『新・人間革命』第17巻 緑野の章 341P~
伸一は、広宣流布の新展開のためには、方面や県を一つの独立した創価学会ととらえ、それぞれの方面、県で、地域に即した広宣流布の構想と運動を練り上げ、自主的に活動を推進していく必要があると考えていた。
そして、県長制の導入を提案し、「地域の年」と名づけられた1972年(昭和47年)には静岡長、福井長などが任命された。この県長制は順次、各県に導入され、全国的に布陣が整うのである。
福井長になった魚津健司は、高校三年の時に、家族と共に信心を始めた。大阪の大学に進み、会社に勤めたあと、学会の職員となった。関西の男子部の中核となり、また、関西高等部長として、時代を担う鳳雛たちの育成に力を注いできた。そして、29歳で初代の福井長となったのである。
「保守王国といわれる福井を変えていくのは、青年の力しかない。青年とは、第一に大願を起こす心をもっていることだ。そして、その大理想に向かって、間断なき挑戦と向上を重ねていかなければならない。第二に、破邪顕正の革命精神にあふれていることだ。第三に、勇気あふれる果敢な行動力だ。」魚津は、山本会長の指導を、全生命で受けとめようとしていた。
彼は尋ねた。「若輩者の私が、県長として指揮を執るうえで、留意すべきことはなんでしょうか」伸一は言下に答えた。「誠実ーーこれしかありません。同志に仕えるために自分がいるんだと決めて、一つ一つの問題に対して、真剣に、真面目に、謙虚に、全力で取り組んでいくことです。その姿に人は共感し、"応援しよう。共に戦おう"と思うんです。先輩や年長者に対しては、尊敬の思いをもって接していくことです。」
伸一は、魚津のために青年指導者の在り方を、徹底して語っておこうと思った。「誰もが、"うちの県長はここまで頑張っているのか""これほどまでに皆のために尽してくれるのか"と感嘆するようでなければならない」
翌日、新たに建設が決まった福井文化会館の起工式に出席した。そのあと、福井総合本部長の田山勝治の家を訪問した。伸一は、"総合本部長と県長の、この団結があれば、福井は盤石だ"と思った。
大聖人は仰せである。「総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
互いに、広布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。
「異体同心」の姿こそ、今、大聖人が弘通される最も肝要なことなのであると言われているのだ。「異体同心」の姿は、それ自体が人間共和の縮図であり、広宣流布の実像である。いわば目的ともいえよう。そして、「異体同心」で進んでいくならば「広宣流布の大願も叶うべき者か」と仰せになっているのである。
伸一は、福井県に引き続き、翌6月7日には、岐阜県幹部会並びに文化祭に出席するため、岐阜に向かった。岐阜県もまた、人びとの汗と涙の苦闘の年輪が刻まれた天地であった。
岐阜県内でも空襲が本格化し、市内の半分が焼けたといわれるほど、凄惨を極めた。当時、女学生であった伸一の妻の峯子も、岐阜市美園町の叔母の家に疎開しておりここで岐阜空襲に遭遇している。
戦後の伊勢湾台風、7月豪雨、岐阜駅での追突事故などの様子も伸一と峯子で語り合った。岐阜駅構内で停車中の普通列車に貨物列車が追突し、多数の乗客が負傷した。この普通列車には、総本山に登山した郡上や美濃などの同志が数多く乗車していた。
不幸中の幸いというべきか、怪我をし、入院した人もいたが、皆、命に別状はなかった。伸一は、「変毒為薬」を呼びかける伝言とともに、書籍や袱紗など、激励の品々を贈り、中部の幹部らに見舞いと励ましを頼んだ。そして、3か月後の1972年3月に、岐阜市で記念撮影会が行われ、岐阜を訪問した。
苦しむ人のために実際に何をするのかーーそこに人間の真実が現われる。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋
伸一は、広宣流布の新展開のためには、方面や県を一つの独立した創価学会ととらえ、それぞれの方面、県で、地域に即した広宣流布の構想と運動を練り上げ、自主的に活動を推進していく必要があると考えていた。
そして、県長制の導入を提案し、「地域の年」と名づけられた1972年(昭和47年)には静岡長、福井長などが任命された。この県長制は順次、各県に導入され、全国的に布陣が整うのである。
福井長になった魚津健司は、高校三年の時に、家族と共に信心を始めた。大阪の大学に進み、会社に勤めたあと、学会の職員となった。関西の男子部の中核となり、また、関西高等部長として、時代を担う鳳雛たちの育成に力を注いできた。そして、29歳で初代の福井長となったのである。
「保守王国といわれる福井を変えていくのは、青年の力しかない。青年とは、第一に大願を起こす心をもっていることだ。そして、その大理想に向かって、間断なき挑戦と向上を重ねていかなければならない。第二に、破邪顕正の革命精神にあふれていることだ。第三に、勇気あふれる果敢な行動力だ。」魚津は、山本会長の指導を、全生命で受けとめようとしていた。
彼は尋ねた。「若輩者の私が、県長として指揮を執るうえで、留意すべきことはなんでしょうか」伸一は言下に答えた。「誠実ーーこれしかありません。同志に仕えるために自分がいるんだと決めて、一つ一つの問題に対して、真剣に、真面目に、謙虚に、全力で取り組んでいくことです。その姿に人は共感し、"応援しよう。共に戦おう"と思うんです。先輩や年長者に対しては、尊敬の思いをもって接していくことです。」
伸一は、魚津のために青年指導者の在り方を、徹底して語っておこうと思った。「誰もが、"うちの県長はここまで頑張っているのか""これほどまでに皆のために尽してくれるのか"と感嘆するようでなければならない」
翌日、新たに建設が決まった福井文化会館の起工式に出席した。そのあと、福井総合本部長の田山勝治の家を訪問した。伸一は、"総合本部長と県長の、この団結があれば、福井は盤石だ"と思った。
大聖人は仰せである。「総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
互いに、広布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。
「異体同心」の姿こそ、今、大聖人が弘通される最も肝要なことなのであると言われているのだ。「異体同心」の姿は、それ自体が人間共和の縮図であり、広宣流布の実像である。いわば目的ともいえよう。そして、「異体同心」で進んでいくならば「広宣流布の大願も叶うべき者か」と仰せになっているのである。
伸一は、福井県に引き続き、翌6月7日には、岐阜県幹部会並びに文化祭に出席するため、岐阜に向かった。岐阜県もまた、人びとの汗と涙の苦闘の年輪が刻まれた天地であった。
岐阜県内でも空襲が本格化し、市内の半分が焼けたといわれるほど、凄惨を極めた。当時、女学生であった伸一の妻の峯子も、岐阜市美園町の叔母の家に疎開しておりここで岐阜空襲に遭遇している。
戦後の伊勢湾台風、7月豪雨、岐阜駅での追突事故などの様子も伸一と峯子で語り合った。岐阜駅構内で停車中の普通列車に貨物列車が追突し、多数の乗客が負傷した。この普通列車には、総本山に登山した郡上や美濃などの同志が数多く乗車していた。
不幸中の幸いというべきか、怪我をし、入院した人もいたが、皆、命に別状はなかった。伸一は、「変毒為薬」を呼びかける伝言とともに、書籍や袱紗など、激励の品々を贈り、中部の幹部らに見舞いと励ましを頼んだ。そして、3か月後の1972年3月に、岐阜市で記念撮影会が行われ、岐阜を訪問した。
苦しむ人のために実際に何をするのかーーそこに人間の真実が現われる。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋