小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

May 2020

墨田との縁

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 268P~ 

1945年(昭和20年)7月3日、弟子の戸田は広宣流布への師の遺志を胸に、生きて牢獄を出た。そして51年5月3日、第二代会長に就任する。

伸一は言葉をついだ。「その戸田先生の会長就任式が行われたのも、墨田です。先生は、この席上、会員75万世帯の達成を宣言し、こう叫ばれた。『もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!』この獅子吼は、師である牧口先生を獄死させた権力の魔性の牙をもぎ取らんとする叫びです。民衆が真に栄えるために、この世から『悲惨』の二字をなくす、闘争開始の宣告だったんです。」

53年の1月2日、戸田は伸一を男子部四個部隊のうちの第一部隊長に任命した。この第一部隊の活動の舞台が、墨田区をはじめとする、江東、江戸川区など、下町であった。

戸田は、5百余人の青年部員を前にして、会長就任式での宣言を再び口にし、75万世帯が達成できなかったならば、葬式はしてくれるなと言って、男子部に各部隊千人の陣容に発展させるよう目標を示した。

伸一の部隊は3倍の部員増加の戦いとなる。その時、男子部の拠点として使わせていただいたのが、押上の広川英雄さんの家だった。彼の家は、6畳と4畳半、台所と、玩具製造の作業場にしている4畳ほどの板の間に妻と4人の子どもと暮らしていた。青年にパンや菓子など、家にあるものは何でも振舞った。

"青年が伸び伸びと、思う存分に活動できるようにしなければ、学会の前進はない。青年を心から応援し、育てることが広宣流布の未来を開くことになる!"それが、夫妻の決意であり、信念であった。


第一部隊長としての伸一の戦いは、痛快なる劇を思わせた。伸一は、新しき前進のため、班長たちに次々と歌を贈った。伸一の魂が凝結した歌であった。班長たちは、感動に打ち震えながら、決然と立ち上がった。

仏法への大確信をもつための教学力をつけようと自ら御書講義を行ったり、教学の基本120項目を定め、独自に教学試験や弁論大会も企画した。

当時、伸一は、戸田の事業を全面的に支えなければならず、仕事は多忙を極めていた。また、学会にあっても全青年部員の育成の責任をもつ、教学参謀を兼任、文京支部の支部長代理にも任命されていた。

文京支部は、その当時、支部としての力のランクも一番低いC級支部であった。伸一は、ますます多忙になった。第一部隊の会合に出る時間を確保するのさえ、大変であった。

だが、彼は、時間がないなかで、工夫し、スケジュールをこじ開け、泣くような思いで仏道修行だと、一歩もひかず、戦った。

寸暇を惜しんで皆に手紙を書き、激励を重ね、心身ともに疲労困憊したが、唱題と執念で、一日一日を乗り越えていった。

"今、戦わなければ、戸田先生の広宣流布の構想を破綻させることになる。そうなれば、終生悔いを残すことになる。そんなことは、絶対にできない!"伸一は、「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」との御文を胸に刻み、日々、自己の極限に挑んだ。

彼のその真剣さと気迫は、第一部隊の青年たちに、大きな衝撃と共感をもたらしていった。伸一の姿自体が、最高の目標となり、指導となっていったのである。


年末に予定されている第二回男子部総会に、各部隊とも部員千人を結集しようという目標が打ち出された。それを実現するには、第一部隊としては、2か月で、これまでの10か月分に相当する、300人以上の部員増加を成し遂げなければならないことになる。

皆に、無理ではないかとの思いが兆した。その時、伸一から 烈々たる決意のほとばしる葉書が、各班長に届いたのである。伸一は、叫ぶような思いで、全精魂を込め、第一部隊の同志に、決起を促す便りを次々と書き送った。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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自分発の挑戦をする気迫が勝利の因

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 256P~

伸一は、荒川の町々を走りに走った。日暮里へ、尾久へ、町屋へ、南千住へ・・・。

町屋の座談会場では、床板が傷んでへこんでしまったが、皆微動だにせず、伸一の話に耳を傾けていた。
会場提供者の方に丁寧に伸一わびると、主人は、「同志の皆さんが集まって、広宣流布のために使ってくださること自体、申し訳ない限りです」と言った。

伸一は、その言葉に感動した。「会場を提供してくださる御苦労は、大変なものがあると思います。しかし、その功徳は計り知れません。大福運を積んでいることは間違いありません。」

伸一の励ましを受けたこの一家は、年末には新築し、その後も末永く、広宣流布の宝城として使われたのである。

ある壮年から座談会に人が集まらず、盛り上がらないと質問した。伸一は、奥さんと二人でも できる。「まず夫妻で最高の座談会を開き、二人の決意で皆を包み込むように、参加を呼びかけて歩くんです。人を頼ろうという気があれば負けです。そこに一切の敗北の要因がある。」

「自分が立つんだ。自分が戦うんだ、たった一人でも必ず勝つーーと決めることです。その一念が、その気迫が、みんなに波動していくんです。自分の殻を破ることができれば、組座談会も成功します。ほかの折伏などの活動も、さらに仕事の面でも、大きな力を発揮できるようになる。信心即生活です。信心の根本姿勢が変われば、仕事も、生活も変わらないわけがありません」

伸一は、誰のどんな質問に対しても、"この人の発心の契機になってほしい。人生の転機にしたい"と全力投球で指導にあたった。それは、子どもに対しても同様であった。

小学生の女の子がした「ジャンヌダルクという人は本当にいたんですか」との質問にも丁寧に答え、「あなたも妙法のジャンヌ・ダルクになってください。」と話した。その指導は彼女の生涯の指針となり、後年、彼女は女子部長、婦人部長となり、広宣流布の戦野を駆け巡ることになる。

荒川は、遂に二百数十世帯を超える弘教を実らせたのである。

4月22日、本部幹部会が墨田区の日大講堂で開催される。伸一は、「開目抄」の一節を拝読する。
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ
現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」


伸一は、前月の本部幹部会でも、この御文を拝読し、力を込めてこう訴えた。「ここに信心の極意が示されております。この一節を、生涯にわたって、生命の奥底に刻みこんでください。」

「日蓮大聖人の仰せ通りに仏法を実践している教団は、創価学会しかありません。それゆえに、必ず諸難が競い起こる。しかし、何があっても広宣流布の根本軌道を踏み外すことなく、揺るがぬ信心を貫き、悠々と明るく進んでいっていただきたいのであります」

学会が、社会の建設に力を注げば注ぐほど、その前進をとどめようとする迫害も、激しさを増すことは間違いない。それだけに伸一は、必死になって、確固不動なる信心の「核」を一人ひとりの胸中に、作り上げようとしていたのである。

そして、「開目抄」のこの一節を、全同志が座右の銘として、生命に刻むことを提案したのだ。

本部幹部会の裏方の多くが、墨田区のメンバーだと知ると伸一は、言った。「墨田というのは、初代会長の牧口先生と第二代会長の戸田先生の絆が深く結ばれていった、師弟の源流の地なんです」

牧口は、墨田区内にあった三笠尋常小学校に異動となった。代用教員をしていた戸田も、牧口の後を追い、同校に移った。

やがて、日蓮仏法に巡りあった牧口と戸田は創価教育学会を設立する。だが、軍部弾圧によって二人は投獄され、牧口は獄死するのだ。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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もう限界だ、仕方がないと思う弱さに打ち勝つ勇気

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 252P~

伸一は大阪事件について語り始めた。
「この事件の本質はなんであったか。ひとことで言えば、庶民の団体である創価学会が力を持ち、政治をも民衆の手に取り戻そうと、政治改革に乗り出したことへの権力の恐れです。そして、これ以上、学会が大きくなる前に、叩いておこうとした。」

学会には常勝の若武者がいる。まず、それを倒そうと、私を無実の罪で逮捕した。さらには、壊滅的な打撃を与えようと、衰弱されている戸田先生にまで手を伸ばそうとしたんです。罪なき人間を地獄の底に叩き落し、正義の指導者を葬り去ろうとするーーこんな権力の横暴を絶対に許すわけにはいきません」

悪への怒りなくいては正義はない。そして、それが、戦いの突破口を開く力となるのだ。「誰が本気になって権力から庶民を守るのか。また、誰がその力をもっているのか。創価学会しかありません。だから、権力も躍起になって、学会を倒そうとするんです。」

「学会が強くならなければ、庶民がいじめられてしまう。それではかわいそうです。民衆を守るためには、学会が強くなるしかない。その突破口を開くのが今回の戦いなんです。学会の縮図であり、庶民の縮図である荒川で、大折伏戦を展開し、広宣流布の東の錦州城をつくろではありませんか。永遠なる民衆勝利の大絵巻を、私と共につづりましょう!」

この時、権力の魔性に対する反転攻勢の烽火が上がったのだ。それから、ブロック指導期間の活動の詳細が検討されていった。伸一は言った。「この1週間という短期間で、未曽有の拡大を成し遂げるには、まず、『智慧』が必要です。」

「皆さんは、”先月だって、先々月だって、精いっぱい折伏をしてきた。もう限界だ。折伏する相手などなくなってしまった。”と思っておられるでしょう。実は、それを壁というんです。では、その壁は、どこにあるのか。皆さんの心のなかです。自分でつくったものなんです。」

「本来、私たちの周囲には、折伏すべき人はたくさんいます。ただ、話すきっかけがつくれなかったり、一歩踏み込んだ深い対話ができずにいる。そこで大切なのが、智慧です。どうすれば、仏法対話ができるのか。相手の琴線に触れる語らいができるのかーー智慧を絞って考えるんです。」

「ともすれば、一度ぐらい話をしただけで、“あの人はだめだ”“この人は無理だ”と思い込んでしまう。でも、人の心は刻々と変わる。いや、執念の対話で、断じて変えていくんです。それには、自分の話し方に問題はないか、検討してみる必要もあります。」

「たとえば、家庭不和に悩んでいる人に、病気を克服することができると訴えても、関心は示さない。病気の人に商売がうまくいくと訴えても、共感はしません。相手が納得できるように、いかに語るかーーこれも智慧なんです。」

「さらに、同志の方々のなかには、友人はたくさんいるのに、確信も弱く、うまく話すことができないという人もいるでしょう。そうした人と先輩が組んで、折伏にあたるという方法もあります。ともかく、智慧は、本来、無尽蔵なんです。その智慧が不可能を可能にするんです。」

「そして、智慧というのは、断じて成し遂げようという懸命な一念から生まれます。必死の祈りこそが、智慧を生む母なんです。」伸一はさらに、智慧がわいたら、それを行動に移す、「勇気」が不可欠であることを訴えた。

苦手だから避けようと思う心、仕方ないのだと自らの臆病や怠惰を正当化しようという心ーーその自分の弱さに挑み、打ち勝つ勇気をもってください。そこに自信の人間革命がある、一切の勝利の要諦があります」

山本伸一の荒川での活動が始まった。期間は一週間であり、時間との壮絶な戦いでもあった。そこでは、一瞬一瞬をいかに有効に、最大限に活用するかが勝敗の分かれ目となる。また、一瞬の油断や手抜きが取り返しのつかぬ敗因となる。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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民衆城を築く

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 238P~

<民衆城の章 開始> 

1973年4月、聖教新聞社を訪れた荒川区の婦人部員と出会い、16年前、8月日から1週間にわたって実施された荒川区での夏季ブロック指導を思い出す。

その直前の7月、学会は大阪事件という弾圧の嵐に襲われた。この年の4月に行われた参院大阪地方区の補欠選挙で、学会は候補者を推薦し、支援活動を展開した。その時、一部に選挙違反者が出てしまったことを口実に、選挙の最高責任者であった青年部の室長の伸一が、不当逮捕されたのである。

大阪府警に出頭するために、空路、大阪に向かった。伸一は、自身の潔白を明らかにしようと、自ら府警の要請に応じて、出頭することにしたのである。

文京区に住む婦人部の幹部である田岡治子が、「文京の人に、このことをどう言えばよいでしょうか。何かご伝言を!」と尋ねると、伸一は、悠然としていった。「『夜明けが来た』と伝えてください」

伸一は、国家権力が創価学会という民衆勢力の台頭におののき、いよいよ迫害に乗り出したことを肌に感じていた。だが、権力の魔性を打ち砕き、敢然と乗り越えていくならば、真実の民衆の時代が到来する。ゆえに、伸一は、田岡治子に『夜明けが来た』と答えたのである。


大阪府警に出頭した伸一は、この7月3日の夕刻、身に覚えのない公職選挙法違反の容疑で不当逮捕された。7月の3日といえば、1945年(昭和20年)軍部政府の弾圧にによって投獄されていた戸田城聖が、中野の豊多摩刑務所を出獄した日である。

まさに、師が一人立ち、広宣流布の黎明を告げた日であった。なんたる不思議か、その同じ日のほぼ同じ時刻に伸一は逮捕されたのである。

この大阪事件は、戸田が出獄以来、12年間の歳月を費やして築きあげた、創価学会という民衆の平和と幸福の連帯が、権力の弾圧という試練に耐えられるかどうかの試金石でもあった。

伸一への取り調べは過酷であった。検事が二人がかりで、夕食も与えずに深夜まで尋問することもあった。まるで晒し者にするかのように、手錠をかけえたまま、大阪地検の本館と別館の間を往復させたこともあった。そして、遂に検事は、伸一に、「罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する」と迫ったのである。

検察の狙いは、会長の戸田を逮捕し、学会を壊滅状態に追い込むことにあるようだ。伸一の心は、激しく揺れ動き、深夜の独房で苦悶が続いた。しかし、一念に億劫の辛労を尽くしゆかんとする祈りの果てに、彼の心は決まった。

“ひとまずは、自分が一身に罪を背負おう。そうすれば、戸田先生をお守りできる。あとは、裁判の場で、真実を明らかにするのだ。”そして、7月17日、伸一は大阪拘置所を出たのである。

後年、伸一は、自身が逮捕された7月3日を、こう句に詠んでいる。
 
 出獄と  入獄の日に 師弟あり

 7月の 3日忘れじ 富士仰ぐ

7月3日を日本の「夜明け」にすることこそ、彼の固い誓いであった。
伸一は、堅固な人間主義の民衆城を築き上げ、生涯、権力の魔性と戦い続けることを、深く、深く、心に誓った。そのための歴史的な闘争の第一歩が、この荒川区での夏季ブロック指導であったのである。

伸一は、決意した。“よし、庶民の縮図ともいうべき荒川から、民衆勝利の波を起こそう。いかなる権力にも屈せぬ、正義の城を、ここに築こう”

会場は、婦人部の責任者となった、土田千代子の家であった。夫はタテ線では、地区幹事であったが、彼が留守番役にまわることになった。会場の後ろにいたご主人に、いつも前にいてください。と促した。彼の心のなかにあった、傍観者のような感覚は消えていた。

いかなる活動も、勝利への道は、一人ひとりが主体者となることから始まる。そして真剣にして必死の奮闘のなかで、皆が偉大なる闘将へと変わっていくのだ。どこかに、特別な力を持った人がいるわけではない。ゆえに眼前の一人を、全力で励ますことだ。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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学園生への遺言

『新・人間革命』第17巻 希望の章 217P~ 

山本伸一の長男の正弘は、進路に悩んでいた。母の峯子は、一言アドバイスした。「人間として生きるうえで、最も大事なことは報恩よ。あなたも学会にお世話になったんだから。学会に尽していきなさい」その一言で、正弘の心は決まった。

ちょうど女子学園で、社会科の教員を探していた時であった。幸いにも採用が決まった。

伸一は、息子の正弘が教育者の道を選び、未来の人材育成に人生をかける決意を定めたことが、何より嬉しかった。一方、正弘は、「創価の民衆城」ともいうべき関西の地で、社会人としての第一歩を踏み出すことに、無量の喜びと誇りを感じていた。


4月末に、学園を訪問した山本伸一は、懇談会の折、蛍を呼び戻してはどうか、桜を満開にして新入生を迎えるようにしてはどうかと提案した。

教員たちは、”自然を守るという新しい学園の伝統をつくろう”と誓い合ったのである。

松尾繁男という数学の教師は、蛍の研究から開始し、環境の整備、人工の川を校内に造り、池から竹の樋で水を引いた。この川は、「蛍川」と名づけられた。生徒たちの有志で蛍保存会もできた。

山本伸一は、創価学会創立48周年記念に「環境問題は全人類的な課題」と題する提言を発表した。「環境国連」の創設などを提唱するとともに、「自然保護、環境増進の土壌には、幅広い民衆の支持、コンセンサスが必要不可欠であります。」と訴えた。

学園で養殖した蛍が、最初に飛んだのは、1年後のことであった。蛍は、年ごとに増えていった。地域にも蛍保存の運動が広がっていった。

山本伸一が、学園の空に舞う、美しき蛍の群れを目にしたのは、1978年のことであった。何百という数の蛍が、夢を紡ぐかのような荘厳な光の乱舞をみせた。

創価女子学園では、桜の保存活動も着実に進められていった。桜の本数や種類、幹の太さも調査し、校内の桜の分布図もつくられていった。手入れは功を奏し、年を経るごとに、桜は美しく咲き薫った。染井吉野や、しだれ桜など、10種類ほどの桜が絢爛と咲き競うようになった。

学園では、毎年、近隣の人びとを招いて、「桜まつり」を行った。女子学園は美しき「桜の園」となり、「友好の園」となったのである。

次男の久弘も創価大学の大学院を卒業し、大学職員として母校に勤務。三男の弘高も、関西創価小学校の教員となった。伸一も、峯子も、三人の子どもたちが、創価教育に従事するようになったことが、何よりも嬉しかった。伸一は言った。「三人合わせると創価一貫教育だな」峯子も満足そうに頷いた。

開校から9年後、1982年、女子学園は、男子生徒も受け入れることになり、名称も関西創価中学校・高等学校となった。この時、男子校であった東京の創価中学校・高等学校は女子生徒を受け入れ、創価学園は東西両校ともに、男女共学へと移行していったのである。

伸一が一貫して訴え、努力してきたのは、生徒たちが世界に眼を向けることであった。日本という島国のなかだけで物事をみていたのでは、どうしても偏頗な価値観に陥ってしまう。伸一は、青春時代にその殻を打ち破る契機を与えたいと思った。

世界各国のリーダーを、積極的に招くようにしてきた。
関西学園には、現在までにゴルバチョフ元ソ連大統領、モスクワ大学のログノフ前総長等々、来校者の
数は51カ国・地域、1500人以上に及んでいる。

関西創価学園は、今や東京の創価学園とともに、日本を代表する最優秀の人間教育の府となった。卒業生は、教育関係者も多い。さらに、医師、弁護士、公認会計士、議員などとして社会に貢献するメンバーも数多い。その活動の舞台は、日本国内にとどまらず、世界5大州に及んでいる。

伸一が何より嬉しいのは、学園出身者が、民衆を守り、民衆に奉仕する精神を堅持し抜いていることだ。

学園出身者は、「平和をいかに創造するか」「人間のための社会をどう実現するか」といった、人類の不幸をなくすための闘争を永遠にとどめてはならない。不幸を見過ごすな!民衆を守れ!人間を守れ!平和を守れ!それこそが、山本伸一の学園生への遺言であり、魂の叫びなのだ。

<希望の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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