『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 268P~
1945年(昭和20年)7月3日、弟子の戸田は広宣流布への師の遺志を胸に、生きて牢獄を出た。そして51年5月3日、第二代会長に就任する。
伸一は言葉をついだ。「その戸田先生の会長就任式が行われたのも、墨田です。先生は、この席上、会員75万世帯の達成を宣言し、こう叫ばれた。『もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!』この獅子吼は、師である牧口先生を獄死させた権力の魔性の牙をもぎ取らんとする叫びです。民衆が真に栄えるために、この世から『悲惨』の二字をなくす、闘争開始の宣告だったんです。」
53年の1月2日、戸田は伸一を男子部四個部隊のうちの第一部隊長に任命した。この第一部隊の活動の舞台が、墨田区をはじめとする、江東、江戸川区など、下町であった。
戸田は、5百余人の青年部員を前にして、会長就任式での宣言を再び口にし、75万世帯が達成できなかったならば、葬式はしてくれるなと言って、男子部に各部隊千人の陣容に発展させるよう目標を示した。
伸一の部隊は3倍の部員増加の戦いとなる。その時、男子部の拠点として使わせていただいたのが、押上の広川英雄さんの家だった。彼の家は、6畳と4畳半、台所と、玩具製造の作業場にしている4畳ほどの板の間に妻と4人の子どもと暮らしていた。青年にパンや菓子など、家にあるものは何でも振舞った。
"青年が伸び伸びと、思う存分に活動できるようにしなければ、学会の前進はない。青年を心から応援し、育てることが広宣流布の未来を開くことになる!"それが、夫妻の決意であり、信念であった。
第一部隊長としての伸一の戦いは、痛快なる劇を思わせた。伸一は、新しき前進のため、班長たちに次々と歌を贈った。伸一の魂が凝結した歌であった。班長たちは、感動に打ち震えながら、決然と立ち上がった。
仏法への大確信をもつための教学力をつけようと自ら御書講義を行ったり、教学の基本120項目を定め、独自に教学試験や弁論大会も企画した。
当時、伸一は、戸田の事業を全面的に支えなければならず、仕事は多忙を極めていた。また、学会にあっても全青年部員の育成の責任をもつ、教学参謀を兼任、文京支部の支部長代理にも任命されていた。
文京支部は、その当時、支部としての力のランクも一番低いC級支部であった。伸一は、ますます多忙になった。第一部隊の会合に出る時間を確保するのさえ、大変であった。
だが、彼は、時間がないなかで、工夫し、スケジュールをこじ開け、泣くような思いで仏道修行だと、一歩もひかず、戦った。
寸暇を惜しんで皆に手紙を書き、激励を重ね、心身ともに疲労困憊したが、唱題と執念で、一日一日を乗り越えていった。
"今、戦わなければ、戸田先生の広宣流布の構想を破綻させることになる。そうなれば、終生悔いを残すことになる。そんなことは、絶対にできない!"伸一は、「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」との御文を胸に刻み、日々、自己の極限に挑んだ。
彼のその真剣さと気迫は、第一部隊の青年たちに、大きな衝撃と共感をもたらしていった。伸一の姿自体が、最高の目標となり、指導となっていったのである。
年末に予定されている第二回男子部総会に、各部隊とも部員千人を結集しようという目標が打ち出された。それを実現するには、第一部隊としては、2か月で、これまでの10か月分に相当する、300人以上の部員増加を成し遂げなければならないことになる。
皆に、無理ではないかとの思いが兆した。その時、伸一から 烈々たる決意のほとばしる葉書が、各班長に届いたのである。伸一は、叫ぶような思いで、全精魂を込め、第一部隊の同志に、決起を促す便りを次々と書き送った。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋
1945年(昭和20年)7月3日、弟子の戸田は広宣流布への師の遺志を胸に、生きて牢獄を出た。そして51年5月3日、第二代会長に就任する。
伸一は言葉をついだ。「その戸田先生の会長就任式が行われたのも、墨田です。先生は、この席上、会員75万世帯の達成を宣言し、こう叫ばれた。『もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!』この獅子吼は、師である牧口先生を獄死させた権力の魔性の牙をもぎ取らんとする叫びです。民衆が真に栄えるために、この世から『悲惨』の二字をなくす、闘争開始の宣告だったんです。」
53年の1月2日、戸田は伸一を男子部四個部隊のうちの第一部隊長に任命した。この第一部隊の活動の舞台が、墨田区をはじめとする、江東、江戸川区など、下町であった。
戸田は、5百余人の青年部員を前にして、会長就任式での宣言を再び口にし、75万世帯が達成できなかったならば、葬式はしてくれるなと言って、男子部に各部隊千人の陣容に発展させるよう目標を示した。
伸一の部隊は3倍の部員増加の戦いとなる。その時、男子部の拠点として使わせていただいたのが、押上の広川英雄さんの家だった。彼の家は、6畳と4畳半、台所と、玩具製造の作業場にしている4畳ほどの板の間に妻と4人の子どもと暮らしていた。青年にパンや菓子など、家にあるものは何でも振舞った。
"青年が伸び伸びと、思う存分に活動できるようにしなければ、学会の前進はない。青年を心から応援し、育てることが広宣流布の未来を開くことになる!"それが、夫妻の決意であり、信念であった。
第一部隊長としての伸一の戦いは、痛快なる劇を思わせた。伸一は、新しき前進のため、班長たちに次々と歌を贈った。伸一の魂が凝結した歌であった。班長たちは、感動に打ち震えながら、決然と立ち上がった。
仏法への大確信をもつための教学力をつけようと自ら御書講義を行ったり、教学の基本120項目を定め、独自に教学試験や弁論大会も企画した。
当時、伸一は、戸田の事業を全面的に支えなければならず、仕事は多忙を極めていた。また、学会にあっても全青年部員の育成の責任をもつ、教学参謀を兼任、文京支部の支部長代理にも任命されていた。
文京支部は、その当時、支部としての力のランクも一番低いC級支部であった。伸一は、ますます多忙になった。第一部隊の会合に出る時間を確保するのさえ、大変であった。
だが、彼は、時間がないなかで、工夫し、スケジュールをこじ開け、泣くような思いで仏道修行だと、一歩もひかず、戦った。
寸暇を惜しんで皆に手紙を書き、激励を重ね、心身ともに疲労困憊したが、唱題と執念で、一日一日を乗り越えていった。
"今、戦わなければ、戸田先生の広宣流布の構想を破綻させることになる。そうなれば、終生悔いを残すことになる。そんなことは、絶対にできない!"伸一は、「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」との御文を胸に刻み、日々、自己の極限に挑んだ。
彼のその真剣さと気迫は、第一部隊の青年たちに、大きな衝撃と共感をもたらしていった。伸一の姿自体が、最高の目標となり、指導となっていったのである。
年末に予定されている第二回男子部総会に、各部隊とも部員千人を結集しようという目標が打ち出された。それを実現するには、第一部隊としては、2か月で、これまでの10か月分に相当する、300人以上の部員増加を成し遂げなければならないことになる。
皆に、無理ではないかとの思いが兆した。その時、伸一から 烈々たる決意のほとばしる葉書が、各班長に届いたのである。伸一は、叫ぶような思いで、全精魂を込め、第一部隊の同志に、決起を促す便りを次々と書き送った。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋