小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

July 2020

李副総理との会見

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 94P~ 

伸一は、日中平和友好条約について意見を求めたのに始まり、社会主義と人間の自由、資源問題、組織と官僚主義、核兵器の問題など、10項目にわたって、深く掘り下げた質問をしていった。副総理も、快く質問に答えてくれた。伸一は、副総理の言葉に、嘘はないと思った。"真実"の重さを感じた。

伸一は、こう尋ねてみた。「組織が巨大化してしまうと、どうしても官僚主義化されていく傾向があります。それをいかにして防ごうとされているのでしょうか」

「上層の指導部は、大衆による『批判』と、『自己批判』がなされなければなりません。また、できあがった組織のなかで安住するのではなく、人民に奉仕し抜いていくことによって、官僚主義は乗り越えていくことができます。」

伸一も、まったく同感であった。組織に温かな人間の血が通い、組織が人間のためのものであり続けるには、指導者や幹部は「人民への奉仕」を絶対に忘れてはならない。

それは、学会に即して言えば、「会員への奉仕」である。学会の未来も、最高幹部や職員等が「会員への奉仕」に徹し抜いていけるか否かに、すべてはかかっている。幹部は、会員に仕えるためにいるのだという哲学を、幹部自身がもち、実践することである。その一途さ、誠実さに、人びとは信頼を寄せ、そこに団結も生まれるのだ。

伸一は、中国の後継者問題についても、副総理に尋ねておきたかった。日本の新聞各社の北京特派員たちからも、「ぜひ、聞いてほしい」と要望されていたのである。

「『毛沢東主席の後継者はどうなるのか』この点はいかがでしょうか」周総理は、その瞬間、表情を硬くし、言葉を選ぶようにして語った。「もう主席は、お元気です・・・」伸一は、微妙な事情があると直感し、即座に話題を変えた。

このころ、四人組は毛沢東のあとの権力を握るため、さまざまな画策を続けていたのである。この会見に対しても、副総理に一言でも失言があれば、追い落としの材料にしようと、情報網を張り巡らしていたにちがいない。

当時、"文革"の実態はベールに包まれていたが、李副総理も、また、周総理も批判の標的にされていたのだ。ほんの少しでも油断があれば、敵の術策にはまってしまうという緊張下で、日々を送っていたのである。

後の話になるが、周総理が他界すると、人民は号泣した。そして、強大な力をもつ四人組に、公然と抗議の声をあげたのだ。李副総理は、四人組の追放に立ち上がる。そして、やがて国家主席として活躍することになる。

対話は2時間15分にも及んだ。この深夜の会見を終えたあと、伸一は日本人記者たちの取材に応じ、李副総理との会談の内容について語った。翌7日の朝日新聞夕刊の一面には「社会主義化が進んでも、日欧と平和共存、李中国副首相語る」との見出しが躍り、会談の模様が大々的に報じられている。

伸一が宿舎の部屋に着いたのは、午前零時近かった。伸一は、峯子と荷物をまとめながら言った。「今日は牧口先生のお誕生日だった。」師匠を思うと心は燃えた。元気が出た。真の弟子にとっては、師こそが勇気と努力の源泉なのである。

6月7日、山本伸一の一行は 西安に向かった。かつては「長安」と呼ばれ、長く中国の国都として栄えてきた。日本とも遣唐使など、古くから交流があった地である。

また、近代においても、「西安事件」が起こり、歴史回天の舞台となっている。中国ではこの「西安事件」を契機に、第二次国共合作が実現し、抗日民族統一戦線が結成されるのである。

山本伸一の一行は、紡績工場を視察した。この工場にも、喜々として働く、多くの女性労働者の姿があった。工場には、幼稚園もあり、家庭を持つ女性たちが、心きなく働けるように、さまざまな工夫がなされていた。女性をたいせつにしてこそ女性の活躍があり、そこに新しき発展がある。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

日中の相互理解の推進

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 76P~

教育こそ、社会の発展の根本である。大学を見れば、その国、その社会の未来がわかる。頤和園を後にした山本伸一は、中国の次代を担う若者たちとの出会いに胸を躍らせながら、北京大学へ向かった。

伸一は、日中の文化交流と相互理解を図るために、日本語の書籍など図書5千冊を北京大学に寄贈したいと述べ、その目録を手渡した。北京大学からは、写真集「中国工芸美術」などが返礼として贈られた。

伸一は写真集に、記念の言葉を書いてほしいと話す。一冊の本、一枚の色紙に記された言葉が、後世の大切な宝となることもある。伸一は、はるかな未来を見つめながら、一瞬一瞬、手を打っていたのだ。

当時の北京大学には、学校が経営する7つの工場があった。工場は学生、教師、労働者による「自力更生」をスローガンとして、建設されたという。

学生が工場で労働に携わるのは、大学に学んだ青年が、大衆から遊離し、"精神的貴族"のようにならないための教育でもあった。

大切なことは、本来、大学は民衆を守るためのものであり、民衆に奉仕し、貢献するために大学で学ぶという原点を常に確認していくことではないだろうか。

この日の出会いから、北京大学と創価大学の交流が始まったといってよい。後に、両大学は交流協定を結び、多くの教員や学生が行き来することになる。それは、創立者自らが架けた、教育交流の金の橋であった。伸一の北京大学での講演も三度に及んでいる。また、中国で初めて、伸一に名誉教授の称号を贈ったのは、北京大学であった。

伸一たちは、中日友好協会の金蘇城理事らの案内で万里の長城を歩いた。金理事の大きな声が響いた。「山本先生は、勇気をもって、日中国交正常化を提言され、さらに、日中平和悠子条約の締結も主張されています。激しく批判されながらも、微動だにされませんでした。そこに、創価学会を貫く、精神の強さ、堅固な心を感じます」

翌朝、伸一たちは、天安門広場の南の繁華街である大柵欄街を訪れた。地下防空壕を視察するためである。案内されたのはデパートであった。一階の床を持ち上げると階段があり、下りると地下壕になっていた。そこは防空壕というより、地下街を思わせた。明るく清潔な空間が広がり、中には、食堂や会議室、電話室、指揮室、放送室などもある。地下道によって、全市の街区が結ばれているとのことであた。

大柵欄街には、普段は8万人、祝祭日には20万人の人で賑わうという。その人たちが、いざという時には、5,6分で地下壕に避難できるというのである。案内者は語った。「他国からミサイルが飛んでくるのを7分と想定して、十分に間に合う時間です」

付近の居住区の防空壕にも案内された。防空壕を掘る作業に当たったのは、主に婦人と年配者であり、平均年齢は50歳を超えていたという。案内者は、毅然とした口調で言葉をついだ。「私たちは、第一には戦争には反対です。しかし、第二に戦争を恐れません」

伸一は、中国の人たちの心中を考えると、胸が張り裂けそうな思いがした。そして、"中ソの不信の溝を、絶対に埋めねばならぬ"と、心に誓うのであった。

国際クラブで、北京で友好を結んだ人たちに対する答礼宴をもった。答礼宴を終えた山本伸一の一行は、北京の人民大会堂に向かった。利先念副総理との会見のためである。

副総理は、日本と中国の国交正常化に至る伸一たちの努力の足跡を確認するように述べたあと、こう語った。「山本先生は、大きな働きをされました。大変に価値あるものです」

「周総理も、山本先生と創価学会には、重大な関心を寄せておられます。本来なら総理が会って、ごあいさつすべきなのですが、総理は今、病気療養中です。総理は、『山本会長にお会いしたいけれども、今回はお会いできないので、くれぐれもよろしく伝えてほしい』と申しておりました」この時、周総理は、5日前に癌の手術をしたばかりであった。

総理は重い病をかかえながら、伸一の訪問に対して、こまやかな気遣いをしてくれた。食べ物の好みや、喫煙するかどうかなども、人を介して尋ねた。伸一が少しでも安眠できるようにと、宿舎のカーテンを遮光性の強いものに、わざわざ取り替えさせたりもしていたのである。

総理の真心が、痛いほど感じられてならなかったのである。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

核兵器の全面撤廃と完全廃棄

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 60P~

二回にわたる中日友好協会の代表との座談会では、当然のことながら、核兵器の問題も話題にのぼった。伸一は、核廃絶への流れを断じてつくらなければならないと必死であった。

自国を守るために、核武装という手段を選択した中国にとって、伸一の主張は厳しい問題提起であったかもしれない。しかし、中国側は、核兵器の全面廃止と完全廃棄が、中国の立場であることを明確に語ったのである。

「核兵器は、着ることもできなければ、食べることもできません」伸一は、この言葉に核兵器に対する中国の本音を聞いた思いがした。しかし、中国は核実験を続けている。そのことを尋ねると、張副会長は答えた。「現実認識に立つ時、中国は核実験を行い、核を保有せざるをえません」

伸一は、それでも、まず中国から、勇気をもって核を放棄し、全廃の叫びを強めていくべきであると訴えた。時代を変えるために、伸一は決断を求めた。中国側を代表して、張副会長が、誓約するように語った。「核実験を行っても、いかなる場合でも、中国が最初に核兵器を使用することは絶対にありません。核は、あくまでも防衛的なものです」

核兵器に対する考え方では、創価学会側と中国側とは、意見が異なる部分があった。しかし、「核の保有、非保有にかかわらず、すべての国が平等の立場で、一堂に会して、核兵器全廃のための会議を開く」との意見に対しては、完全な同意を得た。また、日中平和友好条約の締結もテーマになった。

中日友好協会の代表との語らいは白熱した。宗教否定のマルクス・レーニン主義を基調とする中国と、日蓮仏法を基調とした創価学会との対話である。同行メンバーの多くは、意見が一致することは、ほとんどないのではないかと考えてたいたようだ。

本当に民衆のことを考え、平和を求めぬく誠実な心と心は、社会体制の壁を超え、共鳴の和音を奏でるものだ。社会の制度やイデオロギーは異なっていようが、そこにいるのは同じ人間であるからだ。

訪中4日目、山本伸一は北京市西城区の、半導体を使って精密機械を作っている工場に案内された。その中心は主婦である。この工場は、かつては"天秤"を作る町工場であったが、女性従業員たちの涙ぐましいまでの努力によって、工場は生まれ変わっていったというのである。国も、団体も、女性が存分に力を発揮できるところには大発展がある。

この日の午後、山本伸一の一行は、北京市郊外の人民公社を訪問した。人民公社は、生産部門と行政部門が一体化した、中国独自の農村の機構であった。

6月3日午後、北京市第35中学校を視察した。校門を入ると、黒板に大書された、「熱烈歓迎 日本朋友」の文字が飛び込んできた。
伸一は、女子生徒と卓球の試合をした。伸一はお礼に自分のラケットを贈ると、生徒が「中日友好万歳。日本の友人に贈る」と書かれた箱に入ったラケットをプレゼントしてくれた。

校庭では、地下深く穴を掘る生徒の姿があった。ソ連の攻撃を受けた時に、避難するための壕をつくているのだという。戦争の陰は、子どもたちの学校生活にまで及んでいるのだ。

伸一はその光景を眼に焼き付けるように、じっと眺め、自分に強く言い聞かせた。"この事実を、必ずソ連の指導者に伝え、平和のための道を歩むように訴え抜くのだ。中ソの争いは、生命を投げ出しても、絶対にやめさせなければならない!"

4日午前、山本伸一の一行は、北京市郊外の頤和園に招かれた。頤和園は、清朝の西太后の離宮として知られる大庭園である。入口に中国友好協会の趙撲初副会長が待っていてくれた。当時、仏教協会の責任を担っていた。

趙は日中戦争の時代、人民の救済に苦闘した体験を語り始めた。仏教界も腐敗堕落し、むしろ人民大衆を苦しめる存在に堕していた。伸一は、間髪を入れずに答えた。「人民のため、社会のために身を挺して戦うーーそれが菩薩であり、仏です。仏法者の在り方です。その行動のない仏教は、まやかしです」

仏教の精神について、二人の意見は完全に一致し、意気投合した。打てば響くような語らいであった。趙副会長と伸一は、この後も何度も会い、友誼を重ねていくのである。



太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

中ソ対立の歴史

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 50P~

6月1日伸一たちは、「児童節」の催しに招待を受けた。会場の北京市労働人民文化宮は、天安門の東側にあった。参加者は、合計5万人であるという。子どもたちは、各所で歌や踊り、さまざまな展示、ゲームなどを楽しんでいた。

伸一は、案内をしてくれた少女に「将来どんな仕事につきたいと思いますか」と尋ねると「人民が望むなら、どんな仕事でもします」と答えた。

人民に奉仕することの大切さを、徹底して教えてられているのだろう。この精神が子どもたちの共通の生き方として定着していくならば、他に類を見ない、すばらしい社会として発展を遂げていくに違いないと、伸一は思った。

新中国の成立から20数年にして、教育は普及し、衣食住は保障され、革命前と比べて生活は確かに向上したというのが、人びとの実感であるようだ。

午後3時からは、中日友好協会の代表と座談会が行われた。これには、協会の副会長の張香山をはじめ、秘書長の孫平化、理事の林麗うん、金蘇城、通訳として黄世明らが参加した。

中国側のメンバーは、世界の情勢を「天下動乱」という観点でとらえていた。その危険性の根本要因を中国側は、米ソの二超大国の対立にあると考えていた。また、日本に軍国主義が復活することを強く警戒していた。

伸一が、最も憂慮し、中国の意見を聞きたかった問題は、中ソ対立であった。中ソ国境では、一触即発の緊張がみなぎっていたのである。

1956年の2月、ソ連共産党の大会で、フルシチョフ第一書記が、資本主義との平和的共存という新路線を発表したのだ。さらに、3年前に他界した書記長のスターリンを批判し、その独裁や粛清を弾劾したのである。

ソ連のみならず、世界の共産党の指導者として、君臨し、権力を振るってきたスターリンが否定されるとともに、社会主義としての路線の転換が図られたのだ。このフルシチョフ発言に、社会主義諸国は揺れた。当時、"アメリカ帝国主義との対決"などを打ち出していた中国は、フルシチョフの急激な路線変更に不信感を強め、異を唱えた。中ソ間に亀裂が走った。

7月、ソ連は、中国に派遣していた千人を越える技術者の引き揚げや、物資などの供給停止を決めた。これによって、ソ連の援助に依存していた中国の経済政策は、根底から揺るがされることになったのである。

中国は、64年10月、核実験に成功する。さらに、66年には、文化大革命が始まる。するとソ連は、"文革"こそ毛沢東思想の誤りであるとして、猛烈な批判を開始したのだ。

1968年8月チェコ事件が起き、社会主義国のチェコスロバキアに、ソ連などの社会主義国が軍事介入して鎮圧したのだ。

中国はソ連に脅威を感じた。中国にも、いつ侵攻してくるかわからぬという危機感を抱いた。翌年、珍宝島や黒竜江の島で中ソの軍事衝突が発生。緊張はますます高まっていった。

その一方で中国は、これまで帝国主義と批判していたアメリカとの関係改善に取り組み、ソ連の軍事的脅威に対抗しようとする。

山本伸一は、核を保有する中ソが戦争となることを、最も恐れていた。この事態だけは、絶対に阻止しなければならないと考えていた。伸一は、張香山副会長に率直に尋ねた。「・・・ところで、中国は他国を攻めることはありませんか」

「私たちは、独立の尊さと、侵略の悲惨さを身に染みて感じております。したがって、中国が他国を侵略することは、絶対にありません」張副会長は断言した。伸一は、この回答の意味は大きいと感じた。

中国側は、この秋に、伸一がソ連を訪問することも知っている。その言葉は、伸一に託したソ連へのメッセージであったのかもしれない。しかし、伸一は、政治的な思惑や意図などを探ろうとは思わなかった。彼は、張副会長の発言をそのまま受け入れ、深く心にとどめた。

ともかく、中国は侵略の意思がないことを言明したのだ。それならば、中ソの戦争の回避は、決して不可能ではない。伸一は、その言葉に喜びを覚えた。


7月28日付 聖教新聞3面に 歴史の目撃者である 黄世明氏との対話録が載っている。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

北京の教員たちとの語らい

『新・人間革命』第20巻 友誼の章 33P~

朝の北京は、通勤、通学の自転車で埋め尽くされていた。そこには、民衆の躍動と活気がみなぎっている。

31日の午前中、伸一たちは中日友好協会の金蘇城理事らの案内で、故宮博物院に向かった。革命によって、紫禁城は今や人民に解放され、故宮博物院となったのである。人民を見下して足蹴にし、栄耀栄華にふける権力者は、必ず滅び去る。それは歴史の鉄則といってよい。

山本伸一の一行は、午後には北京市西城区にある新華小学校や付属の幼稚園に案内された。子どもと接するということは、未来と接することだ。子どもを育てるということは、未来を育てるということだ。伸一は、訪中の最大の眼目を、教育交流においていた。万代の日中友好を願うならば、中国と日本の若き世代の交流の道を、広々と開く必要があると考えていたからである。

校舎の一室で行われた教職員との交流の折、伸一は、真心こもる歓迎に感謝しながら、創価学会の歴史と教育への取り組みについて語った。伸一は、創価学会の師弟を語る時、最も誇らかであった。

初代、二代の会長の戦いは、人類普遍の燦然たる正義の人道である。それゆえに、その歴史をありのあままに語るならば、創価学会がいかなる理念と哲学の団体であるかを、世界のどの国でも、すぐに理解してもらうことができるのである。

学校に、小さな象棋(中国将棋)の工場が併設されていた。ここでの労働を通し、子どもたちは労働の大切さを学び、学習した知識を労働生産に生かすのだという。その指導には、定年退職した技術者があったっていた。

「牧口先生がいらっしゃったら、喜ばれるだろうな・・・」初代会長の牧口常三郎は、明治後期から「半日学校制度」を提唱してきた。それは、半日は学校で学び、残りの時間は社会の生産活動に従事することによって、健全な心身の発達を図ろうという構想であった。

お仕着せの思想は、人間の心に深く定着することはない。子どもが主体的に判断できるようにすることに、教育の重要なポイントがある。

教育の道は遠路である。その成果が、本当に明らかになるのは、30年後、50年後であろう。教員たちは、自分たちの教育が、将来、見事に花開くという確信に満ちていた。

伸一は、中日友好協会を表敬訪問し、今回の招待と真心こもる歓迎に、御礼と感謝の気持ちを伝えた。伸一が、四面楚歌のなかを戦ってきた創価学会の歴史を語ると、廖会長は愉快そうに語った。「四面楚歌の方がやりがいがありますよ、かえって力がでるものです」

廖承志は、1906年に東京で生まれた。その人生は波乱万丈であった。彼が16歳の夏、広州で父親が暗殺された。気丈な母は、自宅の門に毅然と横幕を掲げた。「精神不死」それは、誇り高い、母の闘争宣言であった。婦人の強き一念こそ、目的を成就する難攻不落の要塞となる。

廖承志は、この父母の革命精神を受け継いだ。彼は弾圧を受け、7回も逮捕されている。心臓に持病があったが、診察も受けさせてもらえなかった。そのなかで彼を守ってくれたのが、周恩来総理であった。

この懇談の席上、伸一は、教育と文化の交流のために、北京大学への5千冊の図書贈呈、中国の青年・学生の日本への招待を申し出た。

その後、会場を北京飯店に移して、中日友好協会の主催で歓迎宴が行われた。語らいのなかで廖会長は、さりげない口調で言った。「山本先生!創価学会は、中国で布教してくださっても結構ですよ」

伸一は、きっぱりと応じた「その必要はありません」伸一は、中国で布教していくために訪中したのではない。訪中は、万代にわたる「友誼の道」をひらくためであり、人間主義者としての行動であった。創価学会としてなんらかの、"見返り"を求めてのことでは決してないーーそれを言明しておきたかたのである。

また、布教はしなくとも、信義の語らいを通して、中国の指導者たちが仏法で説く生命の尊厳や慈悲などの哲理に共感していけば、その考え方は、あらゆる面に反映されていくにちがいないと確信していたのだ。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋

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