小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

March 2020

真を写すのが 写真

『新・人間革命』第15巻 開花の章 319P~ 

山本伸一の写真に、ことのほか関心を寄せる写真家の一人が、後に日本写真家協会の会長となる三木淳であった。彼が学会と関りをもったのは1961年(昭和36年)ごろのことであった。

学会に入会した友人から、雑誌の編集をしている学会の幹部を紹介され、三木が撮影した写真を使わせてもらいたいとの訪問からだった。三木は、「学会は、人の仏壇までも焼いてしまう暴力的な宗教だ」などといったうわさを耳にしていた。

だが学会員の編集者と接するうちに、学会員はおよそ「暴力的」とは異なり、勤勉で礼儀正しいことに驚いた。”これが、創価学会員なのか。噂話とは、全く違うではないか・・・。”彼は、「真を写す」べき写真家として、学会の真実を見極めようと思ったようだ。


そうしたなかで、聖教新聞社の写真部から、写真技術の指導を依頼された。彼は快諾し、指導に通うようになった。そして、伸一とも交流が始まったのである。三木は、山本伸一という人間に、強い興味をいだいたようだ。三木のカメラは、伸一を追い始めた。

彼は、学会のさまざまな会合に出たり、地方指導に同行することもあった。なかでも三木が深い感動を覚えたのは、伸一が全国各地で、第一線の幹部と行っていた、記念撮影であったという。

透徹した写真家の眼には、偽善か真心か、保身か献身かを、鋭く見抜く力がある。体当たりするかのように、会員のなかに入り、励ましを送り続ける伸一の姿に、三木は、慈悲という仏法の精神を見る思いがしたという。

また、三木は、その記念撮影が、会員にとってどれほど大きな喜びとなり、励みになっているかを知った。彼は写真のもつ力の大きさを、経験をして通して、よく知っていた。だが、一枚の写真が、これほど多くの人びとの人生を大きく変えていく姿を目の当たりにしたことはなかった。

彼は、伸一の写真を撮ることに、ますます情熱を燃やした。三木は、伸一の写真を撮る理由を「民衆の指導者は”かくあれ”という姿を、映像で後世に残したいからです」と語っていたが、伸一は、過分な言葉だと恐縮しつつ、さらに頑張らねばと、決意するのであった。

三木は、創価学会にカメラを向け続けるなかで、その真実を知り、学会の深き理解者となり、共感者になっていった。

「学会員は組織に操られている」などという、偏見に満ちた的外れな批判を耳にすると、厳しい口調で言った。「君は人間をみくびっていますね。強力な国家権力ならともかく、組織の力なんかで、人間は動きませんよ。給料を払っている企業でも、人間を思い通りに動かすことなんか、できないではないですか。」自ら真実を見極めもせぬ、軽率な発言を、彼は許せなかったのだ。

三木が数年間にわたって撮影し続けた、『写真 創価学会』が、1968年3月発刊された。

三木は伸一が本格的に写真を撮り始めたことが嬉しくてならなかった。三木は、伸一の写真を”てらいや気負いが感じられない、全くの自然体で天衣無縫な写真”であると思った。伸一の「無限大の心の広さ」と自然の大法則を感じたのである。

80年代 オートフォーカスカメラが開発され、伸一もこのタイプのカメラを使い始めた。このカメラだと、ファインダーをのぞき、ピントを確認する必要がなくなり、胸の前でカメラを構える、ノーファインダーの撮り方に変えていった。四角く区切られた世界ではなく、広々とした風景を視界に収めながらシャッターを押すと、自然と対話している実感が深まった。それが作風に、ますます自在な広がりを生んでいった。

写真撮影を始めておよそ10年後、伸一の写真展を開催が請われ、「平和と文化を写す」と題して、写真展が開催された。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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生命の神秘を写す写真撮影

『新・人間革命』第15巻 開花の章 308P~ 

牧口の胸像の除幕式が行われた2日後の6月8日には、伸一は北海道に飛んでいた。彼は札幌の勤行会に出席し、9日には大沼に舞台を移した。大沼研修所の開所式に出席するためであった。研修所は、美しい新緑に埋まる、大沼湖畔にあった。

車で、研修所の周囲も視察する伸一。東の空から、大きな丸い月が輝いていた。伸一は、車を止め、窓を開けると、シャッターを切った。”今だ!この瞬間しかない!”

彼は、「一瞬」の大切さというものを、身に染みて感じてきた。広宣流布を進めるうえでも、生きるうえでも、その瞬間、瞬間になすべき”勝負”が必ずある。

人生と言っても、瞬間の連続である。ゆえに、「今」を勝つことが、完勝へとつながっていくのだ。御聖訓には、「命巳に一念にすぎざれば・・・」と仰せである。命は永遠だが、あるのは過去でも、未来でもなく、今の一念(一瞬の心)にすぎないーーと洞察されている。

人生の時間は限られている。「一瞬」を疎かにすることは、生命を軽んじていることに等しい。伸一は、月に向かい、夢中でシャッターを切り続けた。

後続車に乗っていた、聖教新聞の若いカメラマンが走り寄ってきて手振れをしない取り方をアドバイスしてくれた。伸一は素直に従った。

この写真が上手に撮れていたら、同志に贈りたいと思った。日夜、人びとの幸福のため、社会のために献身する同志たちと、大自然がもたらした束の間の美の感動を分かち合い、励ましを送りたかったのである。

写真で、大自然の美をとらえ、生命の賛歌を表現したいと考え、自分のテーマとしたのである。

仏法は、人間のみならず、あらゆる生き物に、いや、路傍の小石にも、一枚の草の葉にも、生命を見いだす思想である。その一つ一つの姿のなかに、宇宙の神秘と生命の妙なる法則がある。

伸一は、それらを写し取り、自然のもつ美を、生き抜く勇気を、無限の希望を、人びとに伝えたかった。そこに人間文化の光があると、彼は確信していたのである。

写真には、人びとの心の城門を大きく開き、大宇宙と交流させていく力があるというのが、伸一の確信であった。

伸一は、カメラによって、自然の美に触れ、宇宙と生命の神秘に迫ろうとしていた。彼は、これまで、多くの詩を書き、和歌や句を詠んできたが、その創作の源泉となっていたのは、友への励ましの一念であった。彼をカメラに向かわせる力となったのも、写真をもって、人間文化の旗手である同志を励まし、讃え、勇気づけたいとの、強い思いであった。


伸一は、あの時、輝く月という現象世界の奥にある、宇宙の神秘に眼を凝らしていた。心のレンズに映っていたのは、悠久なる大宇宙であった。この月の写真を代表に贈った。そして、撮影した時の思いを、率直に語っていったのである。

「”日夜、戦っている、学会員の皆様が、この月の光に照らされ、英知輝く人になってほしい。名月天子よ、わが友と見守ってくれ”との願いを込めてシャッターを切りました」青年たちは、その写真に、月光のような自分たちを包む、伸一の心を見る思いがした。

伸一にとって、月には特別な意味があった。師の戸田城聖は、アジアの人びとが求めてやまぬ幸福を月にたとえたのである。伸一は、月を見ると、戸田の雄姿が思い起こされてならなかった。

1973年(昭和48年)1月、伸一が各地で撮った月の写真のなかから16点を選び、『写真集・月
』が発刊された。非売品であったが、これが彼の最初の写真集となったのである。

ありのままの姿を写し取るなかで、仏法の『本有無作』の自然観、生命観を表現したいというのが、伸一の素朴な願望であった。それが、結果的に、日常の風景の延長にある親しみやすさを感じさせる、彼の作風となっていたのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

先師牧口常三郎生誕100年

『新・人間革命』第15巻 開花の章 300P~ 

<開花の章 開始>

1971年(昭和46年)6月6日は、先師牧口常三郎の生誕百年にあたり、牧口の胸像の除幕式が、東京・信濃町の聖教新聞社で行われた。

誤った思想、宗教は人間を不幸にする。正法に目覚め、大善生活を送れーーというのが、牧口の叫びであった。正義によって立つ彼の批判は、国家神道にも、容赦なく向けられた。

しかし、思想統制を行い、国家神道を精神の支柱にして戦争を遂行する軍部権力が、それを許すはずがなかった。会長の牧口常三郎、理事長の戸田城聖が拘束され、最終的には、逮捕者は幹部21人に上ったのである。

だが、牧口は屈しなかった。拘置所の係官は何度も牧口に、病監に移るように進めたが、彼は辞退し続けた。しかし、自ら病監に移ることを申し出た翌日11月18日息を引き取った。

牧口常三郎が推進した創価教育学会の運動は、日蓮仏法をもって、人びとの実生活上に最大価値を創造し、民衆の幸福と社会の繁栄を築き上げることを目的としていた。

自分が法の利益を受けるために修行に励むだけでなく、他人に利益を受けさせるために教化、化導していく「自行化他」が、日蓮仏法の修行となる。

そしてまた、日蓮仏法は「立正安国の宗教」である。一次元からいえば、「立正」という正法の流布が、仏法者の宗教的使命であるのに対して、「安国」は、仏法者の社会的使命であるといってよい。

ところが、日本の仏教は、寺にこもり、世の安穏や死後の世界の安楽を願って、経などを読むことでよしとしてきた。社会の建設を忘れた宗教は、現実逃避であり、無力な観念の教えにすぎない。大聖人は、そうした仏教の在り方を打ち破る、宗教革命を断行されたのである。

創価教育学会は、最盛期といえども、会員は三千人ほどの小さな団体にすぎなかった。だが、小さくとも、正義の教団であった。唯々諾々と軍部政府に従う、権力に骨抜きにされた宗教ではなかった。

ここに邪宗門と化す宗門との根本的な違いがあった。権力は民衆を支配し、隷属させ、意のままに操ろうとする”魔性”をもつ。それゆえに、獰猛な弾圧の牙を剥き、学会に襲いかかったのだ。

戦後、時代は、軍国主義から民主主義へと変わった。学会は、民衆のスクラムを広げ、「立正安国」の実現のために、文化・社会の建設に着手した。政治を民衆の手に取り戻すために、政治の変革にも取り組んでいったのである。

そこに、国家権力をはじめ、既得権益をむさぼり、権力の“魔性”の毒に侵された諸勢力は、強い怖れと危機感をいだいた。そして学会への攻撃、迫害が繰り返されたのである。

地域で、権勢をふるう有力者らの画策による村八分。既成宗派の寺院が、学会員の遺骨の埋葬を拒否した墓地問題。北海道の夕張炭鉱で、「天下の炭労」と言われた炭労労働組合が、学会員を締め出そうとした夕張炭労事件。山本伸一が選挙違反という無実の容疑で不当逮捕された大阪事件・・・。

さらに、教団の名誉を棄損する虚偽の報道など、マスコミによる誹謗中傷も繰り返されてきたのである。伸一が第三代会長に就任してからは、攻撃の的は、会員の団結の要である彼に絞られていった。しかも、その弾圧の手口は、次第に、巧妙、狡猾になっていったのだ。

学会に偏見と嫉妬をいだく評論家や学者などを使って、非難の集中砲火を浴びせ、学会排斥の世論をつくろうと躍起になる、新聞や週刊誌も少なくなかった。

国会で議員が、事実無根の話を織り交ぜ、学会を激しく中傷し、会長の伸一を証人喚問せよと騒ぐ、卑劣極まりない宗教弾圧の暴挙も、何度となく繰り返された。

権力の“魔性”といっても、それは権力を手中に収めた人間の生命に宿る"魔性"である。
ゆえに、創価学会が「広宣流布」と「立正安国」の使命を果たし抜くためには、権力の弾圧、迫害と永遠に戦い、勝ち越えていく以外にない。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

教育の道は 永遠なる開拓

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 292P~ 

創価大学からも 多くの学生が、交換留学生として世界の各大学に留学していった。創大生たちは、自分たちが、パイオニアなのだとの自覚で、猛勉強を重ね、培った語学力などを生かし、平和の懸け橋となっていった人も少なくない。

モスクワ大学への最初の交換留学生となった斉木いく子は、ロシア語の通訳として、活躍するようになる。彼女は、卒業後、ソ連の男性と結ばれるが、当時のソ連は自由主義国の国民との結婚には厳しく、幾つもの困難があった。

彼女は、ロシア語の通訳として、次第に頭角を現していったが、数年後、突然夫が他界した。二人の幼子を連れて、夫の故郷に遺骨を埋葬に行ったとき、創立者の山本伸一から、電報が届く。

彼女の心に、一筋の光が走った。”そうだ。すべてに意味があるのだ。私の人生は決して終わりではない。これから始まるのだ。負けるわけにはいかない”斉木は苦しむ人のため、平和のために役立ちたいと、一段と強く心に決め、そして日本屈指のロシア語通訳となっていった。

創大生には、海外の大学院に留学し、博士号を取得したメンバーも多い。一期生の矢吹は、アメリカの大学院で、博士号を取得し、後年、創価大学で教鞭をとり、さらに、オレンジ郡キャンパスの初代学長となった。

創価大学は、最も世界に開かれた大学といってよい。各国の大学の学長や総長はもとより、世界の指導者や学識者の来学も後を絶たない。

ゴルバチョフ元ソ連大統領、キッシンジャー元米国務長官、ローマクラブのホフライトネル会長、平和学者のガルトゥング博士などもキャンパスを訪問、賛辞を寄せている。

年ごとに、学部や学科なども拡充されていった。1975年(昭和51年)には、大学院を開設。翌年には、経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科が設けられた。この年には、念願であった通信教育部が開設され、年齢、居住地等に関係なく、学びの場、生涯学習の道が開かれたのである。


85年には、創価女子短期大学が開学。88年には、文学部に人文学科、90年に日本語日本文学科と外国語学科、91年には工学部がスタート。2004年には、司法制度改革に呼応し、新たな法曹養成のための法科大学院が開学。

アメリカにあっては、87年に創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープン。その後アメリカ創価大学(SUA)へと発展し、94年には大学院を開学。2001年には、オレンジ郡キャンパスがオープンし、アメリカ創価大学はリベラルアーツ・カレッジ(教養大学)として、船出した。

教育の道は、永遠なる開拓である。この世に不幸がある限り、教育開拓のクワを振るう手を絶対に休めてはならない。不幸の克服こそ教育の真実の目的であり、使命であるからだ。

人間の一生は、あまりにも短い。その人間が未来のためになせる最も尊い作業は、次代を創造する人を育て、人を残すことである。

山本伸一は、国家や民族、イデオロギーの枠を超え、世界市民として人類益のために立ち上がる、新しき平和のリーダーをつくらねばならぬと思ってきた。

また、民衆一人ひとりの幸福を願い、民衆に奉仕ゆく、人間主義のリーダーを育成しなければならぬと決意してきた。それゆえに彼は、学校建設に踏み切ったのだ。

創大出身者がどうなるか。創価大学がどうなっていくかーーそれこそが自身の人生の総決算であると、彼は考えていた。教育という大樹は、一朝一夕には育たない。長い歳月を必要とする。

彼は、創大生の成長を祈り念じ、30年、50年、百年先を思い描きながら、走りに走った。

大学開学以来、既に30余年が過ぎた。女子短大、通信教育を含め、6万人近い創大生が社会に巣立っていった。(2005年現在)

伸一が手塩にかけ、命を削る思いで育んだ人材の樹木は今、しっかりと根を張り、青々と葉を茂らせたのだ。

”伸びよ、伸びよ、創価の大樹よ!永遠なれ、わが創価大学よ!私は、命の尽きる時まで、創大生のために、断じて道を開き続ける!教育の勝利こそ、人間の勝利であるからだ” 

<創価大学の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

世界の大学との学術・教育交流

『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 278P~ 

創価大学には、最優秀の留学生が世界中から集っている。山本伸一は、創価大学が”人類の平和を守るフォートレス”の使命を果たしていくには、国際交流が大切であると痛感していた。

彼は、自らその道を開こうと、1972年(昭和47年)には、イギリスのケンブリッジ大学、オックスフォード大学を訪問し、大学の要職者と意見交換、翌年にはフランスのパリ大学、イギリスのサセックス大学で、大学首脳や学生との懇談、75年には、香港中文大学と学術交流の覚書を交換し、創価大学にとって、最初の交流協定をおこなった。

アメリカ、ニューオーリンズ大学、パナマ大学、ペルーのサンマルコス大学などを訪問。カリフォルニア大学では、初の記念講演を行っている。その後、ハーバード大学、モスクワ大学など世界各国の大学・学術機関で講演を行っている。

伸一は、社会主義国の大学にも精力的に足を運び、中国の北京大学、ソ連のモスクワ大学、レニングラード大学を訪問した。

4度目の「創大祭」の折、山本伸一に第一号の「名誉教授」の授与が検討されたが、伸一は、辞退した。しかし学長らは、「やがて、世界の大学から名誉称号が贈られるようになることは間違いない。わが大学が最初にお贈りできなかったら、後世永遠に汚点を残すことになる」との再三の要請に、伸一はやむなく了解した。

伸一は、第一回卒業式が迫ると、一期生へのせめてもの励ましとして、自分の蔵書から選んだ本を代表に贈り、学生の名前を記し、その脇に自分の名前を書いていった。

卒業式には、なんとしても出席して、建学の4年間の労に報いようと、心に決めていた。”創価大学に来てくれてありがとう。生涯、私とともに、道を開き続けてくれたまえ!自身の栄光のために、後輩たちのために、決して負けるな!”

卒業式の最後に、創立者の山本伸一があいさつに立った。「私の信ずる仏法には『霊山一会儼然として未だ散らず』との心で生き抜くことを、この席において盟約してはどうかと、ご提案申し上げたいと思いますが、いかがでありましょうか!」皆が大拍手で応えた。

伸一の提案は、皆の思いを代弁するものであったといってよい。

また、人生の成功のカギとして、金銭問題には断じて正義感を崩さず、異性の問題には慎重に、懸命に臨み、職場の人事問題で悩むことがあっても、「人生修行」と受け止めていくことが大事であると訴えたのである。

そして、こう話を結んだのである。「学ぶのは、充電であり、それを役立ていくのは発電であります。一生、この充電、発電を絶やさずに繰り返していけるようになったならば、その人は必ず人間の勝利者になっていくでありましょう」

”大学の真価は卒業生で決まる。君たちの前途には、烈風の日々もあろう。暗雲に包まれる時もあるだろう。しかし、創大生なら断じて勝て!”伸一は、心で、そう呼びかけながら、皆を抱きしめる思いで、握手を交わしていった。


一期生が卒業した、この1975年(昭和50年)の春、創価大学は、中国政府の派遣留学生を受け入れている。創価大学の国際交流が、本格的に開始されたのである。

創価大学との学術・教育交流は、その後、世界各地に広がっていった。76年(昭和51年)、創価大学は、留学生のために、別科日本語研修課程を開設した。

別科開設以来、別科に学んで留学生は約1900人(2005年現在)にのぼっている。そして、伸一の願い通り、国境を越えた友情の輪が、幾重にも結ばれていったのである。


太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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