『新・人間革命』第20巻 友誼の章 16P~
中国の革命家・孫文は叫んだ「大きな事業をやり遂げるには、何よりも大きな志をいだき、大きな度胸をもち、大きな決心をしなければならない」壮大な志をもって、勇気をもって、行動を起こすとき、歴史を創る大事業の幕が開かれる。
7月半ば、ニクソン大統領は、中国を敵視してきたアジア政策を転換し、中国を訪問し、米中は日本の頭越しに、国交樹立へと踏み出した。国連総会では、中華人民共和国を中国の唯一の政府と認め、国連に招請することを可決した。
世界の大きな動きに、日本は危うく取り残されるところであった。伸一の布石の重さを、心ある識者は、今更ながら実感するのであった。公明党は5月と7月に中国へ代表団を派遣。田中内閣が発足すると国交正常化への政府とのパイプ役を務め、国交回復への問題点を周総理と煮詰めていった。
日本政府にとっての最大の難問は、日本が中国に与えた戦争被害の賠償であった。中国側の死傷者は、3500万人、経済的損失は、直接・間接合わせて総額6千億ドルともいわれる。しかし、周総理は、公明党との会談で、その対日賠償の請求を放棄すると言明したのである。
日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを日本の人民に味わわせてはならない。それが周総理の考え方であった。これによって、日本がどれほど救われるかーー伸一はそう思うと、いかに感謝してもしきれるものではないと思った。日本は、その恩義を、永遠に忘れることがあってはならない。
周総理は、公明党との会談の最後に、これまで語りあってきた事柄をまとめ、国交正常化のための、日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。公明党の訪中団は、それを必死にメモして、帰国後、田中首相、大平外相に伝えたのである。
日中国交正常化のお膳立ては整った。1972年(昭和47年)国交正常化の日中共同声明の調印式が行われたのである。公明党がそのパイプ役となりえた理由を、中日友好協会や新華社の関係者は山本伸一が行った「日中国交正常化提言」によるものと断言している。提言を高く評価した周総理が、その伸一によって創立された公明党に大きな信頼を寄せてのことだというのである。
勇気の言葉は、必ず歴史を変える。ゆえに、恐れなく、真実を、正義を、信念を語り抜くのだ。
国交正常化御後、伸一は幾たびとなく、訪中の要請を受けていたが、多忙を極めスケジュールが確保できなかった。1974年、5月22日に、中日友好協会から招請電報が届いた。5月29日、山本伸一の一行は、羽田の国際空港を発った。
伸一は、国交の眼目とは、ただモノなどが行き交うことではなく、人間と人間の交流にこそあると考えていた。さらに青年と青年の交流があれば、万代にわたる「友誼の道」を開くことができると確信していた。青年のために、道を創れ、その道は、はるかなる未来に通じるーーそれが伸一の信念であった。
中国は文化大革命が続いており、日本では、学者や文化人が三角帽を被せられ、街中を引きずり回され、自己批判させられるような出来事ばかりが報じられてきた。だから、皆の頭のなかには、"中国は怖い国である"との印象が刷り込まれていたのである。
いよいよ山本伸一は、中国・深圳への第一歩を踏みしめたのだ。午前11時50分を指していた。中日友好協会の葉敬蒲と広州市の殷蓮玉が流暢な日本語で語った。葉は、伸一の著書「人間革命」を熟読していた。
広州駅に到着すると広東迎賓館に案内され、食事を共にしながら、広州の文化や、中国の食文化などが話題にのぼり、相互理解を深める、和やかな語らいとなった。会食を終え、飛行機で北京へ向かうと午後10時近かったが、中国友好協会の最高スタッフと廖承志会長が先頭で出迎えてくれた。
山本伸一が宿舎の北京飯店に着くと、日本人記者団が待っており、インタビューに快く丁寧に記者会見に応じた。日本と中国の未来のためにも、世界の平和のためにも、日中の友好がいかにたいせつかを、あらゆる機会を通して訴えたかったのである。伸一が打ち合わせを終えた時には、午前零時を回っていた。
7月半ば、ニクソン大統領は、中国を敵視してきたアジア政策を転換し、中国を訪問し、米中は日本の頭越しに、国交樹立へと踏み出した。国連総会では、中華人民共和国を中国の唯一の政府と認め、国連に招請することを可決した。
世界の大きな動きに、日本は危うく取り残されるところであった。伸一の布石の重さを、心ある識者は、今更ながら実感するのであった。公明党は5月と7月に中国へ代表団を派遣。田中内閣が発足すると国交正常化への政府とのパイプ役を務め、国交回復への問題点を周総理と煮詰めていった。
日本政府にとっての最大の難問は、日本が中国に与えた戦争被害の賠償であった。中国側の死傷者は、3500万人、経済的損失は、直接・間接合わせて総額6千億ドルともいわれる。しかし、周総理は、公明党との会談で、その対日賠償の請求を放棄すると言明したのである。
日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを日本の人民に味わわせてはならない。それが周総理の考え方であった。これによって、日本がどれほど救われるかーー伸一はそう思うと、いかに感謝してもしきれるものではないと思った。日本は、その恩義を、永遠に忘れることがあってはならない。
周総理は、公明党との会談の最後に、これまで語りあってきた事柄をまとめ、国交正常化のための、日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。公明党の訪中団は、それを必死にメモして、帰国後、田中首相、大平外相に伝えたのである。
日中国交正常化のお膳立ては整った。1972年(昭和47年)国交正常化の日中共同声明の調印式が行われたのである。公明党がそのパイプ役となりえた理由を、中日友好協会や新華社の関係者は山本伸一が行った「日中国交正常化提言」によるものと断言している。提言を高く評価した周総理が、その伸一によって創立された公明党に大きな信頼を寄せてのことだというのである。
勇気の言葉は、必ず歴史を変える。ゆえに、恐れなく、真実を、正義を、信念を語り抜くのだ。
国交正常化御後、伸一は幾たびとなく、訪中の要請を受けていたが、多忙を極めスケジュールが確保できなかった。1974年、5月22日に、中日友好協会から招請電報が届いた。5月29日、山本伸一の一行は、羽田の国際空港を発った。
伸一は、国交の眼目とは、ただモノなどが行き交うことではなく、人間と人間の交流にこそあると考えていた。さらに青年と青年の交流があれば、万代にわたる「友誼の道」を開くことができると確信していた。青年のために、道を創れ、その道は、はるかなる未来に通じるーーそれが伸一の信念であった。
中国は文化大革命が続いており、日本では、学者や文化人が三角帽を被せられ、街中を引きずり回され、自己批判させられるような出来事ばかりが報じられてきた。だから、皆の頭のなかには、"中国は怖い国である"との印象が刷り込まれていたのである。
いよいよ山本伸一は、中国・深圳への第一歩を踏みしめたのだ。午前11時50分を指していた。中日友好協会の葉敬蒲と広州市の殷蓮玉が流暢な日本語で語った。葉は、伸一の著書「人間革命」を熟読していた。
広州駅に到着すると広東迎賓館に案内され、食事を共にしながら、広州の文化や、中国の食文化などが話題にのぼり、相互理解を深める、和やかな語らいとなった。会食を終え、飛行機で北京へ向かうと午後10時近かったが、中国友好協会の最高スタッフと廖承志会長が先頭で出迎えてくれた。
山本伸一が宿舎の北京飯店に着くと、日本人記者団が待っており、インタビューに快く丁寧に記者会見に応じた。日本と中国の未来のためにも、世界の平和のためにも、日中の友好がいかにたいせつかを、あらゆる機会を通して訴えたかったのである。伸一が打ち合わせを終えた時には、午前零時を回っていた。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋