小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

March 2020

国教を超えて 平和に貢献する 人材育成

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 266P~ 

国境を超えて、人類の幸福と平和のために貢献できる人材を創価大学で育てたいーーそれが、山本伸一の念願であった。

一期生に、経済学部で学ぶ金敏江という在日韓国人の女子学生がいた。朝鮮民族が日本人から受けた、韓国併合以来の非道な歴史を知り、怒りに燃え、その憤慨は、いつしか日本人への嫌悪感となり、憎しみともなった。

彼女は重度の結核にかかり、治療のために入院する。そこで仏法の話を聞き入会し、唱題に励むと、医師が驚くほど、病状は回復していった。

金は、山本先生が創立した創価大学で学びたいと受験し、一期生となった。創立者と接し、生き方を学ぶにつれ、伸一への尊敬の念が深まり、”生涯の師に巡り合えた”と思った。しかし、それとともに、このまま日本の大学に同化していくことは、韓国人への背信行為ではないかと悩んだ。

その悩みを職員から聞いた伸一は、彼女と懇談する機会をもち、彼女に声をかけた。「人間が人間であるという視点に立つならば、どこの国籍であるとか、民族だとか、そんなことは問題ではありません。ちっぽけなことです。あなたは、一人の人間として、自由に伸び伸びと頑張ってください。見守っています」

伸一の話に、彼女は、胸に立ち込めていた靄のような思いが、スーッと晴れていくような気がした。伸一は、さらに語らいを続け、写真の裏に「元来、人間には国境なぞなかった。・・・ゆえに、私共は、国境の奥の次元の人間連帯に到達し、生きゆくことを忘れまい」と記して彼女に贈った。

彼女は魂を揺さぶられた。そして、”創大生であることこそが、私の原点だ。ここが、私の人間としての目覚めの大地だ。山本先生のこの励ましに、自分の生き方をもって応えていこう!”


彼女は、卒業の年に税理士の資格を取得し、晴れて早大出身の税理士第一号となったのである。また、女性平和運動のリーダーとしても、活躍していくことになる。

創価大学には、海外からの留学生も集うようになっていた。1973年(昭和48年)には、香港出身の二人の学生が入学した。そのうちの一人が、山本伸一が63年の1月に香港を訪問した折に、励ました周志英であった。香港から帰国する伸一を見送りにきた9歳の志英に伸一は、日本にくるよう話したのだ。

志英は、医学の道をめざしていたが、創価大学が開学すると医学部はなかったが、山本伸一をもとめて、日本行きを決意した。日本語の勉強をし、経済学部に合格した。もう一人の鄭芳芳という女性も合格した。

翌年伸一が、香港大学や香港中文大学を公式訪問する時、二人を香港に連れて行った。家族に会わせてあげたいとの伸一の配慮だった。二人には、通訳の手伝いをしてもらおうと思った。語学は、実践の場数を踏み、体験を積み重ねてこそ、本当の実力が身につくからだ。

伸一は、周に中国語の通訳もしてほしいと話す。広東語と北京語は、全く違うとわかっていたが、あえて、目標を持ってほしかったからだ。

周は猛勉強し、創大の中国語弁論大会で「特別賞」を受賞した。しかし、その翌月、父親が心臓病で急逝してしまった。以来、周は昼夜アルバイトしながらも北京語を学んび、さらに、貯金して、大学院に進む。周は、1978年の伸一の第4次訪中に、遂に北京語の通訳として同行することになる。

中国の国家を代表するような指導者の通訳としては、まだ経験不足であったが、彼により早く、真剣勝負の舞台に立たせたかったのである。その後周は、研鑽を重ね名通訳となり念願の世界平和に貢献していく。さらに、SGIの公認通訳の中心となり、多くの後輩を育んでいったのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

初めての就職活動

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 254P~ 

伸一は、立食パーティーの会場にいる700人の来賓全員とお会いしようと決意していた。動き、語る伸一の顔には、いつの間にか、汗が噴き出していた。彼の後ろには、「創大祭」の実行委員長である押山和人という学生がついて歩いていた。

創立者の姿を見て、押山は目の覚める思いがした。”先生は本気になって、ぼくたちの将来に心を砕き、就職の問題も学生自身よりも真剣に考えて、手を打ってくださっているんだ。”押山は、創立者の姿を生命に焼き付ける思いで見ていた。

さらに、このあと、記念の卓球大会やテニス大会にも、相次いで出場した。夕方からは、教授の有志の招待を受け、食事をともにした。教授の代表があいさつに立ち、学生の未来を開くために、すべてを捧げる創立者の決意を痛いほど伝わったと話した。真の共感は、行動のなかに生まれる。

一期生たちは、一斉に就職活動に動きだしたが、暮れから景気は悪化し、大卒予定者は史上最高で、就職戦線も激戦となっていった。

創価大学を訪れた伸一は、就職求人の掲示板の前にいる学生に声をかけた。「思い通りの会社がない」という学生に、「全て希望通りの会社なんて、ないのが普通だよ。仕事と趣味は違う。月給をもらうんだから、大変なことや苦しいことがあるのは当然です」と話すが、一流企業でなければならないと考えている学生たちに外形にとらわれず、内実を見極める眼を、就職に対する考え方を正しておこうと語りかけた。

「世の中に安定している会社なんて、一つもありません。社会が激動しているんだから。日々激戦に勝ち抜くために、どの会社も必死です。昨日まで、順調であっても、今日、どうなるかわからないのが、現実なんです。」

「就職する限りは、どんな仕事でもやろうと、腹を決めることです。社会も企業も、常に変化、変化の連続です。その時に、自分の希望と違う職場だから仕事についていけないとか、やる気が起こらないというのは、わがままであり、惰弱です。敗北です。」

「仕事とは挑戦なんです。そう決めて、職場の勝利者をめざして仕事に取り組む時、会社は、自分を鍛え、磨いてくれる、人間修行の場所となります」

青年時代に戸田先生の会社に編集者として入ったが、経営不振に陥り、金融の営業をすることになったことを話し、それによって多くのことを学び、人生の力となっていると話した。

「会社を、ただ、給料をもらうためだけの場と考えるのは、使用人根性です。一定の給料であれば、一生懸命働くことは損だということになる。それでは、結果的に会社の“お荷物”になってしまう。君たちには、全員、職場の勝利者になってほしいんです」

「自分がいる、その場所で信頼を勝ち取ることだ。その部署で、第一人者になることです。まず、朝は誰よりも早く出勤し、元気なあいさつで、皆を迎えることだよ。朝に勝つことだ。」

「どんな立場であれ、自分が会社を担っていくのだという決意で、全体観に立って、仕事をしていくことだ。君たちが、誇り高き、わが創価大学の一期生として身につけてきたものは、まさに、その精神じゃないか」

「どこであれ、入った会社で、君たちが核となって後に続く創大生たちのためにも頑張り抜いてほしい。それが一期生の責任です。」「創大生は、どの職場にあっても、”いてもらいたい人”にならなければいけないよ。」


創大生が会社を訪問しても、「指定校ではないので採用枠がない」と断られることもあったが、創大生は、「私は結構です。でも、後輩たちには、平等に採用のチャンスを与えていただけませんでしょうか。優秀な後輩たちが続いております。」と言ってお願いした。その精神は、二期生にも、三期生にも受け継がれていった。

そして、新設大学としては、異例なほど、一流企業への内定が多く、最終的には、就職率は100%を達成した。

皆が創立者の自覚で、勇敢に、開拓の道を歩んでいったのである。そこに各企業も、やがて高い評価を寄せるようになっていくのである。

太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

リーダーの使命

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 242P~ 

伸一の激闘は、盆踊り大会の後も続いた。


「役員として奮闘してくれた諸君とお会いしたい」と大学の屋上で月見の宴をもった。連日、命を削るようにして、学生たちを激励し続ける姿を目にしてきただけに、周囲の教職員たちは、驚きを隠せなかった。

教職員の心を感じて、伸一は言った。
「牧口先生も戸田先生も教育者だった。21世紀の先駆を切る、この創大生の姿をご覧になったら、どんなに喜ばれることだろう。教育者は、学生を守り育てることに命をかけるものだ。私も、そのために激闘しています。学生が成長するのなら、倒れても本望じゃないか。この決心で、体当たりの教育をするべきです。」


「責任者、リーダーというのは、人の苦労を背負う人のことです。そういう決意、哲学を持った指導者が出なければ、本当に人びとに尽し、社会を変えていくことなどできない。今の世の中は、多くの指導者が、みんなエゴではないですか。平和のため、民衆のために、私は、立ちます。諸君も、厳然と、21世紀の勇者として立ってください。皆、創立者の期待を感じた。学生たちの胸は熱くなった。

「使命」は「命を使う」とも読める。わが身を削る思いで行動せずして、尊き使命を果たし抜き、歴史をつくることなどできようはずがない。彼の胸には常に、「命限り有り惜む可からず」との御聖訓が響いていた。

夏休み中創価大学では、「夏季大学講座」が開講された。中央体育館では、山本伸一による「文学と仏教」と題する記念講演が行われたのである。

彼が、大学の要請を快諾し、夏季大学講座で講演をしたのは、大学は市民と遊離した"象牙の塔"であってはならないとの、強い思いをいだいていたからである。市民と一体になった創価大学の伝統をつくるために、彼は勇んで原稿を書き、市民のなかに飛び込んでいったのだ。

1973年(昭和48年)の秋、創価大学の一期生から"難関の双璧"といわれる司法試験と公認会計士試験に、それぞれ一人ずつ合格者が出た。
林田芳也と前野清行は中部と関西の出身で、アルバイトに追われ、苦学しながら、合格最短距離の現役3年生で難関を突破したのだ。

しかも、前野清行は、公認会計士試験(受験者数4894人) 合格者331人のなかで最年少であった。この二人の合格は、皆に大きな自信を与え、励みとなった。各種の国家試験に合格したメンバーは、試験に挑戦する後輩の勉強をはじめ、生活上のことまでよく面倒をみてくれた。やがて、それが大学のよき伝統なっていった。

自分の経験を伝え、共有してこそ、後輩は育っていく。先輩にその努力がなければ、人材育成の流れは開かれない。人材は、見つけ、育て、訓練しなければ、本当の人材とはならないのだ。

三度目の「創大祭」の前日夕刻、山本伸一は、創価大学を訪問し、展示の設営作業に追われる学生たちと作業を手伝い始めた。

人の苦労を知ってこそ、人の心を知ることができる。そこから人間の触発が始まる。彼は、この日、構内を回って、作業に精を出す学生たちを励まし続け、大学に一泊した。翌日も、朝からフル回転であった。

伸一は、開学三年目を迎えた創価大学の教育の成果を見てもらおうと、各企業の代表や報道関係者ら約700人を「創大祭」に招待して祝賀会を開催した。

彼は、来賓のなかに飛び込むように、一人ひとりに声をかけ、名刺を交換し、丁重にあいさつを交わしていった。名刺を交換するたびに「来年は、一期生の就職活動が始まります。初めてのことですので、ご指導、ご尽力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。」と深々と頭を下げた。

彼は必死であった。"あえて、苦労を承知で、私の創立した新設校の創価大学に来てくれたのだ。だから自分が直接、各企業の代表と会い、誠心誠意、創大生のことをお願いしよう。それが創立者である私の義務だ"伸一は、そう深く心に決めていたのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

三期創価大学入学式

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 224P~ 

1973年(昭和48年)開学三年目にあたる年を、創大生たちは「真の開学年」と位置づけ、新出発の年にしようと、心を新たにしていた。「創立者を入学式に」という学生の声は、次第に大きなものになっていった。入学式への招請が学生の総意であることを聞くと、出席を決断せざるをえなかった。さらに、その折には、創価大学論ともいうべき講演も行うことを約束したのである。

自治会では、"学生参加"の原則をあらゆる面で実現していくために、入学式の運営にも、学生が積極的に参加していくべきであるとの結論に達し、学生によって、入学式実行委員会を発足させたのである。

学生たちは、自分たちの手で、後輩となる三期生を迎えるのだと、案内係や整理役員なども、積極的に担当した。

伸一は、入学式の開始前に、教室で教員たちと会った。"自分は、いつも学生と接することはできない。当然、学生の教育は、全面的に教員の方々にお願いするしかない"

教育の原点は教師である。その人格こそが、教育という価値創造の根源である。ゆえに教師こそ、最大の教育環境となる。だから、伸一は、まるで愛するわが子を託すかのように、一人ひとりの教育に、丁重に頭を下げて頼んだ。「学生たちを、くれぐれもよろしくお願いいたします」


演台を前に立った山本伸一は、新入生を祝福するとともに、これまでの二年間、労苦をいとわず、大学建設に取り組んできた教職員、学生に、心から感謝の意を表した。それから、力を込めて語っていった。

「言うまでもなく、創価大学は、皆さんの大学であります。同時にそれは、社会から隔離された"象牙の塔"ではなく、新しい歴史を開く、限りない未来性をはらんだ、人類の希望の搭でなくてはならない。ここに立脚して、人類のために、社会の人びとのために、無名の庶民の幸福のために、何をすべきか、何をすることができるのかーーという、この一点に対する思索、努力だけは、永久に忘れてはならないということを、申し残させていただきます」それこそが、創価大学開学の意義であった。

続いて彼は、歴史を振り返りながら、大学が社会に、いかに大きな影響を与えるかを論じた。彼はそこから、学問の役割は、「歴史に進路を示し、かつ、切り開いていく」ところにあるとし、この大学本来の使命を果たしていくために、「創造的人間であれ!」と訴えたのである。

創価大学の、崇高な使命を痛感させる講演であった。その使命を果たしゆかんとする創立者の、烈々たる気概があふれる講演であった。

講演を聴いた教員たちの衝撃は大きかった。人類の歴史という大きな視点で学問と大学をとらえ、その使命を明らかにし、学生の自覚を促す講演に、驚きを隠せなかったのである。

開学三年目に入った6月半ば、山本伸一は大学の要請を受け、初めて授業を参観した。

強い要請があり、第二回「滝山祭」で、記念講演を行った。テーマは「スコラ哲学と現代文明」であった。伸一は、講演で、「スコラ哲学」は中世暗黒時代の象徴などではなく、むしろ近世、近代の出発点であると、とらえ直したのだ。

新しい次の時代の開幕のために、新しい大学、新しい哲学の興隆が、今こそ必要であることを訴えた。
創価大学の使命を明らかにし、学生たちに時代を建設する深い自覚を促す、歴史的な講演となったのである。

滝山祭2日目も、山本伸一は、学生たちとともに過ごし、30度を超す厳しい暑さであったが、寮生から贈られた麦わら帽子を被り、模擬店を回って、学生と次々と言葉を交わしていった。3日目にもキャンパスに戻り、学生の激励に汗を流した。前日、猛暑のなかを動き回った伸一の疲労は激しかった。しかし、彼は、"私の体は、どうなろうが、徹底して学生を励まし抜く!"と言い聞かせていた。

納涼盆踊り大会にも、浴衣を着て姿を現し、新たに、7項目の指針を示したスピーチのあと、やぐらの上で盆踊りを踊り、太鼓のバチを手にし、手の皮がむけても太鼓をたたき続けた。少しでも、皆に励ましを送りたかった。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

創価大学学生歌 完成

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 207P~ 

学費審査委員会の最終答申は、創価大学は経常費の欠損額(赤字)が年々増大し、借入金が膨らみ、経営は至って困難な状況であることを指摘。学費値上げの必要性を述べていた。また、答申を受けて、クラス・ゼミ討論、全学討論集会などが行われ、全学生が参加して、活発に意見交換がなされていたのである。

"学生参加"の原則とは、学生自らが、大学運営の主体者としての自覚に立ち、責任をもとうとすることから始まる。学生がその自覚に立たず、無関心、無責任な傍観者である限り、本来、学生の自治などありえない。創大生たちは、大学を担い立つ責任を、厳しく自らに問いつつ、討議を重ねていった。

学生が学費値上げを主導するという、この異例の事態に着目し、いち早く、ニュースとして取り上げた新聞もあった。

再び臨時学生大会が行われ、その大多数をもって、昭和51年度(1976年)の学費改定が可決承認されたのだ。同時に、学費値上げによって、経済的に大変な学生を支援するために、奨学金の拡充、短期貸付金制度の開設、緊急貸付基金の設置、福利厚生の設置も決議されたである。

学費問題に取り組んできた中央執行委員長の柾谷正道があいさつに立った。学費問題は、彼の入学以前から大テーマであった。それが今、遂に決着を見たのだ。

「学費問題は、学生自治運動の歴史に、大学運営における"学生参加"の実現をもって、不滅の金字塔を築きました。しかし、この戦いは、決して、終止符をうったのではありません。未来に陸続と集いくるであろう後輩のため、さらに盤石なる礎を築くとともに、理想的学園共同体の構築に向け、勇んで挑戦を開始しようではありませんか!」それは、大学という学園共同体の、新たなる歴史の開幕であった。

第二回「創大祭」がおこなわれることになっていたが、そこで、全学生の心を鼓舞し、一つに結ぶような学生歌をつくろうと、学生歌作成委員会が発足した。「滝山祭」で寮歌を披露した時、山本伸一から、"心に響かない"と厳しい指摘を受けていたことから、創立者をうならせるような学生歌をつくろうと、意気込んでいた。

「歌詞を大募集」し、法学部2年生の「沖洋」の歌詞が採用される。沖は、創価大学を支えてくれている、数多くの人たちの 恩に報いることができればと学生歌の募集に応募したのだ。沖洋は、創価学園出身で学園の寮歌「草木は萌ゆる」の「英知をみがくは、何のため」の歌を口ずさみ、自身に「何のため」かを問いながら、青春の道を歩んできたのだ。

「創大祭」前日になっても、納得のいく歌はでき上がらなかったが、最高の作品を残そうと完成したのは、当日の朝、4時過ぎであった。

合唱団は「創大祭」の準備に携わっていなかった国家試験の受験生が担当した。「創大祭」当日、中央体育館で行われた記念フェスティバルで 山本伸一に披露された。すばらしい歌が誕生したと伸一は思った。「いい歌だね。感動した」と話したあと、少し歌詞を手直しした。その個所は、最後まで悩み、迷いがある部分であった。学生と伸一の共同作業で「創価大学学生歌」の完成をみたのである。

一、 紅群れ咲く つつじの丘を
   白蝶あそこに 喜び舞いて
    ・
    ・
   凛々しくそびゆる 白亜の学舎
   筆とる心に 秘めたる思い
   誰がために 人間の道 学ぶかな

この日、伸一は、約40分間にわたってスピーチしたが、そのなかで、人生に平坦な道はなく、「苦難を乗り越えることが、人間教育の原点であることを語った。

そして、一期生、二期生の使命に言及し、「創価大学の創立者たれ!」と訴えたのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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