『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 266P~
国境を超えて、人類の幸福と平和のために貢献できる人材を創価大学で育てたいーーそれが、山本伸一の念願であった。
一期生に、経済学部で学ぶ金敏江という在日韓国人の女子学生がいた。朝鮮民族が日本人から受けた、韓国併合以来の非道な歴史を知り、怒りに燃え、その憤慨は、いつしか日本人への嫌悪感となり、憎しみともなった。
彼女は重度の結核にかかり、治療のために入院する。そこで仏法の話を聞き入会し、唱題に励むと、医師が驚くほど、病状は回復していった。
金は、山本先生が創立した創価大学で学びたいと受験し、一期生となった。創立者と接し、生き方を学ぶにつれ、伸一への尊敬の念が深まり、”生涯の師に巡り合えた”と思った。しかし、それとともに、このまま日本の大学に同化していくことは、韓国人への背信行為ではないかと悩んだ。
その悩みを職員から聞いた伸一は、彼女と懇談する機会をもち、彼女に声をかけた。「人間が人間であるという視点に立つならば、どこの国籍であるとか、民族だとか、そんなことは問題ではありません。ちっぽけなことです。あなたは、一人の人間として、自由に伸び伸びと頑張ってください。見守っています」
伸一の話に、彼女は、胸に立ち込めていた靄のような思いが、スーッと晴れていくような気がした。伸一は、さらに語らいを続け、写真の裏に「元来、人間には国境なぞなかった。・・・ゆえに、私共は、国境の奥の次元の人間連帯に到達し、生きゆくことを忘れまい」と記して彼女に贈った。
彼女は魂を揺さぶられた。そして、”創大生であることこそが、私の原点だ。ここが、私の人間としての目覚めの大地だ。山本先生のこの励ましに、自分の生き方をもって応えていこう!”
彼女は、卒業の年に税理士の資格を取得し、晴れて早大出身の税理士第一号となったのである。また、女性平和運動のリーダーとしても、活躍していくことになる。
創価大学には、海外からの留学生も集うようになっていた。1973年(昭和48年)には、香港出身の二人の学生が入学した。そのうちの一人が、山本伸一が63年の1月に香港を訪問した折に、励ました周志英であった。香港から帰国する伸一を見送りにきた9歳の志英に伸一は、日本にくるよう話したのだ。
志英は、医学の道をめざしていたが、創価大学が開学すると医学部はなかったが、山本伸一をもとめて、日本行きを決意した。日本語の勉強をし、経済学部に合格した。もう一人の鄭芳芳という女性も合格した。
翌年伸一が、香港大学や香港中文大学を公式訪問する時、二人を香港に連れて行った。家族に会わせてあげたいとの伸一の配慮だった。二人には、通訳の手伝いをしてもらおうと思った。語学は、実践の場数を踏み、体験を積み重ねてこそ、本当の実力が身につくからだ。
伸一は、周に中国語の通訳もしてほしいと話す。広東語と北京語は、全く違うとわかっていたが、あえて、目標を持ってほしかったからだ。
周は猛勉強し、創大の中国語弁論大会で「特別賞」を受賞した。しかし、その翌月、父親が心臓病で急逝してしまった。以来、周は昼夜アルバイトしながらも北京語を学んび、さらに、貯金して、大学院に進む。周は、1978年の伸一の第4次訪中に、遂に北京語の通訳として同行することになる。
中国の国家を代表するような指導者の通訳としては、まだ経験不足であったが、彼により早く、真剣勝負の舞台に立たせたかったのである。その後周は、研鑽を重ね名通訳となり念願の世界平和に貢献していく。さらに、SGIの公認通訳の中心となり、多くの後輩を育んでいったのである。
国境を超えて、人類の幸福と平和のために貢献できる人材を創価大学で育てたいーーそれが、山本伸一の念願であった。
一期生に、経済学部で学ぶ金敏江という在日韓国人の女子学生がいた。朝鮮民族が日本人から受けた、韓国併合以来の非道な歴史を知り、怒りに燃え、その憤慨は、いつしか日本人への嫌悪感となり、憎しみともなった。
彼女は重度の結核にかかり、治療のために入院する。そこで仏法の話を聞き入会し、唱題に励むと、医師が驚くほど、病状は回復していった。
金は、山本先生が創立した創価大学で学びたいと受験し、一期生となった。創立者と接し、生き方を学ぶにつれ、伸一への尊敬の念が深まり、”生涯の師に巡り合えた”と思った。しかし、それとともに、このまま日本の大学に同化していくことは、韓国人への背信行為ではないかと悩んだ。
その悩みを職員から聞いた伸一は、彼女と懇談する機会をもち、彼女に声をかけた。「人間が人間であるという視点に立つならば、どこの国籍であるとか、民族だとか、そんなことは問題ではありません。ちっぽけなことです。あなたは、一人の人間として、自由に伸び伸びと頑張ってください。見守っています」
伸一の話に、彼女は、胸に立ち込めていた靄のような思いが、スーッと晴れていくような気がした。伸一は、さらに語らいを続け、写真の裏に「元来、人間には国境なぞなかった。・・・ゆえに、私共は、国境の奥の次元の人間連帯に到達し、生きゆくことを忘れまい」と記して彼女に贈った。
彼女は魂を揺さぶられた。そして、”創大生であることこそが、私の原点だ。ここが、私の人間としての目覚めの大地だ。山本先生のこの励ましに、自分の生き方をもって応えていこう!”
彼女は、卒業の年に税理士の資格を取得し、晴れて早大出身の税理士第一号となったのである。また、女性平和運動のリーダーとしても、活躍していくことになる。
創価大学には、海外からの留学生も集うようになっていた。1973年(昭和48年)には、香港出身の二人の学生が入学した。そのうちの一人が、山本伸一が63年の1月に香港を訪問した折に、励ました周志英であった。香港から帰国する伸一を見送りにきた9歳の志英に伸一は、日本にくるよう話したのだ。
志英は、医学の道をめざしていたが、創価大学が開学すると医学部はなかったが、山本伸一をもとめて、日本行きを決意した。日本語の勉強をし、経済学部に合格した。もう一人の鄭芳芳という女性も合格した。
翌年伸一が、香港大学や香港中文大学を公式訪問する時、二人を香港に連れて行った。家族に会わせてあげたいとの伸一の配慮だった。二人には、通訳の手伝いをしてもらおうと思った。語学は、実践の場数を踏み、体験を積み重ねてこそ、本当の実力が身につくからだ。
伸一は、周に中国語の通訳もしてほしいと話す。広東語と北京語は、全く違うとわかっていたが、あえて、目標を持ってほしかったからだ。
周は猛勉強し、創大の中国語弁論大会で「特別賞」を受賞した。しかし、その翌月、父親が心臓病で急逝してしまった。以来、周は昼夜アルバイトしながらも北京語を学んび、さらに、貯金して、大学院に進む。周は、1978年の伸一の第4次訪中に、遂に北京語の通訳として同行することになる。
中国の国家を代表するような指導者の通訳としては、まだ経験不足であったが、彼により早く、真剣勝負の舞台に立たせたかったのである。その後周は、研鑽を重ね名通訳となり念願の世界平和に貢献していく。さらに、SGIの公認通訳の中心となり、多くの後輩を育んでいったのである。
太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋