小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

February 2020

渓流から大河への転換期

『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P282~

このころ、国会では衆院予算委員会で、社会、民社、共産の三党が言論・出版問題を取り上げ、証人喚問並びに調査特別委員会の設置を要求していた。

そして、検討した結果、各党の国対委員長会談に処理をゆだねることにしたが、会談からは共産党が外された。京都府知事戦をめぐって共産と民社の激しいいがみ合いが続いていたためである。結局、会談では、論議は、ほかの適当な委員会に移し、証人喚問についても話し合われたが、最終的に自民党は、これは「国会で取り上げる問題ではない」と判断した。

証人喚問は難しいとみた社会、民社両党は国対委員長会談を打ち切り、3月17日に、社会、民社、共産三党の議員たちは、藤沢達造をはじめ、学会と公明党によって言論・出版妨害を受けたとする著者や出版関係者らを呼び、会合を開く。

この集会から2日後、民社党は、政教分離の原則に違反する疑いがあるとして政府に質問主意書を提出するが、政府は、政教分離の原則は宗教法人の政治活動を排除しているわけではないと回答しているが、民社党は、再度、政治と宗教についての質問主意書を提出している。

一方、社会党は、参院予算委員会でも、言論・出版問題を取り上げていった。あらゆる手を使っての執拗な攻撃である。この機会に、なんとしても学会と公明党に大ダメージを与えたいと、血道をあげていたのだ。

山本伸一は、病床にありながらも、学会の未来、そして、日本と世界の未来について、試案をめぐらせていた。ようやく病状に好転の兆しが見え始めたのは、春三月に入ってからのことであった。彼が真っ先に行ったことは、日中友好の先達である松村謙三との会談であった。

4月2日、戸田城聖の13回忌大法要が厳粛に営まれた。山本伸一の体調は、まだ完全に回復したとは言えなかったが、大法要に出席した彼は、気迫にあふれていた。全国から集った参列者は、伸一の姿を見て、安堵に胸を撫でおろした。本部幹部会を除けば、山本会長の会合等へ出席は、2月はほとんどなく、3月も数回にすぎなかったことからである。

最後に伸一の話となった。伸一は、在りし日の戸田を偲び、遺徳を讃えたあと、師亡きあとの弟子たちの戦いの歩みを語っていった。「先生!広宣流布の流れは、遂に渓流より大河の流れとなりました。必ずや、やがて洋々たる大海に注ぐ日も、眼前でありましょう。」

「私たちは、いかに嵐が叫ぶとも、怒涛が猛り狂うとも、御仏の、師子王の子らしく、また、戸田門下生の誇りをもち、それぞれの使命の庭に、必ずや勝利の記念碑を打ち立ててまいります。」

「先生が亡くなられる直前に言われた『一歩も退くな!』『追撃の手をゆるめるな!』とのお言葉を、私ども弟子一同は、深く、深く、胸に刻んで、障魔と戦い、勇気凛々、仲良く生き抜いてまいります。」烈々たる誓いの言葉であった。

伸一は、広宣流布の流れは渓流から大河へと大きく変わろうとしていることを実感していた。その転換期に言論・出版問題が起こったのだ。御書には「夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違することあり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障りいできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」と仰せである。


この御文に照らして、言論・出版問題は、広宣流布の波が広がり、人間主義に目覚めた民衆勢力が台頭し、時代の転換点を迎えたがゆえに起こった烈風といってよい。新時代に飛翔するために、学会は、機構の改革を推進していた。 

「政教一致」などという批判は、その機構の整備が進みつつあることを知ったうえで、改革上ゆえの未整理な部分を、あえて突き、攻撃材料としたのかもしれない。


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

集中砲火を浴びる創価学会

『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P276~

勇気の人か、臆病者か。正義の人か、偽善者か。信義のひとか、背信の徒か。臆病にして卑怯な者たちは、5人、10人と、非難の唾を吐きながら、同志を裏切って、学会を去っていった。しかも、それまで幹部面をして、威張っていた連中であった。その姿をまざまざと見た、正義と情熱に燃える伸一の愛弟子たちは、激怒した。

"ついに卑劣な本性を現したな。われらは、断固として学会を守る!師匠を守る!あんな卑怯な人間たちとは、一生涯戦い抜く。そして、絶対に勝ってみせる!"真の弟子は、敢然と立ち上がったのである。

集中砲火を浴びる創価学会を見て、多くの識者たちは、"これだけ、あらゆる次元の総攻撃を受けた学会は、必ず壊滅するであろう"と予測したようだ。

学会系の出版物への執筆拒否を宣言した作家などがいた。多くの識者が、学会と距離を置いたり、学会との関係を断っていった。

だが、後年、彼らは、学会の大興隆を見ながら愕然とした。創価の人間主義のスクラムは、SGIとして、2005年には、世界190カ国・地域に広がることになる。そして、真の「平和」と「文化」、さらに「人権」と「民主」の団体として、世界中から顕彰され、大賞讃されている。

毀誉褒貶の似非文化人たちには、創価学会の歴史も、真実も、そして、山本伸一の正義も、わからなかったのである。

さらに、卑怯にも学会を裏切った者たちも、驚愕したようだ。なかには、心から懺悔し、深く頭を垂れて詫び、学会の陣列に戻ってきた者もいる。伸一と共に戦い抜いた愛弟子たちは、そうした人物の名前も顔も、決して忘れることはなかった。

また、信心がよくわからずに、学会を離れていった人たちも哀れであった。やがて、幸福の根本軌道を踏みはずしていたことに気づいた時の悔恨は、限りなく深かった。厳しきは、仏法の因果の理法である。厳然たる生命の審判である。

学会への激しい非難中傷の嵐のなかで、真っ先に立ち上がったのが、創価後継の若獅子である学生部であった。

なかでも早稲田大学に学ぶ学生部員の怒りは激しかった。"懇談会"の世話人のロシア文学者が、早大出身であったからだ。彼らは、代表を選んで抗議に行くことにした。

"懇談会"の連絡先を訪問し、出てきた男性が世話人であることを確認すると、訪問の目的を告げ、封筒に入れた抗議文を手渡した。抗議文には、不当な方法で録音した会内行事のテープを無断で公表し、新聞等に掲載させたことは、著作権の侵害であり、言論の自由を脅かすものであり、3日以内に謝罪と録音テープの入手方法を公表するよう要求していた。相手は「わかりました」と言って、抗議文を受け取ったが、期限がきても、なんの返事もなかった。

しかし、学生部員の抗議行動は、全学会員が皆、自分にできることは何かを考え、「今こそ、学会の正義と真実を語り抜く時だ。自分の体験を通して、学会のすばらしさ、信心の偉大さを語り抜くことなら、私にもできる。戦おう!」と決然とたちあがったのである。

3月には、ある週刊誌に、秋月栄之助が、藤沢達造の家を訪問した折のやり取りが掲載された。藤沢が秋月たちとの話し合いを密かに録音した「極秘テープ」なるものを原稿に起こしたものであった。

藤沢が、学会から言論・出版を妨害された「決定的な証拠」があると言い続けてきた録音テープである。しかし、公表する、公表する、と言いながら、なかなか世に出なかった。それが、遂に公表されたのである。"これで言論・出版問題は動かぬ事実となる"世の中の人びとは、そう思ったに違いない。

ところが、その内容を読んだ人のなかには、"これが妨害や抑圧、脅迫になるのか"という疑問を感じた人も、少なくなかった。藤沢の言う、動かぬ「決定的な証拠」というには、ほど遠かった。


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

妻峯子の笑顔

『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P268~

学会員にとっては、荒れ狂う波浪のなかでの支援活動となったのである。だが、公明党は勝った。波浪を乗り越え、衆議院で47議席を獲得するという、大勝利を収めたのだ。山本伸一は、学会、公明党の"撲滅"を打ち出してきた諸勢力が、この大躍進を、黙って見ているわけがないと思った。そして、事実、年が明けると、言論・出版問題をめぐって、大攻勢が始まったのだ。

学会の一部のメンバーが、批判書の著者などに、要請や抗議を行ったことは確かである。伸一は、もし、そこに行き過ぎがあれば、会長である自分が、非は非として謝ろうと思っていた。それが彼の心情であった。問題は、そのことを針小棒大に騒ぎ立てて口実にし、学会を狙い打とうとしていることである。

表立って攻撃をしかけているのは野党だが、与党の一部も、学会と公明党を追い込む画策をしているようだ。あの藤沢達造自身が、内閣官房副長官は、自分を呼んで、言論・出版問題を法務委員会にかける相談にのってくれたーーと語っているのだ。

伸一は、ほとんどの政党が、学会を憎悪する宗教団体の支援を受けるなど、各教団と濃密にかかわっていることを思うと、学会を襲う波の背後に、政治権力と宗教とが絡んだ、巨大な闇の力を感じるのであった。

大聖人は仰せである「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」伸一は思った。"主義も、主張も異なる野党と政党が、また、宗教が徒党を組み、創価学会に集中砲火をびせるこの構図は、御書に仰せの通りではないか"

"しかし、その時に、師子王の心をもって立ち上がるならば、必ず仏になれると、大聖人は、断言されているのだ。学会攻撃の嵐が吹き荒れている時こそ、自身の人間革命、境涯革命の最大の好機となるのだ"

言論・出版問題が、マスコミを騒がすようになると、学会本部には、差出人不明の脅迫状が届いたり、嫌がらせ電話もかかるようになった。受話器を取ると、いきなり罵声を浴びせ、殴り込むなどと言って、すごむ電話もあった。

山本伸一の自宅も、警戒が必要であった。彼は、妻や子供のことを考えると心配でならなかった。だが、妻の峯子は、何があっても悠然としていた。彼女は、学会を破壊せんとする前代未聞の暴風雨を乗り切らんとして、一年、いな二年にわたって、丑寅の勤行を断行していった。

また、少しでも時間を見つけては、懸命に御書を拝していった。御書という"明鏡"に照らすと、信心の眼が開かれ、勇気と確信がわき上がってくるのだ。

ある日、伸一は、峯子に言った。「どんな時でも、君は決して笑顔を失わないね。本当に強いんだな。いつも、悠々としている君を見ていると、ぼくも勇気が出て、げんきになってくるよ」「こんなこと、なんでもありませんよ。御書に仰せの通りに生きるならば、難があるのは当然ですもの。毎日、毎日がドラマを見ているようですわ」

来る日も、来る日も、嵐のような非難が打ち続くなかでの、夫婦の会話である。また、伸一は、子どもたちのことが気にかかっていた。学校でも話題になっているはずである。あるいは、そのことで、あれこれ言われたり、いじめにあっているかもしれない。

伸一は、子どもたちに、今こそ「正義の人生」とは何かを、生命に刻んでほしかった。「いつの時代でも、社会をよくしようと立ち上がった人は、迫害に遭うものだ。民衆の幸福や平和のために生きた人の多くが、牢獄に入れられたりしている。」

「人間にとって大切なことは、正義に生きるということだ。信念を曲げないということなんだ。パパも、そうやって生きてきた。私は獅子だもの、その子どもである君たちは、獅子の子だ。だから、何があっても負けていはいけない。すべてを笑い飛ばして、堂々と胸を張って生きていくんだよ」
「はい!」三人が、そろって返事をした。


多くの会員もまた、烈風にさらされていた。試練は、人の本性を暴き、淘汰する。

太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

創価学会撲滅の毒矢

『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P260~

第6巻は、総本山での宗旨建立700年記念慶祝大法会から始まる。日蓮正宗の宗会は、理不尽にも、戸田城聖に対して、「謝罪文の提出」「法華講大講頭の罷免」「登山停止」を決議したのである。

正法正義を貫き、学会が悪を正したがゆえに、烈風にさらされた恩師戸田城聖ーーその在りし日の雄姿を思うと、伸一の胸にも、勇気が沸々とたぎるのであった。今、病める伸一も、また、烈風にさらされていた。強い風であった。

伸一は、公明党が衆院進出を決断した時から、やがて、支持団体の学会も、激しい集中砲火を浴びる日がくることを覚悟していた。弾圧は、学会が社会の改革に立ち上がった時から、繰り返されてきたことであったからだ。

1964年の11月には公明党が結成された。翌年の7月の参院選挙では、公明党は11議席を獲得。この選挙は、多くの宗教団体関係者が立候補したり、各宗派が候補者を推薦するなどしたことから、「宗教戦争」と言われたほどであった。

政党は各教団の組織を頼りに、票をあてにし、教団は政治の力を借りて、学会の撲滅を図ろうと画策していたのである。たとえば、全日仏が開いた全日本仏教徒会議では、団結を強固にして、"防衛"より"攻撃"に転じて戦うべきであるとし、この時出席した弁護士は「撲滅は、キメを細かくして、法律上の批判から行わなければ効果は出てこない」と助言している。学会撲滅を掲げ、その手法が、周到に検討され始めたのである。

新宗教教団の連合会である新宗連でも、加盟90余団体、信徒約700万人を総動員して、学会、公明党と対決することを決めた。さらに、マスコミへの対策も協議し、「創価学会や公明党に、"色目"をつかい、おもねるような勢力に対して、断固とした態度でのぞみ、新聞などの不買同盟やボイコットも辞さない」としている。

さらに、12月には、学会の"野望を阻止"するとして、神道、仏教、キリスト教、新宗教などの代表が参加し「時局対策宗教者会議」なるものを発足させ、学会への対決姿勢を明らかにしたのである。学会と公明党に味方する教団も、政党も、皆無であった。ただ民衆だけが見方であった。

67年の衆院選では、各宗教団体の関係者も数多く立候補していた。それぞれの教団が推した候補者は、与党の自民党を筆頭に、民社党、社会党など、各党派にわたっていた。

学会と公明党の関係を「政教一致」などと批判しながら、各教団と政党は癒着の度を強めていったのである。各教団が手を結び、各政党にも働きかけ、創価学会、公明党の"撲滅"に総力をあげていたのだ。

山本伸一は、この数年間に、数々の平和提言を行ってきた。ベトナム戦争の即時停戦、沖縄の施政権の即時返還、核兵器廃止、日中国交正常化などの伸一の提言は、東西冷戦のなかで、アメリカに同調することで経済的な繁栄を維持してきた日本の政府や財界などにとっては危険な動きと映ったようだ。

国家中枢を動かす勢力は、山本伸一、そして、創価学会という存在を、まことに「邪魔」なものと感じていたようだ。また、各教団も、各政党も、躍進する公明党、創価学会に、強い反発と憎悪、怖れをいだきながら、虎視眈々と攻勢の機会をうかがっていたのであろう。


総選挙が予測されたころ、民社党の国会議員が公明党の批判書を出版。全国紙の記者の工藤国哉、地方紙の論説委員隈田専蔵らも相次ぎ、批判書を出版した。隈田は、旧日本軍のスパイ養成のための陸軍中野学校出身で、某宗教団体の幹部で、右傾化した勢力とも深いつながりをもっていた。

隈田は、後年、右翼系雑誌の編集にも携わり、スキャンダルを並べ立てた学会批判記事を連載し、学会から刑事告訴され、名誉棄損の有罪判決を受けている。ともあれ、衆院選挙前に、藤沢の本とともに学会の批判本が次々と出版され、暗黒の嵐が吹き荒れ、攻撃の毒矢が伸一に放たれたのである。


太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

国会での追及

『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P253~

学会を襲う風は、2月に入ると、いよいよ凶暴なまでに吹き荒れた。


特別国会の衆院本会議、参院本会議、衆院予算委委員会と舞台を移しながら、国会の場で、言論・出版妨害問題を取り上げた。

「言論・出版の自由にかんする懇談会」は、3000人の大集会を開き、記者会見を開いて、公明党国対委員長の渡五郎が、学生部幹部会で、言論・出版問題について語った講演テープを公開した。これは、何者かによって、密かに録音されたテープであった。

渡は、学会内部の集会でもあり、しかも、学生部長を務めた学生部の会合であったことから、下宿で後輩たちを相手に、政治談議でもするような気楽な気分で話をしたのだ。批判本の筆者や他党を揶揄し、笑いのめした。時に、他党を罵倒するような、激しい言葉も飛び出した。

もともと渡は、弁舌にたけた男であった。そのうえ、仲間うちという安心感もあり、ますます冗舌に拍車がかかり、口が滑った。人は、ともすれば、自らが得意とするものによってつまずくものである。ついつい調子づいてしまい、慎重さ、緊張感を失ってしまうからだ。

その話が密かに録音されて、テープが公表されたのだ。この内容は、一部の週刊誌に掲載されたのをはじめ、テレビ、ラジオでも流されたのである。テレビなどでは、他党を揶揄したり、激しい言葉で批判しているところが流されたために、渡は、とんでもない暴言づくしの講演をした印象を与えた。


渡は記者会見を開いて陳謝したが、各党は納得しなかった。このままでは、各党派間の折衝にも支障があるため、渡は、やむなく国対委員長を辞任したのである。各党はますます勢いづいた。

衆院予算委員会で質問に立った民社党のある議員は、言論・出版妨害は、創価学会という宗教団体の問題であり、学会は、組織的選挙犯罪が絶えず、学会員による犯罪が多発していると、偏見をもとに断定。その調査とともに、会長の山本伸一を証人として喚問するよう、強く求めたのだ。全く妥当性を欠いた、理不尽な話である。社会党もまた、会長山本伸一の証人喚問を主張したのである。

攻撃の矛先は、公明党から創価学会に、そして伸一にと、一斉に向けられていったのだ。


国会では、「公明党と創価学会の関係は政教一致ではないのか」といった、言論・出版問題とは、直接関係のないことまで取り上げられるようになった。また、学会を追及した議員のところへ、脅迫電話が相次いでいると、記者会見を開いて、吹聴する代議士もいた。根拠もないのに、学会員の仕業であるかのような口ぶりである。

こうした発言が、そのままテレビやラジオ、新聞等で報じられ、学会は極めて反社会的な団体というイメージがつくられていった。新聞にも週刊誌にも、電車に乗っても学会や公明党を中傷する週刊誌の中吊り広告が掲げられていた。

山本伸一は、全国を駆け巡り、一人ひとりの同志を、力の限り励まそうと思った。だが、彼は病んでいた。容体は、年が明けてからも、いっこうに好転せず、「安静」にしていなければならなかった。医師から、「何か月かかろうが、完治するまでは、ともかく静養してください」と言われていた。

なさねばならぬ仕事は山積していた。小説『人間革命』も、早く再開してほしいとの強い要請も寄せられ、頼まれれば断れないのが伸一の性格であった。

伸一は、執筆を決意したが、発熱も続いており、体は激しく衰弱していた。長い心労のゆえか、彼の肩や首筋は凝り固まり、ペンを持つことも辛かった。彼は、やむなく口述をテープレコーダーに吹き込み、そのテープから、原稿を起こしてもらうことにした。

疲弊の極みにあった彼は、口述を始めると、すぐに息が苦しくなった。痰が喉に絡み、咳が止まらなくなることも少なくなかった。額には、脂汗が滲んだ。それでも口述は続けられた。



太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋

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