小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

June 2020

沖縄広布20周年

『新・人間革命』第19巻 虹の舞の章 7P~

<『新・人間革命』第19巻 開始>
<虹の舞の章 開始>

1974年(昭和49年)2月2日、山本伸一は妻の峯子と共に、沖縄の天地に立った。6日間にわたる香港訪問を終えて、休む間もなく、沖縄に向かったのである。沖縄が本土復帰してからは、初めての訪問であった。


74年は、沖縄広布20周年の佳節にあたっていた。沖縄は、広宣流布の新章節に向かって飛び立つ"旅立の朝"を迎えたのだ。まさに、「新生・沖縄」の出発であった。

伸一は、本土復帰は実現したが、それは、沖縄の平和と幸福を築くうえで、第一歩を印したにすぎないと考えていた。むしろ、これからが、本当の試練と挑戦の時代であるというのが、彼の認識であった。

伸一は皆に尋ねた。「復帰後の沖縄は、どう変わりましたか」政治も経済も、その実像は民衆の暮らしに端的に現れる。真実は評論家の言葉にではなく、生活者の声にある。「民の声」こそが、「天の声」なのだ。

沖縄では、復帰とともに、通貨は米ドルから円へと切り替えられた。かつては1ドル360円の固定相場制であったが、復帰前年に変動相場制となって、円高が進み、通過切替の交換レートは305円となったのである。通過切替に乗じて物価が上げられ、その後も高騰が続いていた。また、本土の企業や観光会社などが、沖縄の土地の買い占めに走り、地価も著しく高騰した。

基地のさまざまな問題も、復帰前とほとんど変わっていないと話し、人びとの関心がモノやお金に向かい、心が荒廃してきているようで、特に子どもたちの心は荒んできていると話す上間球子。人間革命の大仏法を広宣流布しかないと話す壮年。

「状況や事態は、刻々と移り変わっているし、時代も人びとの感性も変化している。したがって、広宣流布を進めるうえでも、常に新しい挑戦を忘れてはならない。」

翌日、八重山諸島の石垣島へ向かった。西表島長に推薦されていたのが、島盛長英だった。彼は竹富島の生まれで、5歳の時に父を亡くし、長兄も早世し、母が生計をたてる貧しい暮らしだった。小学校6年の時、飼っていた牛が暴走し、振り落とされた長英は複雑骨折し、右腕を切断することになってしまった。ハンディに負けず、島の青年団長になり、竹富島に診療所ができると、手伝いながら医学を学んだ。そこで「介補」の資格を取得。その後、西表島でマラリアの撲滅に奮闘。島の医療を一人でになった。彼は、姉夫婦から仏法の話を聞くが、信じられず3年間反対していたが、学会の教える「生命力」という考えに共鳴し入信した。島の人たちの生命を真剣に守り抜いてきた島盛に、人びとは信心を始める人もいた。

大旱魃や大型台風が島を襲い、多くの島民が沖縄本土へ移るなか、西表に残った同志は、歯を食いしばって奮闘してきたのである。石垣島長の候補になっていた与那原朝明は、臨床検査技師をしていて、八重山長に推された石山賢著は、クリーニング業を営み、皆、深く地域に根差し、大きな信頼を勝ち取っていた。

人びとの信頼という土壌の上に、広宣流布の花は開くのだ。ゆえに、大事なのは人材である。だからこそ日蓮大聖人は『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』と仰せなのである。


八重山諸島に、最初に妙法の火がともされたのは、1955年(昭和30年)の4月のことであった。沖縄広布の一粒種である高見福安・清子夫妻から清子の兄にあたる石山賢著が仏法の話を聞いて信心を始めたのである。経済苦と喘息に悩んでの入会であった。

石山は勤行をするうちに、体調がよくなり、功徳を実感し、弘教に励み始めた。石垣島はもとより、島から島を尋ねては仏法対話を重ねた。

太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋

東南アジア仏教者文化会議の使命

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 382P~
 
なんのために宗教があるのかーー。人類の平和のために、人間の幸福のためにこそ宗教はあるのだ。人間こそ「原点」であり、「目的」なのだ。ゆえに、宗教も、国家も、イデオロギーも、人間を手段化することがあっては絶対にならない。

人間の生命と平和を守るためには、宗教や国家、民族等々、あらゆる壁を超えて、同じ人間として結び合うべきである。それこそが人類の黄金律でなければならないーーというのが、伸一の確信であり、信念であったのである。

いや、それこそが、一切衆生に「仏」を発見し、万人の幸福をめざす仏法の結論であろう。

会議では4人の代表が表彰された。出版部門の代表に選ばれたのは、陳鮑美蘭という香港の婦人部員であった。

彼女は横浜の中華街で生まれた。両親は日本生まれの中国人であった。日中戦争が始まると、香港マカオに向かいその後、広東省に移る。そこで、台湾の台北師範学校に留学。台湾では皇民化政策が進められ、日本語を学ばされた。自分たちの言語を奪われることは、魂を奪われる等しい屈辱である。

戦後、広東省に帰りたくても帰れない時、日本人の友人が家に誘ってくれ、国を超えた人間の温かさ、友情の麗しさに泣いた。戦後台湾で結婚するが、暴動が起きる。「2・28事件」は、大陸から来た「外省人」である行政長官が、「本省人」つまり台湾人を排除。本省人の胸には、日本人に変わって外省人の統治が始まったにすぎないという怒りが爆発し、暴動となったのだ。

台湾も美蘭にとっては、安住の地ではなかった。広東省に戻っても、スパイの疑いがかけられた。彼女は自らの運命を呪った。そんな時、夫の陳済民が、周志剛のすすめで入会した。周の人柄と、彼が胃潰瘍を克服した体験を目の当たりにしたからである。美蘭も信心を始めると、心臓が弱く、めまい、動悸、息切れなどで苦しんでいたことが、1週間ほどで治ってしまった。正法の力は厳然としていた。

信心を始めて1か月後、初めて山本伸一と会う。伸一の話を聞き、美蘭はハッとした。"幸福は、私自身のなかにあるのだ!どんな逆境にも負けない強い心を、価値を創造していける豊かな心をつくる以外にない。"彼女は、広宣流布に生きることを、深く心に誓った。 

そして、夫と共に、懸命に香港広布に走った。 彼女はしみじみと思うのであった。"激動の歴史に弄ばれてきたように思える自分の人生も、決して無駄ではなかった。日本語を学び、戦争の恐ろしさを体験してきた私には、香港の人びとの平和と幸福のために、大聖人の仏法を伝える使命がある。私の半生は、そのためにあったのだ" 

伸一のあいさつとなった。「連帯するということは、それぞれの力を何倍にも引き出すものであります。連帯があれば、互いに長所を学び合い、応援し合うことができる。ゆえに、連帯は希望となり、勇気となるのであります。」

「私どものスクラムは、国家やイデオロギー、民族によって分断された人間の心と心を結ぶためのものであります。この会議には、アジア、さらに人類の、連帯と結合の要となる使命があるのであります。」

伸一は、言葉をついだ。「仏法西還、東洋広布は御本仏たる日蓮大聖人の御予言であり、御確信であります。しかし、それは、決して自然にそうなっていくものではない。断じて『そうするのだ』という、弟子の決意と敢闘があってこそ、大願の成就がある。私どもが立たなければ大聖人の御予言も、虚妄になってしまうのであります。」

「そのために大事なのが文化の交流です。文化を通して、民衆と民衆が相互理解を深め合っていくことこそ、反目を友情に変え、平和を創造していく土壌となっていきます。そこに『東南アジア仏教者文化会議』の大きな使命があることを知っていただきたい。」

「私も仏法者として、アジアの、そして、世界の平和のために、命の限り走り抜きます」この時、メンバーのなかには、世界の平和のために生命をなげうつことも辞さぬ伸一の覚悟を、本当に知る人はいなかったといってよい。

メンバーは、一年を経た時、伸一の、平和への偉大なる軌跡に、感嘆することになるのである。
伸一の本格的な平和の闘争が、いよいよ始まろうとしていた。

<飛躍の章終了>
<新・人間革命 第18巻 終了>

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

香港大学・香港中文大学との交流

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 366P~ 

孫文は清朝打倒を計画し、失敗。イギリスに渡り、恩師のカントリーを尋ねている。孫文は清国公使館に監禁され、本国に送り返されれば処刑されてしまうことに。カントリーは弟子のためにありとあらゆる手を打ち、孫文の監禁は解かれたのである。

伸一は言った「民族を超えた、こうした師弟の心が脈打っていたからこそ香港大学の発展があったと、私は見ている」伸一の訪問によって、この日、香港大学と創価大学の友好の第一歩が踏み出されたのである。

1991年(平成3年)には、学術交流協定が結ばれる。また、96年には、教育をはじめ、文化、世界平和への伸一の貢献に対して、同大学から、名誉文学博士の称号が贈られている。

翌30日、山本伸一は香港のもう一つの名門大学として知られる、香港中文大学を訪問する。同行していた香港男子部長の梶山久雄は、香港の広宣流布に生き抜いていく決意の表明として、中国名をつけたいと思っていると話す。伸一は梶山の相談に、香港広布に生きようとする彼の真剣さを感じた。

大学に到着した伸一は、李卓敏学長と会談した。伸一は、あいさつが終わると、単刀直入に自分の信念を披歴した。彼は、日本と香港の、そして、アジアの未来のために、実りある対話をしようと懸命であった。

李学長は香港とアジアの未来に思いを馳せ、教育事業に全精魂を傾けてきた偉大な教育者であった。伸一は、「相互理解の推進のために、創価大学と香港中文大学で、教員・学生の交換をし合ってはいかがでしょうか」と提案する。

学長は頷いた。「全面的に賛成です。断じてやりましょう」伸一と李学長のこの合意は創価大学と香港中文大学の交流の起点となった。この年の秋には、創価大学として香港中文大学の教授を招聘。翌年には、両大学の間で、学術交流協定が調印されるのである。これが、44ヵ国・地域104大学に広がったっ創価大学の学術交流協定の第一号となったのだ。創立者自らが切り開いた、世界交流の道であった。
歴史的な日の意義を込め、この年の9月、日本関係の書籍を千冊寄贈されている。

伸一の平和、文化、教育への貢献に対して、1992年には香港中文大学として初の最高客員教授の称号を、2000年には、名誉社会科学博士の称号を贈っている。

30日の夜には、「東南アジア仏教者文化会議」の第一回代表者会議が開催された。各国・各地域の組織が連帯し、協力し合いながら、真実の仏法を根底にアジアの平和と民衆の幸福を築いていくため、香港のメンバーが呼びかけたのである。

その趣旨に賛同して、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ラオス、タイ、インド、スリランカ、オーストラリア、マカオなどのメンバーが参加を表明したのだ。そして、設立準備委員会が設けられ、議長に香港の周志剛が選ばれた。

アジアでは、いまだ戦火が絶えなかった。ベトナム戦争は、アメリカの直接介入はなくなったものの、依然として戦闘状態は続いていた。また、カンボジアでもロン・ノル政権と解放勢力の争いは激化していたのである。さらに中ソの対立は、ますます深刻化しつつあった。

メンバーは、そのなかで、生命の尊厳と慈悲を説く仏法哲理を根本に、平和と人道のスクラムを組み、アジアを"幸福の園"に、変えようとの決意を胸に、喜々として集ってきたのである。

周は日本人であったが、中国人の妻と共に香港に来て、中国人として生きてきた。日中の戦争は、中国人の心に半日感情を刻み、周も日本人とわかれば、どんな危険が待ち受けているかわからず、子どもたちにも日本人であることを告げなかった。

周はその自分が、アジアに平和の光を注ぐために議長として声明文を発表していることを思うと、自らの不思議な使命に胸が熱くなるのであった。

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

香港との文化交流

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 346P~

1月27日、香港広布13周年を記念する撮影会が行われた。撮影の前後には、全精魂を注いでの、伸一の懸命な激励が続いた。撮影が終わると、歓迎の歌の披露に移った。中国語の歌に続いて、流暢な日本語で、「春が来た」の合唱が始まった。 

春が来たーーそれは、試練の嵐を乗り越え、10年ぶりに師と慕う伸一を迎えたメンバーの実感であった。苦しみの荒れ野を越えてきた人ほど、春の花園の美しさが心に染みるのだ。 

自由貿易港の香港は、自由な経済活動が保障されている反面、貧富の差も大きく、豊かさと貧しさが同居していた。メンバーは、経済苦をはじめ、病苦や家庭不和など、さまざまな悩みをかかえて入信し、一つ、また一つと、苦悩を克服してきた。そして、その歓喜を語り抜くなかで、弘教の大波が広がったのだ。香港広布もまた民衆の大歓喜から発したのである。歓喜を原動力とした平和革命が、我らの広宣流布なのだ。 

香港には船上生活をしている人もおり、船の上でも座談会が開かれていた。船からは題目や学会歌の歌声、楽しそうな笑い声が響いた。周囲の船の人たちは、そんなメンバーの船を、「仏船」と呼んでいた。 

また、メンバーのなかには、貧しさしさゆえに教育を受けることができず、読み書きができない人もいた。ある婦人は、なんと自分で「絵文字」を考え、経本を作って勤行を覚えたのだ。その人たちが、活動をし、信心に励んでいくなかで、懸命に字を覚え、機関紙の「黎明聖報」を読むようになり、教学部員にもなっていったのである。

"皆、さまざまな苦悩に挑みながら、広宣流布の使命を自覚し、人びとの幸福と平和のために献身してくれている。仏は彼方におわすのではない。この方々こそ地涌の菩薩であり、仏なのだ。ゆえに私は、同志に尽し抜き、命をかけて守り抜こう"伸一は、深く心に誓うのであった。

1月28日、香港広布13周年の記念の集いが香港会館で盛大に開催された。この日は、13年前、山本伸一が香港に第一歩を印した日である。彼は、10年後の1984年(昭和59年)を香港の第二期の目標とすることを提案し、三つの指針を示したのである。それは、そのまま、未来へと旅立つ友の固い決意となったのである。

その後の祝賀会では、伸一と峯子はメンバーが用意してくれた、中国服に着替えて庭に出た。二人はメンバーの真心に応えたかったのである。「春が来た」の調べを伸一はピアノで弾き皆で大合唱した。さらに未来部のメンバーと記念撮影を行った。

未来部のメンバーのなかには、親が字を書けないため、一緒に会合に行って指導や連絡事項などをノートに書いたりするなかで子どもたちは、信心の理解を深め、学会活動の意義や仏法のすばらしさを学び、吸収していったのである。

この時の未来部員の多くが、その後、大学に学び、社会のリーダーとなり、また、香港SGIの組織にあっても中核に育ち、広宣流布の大きな推進力となっている。 

1月29日、山本伸一は図書贈呈のために、香港市政局公立図書館を公式訪問した。寄贈する本は、4500冊である。
伸一たちを迎えてくれたのは、著名な女性社会教育者でもある、市政局図書館事務委員会のエリオット主席であった。語らいは弾んだ。

日本は、かつて香港を占領しただけに、人びとの反日感情も強い。その心の壁を超え、憎悪を友情に変えるには、人間と人間の相互理解を図るしかない。平和といってもそこから始まるのだ。彼は、富士美術館との交流も検討したいと語った。

その後、伸一は香港大学へ向かった。当時の香港では、大学の総長には香港総督が就いていたため、実務の最高責任者 副総長でもある黄麗松学長の正式招待を受けていたのである。伸一は、香港大学の洋の東西を超えた孫文と恩師のカントリー先生との師弟の絆に着目していた。


太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

香港の広宣流布

『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 333P~

学会を「日本の軍国主義者」と決めつけ、「経済・文化分野のほかに、宗教の仮面を被って、政治活動も行っている」などと書き立てる新聞もあった。こうした報道の底流には、根強い反日感情があった。
日本に誕生した宗教ということで、創価学会に対して猜疑の目をむけていたようだ。

「『台湾の独立』の陰謀」に加担しているとか、また、山本伸一が日中国交正常化提言などを行ってきたことなどで"共産主義者を育成する団体"であるという批判もあった。

ともあれ、全く的外れの批判が、まことしやかに、なされていたのである。

だが、香港の同志は微動だにしなかった。メンバーは、"いよいよ三障四魔が競い起こった。今こそ、まことの時だ!"と、闘魂を燃え上がらせていった。

広宣流布は状況のいかんが決するのではない。同志に脈打つ使命感と確信と歓喜ある限り、前進の大道は開かれるのだ。香港での理不尽な学会への批判は、やがて鎮静化していった。

現地のマスコミ関係者は、メンバーの真実を知るようになると、日本の一部マスコミによる創価学会の報道と実像とは、大きな違いがあることに気づき始めたのである。

アインシュタインは、こう訴えている。「日常の生活のなかのあらゆる機会をつかまえて真実を表現していくことで、ゆっくりとではあっても成功を勝ちとっていくことはできる」 

香港のメンバーは、よき市民として、いかに社会に貢献していくかを、真剣に考え続けた。社会貢献の一環として、児童予後施設での慰問公演なども行った。その模様は、地元の新聞などでも報道され、大きな反響を呼んだ。

伸一は、この10年間の歩みを聞きながら、メンバーの尊き敢闘をねぎらい、最大の賛辞を贈るのであった。

「皆さんの血の滲むような努力で、最も大変な基礎工事は完了したんです。私は皆さんの、この功労を終生、わすれません。仏法のために、広宣流布のために、重ねた苦労は、流した涙は、拭った汗は、全部、自分の福運です。永遠の生命の財産になります。」

「それを本当に確信できるかどうかが、実は、一生成仏できるかどうかの決め手なんです。もし、その確信がなければ、生命の因果の法則も『冥の照覧』も信じられないことになる。それは『己心の外』に法を求めていることであり、仏法者の生き方ではありません。」

また、社会の理解と共感を勝ちとるためには、対話が大事であり、社会のリーダーと対話し、外交を展開していくうえで、最も大切なことは何かを 訴えた。

日々、伸一が実践したことは"私がいる限り、学会に対する、また、戸田先生に対する、無責任な非難や中傷は断じて許さない。誠心誠意、話し合って、誤りは正し、偏見は払拭していこう"

デマ記事に対しては、いつ、どこで、誰が行ったもので、その裏づけはいかにして取ったのかを問い詰めていくと、すぐにあいまいになった。虚偽は、真実には勝てない。

どんな相手であれ、たとえ敵であっても、必ず味方にしてみせるというのが、彼の信念であったのである。

伸一は、話を続けた。「外交を行ううえで重要なことは、まず、第一に『勇気』です。勇気をもって会い、胸襟を開いて、率直に対話する。それが外交の第一歩です。臆病な人間は、直接人と会って、対話することを避けようとするものです。次に大事なことは、どこまでも『誠実』であるということです。外交といっても、相手に"この人なら人間として信じられる"と思わせることができるかどうかです。また、『根気』『粘り強さ』が大切です」

「もうひとつ大事なことは、外交を行う場合には、自分が全学会を担い立つのだという、"全権大使"の自覚がなければならない。つまり、全体観に立つことです。そうでないと、部分的なことに目を奪われ、判断を誤ってしまうこともある」

「外交といっても、そこには"師弟"の精神が脈打っていなければ、広宣流布のための渉外活動はできません」

太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

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