小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

May 2020

福井県長任命

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 341P~ 

伸一は、広宣流布の新展開のためには、方面や県を一つの独立した創価学会ととらえ、それぞれの方面、県で、地域に即した広宣流布の構想と運動を練り上げ、自主的に活動を推進していく必要があると考えていた。

そして、県長制の導入を提案し、「地域の年」と名づけられた1972年(昭和47年)には静岡長、福井長などが任命された。この県長制は順次、各県に導入され、全国的に布陣が整うのである。

福井長になった魚津健司は、高校三年の時に、家族と共に信心を始めた。大阪の大学に進み、会社に勤めたあと、学会の職員となった。関西の男子部の中核となり、また、関西高等部長として、時代を担う鳳雛たちの育成に力を注いできた。そして、29歳で初代の福井長となったのである。

「保守王国といわれる福井を変えていくのは、青年の力しかない。青年とは、第一に大願を起こす心をもっていることだ。そして、その大理想に向かって、間断なき挑戦と向上を重ねていかなければならない。第二に、破邪顕正の革命精神にあふれていることだ。第三に、勇気あふれる果敢な行動力だ。」魚津は、山本会長の指導を、全生命で受けとめようとしていた。

彼は尋ねた。「若輩者の私が、県長として指揮を執るうえで、留意すべきことはなんでしょうか」伸一は言下に答えた。「誠実ーーこれしかありません。同志に仕えるために自分がいるんだと決めて、一つ一つの問題に対して、真剣に、真面目に、謙虚に、全力で取り組んでいくことです。その姿に人は共感し、"応援しよう。共に戦おう"と思うんです。先輩や年長者に対しては、尊敬の思いをもって接していくことです。」

伸一は、魚津のために青年指導者の在り方を、徹底して語っておこうと思った。「誰もが、"うちの県長はここまで頑張っているのか""これほどまでに皆のために尽してくれるのか"と感嘆するようでなければならない」

翌日、新たに建設が決まった福井文化会館の起工式に出席した。そのあと、福井総合本部長の田山勝治の家を訪問した。伸一は、"総合本部長と県長の、この団結があれば、福井は盤石だ"と思った。

大聖人は仰せである。「総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」

互いに、広布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。

「異体同心」の姿こそ、今、大聖人が弘通される最も肝要なことなのであると言われているのだ。「異体同心」の姿は、それ自体が人間共和の縮図であり、広宣流布の実像である。いわば目的ともいえよう。そして、「異体同心」で進んでいくならば「広宣流布の大願も叶うべき者か」と仰せになっているのである。

伸一は、福井県に引き続き、翌6月7日には、岐阜県幹部会並びに文化祭に出席するため、岐阜に向かった。岐阜県もまた、人びとの汗と涙の苦闘の年輪が刻まれた天地であった。

岐阜県内でも空襲が本格化し、市内の半分が焼けたといわれるほど、凄惨を極めた。当時、女学生であった伸一の妻の峯子も、岐阜市美園町の叔母の家に疎開しておりここで岐阜空襲に遭遇している。

戦後の伊勢湾台風、7月豪雨、岐阜駅での追突事故などの様子も伸一と峯子で語り合った。岐阜駅構内で停車中の普通列車に貨物列車が追突し、多数の乗客が負傷した。この普通列車には、総本山に登山した郡上や美濃などの同志が数多く乗車していた。

不幸中の幸いというべきか、怪我をし、入院した人もいたが、皆、命に別状はなかった。伸一は、「変毒為薬」を呼びかける伝言とともに、書籍や袱紗など、激励の品々を贈り、中部の幹部らに見舞いと励ましを頼んだ。そして、3か月後の1972年3月に、岐阜市で記念撮影会が行われ、岐阜を訪問した。

苦しむ人のために実際に何をするのかーーそこに人間の真実が現われる。



太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

0

福井の国土の宿命転換

『新・人間革命』第17巻 緑野の章 325P~ 

<緑野の章 開始>

"次は、各方面、各県の強化だ!これまであまり訪問できなかった地域に光を当てて、一県一県、堅固な牙城に仕上げていこう!"伸一は、ヨーロッパ訪問から帰国して9日後の6月5日には、早くも福井県の武生市を訪れたのである。一年ぶり5度目の福井訪問である。

伸一は、福井県には特別な思いがあった。福井県は幾度となく、災害に見舞われてきた地であったからだ。
1945年(昭和20年)7月には、大空襲によって敦賀・福井市内は焦土と化し、3年後、福井地震に襲われ、地震の揺れの激しさから、気象庁は震度階級に最強の揺れとして、「震度7」を追加している。

その1か月後、豪雨によって九頭竜川左岸の堤防が決壊し、福井市内に濁流が流れ込んでいる。1950年、53年にも、台風による水害で多くの犠牲者を出したほか、3百戸以上が全焼するという大火もあった。

伸一は、その悲惨な災禍を思うと、傷ましくて仕方なかった。また仏法で説く「国土」というものの宿命を痛感せざるをえなかった。

福井県幹部会の会場になった武生市の体育館には、6千人のメンバーが詰めかけ、場外にも人があふれていた。山本伸一が指導に立った。ここで、伸一は、福井の歴史に言及していった。

福井地方はかつて大繁栄した地であり、福井人は誇りと気概にあふれ、優れた力を有していた事実を論証していった。さらに、彼は、その本来の活力が生かされずに、"消極性""保守王国"のレッテルが張られてしまった原因について考察していった。

福井県には、曹洞宗の大本山となった永平寺がある。だが、より広く福井の人びとに浸透しているのは、"浄土教"すなわち念仏の教えである。念仏の教えは、この世は穢れた穢土であるとし、ただ念仏を唱えることによって、死んで後に極楽に行けるとする教えである。

それは、現実の社会で、建設の主体者として、永続的な改革に挑む生き方とは相反する思想である。そうした教えが、福井人の活力にあふれた積極的な生き方を、消極的な他力本願的なものへと変質させてきたことを、伸一は鋭く指摘していったのである。

伸一は、訴えた。「この"保守王国"といわれる現実を転換し、バイタリティーを復興する道は何か。大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と断言されている。生命の大法たる日蓮大聖人の仏法によって、必ず、この郷土の本質的な大改革ができるということを、私は宣言しておきたいのであります。それは、ひとえに、皆さんの勇気と活動にかかっているのであります。」

さらに、伸一は、福井地方からは『蘭学事始』の著者・杉田玄白や、蘭学の振興に努めた橋本佐内などが出たことをあげて、福井の進取性に言及していった。

「このような観点から見れば、福井県は潜在力に満ちた地域性です。皆さん方は、自分の郷土に大いに将来性を見いだしてください。そして、過去の"仏教王国"なるものを、新しき真実の"仏教王国"につくり直していっていただきたいのであります」

伸一は、各地を訪問する際には、その地の歴史や風土、直面している問題等等々を徹底して調べ、分析し、仏法の視座から地域の発展と人びとの幸福のために何が必要かを熟慮し、意見や提案を述べていった。

"妙法による郷土のルネサンスを!"ーーこの山本会長の渾身の指導は、福井の同志にとって、郷土の新しき建設のための永遠の指針となったのである。


伸一は、昭和35年に敦賀の駅で伸一を待っていた同志が会場にいるか呼びかけた。夜行列車で金沢に向かう途中、午前二時半ごろ敦賀駅で6分間ほど停車した時、50人ほどの同志が、伸一の指導を求めて、駅のホームで待っていたが、深夜でもあり、周囲に迷惑をかけないよう、伝言を託して、あえて会うことはしなかった。胸が張り裂ける思いだったが、社会に迷惑はかけられないと熟慮の末、決めたことではあったが、自分を責めた。

「悔恨がないのは、前進がないからである」とは、トルストイの達観である。



太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

0

世界広布第二章の暁鐘

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 306P~ 

記念撮影のあと会場に設置された展示を鑑賞した。そこには、伸一が入会したばかりのころに使用していた厨子や、文京支部の支部長代理としての激闘の渦中に、支部員に送った激励の葉書などが展示されていた。

文京支部での日々は、獅子奮迅の闘争の明け暮れであった。彼は徹底して支部員の個人指導を行い、また、毎月の幹部会などでは必ず皆の希望となる新しい目標や指針を示してきた。そして、支部長代理就任から1年三か月後、豊島公会堂で行われた文京支部総会では、2500人の大結集を果たしたのである。

全精魂を注いできたからこそ、懐かしさが込み上げるのである。広布の美しき思い出とは、わが生命に刻印された汗と涙の敢闘なのだ。豊島区での激闘の三日後、伸一はヨーロッパ訪問に出発した。

今回の訪問国は、フランスとイギリスの二か国である。10日には、パリ郊外のバンセンヌの森にある「バルク・フロラル」で、フランスのメンバーが主催して行われた、第二回「第三文明絵画・華展」に出席した。総合テーマは「欧州に太陽を」であった。

"第三文明展"は大好評であった。各マスコミも取り上げた。また、テレビも、この展覧会を紹介した。
翌11日には、パリ大学ソルボンヌ校を訪問し、教授らと懇談したあと、総長と対談した。その際、伸一は、創価大学の"建学の精神"である「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」のモットーを紹介した。

総長は「本当にすばらしい。共感し、感動しました」と頬を紅潮させて語った。創価大学への、世界の知性の称賛であった。まさに、このモットーには、本来、大学のめざすべき使命が集約されていたといえよう。

5月12日、「ヨーロッパ会議」の設立準備会議が開かれた。当時、ヨーロッパの統合化は、社会的にも、未来の大きなテーマとなっていた。したがって、人類の幸福と平和をめざす精神の結合ともいうべき「ヨーロッパ会議」の設立は、次元は異なるものの、時代を先取りする価値ある第一歩であったといってよい。

議長には、川崎が就任した。13日、欧州各国の代表3百人が参加して、パリ本部で行われた世界平和勤行会で、正式に発表された。それは、「世界広布第二章」の暁鐘となったのである。

14日には、イギリスのロンドンに移り、翌日からは、アーノルド・トインビー博士との対談が始まった。トインビー博士は高齢である。博士は、伸一に遺言を託すがごとく、真摯に語り続けた。

17日には、ロンドン市内に開設されたロンドン事務所の開所式に出席したのである。山本伸一は、イギリスの広宣流布のために、幾つかの指針を示した。

事務所といっても二間しかないアパートであった。仏間も20人ほど入ればいっぱいになってしまう小さな部屋である。伸一は、妻の峯子に「この事務所は、国の中心となる場所としては世界で一番、小さいかもしれない。」

「たゆまず、黙々と頑張り続けていくならば、10年先、20年先には、イギリスにも、立派な王城のような会館ができるよ。それが仏法の因果の理法だもの・・・」事実、この時から16年後に、ロンドン郊外のテムズ河畔に、池や古墳、由緒ある館を擁する、広大なタプロー・コート総合文化センターがオープンしている。

26日、パリを出発し、経由地オランダのアムステルダム空港では、飛行機トラブルで4時間ほど出発が遅れた。その時、到着ゲートには、十数人のメンバーが待っていた。オランダのメンバーが伸一が来ることを祈り続けていたと知り、皆で、空港近くの公園へ行き座談会を行う。

オランダにも着実に新しいメンバーが誕生していた。伸一は訴えた。「皆さんこそ、人びとの苦悩の闇を晴らす、希望の太陽なんです。さあ、出発しましょう。広宣流布の旅へ!」

<民衆城の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

0

豊島区の学生部による日蓮大聖人御書全集索引完成

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 290P~ 

「森ケ崎海岸」と題する歌が披露された。これは、伸一が19歳の時に作った詩に、大田区の男子部員が曲をつけたものであった。森ケ崎海岸は、伸一が当時住んでいた自宅近くの海岸である。

歌が終わると、彼は大きな拍手を送った。「作曲してくださった方を、また、大田の皆さんを讃える意味から、この歌をレコードにしたいと思いますが、いかがでしょうか!」そして、この歌はやがて、日本全国で歌われるようになるのである。

伸一は、自身の生命を振り絞るように、友との語らいを続けた。"わが大田には、広宣流布をけん引する伝統と使命がある。未来へのその新しき流れを、断じて開くのだ!"彼は必死であった。

1973年5月3日、静岡県富士宮市に 富士美術館が完成し、その落成式が挙行された。美術館の開設は、日蓮仏法を根底にした新たな芸術の創造のために、また、民族や国境を越えて、人間と人間の心を結ぶために、伸一がかねてから構想してきたことであった。「広布第二章」を象徴する、創価文化運動の新しき幕が開かれたのだ。

伸一は休む間もなく、豊島区の会員との記念撮影会に出席した。彼は、豊島には強い愛着があった。かつて、戸田城聖が御書講義を行い、毎月の幹部会が開催された豊島公会堂も、区内の池袋にある。また、初代会長の牧口常三郎の自宅も、豊島区の目白である。そして、牧口と戸田が囚われ、牧口が獄死した東京拘置所も、当時の豊島区西巣鴨にあった。

"豊島は権力の魔性による、創価学会の迫害の地である。なればこそ、ここから民衆の凱歌を、高らかに響かせねばならないーーそれが戸田先生のご決意であられた。だから先生は、豊島の地で獅子吼ともいうべき講義をされたのだ"伸一は、この記念撮影会を、その新しき出陣にしようと決めていた。

彼の体調は優れず、控室に着くと、伸一は倒れ込むようにソファに体を横たえた。悪寒がし、めまいさえするのであった。数分が過ぎた。同行の幹部に宣言するように言った。「戦闘開始だ!」

室内に分厚い二冊の本が置いてあった。豊島区の学生部がつくった「日蓮大聖人御書全集索引」である。索引を作るには、一つの用語が御書のどこに出ているかを調べるために御書全文を入念にチェックしなければならない。それには多くの人手を必要とする。

「これまで、未活動だった人のなかにも、人材はたくさんいるはずだ。」そして、区内の学生部員に呼びかけていった。最終的に、作業にかかわったメンバーは百八人に上ったのである。

予算もほとんどなく、安価なわら半紙を買い、マス目を引き、自家製の原稿御用紙を作ることから始めなければならなかった。作業場を座談会場にして友人を招き、果敢に折伏を展開した。

作業は手間取り、完成は無理かと思われたが、皆が徹夜覚悟で、懸命に追い込みをかけた。ついに、記念撮影当日の 朝、完成したのだ。

伸一は、編集に取り組んだ百八人と会い、このメンバーで「豊島区学生教学研究会」の結成を提案。また、このグループは創価学会の教学を後世永遠に受け継いでいく使命を担っている意味から、別名を「継承会」と命名したのだ。

「継承会」のメンバーは、『法華経並開結』や伸一の『御義口伝講義』の文庫本の索引政策に携わったほか、『日蓮大聖人御書辞典』発刊の手伝いをするなど、教学運動の推進に意欲的に尽力していったのである。


伸一は、この5月5日を、豊島区創価学会の前進の節とし、毎年、この日を中心に皆が集い、広布への誓いを新たにしていってはどうかと提案した。さらに、三指針を示したのである。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

0

自分の新しい歴史をつくる挑戦

『新・人間革命』第17巻 民衆城の章 277P~ 

その時、伸一から、烈々たる決意のほとばしる葉書が、各班長に届いたのである。わずかな間に、何通もの激励の手紙をもらったメンバーもいた。

「山本部隊長は、あれほど多忙ななかで、手紙を書き、われわれの弱い心を打ち破ろうとしていてくださっている。戦おう!断じて勝利しよう!」同志は奮い立った。その息吹は、全部員に波動し、拡大への燎原の火のごとき、大前進が始まったのである。

さらに、第一部隊の臨時の決起大会が開かれ、参加者に1枚の印刷物が配られ、そこには、「わが親愛なる同志諸君に告ぐ」との伸一が自費で作った活版刷りの檄文の文字が躍っていた。

檄文では、青年部の歴史をたどり、このたびの部隊一千人結集の意義を述べたあと、自らの決意を託した歌が書かれていた。そして、広宣流布の使命を果たすうえで、4つの心構えが必要であると訴えていた。

班長たちは、決起大会に参加できなかった人には、その檄文を配って歩いた。伸一の心を伝え、全員が呼吸を合わせ、同じ一念で進もうと必死であった。そこに、鉄の団結が生まれていった。

男子部総会まで、二週間を切った日にも、再び伸一は、総結集を呼びかける檄文を送った。その文面には、"全部員を意義ある大総会に参加させたい。参加できずに、生涯、悔いを残させるようなことがあってはならない"との、情熱がほとばしっていた。

「残り13日、人生をかけた戦いをしよう!」「自分の新しい歴史をつくる挑戦をしよう!」
皆が発奮した。断じて勝つと心を定めた同志の力はすさまじかった。そして、男子部総会では、第一部隊は目標の千人を優に超える大結集を成し遂げたのである。

並田辰也の班は部員は20人ほどであり、メンバーは東京のほか、埼玉の羽生方面に点在していた。彼は、決意した。"石にかじりついても、班で百人の結集をしてみせる!これは山本部隊長との約束だ"並田は鉄鋼関係の工場に勤め、三交代の不規則勤務のなか、平日は都内の部員の激励にあたり、週末には、泊りがけで埼玉に出かけ、部員の指導や弘教に走った。

そして、遂に総会では、埼玉で50人、東京で50人を超える結集を成し遂げたのだ。埼玉のメンバーは、大型の貸し切りバスでやってきた。

伸一は、会場の前まで自らバスを誘導し、バスは、会場の前に横付けされた。その場にいた青年たちの大拍手に迎えられ、埼玉の同志は、勝ち誇ったように、学会歌を高らかに歌いながらバスを降りた。どの顔も輝いていた。どの顔も晴れやかであった。広宣流布のために戦い抜いた大歓喜の境涯こそ、人間としての勝利の証なのだ。

第一部隊の部員数は、当初の4倍近くまでに拡大した。また、第一部隊からは、広宣流布の多彩な人材が陸続と育っていったのである。

あの区にも、あの地にも、「広布第二章」の新出発の原点をつくりたいーー山本伸一は、固く、固く、決意していた。

4月29日、大田区のメンバーとの記念撮影会が行われた。それは、一年前、ヨーロッパ訪問の飛行機の中で、沢口幸雄という男子部ブロック長との約束を果たすためでもあった。以来、一年ぶりの再会であった。沢口は、一青年にすぎない自分との約束を果たしてくれた山本会長の誠実さに、深い感動を覚えた。

記念撮影会には、伊豆諸島の大島や八丈島、三宅島、新島、神津島、さらに小笠原諸島からもメンバー142人が集っていた。その報告を受けた伸一は、離島からの参加者に激励し、声を嗄らしながら訴えていった。沢口はその姿を目の当たりにして、伸一が自分の命を削って生命力を皆に分け与えているかのように思えた。

"この一日で、大田の同志をどこまで励まし、一人ひとりの胸中深く、発心の種子を植えることができるか"時間は限られている。彼は必死だった。

人の心を変えるには、必ずしも、長い時間が必要とは限らない。人の心が変化するのは"瞬間"である。一瞬に一念を凝縮し、真剣勝負で挑む時、触発と共感の電撃が発し、人の心を変えていくのだ。懸命こそが力である。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

0
カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』