『新・人間革命』第15巻 開花の章 319P~
山本伸一の写真に、ことのほか関心を寄せる写真家の一人が、後に日本写真家協会の会長となる三木淳であった。彼が学会と関りをもったのは1961年(昭和36年)ごろのことであった。
学会に入会した友人から、雑誌の編集をしている学会の幹部を紹介され、三木が撮影した写真を使わせてもらいたいとの訪問からだった。三木は、「学会は、人の仏壇までも焼いてしまう暴力的な宗教だ」などといったうわさを耳にしていた。
だが学会員の編集者と接するうちに、学会員はおよそ「暴力的」とは異なり、勤勉で礼儀正しいことに驚いた。”これが、創価学会員なのか。噂話とは、全く違うではないか・・・。”彼は、「真を写す」べき写真家として、学会の真実を見極めようと思ったようだ。
そうしたなかで、聖教新聞社の写真部から、写真技術の指導を依頼された。彼は快諾し、指導に通うようになった。そして、伸一とも交流が始まったのである。三木は、山本伸一という人間に、強い興味をいだいたようだ。三木のカメラは、伸一を追い始めた。
彼は、学会のさまざまな会合に出たり、地方指導に同行することもあった。なかでも三木が深い感動を覚えたのは、伸一が全国各地で、第一線の幹部と行っていた、記念撮影であったという。
透徹した写真家の眼には、偽善か真心か、保身か献身かを、鋭く見抜く力がある。体当たりするかのように、会員のなかに入り、励ましを送り続ける伸一の姿に、三木は、慈悲という仏法の精神を見る思いがしたという。
また、三木は、その記念撮影が、会員にとってどれほど大きな喜びとなり、励みになっているかを知った。彼は写真のもつ力の大きさを、経験をして通して、よく知っていた。だが、一枚の写真が、これほど多くの人びとの人生を大きく変えていく姿を目の当たりにしたことはなかった。
彼は、伸一の写真を撮ることに、ますます情熱を燃やした。三木は、伸一の写真を撮る理由を「民衆の指導者は”かくあれ”という姿を、映像で後世に残したいからです」と語っていたが、伸一は、過分な言葉だと恐縮しつつ、さらに頑張らねばと、決意するのであった。
三木は、創価学会にカメラを向け続けるなかで、その真実を知り、学会の深き理解者となり、共感者になっていった。
「学会員は組織に操られている」などという、偏見に満ちた的外れな批判を耳にすると、厳しい口調で言った。「君は人間をみくびっていますね。強力な国家権力ならともかく、組織の力なんかで、人間は動きませんよ。給料を払っている企業でも、人間を思い通りに動かすことなんか、できないではないですか。」自ら真実を見極めもせぬ、軽率な発言を、彼は許せなかったのだ。
三木が数年間にわたって撮影し続けた、『写真 創価学会』が、1968年3月発刊された。
三木は伸一が本格的に写真を撮り始めたことが嬉しくてならなかった。三木は、伸一の写真を”てらいや気負いが感じられない、全くの自然体で天衣無縫な写真”であると思った。伸一の「無限大の心の広さ」と自然の大法則を感じたのである。
80年代 オートフォーカスカメラが開発され、伸一もこのタイプのカメラを使い始めた。このカメラだと、ファインダーをのぞき、ピントを確認する必要がなくなり、胸の前でカメラを構える、ノーファインダーの撮り方に変えていった。四角く区切られた世界ではなく、広々とした風景を視界に収めながらシャッターを押すと、自然と対話している実感が深まった。それが作風に、ますます自在な広がりを生んでいった。
写真撮影を始めておよそ10年後、伸一の写真展を開催が請われ、「平和と文化を写す」と題して、写真展が開催された。
山本伸一の写真に、ことのほか関心を寄せる写真家の一人が、後に日本写真家協会の会長となる三木淳であった。彼が学会と関りをもったのは1961年(昭和36年)ごろのことであった。
学会に入会した友人から、雑誌の編集をしている学会の幹部を紹介され、三木が撮影した写真を使わせてもらいたいとの訪問からだった。三木は、「学会は、人の仏壇までも焼いてしまう暴力的な宗教だ」などといったうわさを耳にしていた。
だが学会員の編集者と接するうちに、学会員はおよそ「暴力的」とは異なり、勤勉で礼儀正しいことに驚いた。”これが、創価学会員なのか。噂話とは、全く違うではないか・・・。”彼は、「真を写す」べき写真家として、学会の真実を見極めようと思ったようだ。
そうしたなかで、聖教新聞社の写真部から、写真技術の指導を依頼された。彼は快諾し、指導に通うようになった。そして、伸一とも交流が始まったのである。三木は、山本伸一という人間に、強い興味をいだいたようだ。三木のカメラは、伸一を追い始めた。
彼は、学会のさまざまな会合に出たり、地方指導に同行することもあった。なかでも三木が深い感動を覚えたのは、伸一が全国各地で、第一線の幹部と行っていた、記念撮影であったという。
透徹した写真家の眼には、偽善か真心か、保身か献身かを、鋭く見抜く力がある。体当たりするかのように、会員のなかに入り、励ましを送り続ける伸一の姿に、三木は、慈悲という仏法の精神を見る思いがしたという。
また、三木は、その記念撮影が、会員にとってどれほど大きな喜びとなり、励みになっているかを知った。彼は写真のもつ力の大きさを、経験をして通して、よく知っていた。だが、一枚の写真が、これほど多くの人びとの人生を大きく変えていく姿を目の当たりにしたことはなかった。
彼は、伸一の写真を撮ることに、ますます情熱を燃やした。三木は、伸一の写真を撮る理由を「民衆の指導者は”かくあれ”という姿を、映像で後世に残したいからです」と語っていたが、伸一は、過分な言葉だと恐縮しつつ、さらに頑張らねばと、決意するのであった。
三木は、創価学会にカメラを向け続けるなかで、その真実を知り、学会の深き理解者となり、共感者になっていった。
「学会員は組織に操られている」などという、偏見に満ちた的外れな批判を耳にすると、厳しい口調で言った。「君は人間をみくびっていますね。強力な国家権力ならともかく、組織の力なんかで、人間は動きませんよ。給料を払っている企業でも、人間を思い通りに動かすことなんか、できないではないですか。」自ら真実を見極めもせぬ、軽率な発言を、彼は許せなかったのだ。
三木が数年間にわたって撮影し続けた、『写真 創価学会』が、1968年3月発刊された。
三木は伸一が本格的に写真を撮り始めたことが嬉しくてならなかった。三木は、伸一の写真を”てらいや気負いが感じられない、全くの自然体で天衣無縫な写真”であると思った。伸一の「無限大の心の広さ」と自然の大法則を感じたのである。
80年代 オートフォーカスカメラが開発され、伸一もこのタイプのカメラを使い始めた。このカメラだと、ファインダーをのぞき、ピントを確認する必要がなくなり、胸の前でカメラを構える、ノーファインダーの撮り方に変えていった。四角く区切られた世界ではなく、広々とした風景を視界に収めながらシャッターを押すと、自然と対話している実感が深まった。それが作風に、ますます自在な広がりを生んでいった。
写真撮影を始めておよそ10年後、伸一の写真展を開催が請われ、「平和と文化を写す」と題して、写真展が開催された。
太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋