『新・人間革命』第20巻 友誼の章 94P~
伸一は、日中平和友好条約について意見を求めたのに始まり、社会主義と人間の自由、資源問題、組織と官僚主義、核兵器の問題など、10項目にわたって、深く掘り下げた質問をしていった。副総理も、快く質問に答えてくれた。伸一は、副総理の言葉に、嘘はないと思った。"真実"の重さを感じた。
伸一は、こう尋ねてみた。「組織が巨大化してしまうと、どうしても官僚主義化されていく傾向があります。それをいかにして防ごうとされているのでしょうか」
「上層の指導部は、大衆による『批判』と、『自己批判』がなされなければなりません。また、できあがった組織のなかで安住するのではなく、人民に奉仕し抜いていくことによって、官僚主義は乗り越えていくことができます。」
伸一も、まったく同感であった。組織に温かな人間の血が通い、組織が人間のためのものであり続けるには、指導者や幹部は「人民への奉仕」を絶対に忘れてはならない。
それは、学会に即して言えば、「会員への奉仕」である。学会の未来も、最高幹部や職員等が「会員への奉仕」に徹し抜いていけるか否かに、すべてはかかっている。幹部は、会員に仕えるためにいるのだという哲学を、幹部自身がもち、実践することである。その一途さ、誠実さに、人びとは信頼を寄せ、そこに団結も生まれるのだ。
伸一は、中国の後継者問題についても、副総理に尋ねておきたかった。日本の新聞各社の北京特派員たちからも、「ぜひ、聞いてほしい」と要望されていたのである。
「『毛沢東主席の後継者はどうなるのか』この点はいかがでしょうか」周総理は、その瞬間、表情を硬くし、言葉を選ぶようにして語った。「もう主席は、お元気です・・・」伸一は、微妙な事情があると直感し、即座に話題を変えた。
このころ、四人組は毛沢東のあとの権力を握るため、さまざまな画策を続けていたのである。この会見に対しても、副総理に一言でも失言があれば、追い落としの材料にしようと、情報網を張り巡らしていたにちがいない。
当時、"文革"の実態はベールに包まれていたが、李副総理も、また、周総理も批判の標的にされていたのだ。ほんの少しでも油断があれば、敵の術策にはまってしまうという緊張下で、日々を送っていたのである。
後の話になるが、周総理が他界すると、人民は号泣した。そして、強大な力をもつ四人組に、公然と抗議の声をあげたのだ。李副総理は、四人組の追放に立ち上がる。そして、やがて国家主席として活躍することになる。
対話は2時間15分にも及んだ。この深夜の会見を終えたあと、伸一は日本人記者たちの取材に応じ、李副総理との会談の内容について語った。翌7日の朝日新聞夕刊の一面には「社会主義化が進んでも、日欧と平和共存、李中国副首相語る」との見出しが躍り、会談の模様が大々的に報じられている。
伸一が宿舎の部屋に着いたのは、午前零時近かった。伸一は、峯子と荷物をまとめながら言った。「今日は牧口先生のお誕生日だった。」師匠を思うと心は燃えた。元気が出た。真の弟子にとっては、師こそが勇気と努力の源泉なのである。
6月7日、山本伸一の一行は 西安に向かった。かつては「長安」と呼ばれ、長く中国の国都として栄えてきた。日本とも遣唐使など、古くから交流があった地である。
また、近代においても、「西安事件」が起こり、歴史回天の舞台となっている。中国ではこの「西安事件」を契機に、第二次国共合作が実現し、抗日民族統一戦線が結成されるのである。
山本伸一の一行は、紡績工場を視察した。この工場にも、喜々として働く、多くの女性労働者の姿があった。工場には、幼稚園もあり、家庭を持つ女性たちが、心きなく働けるように、さまざまな工夫がなされていた。女性をたいせつにしてこそ女性の活躍があり、そこに新しき発展がある。
伸一は、日中平和友好条約について意見を求めたのに始まり、社会主義と人間の自由、資源問題、組織と官僚主義、核兵器の問題など、10項目にわたって、深く掘り下げた質問をしていった。副総理も、快く質問に答えてくれた。伸一は、副総理の言葉に、嘘はないと思った。"真実"の重さを感じた。
伸一は、こう尋ねてみた。「組織が巨大化してしまうと、どうしても官僚主義化されていく傾向があります。それをいかにして防ごうとされているのでしょうか」
「上層の指導部は、大衆による『批判』と、『自己批判』がなされなければなりません。また、できあがった組織のなかで安住するのではなく、人民に奉仕し抜いていくことによって、官僚主義は乗り越えていくことができます。」
伸一も、まったく同感であった。組織に温かな人間の血が通い、組織が人間のためのものであり続けるには、指導者や幹部は「人民への奉仕」を絶対に忘れてはならない。
それは、学会に即して言えば、「会員への奉仕」である。学会の未来も、最高幹部や職員等が「会員への奉仕」に徹し抜いていけるか否かに、すべてはかかっている。幹部は、会員に仕えるためにいるのだという哲学を、幹部自身がもち、実践することである。その一途さ、誠実さに、人びとは信頼を寄せ、そこに団結も生まれるのだ。
伸一は、中国の後継者問題についても、副総理に尋ねておきたかった。日本の新聞各社の北京特派員たちからも、「ぜひ、聞いてほしい」と要望されていたのである。
「『毛沢東主席の後継者はどうなるのか』この点はいかがでしょうか」周総理は、その瞬間、表情を硬くし、言葉を選ぶようにして語った。「もう主席は、お元気です・・・」伸一は、微妙な事情があると直感し、即座に話題を変えた。
このころ、四人組は毛沢東のあとの権力を握るため、さまざまな画策を続けていたのである。この会見に対しても、副総理に一言でも失言があれば、追い落としの材料にしようと、情報網を張り巡らしていたにちがいない。
当時、"文革"の実態はベールに包まれていたが、李副総理も、また、周総理も批判の標的にされていたのだ。ほんの少しでも油断があれば、敵の術策にはまってしまうという緊張下で、日々を送っていたのである。
後の話になるが、周総理が他界すると、人民は号泣した。そして、強大な力をもつ四人組に、公然と抗議の声をあげたのだ。李副総理は、四人組の追放に立ち上がる。そして、やがて国家主席として活躍することになる。
対話は2時間15分にも及んだ。この深夜の会見を終えたあと、伸一は日本人記者たちの取材に応じ、李副総理との会談の内容について語った。翌7日の朝日新聞夕刊の一面には「社会主義化が進んでも、日欧と平和共存、李中国副首相語る」との見出しが躍り、会談の模様が大々的に報じられている。
伸一が宿舎の部屋に着いたのは、午前零時近かった。伸一は、峯子と荷物をまとめながら言った。「今日は牧口先生のお誕生日だった。」師匠を思うと心は燃えた。元気が出た。真の弟子にとっては、師こそが勇気と努力の源泉なのである。
6月7日、山本伸一の一行は 西安に向かった。かつては「長安」と呼ばれ、長く中国の国都として栄えてきた。日本とも遣唐使など、古くから交流があった地である。
また、近代においても、「西安事件」が起こり、歴史回天の舞台となっている。中国ではこの「西安事件」を契機に、第二次国共合作が実現し、抗日民族統一戦線が結成されるのである。
山本伸一の一行は、紡績工場を視察した。この工場にも、喜々として働く、多くの女性労働者の姿があった。工場には、幼稚園もあり、家庭を持つ女性たちが、心きなく働けるように、さまざまな工夫がなされていた。女性をたいせつにしてこそ女性の活躍があり、そこに新しき発展がある。
太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋