時、国際世論は中国に批判の声を高めていた時である。そのなかで、中国との国交正常化や中国の国連での地位の回復を訴えるには、非難の集中砲火を浴びることを、覚悟しなければならなかった。

日本が率先して中国との友好関係を樹立することは、アジアのなかにある東西の対立を緩和することになるにちがいない。そして、それは、やがては東西対立そのものを解消するに至ることを確信して、伸一は「日中国交正常化提言」を行ったのである。

伸一のこの提言は、朝日、読売、毎日をはじめ、新聞各紙に報道され、さらに、中国にも打電されたのである。提言の反響は極めて大きかった。政治家の松村謙三は、「百万の味方を得た」と語った。

だが、その一方で、伸一は、激しい非難の嵐にもさらされたのである。嫌がらせの脅迫電話や手紙、街宣車を繰り出しての攻撃もあった。なぜ宗教者が、"赤いネクタイ"をするのか、との批判もあった。

外務省の高官も、強い不満の意を表明した。しかし、伸一は、決して恐れなかった。命を捨てる覚悟なくしては、平和のための、本当の戦いなど起こせないからだ。彼は、恐れるどころか、むしろ、勇んで日中の関係改善のために、第二、第三の言論の矢を放った。

学術誌『アジア』の12月号には、「日中正常化への提言」と題する論文を発表した。翌年6月には、日中国交正常化をもう一歩進め、「日中平和友好条約」を万難を排して結ぶべきであると訴えたのである。寄せ返す波が、巌を削るように、間断なき闘争が、不可能の障壁を打ち崩していくのだ。

日中関係の改善を訴える山本伸一の主張と行動を、創価学会を、中国の周恩来総理は、じっと見続けていた。周総理は以前から、伸一と創価学会に強い関心を寄せ、学会の調査研究を進めるとともに、学会との間に交流のパイプをつくるよう、関係者に指示していたのである。

作家の有吉佐和子や、日中間のパイプ役というべき松村謙三も盛んに訪中を進めた。伸一は、まだ、訪中は時期尚早であると感じ、丁重に辞退したのである。

公明党の訪中が実現したのは、1971年6月のことである。公明党の訪中団に周総理は、冒頭「どうか、山本会長にくれぐれもよろしくお伝えください」と丁重に語った。

この折、公明党は、日中国交正常化を実現するための基本的な条件を、中日友好協会代表団との共同声明として発表した。この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となったのである。伸一が命がけで訴えてきた「日中国交正常化」に向かって、時代の歯車は回り始めたのである。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

同苦は想像力の結晶

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 371P~

反戦出版の完結は、終わりではなく、始まりであった。それは伸一と青年たちの、新しき平和運動の旅立を告げる号砲となったのである。

会長就任14周年を迎えた1974年(昭和49年)の5月、山本伸一は、中国やソ連、シンガポールの駐日大使との会談や、フランスの作家アンドレ・マルローとの対談など、平和への語らいに力を注いでいた。そして、月末には初の中国訪問が控えていた。

その準備に多忙を極めていた、5月26日、伸一が、聖教新聞社で行われていた、視覚障がい者のグループの座談会に突然姿を見せたのである。グループの名称は「自在会」。たとえ、目は不自由であっても、広宣流布の使命を自覚するならば、その生命は自由自在であるーーとの意義を込めた名である。

メンバーの願いは「いつの日か、私たちの座談会に、必ず、山本先生に出席していただこう」ということであった。伸一は言った「皆さんは勝ちました。人生の試練を見事に乗り越えてこられた。」

集ったメンバーは、いやというほど、人生の辛酸をなめてきた。不慮の事故で失明し、絶望のどん底に落とされた人もいる。職を得ることもできず、家族からも冷たい仕打ちを受けてきた人もいた。

伸一の導師で勤行が始まった。呼吸のぴったりと合った、清々しい勤行であった。伸一の背中にゴツンと後ろにいた青年の頭が当たった。視覚障害のため、伸一との距離がつかめなかったのである。伸一は、メンバーの苦労を深く感じ取った。

一つの事柄から、何を感じとるか。人の苦悩に対して想像力を広げることから、「同苦」は始まるのである。配慮とは人を思いやる想像力の結晶といえよう。

伸一は、仏道修行は、どのような難をも耐え抜いていく、忍辱の心が大切であることを訴えていった。心が弱ければ不幸である。幸せという花は、強い心の大地にこそ開くのだ。ゆえに伸一は「強くあれ!断じて強くあれ!」との祈りと願いを込めて、仏教説話を語っていった。

嫉妬とおごりに狂った王によって、耳や鼻、手足を次々と切られていったが、心は微動だにしなかったという話である。「目を一つずつ取られたとしても、まだ口がある。口を失っても、命はある。命ある限り、心で唱題し続けるんです。幸福は自身の信心でつかむ以外にない。ゆえに、信心には甘えがあってはならない」厳しい口調であった。

しかし、そこに伸一の慈愛があった。人間は助け合わなければならない。とともに、自立自助をめざす心が大事になる。その自立を阻むのが、甘えの心である。甘えは、時に自分自身を不幸にする要因となる。自分の思いや要求が満たされないと、他人や環境、運命を恨み、憎むようになるからだ。不平や文句、恨みや憎悪に明け暮れる人生は悲惨である。

幸福とは、自分の胸中に歓喜の太陽を昇らせることだ。それには自らの生命を磨く以外にない。自分を磨き、強くし、自身を変えゆく道こそが信心なのだ。だから彼は、信心の姿勢を厳しいまでに訴えたのである。

「自在会」の中核の一人である勝谷広幸は先天性緑内障で、生まれながら左目はほとんど見えず、右目の視力が、0.01であった。中学の時手術を受け入院していた時、隣のベッドの婦人から聖教新聞を渡される。目が見えないのに新聞を読めと言われたことに腹が立った。

しかし、捨てる前に体験記事を読み、ひかれるものがあった。彼は小学校5年生の時、父と共に入会していたが、信心に励んだことはなかった。退院すると聖教新聞や学会の出版物を読み、真剣に信心してみようと思った。

さらに教学を学ぶなかで、"目が不自由なぼくも、地涌の菩薩なのだ。みんなを幸せにしていく使命があるのだ!"とこの世に生を受けたことの、深き意味の発見であった。使命を自覚する時、人間の生命は蘇生する。その時、真の主体性が確立されるのだ。

伸一は、何人かの、泣いて赤く腫らした瞼を脱脂綿を取り換えては拭き、励ましの言葉をかけていった。

"君でなければ、あなたでなければ、果たせぬ尊き使命がある。その使命に生き抜き、広宣流布の天空に、尊厳無比なる宝塔として、燦然と、誇らかに、自身を輝かせゆくのだ!"

<宝塔の章 終了>
<新・人間革命 19巻終了>




太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

加害者側の視点からの反戦出版

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 363P~

沖縄、平尾島、長崎と進められた青年部の反戦出版は、1979年(昭和54年)には一都一道二府24県に
広がり、56巻を数えた。さらに、81年からは「戦争を知らない世代へⅡ」として、再び出版を開始。85年までには、新たに24巻が発刊され、全47都道府県を網羅するに至った。

この12年間にわたる青年の地道な取り組みによって、全80巻、3千2百人を超える人びとの平和への叫びをつづった"反戦万葉集"が完結したのである。各県の青年部は、テーマを絞り込んでいった。

和歌山県の青年部は『中国大陸の日本兵』を上梓した。"日中友好を考えるならば、たとえ目を背けたい歴史であっても、真摯に凝視しなければならない"と、青年たちは考えたのである。証言は、永久に自らの胸の内に秘めておこうと決めてきた、兵士の"忌まわしい過去"である。

取材に応じてくれた一人の元兵士は、取材を契機に、やめていた酒を飲み始め、夜ごと、苦悶の叫びをあげるようになった。彼の妻は、そのたびに馬乗りになって、彼をおさえつけなければならなかった。青年たちは加害者のもつ、心の傷の深さをあらためて知った。加害者もまた、軍国主義の被害者であることを痛感したのである。

熊本県の青年部も、加害者の側からの視点で反戦出版を行っている。残忍な行為に加担した人も、会って話を聞いてみれば、皆、好々爺であった。「出征前は、鶏一羽も殺すこともできなかった」という人もいた。"なぜ、そんな人が無感覚に人を殺せるようになってしまったのか"そこに、戦争というものの魔性の仕組みがあることに気づく。

「自分が死にたくないという本能を、逆に利用して人を殺させるのだ。ひとたび戦場に押し出されたら、もはや、その流れに逆らうことはできないものだ」そして、「戦争になってからでは遅い。その前に、戦争なんかさせないために、諸外国との友好の推進など、政治を、平和の方向に動かすことだ」というのが、青年たちの結論であった。

「青年は心して政治を監視せよ」とは戸田城聖の叫びである。メンバーは、その言葉の重さをかみしめるのであった。

外地での抑留や引き揚げを反戦出版のテーマとした県もあった。引き揚げの道もまた、悲惨であった。
満州の開拓民として入植した婦人は、突然、避難命令が出され、家財道具を売り払い、逃げた。盗賊団にも襲われた。ソ連軍の爆撃も受けた。機銃掃射の標的にもなった。ソ連軍の収容所に入ると、女性は、次々と暴行された。彼女は頭を丸坊主にし、顔に墨を塗って難を逃れた。女児を出産するが、母乳も出ず、赤ん坊は、44日目に死んだ。

舌を噛みきっても死ぬことはできなかった。彼女が九死に一生を得て、帰国したのは1946年であった。戦争の最大の犠牲者は女性と子どもである。だからこそ、女性は、平和を守るために立ち上がらなければならない。社会の主役として、正義の声をあげるのだ。

反戦出版では、子どもたちの被害に焦点を当てたものも少なくない。戦争がその国の"今"を破壊するだけでなく、"未来"をも破壊する非道な行為であることを、様々な角度から訴えている。滋賀県の青年部は、戦時中の教育者を中心に取材を進めた。

志願して予科練に入り、終戦を迎えた少年に、教師が「志願して兵隊に行った馬鹿者がいる」と冷淡に言い放った。それを聞いていた同じ予科練帰りの少年が教師に殴りかかった。信頼してくれた大人たちに裏切られた、悲憤であったにちがいない。


この軍国主義教育が行われていった時代のなかで、「教育は児童に幸福なる生活をなさしめるものを目的とする」として、教育改革を叫び続けてきたのが、牧口常三郎であり、創価教育学会であった。

反戦出版に携わった青年たちは、人びとの証言から、国家神道を精神的支柱とした軍国主義思想の恐ろしさを、痛感するのであった。守るべき中心は国民ではなく国家とし、国のために勇んで死んでいける人間をつくることが教育であったのだ。

青年たちは、この反戦出版を通して、一人ひとりの胸中に生命尊厳の哲理を確立する広宣流布こそ、恒久平和の直道であることを深く自覚していった。また、人間の生命を制御し、善の方向に変えていく人間革命なくして、平和の創造はないことを強く実感したのだ。



太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

広島・長崎の反戦出版

『新・人間革命』第19巻 宝塔の章 346P~

14歳の時に被爆し、大火傷を負った金子光子は、鏡を見たいと思わなくなった。寒くなれば風邪を引き、夏になると貧血で倒れ、季節の変わり目には火傷の跡がひきつるように痛むのだ。子どもたちから「ケロイド娘」とはやし立てられたこともあった。

「なんで死なせてくれなかったの!」と怒りを母にぶつけると母は娘を抱きしめ、「誰がなんと言おうとお前が一番素敵だよ」と励ましてくれた。同じ被爆者と結婚し娘に恵まれるが、娘は重度の視力障害で、失明に近い状態であった。自分の運命を呪った。そんな時、金子は入会した。娘を救いたい一心であった。懸命に学会活動に励み、1年後、担当医が他で治療を受けているのかと尋ねるほど娘の視力が回復したのだ。

金子は、信仰に励むなかで、原爆の恐ろしさを未来に伝え、平和の永遠の礎をつくることが、被爆者である自分の使命だと考えるようになった。広島を訪れる修学旅行生などに、被爆体験を語るようになる。

インドのガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士が「原爆を投下したアメリカをどう思いますか」と尋ねると、金子は「憎んだ時期もありました。でも、恨むことに心を費やすことが、どれほど惨めであるか・・・。人生は何に生命をかけるかが大事です。私はすべての人の幸福のため、すべての国の平和のために生命を捧げます」博士は感嘆の声をあげた。


また、胎内被曝し、原爆小頭症として生まれた娘をもつ壮年は、信心を始めてから同じ障害のある子とその親たちの会を結成。会長として活躍する。

広島県反戦出版委員会のメンバーである山上則義も、体内被爆者であり、彼自身の手記も収められている。中学2年の夏、首に悪性腫瘍ができ、命は長くないかもしれないと言われ、自分が 体内被爆者であることを思い知らされた。

彼は、いつ死ぬかもしれないという恐怖から、自暴自棄になり、母と祖母が肝臓も肺も、癌に食い荒らされ亡くなると、東京へ行き一人暮らしを始める。自分の生きる意味を探し求めた。知り合った日系カナダ人の婦人から仏法の話を聞き、『人間革命』第1巻を借りて読む。「黎明の章」の終わりの「闇が深ければ深いほど、暁は近いはずだ」一節に、涙がこぼれた。彼は入会した。結核が再発し、信心に不信をいだき、仏壇を叩き壊した。そこに青年部員が訪ねてきて、話を聞いてくれ、励ましてくれた。共に唱題するなかで、真剣に信心に励んでみようと思った。

16人の友人の折伏が実ったころ、なんと結核は固まっていた。この体験で信心の確信をつかんだ山上は、反戦出版を通して、原爆の悲惨さを伝え残し、平和を叫びぬいていくことこそ、胎内被爆者である自分の使命であると思ったからだ。

彼は広島平和記念館で、母の朝子を追悼して友人たちが発刊してきた、数冊の被爆体験誌『あさ』を見つけた。母は、友人たちと勉強会を行い、平和と人権を守ろうと、原水禁運動なども、果敢に推進してきたのである。山上は、反戦出版に携わる自分と、この文集との出会いは、単なる偶然とは思えなかった。母が自分の作業を見守っているように感じた。

8月9日には、長崎青年部による『ピース・フロム・ナガサキ』が発刊されたのである。
証言によって描き出された被爆地・長崎も地獄絵図さながらであった。長崎の青年たちが被爆体験の取材、証言収集を重ねるなかで、長崎原爆の記録に残されていなかった新事実も発掘された。

これまで、被災当日8月9日午後1時50分に運行された救援列車による被災者の収容が、国鉄の救援活動の最初とされてきた。しかし、その前に線路状況の確認のために、トロッコを連結したモーターカーが出され、その段階で、既に救援活動が行われていたことが判明したのだ。

救援列車より約2時間も早く、被爆直後の市内に入って救援活動を行ったという、国鉄職員だった壮年の証言に、マスコミも注目した。まさに、長崎の原爆被災史の空白を埋める新証言となったのである。


太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

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