『新・人間革命』第16巻 対話の章 P120~
<対話の章 開始>
1972年(昭和47年)4月29日、山本伸一は、パリへと向かった。今回の訪問先は、フランスのパリ、イギリスのロンドン、そして、アメリカのワシントンDC、ロサンゼルス、ホノルルであり、期間は 約1か月の予定であった。
今回の旅の最大の目的は、イギリスの歴史学者であるアーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士との対談であった。20世紀を代表する歴史学者である。叔父は、著名な経済学者アーノルド・トインビーである。彼は、感受性の強い聡明な少年ではあったが、決して、いわゆる”優等生”ではなかった。
奨学金を受けるための試験にも挑んだが、2年目にようやく合格を果たしている。博士は、オックスフォード大学に進んで古代史を学び、研究 のための旅行中赤痢にかかり、結果的に第一次世界大戦の軍隊では不合格となる。
やがて、外務省の政治情報部を経て、ロンドン大学教授となり、「ギリシャ・トルコ戦争」の視察に出かけた。彼は、一方の主張だけを取り上げるのではなく、ギリシャの言い分にも、トルコの言い分にも公平に耳を傾けた。
オスマン・トルコによるアルメニア人の虐殺があったことから、人びとはトルコ人に憎悪と恐怖を感じ、「偏見」にとらわれていた。“それだけに、トルコ人の言い分を、よく理解する努力が必要だ!”そして、事実をありのままに原稿にして、「マンチェスター・ガーディアン」紙に送った。
すると「トルコ人に同情的であるとは何事だ!」と囂々たる非難の集中砲火が浴びせられた。イギリスでは猛反発を招くが、トルコ人には、喜びの大反響をもたらす。これによって同紙は、“イスラム教徒へのキリスト教的偏見に屈しなかった新聞”という永遠の栄誉に浴すことになる。
一方から、ものを見ただけでは、真実はわからない。より多くの視点からものを見れば見るほど、真実は浮かび上がってくるものだ。インビー博士は、”象牙の塔”に閉じこもることを潔しとはしなかった。現地に足を運び、より多くの人と対話し、行動する探究者であった。トルコの真実を伝えた彼は、やがてロンドン大学教授の座を失うことになる。しかし、イギリス王立国際問題研究所に迎えられたのである。
そして、いよいよ「歴史の研究」の執筆にも、着手したのである。刊行を重ねてきた『歴史の研究』が、10巻で一応の完結をみたのは、実に構想から33年を経た、54年のことであった。偉業というものは、気の遠くなるほどの忍耐と、執念を必要とするものだ。
『歴史の研究』は、従来の歴史学が単位としてきた、「民族」や「国家」の枠にはとらわれなかった。それは、「文明」を単位として考え、世界史は多くの文明の結合と考える、独創的な歴史研究であった。そして、すべての文明は、発生、成長、挫折、解体、消滅を繰り返していくという法則性を示したのである。
また、文明の盛衰は、自然をはじめ、環境の大きな変化や戦争などが人間に試練を与える時、その「挑戦」に屈せずいかに乗り越えていくかという「応戦」によって決まるとしている。
そして、他の文明によって征服されるという、最大の苦難の「挑戦」を受けた文明から、苦悩を乗り越えるための叡智として、高等宗教が生み出されると洞察していた。
第二次大戦後、縮刷版が発刊され、世界的に彼の名声が高まると、批判は激しく、辛辣なものになっていった。革新であればあるほど、批判は激しいものだ。それもまた、人の世の法則である。
博士は、自らの学説に寄せられた反論には、誠実に、思索、検討を重ねた。そして、正論は真摯に受け入れ、自説に誤りがあれば正していった。彼は、1961年批判をふまえて、自説を修正した「再考察」を、『歴史の研究』第12巻として発刊している。博士の、学問に対する探究心、謙虚さの表れといえよう。
<対話の章 開始>
1972年(昭和47年)4月29日、山本伸一は、パリへと向かった。今回の訪問先は、フランスのパリ、イギリスのロンドン、そして、アメリカのワシントンDC、ロサンゼルス、ホノルルであり、期間は 約1か月の予定であった。
今回の旅の最大の目的は、イギリスの歴史学者であるアーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士との対談であった。20世紀を代表する歴史学者である。叔父は、著名な経済学者アーノルド・トインビーである。彼は、感受性の強い聡明な少年ではあったが、決して、いわゆる”優等生”ではなかった。
奨学金を受けるための試験にも挑んだが、2年目にようやく合格を果たしている。博士は、オックスフォード大学に進んで古代史を学び、研究 のための旅行中赤痢にかかり、結果的に第一次世界大戦の軍隊では不合格となる。
やがて、外務省の政治情報部を経て、ロンドン大学教授となり、「ギリシャ・トルコ戦争」の視察に出かけた。彼は、一方の主張だけを取り上げるのではなく、ギリシャの言い分にも、トルコの言い分にも公平に耳を傾けた。
オスマン・トルコによるアルメニア人の虐殺があったことから、人びとはトルコ人に憎悪と恐怖を感じ、「偏見」にとらわれていた。“それだけに、トルコ人の言い分を、よく理解する努力が必要だ!”そして、事実をありのままに原稿にして、「マンチェスター・ガーディアン」紙に送った。
すると「トルコ人に同情的であるとは何事だ!」と囂々たる非難の集中砲火が浴びせられた。イギリスでは猛反発を招くが、トルコ人には、喜びの大反響をもたらす。これによって同紙は、“イスラム教徒へのキリスト教的偏見に屈しなかった新聞”という永遠の栄誉に浴すことになる。
一方から、ものを見ただけでは、真実はわからない。より多くの視点からものを見れば見るほど、真実は浮かび上がってくるものだ。インビー博士は、”象牙の塔”に閉じこもることを潔しとはしなかった。現地に足を運び、より多くの人と対話し、行動する探究者であった。トルコの真実を伝えた彼は、やがてロンドン大学教授の座を失うことになる。しかし、イギリス王立国際問題研究所に迎えられたのである。
そして、いよいよ「歴史の研究」の執筆にも、着手したのである。刊行を重ねてきた『歴史の研究』が、10巻で一応の完結をみたのは、実に構想から33年を経た、54年のことであった。偉業というものは、気の遠くなるほどの忍耐と、執念を必要とするものだ。
『歴史の研究』は、従来の歴史学が単位としてきた、「民族」や「国家」の枠にはとらわれなかった。それは、「文明」を単位として考え、世界史は多くの文明の結合と考える、独創的な歴史研究であった。そして、すべての文明は、発生、成長、挫折、解体、消滅を繰り返していくという法則性を示したのである。
また、文明の盛衰は、自然をはじめ、環境の大きな変化や戦争などが人間に試練を与える時、その「挑戦」に屈せずいかに乗り越えていくかという「応戦」によって決まるとしている。
そして、他の文明によって征服されるという、最大の苦難の「挑戦」を受けた文明から、苦悩を乗り越えるための叡智として、高等宗教が生み出されると洞察していた。
第二次大戦後、縮刷版が発刊され、世界的に彼の名声が高まると、批判は激しく、辛辣なものになっていった。革新であればあるほど、批判は激しいものだ。それもまた、人の世の法則である。
博士は、自らの学説に寄せられた反論には、誠実に、思索、検討を重ねた。そして、正論は真摯に受け入れ、自説に誤りがあれば正していった。彼は、1961年批判をふまえて、自説を修正した「再考察」を、『歴史の研究』第12巻として発刊している。博士の、学問に対する探究心、謙虚さの表れといえよう。
太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋