『新・人間革命』第19巻 虹の舞の章 7P~
<『新・人間革命』第19巻 開始>
<虹の舞の章 開始>
1974年(昭和49年)2月2日、山本伸一は妻の峯子と共に、沖縄の天地に立った。6日間にわたる香港訪問を終えて、休む間もなく、沖縄に向かったのである。沖縄が本土復帰してからは、初めての訪問であった。
74年は、沖縄広布20周年の佳節にあたっていた。沖縄は、広宣流布の新章節に向かって飛び立つ"旅立の朝"を迎えたのだ。まさに、「新生・沖縄」の出発であった。
伸一は、本土復帰は実現したが、それは、沖縄の平和と幸福を築くうえで、第一歩を印したにすぎないと考えていた。むしろ、これからが、本当の試練と挑戦の時代であるというのが、彼の認識であった。
伸一は皆に尋ねた。「復帰後の沖縄は、どう変わりましたか」政治も経済も、その実像は民衆の暮らしに端的に現れる。真実は評論家の言葉にではなく、生活者の声にある。「民の声」こそが、「天の声」なのだ。
沖縄では、復帰とともに、通貨は米ドルから円へと切り替えられた。かつては1ドル360円の固定相場制であったが、復帰前年に変動相場制となって、円高が進み、通過切替の交換レートは305円となったのである。通過切替に乗じて物価が上げられ、その後も高騰が続いていた。また、本土の企業や観光会社などが、沖縄の土地の買い占めに走り、地価も著しく高騰した。
基地のさまざまな問題も、復帰前とほとんど変わっていないと話し、人びとの関心がモノやお金に向かい、心が荒廃してきているようで、特に子どもたちの心は荒んできていると話す上間球子。人間革命の大仏法を広宣流布しかないと話す壮年。
「状況や事態は、刻々と移り変わっているし、時代も人びとの感性も変化している。したがって、広宣流布を進めるうえでも、常に新しい挑戦を忘れてはならない。」
翌日、八重山諸島の石垣島へ向かった。西表島長に推薦されていたのが、島盛長英だった。彼は竹富島の生まれで、5歳の時に父を亡くし、長兄も早世し、母が生計をたてる貧しい暮らしだった。小学校6年の時、飼っていた牛が暴走し、振り落とされた長英は複雑骨折し、右腕を切断することになってしまった。ハンディに負けず、島の青年団長になり、竹富島に診療所ができると、手伝いながら医学を学んだ。そこで「介補」の資格を取得。その後、西表島でマラリアの撲滅に奮闘。島の医療を一人でになった。彼は、姉夫婦から仏法の話を聞くが、信じられず3年間反対していたが、学会の教える「生命力」という考えに共鳴し入信した。島の人たちの生命を真剣に守り抜いてきた島盛に、人びとは信心を始める人もいた。
大旱魃や大型台風が島を襲い、多くの島民が沖縄本土へ移るなか、西表に残った同志は、歯を食いしばって奮闘してきたのである。石垣島長の候補になっていた与那原朝明は、臨床検査技師をしていて、八重山長に推された石山賢著は、クリーニング業を営み、皆、深く地域に根差し、大きな信頼を勝ち取っていた。
人びとの信頼という土壌の上に、広宣流布の花は開くのだ。ゆえに、大事なのは人材である。だからこそ日蓮大聖人は『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』と仰せなのである。
八重山諸島に、最初に妙法の火がともされたのは、1955年(昭和30年)の4月のことであった。沖縄広布の一粒種である高見福安・清子夫妻から清子の兄にあたる石山賢著が仏法の話を聞いて信心を始めたのである。経済苦と喘息に悩んでの入会であった。
石山は勤行をするうちに、体調がよくなり、功徳を実感し、弘教に励み始めた。石垣島はもとより、島から島を尋ねては仏法対話を重ねた。
<『新・人間革命』第19巻 開始>
<虹の舞の章 開始>
1974年(昭和49年)2月2日、山本伸一は妻の峯子と共に、沖縄の天地に立った。6日間にわたる香港訪問を終えて、休む間もなく、沖縄に向かったのである。沖縄が本土復帰してからは、初めての訪問であった。
74年は、沖縄広布20周年の佳節にあたっていた。沖縄は、広宣流布の新章節に向かって飛び立つ"旅立の朝"を迎えたのだ。まさに、「新生・沖縄」の出発であった。
伸一は、本土復帰は実現したが、それは、沖縄の平和と幸福を築くうえで、第一歩を印したにすぎないと考えていた。むしろ、これからが、本当の試練と挑戦の時代であるというのが、彼の認識であった。
伸一は皆に尋ねた。「復帰後の沖縄は、どう変わりましたか」政治も経済も、その実像は民衆の暮らしに端的に現れる。真実は評論家の言葉にではなく、生活者の声にある。「民の声」こそが、「天の声」なのだ。
沖縄では、復帰とともに、通貨は米ドルから円へと切り替えられた。かつては1ドル360円の固定相場制であったが、復帰前年に変動相場制となって、円高が進み、通過切替の交換レートは305円となったのである。通過切替に乗じて物価が上げられ、その後も高騰が続いていた。また、本土の企業や観光会社などが、沖縄の土地の買い占めに走り、地価も著しく高騰した。
基地のさまざまな問題も、復帰前とほとんど変わっていないと話し、人びとの関心がモノやお金に向かい、心が荒廃してきているようで、特に子どもたちの心は荒んできていると話す上間球子。人間革命の大仏法を広宣流布しかないと話す壮年。
「状況や事態は、刻々と移り変わっているし、時代も人びとの感性も変化している。したがって、広宣流布を進めるうえでも、常に新しい挑戦を忘れてはならない。」
翌日、八重山諸島の石垣島へ向かった。西表島長に推薦されていたのが、島盛長英だった。彼は竹富島の生まれで、5歳の時に父を亡くし、長兄も早世し、母が生計をたてる貧しい暮らしだった。小学校6年の時、飼っていた牛が暴走し、振り落とされた長英は複雑骨折し、右腕を切断することになってしまった。ハンディに負けず、島の青年団長になり、竹富島に診療所ができると、手伝いながら医学を学んだ。そこで「介補」の資格を取得。その後、西表島でマラリアの撲滅に奮闘。島の医療を一人でになった。彼は、姉夫婦から仏法の話を聞くが、信じられず3年間反対していたが、学会の教える「生命力」という考えに共鳴し入信した。島の人たちの生命を真剣に守り抜いてきた島盛に、人びとは信心を始める人もいた。
大旱魃や大型台風が島を襲い、多くの島民が沖縄本土へ移るなか、西表に残った同志は、歯を食いしばって奮闘してきたのである。石垣島長の候補になっていた与那原朝明は、臨床検査技師をしていて、八重山長に推された石山賢著は、クリーニング業を営み、皆、深く地域に根差し、大きな信頼を勝ち取っていた。
人びとの信頼という土壌の上に、広宣流布の花は開くのだ。ゆえに、大事なのは人材である。だからこそ日蓮大聖人は『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』と仰せなのである。
八重山諸島に、最初に妙法の火がともされたのは、1955年(昭和30年)の4月のことであった。沖縄広布の一粒種である高見福安・清子夫妻から清子の兄にあたる石山賢著が仏法の話を聞いて信心を始めたのである。経済苦と喘息に悩んでの入会であった。
石山は勤行をするうちに、体調がよくなり、功徳を実感し、弘教に励み始めた。石垣島はもとより、島から島を尋ねては仏法対話を重ねた。
太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋