『新・人間革命』第14巻 烈風の章 P282~
このころ、国会では衆院予算委員会で、社会、民社、共産の三党が言論・出版問題を取り上げ、証人喚問並びに調査特別委員会の設置を要求していた。
そして、検討した結果、各党の国対委員長会談に処理をゆだねることにしたが、会談からは共産党が外された。京都府知事戦をめぐって共産と民社の激しいいがみ合いが続いていたためである。結局、会談では、論議は、ほかの適当な委員会に移し、証人喚問についても話し合われたが、最終的に自民党は、これは「国会で取り上げる問題ではない」と判断した。
証人喚問は難しいとみた社会、民社両党は国対委員長会談を打ち切り、3月17日に、社会、民社、共産三党の議員たちは、藤沢達造をはじめ、学会と公明党によって言論・出版妨害を受けたとする著者や出版関係者らを呼び、会合を開く。
この集会から2日後、民社党は、政教分離の原則に違反する疑いがあるとして政府に質問主意書を提出するが、政府は、政教分離の原則は宗教法人の政治活動を排除しているわけではないと回答しているが、民社党は、再度、政治と宗教についての質問主意書を提出している。
一方、社会党は、参院予算委員会でも、言論・出版問題を取り上げていった。あらゆる手を使っての執拗な攻撃である。この機会に、なんとしても学会と公明党に大ダメージを与えたいと、血道をあげていたのだ。
山本伸一は、病床にありながらも、学会の未来、そして、日本と世界の未来について、試案をめぐらせていた。ようやく病状に好転の兆しが見え始めたのは、春三月に入ってからのことであった。彼が真っ先に行ったことは、日中友好の先達である松村謙三との会談であった。
4月2日、戸田城聖の13回忌大法要が厳粛に営まれた。山本伸一の体調は、まだ完全に回復したとは言えなかったが、大法要に出席した彼は、気迫にあふれていた。全国から集った参列者は、伸一の姿を見て、安堵に胸を撫でおろした。本部幹部会を除けば、山本会長の会合等へ出席は、2月はほとんどなく、3月も数回にすぎなかったことからである。
最後に伸一の話となった。伸一は、在りし日の戸田を偲び、遺徳を讃えたあと、師亡きあとの弟子たちの戦いの歩みを語っていった。「先生!広宣流布の流れは、遂に渓流より大河の流れとなりました。必ずや、やがて洋々たる大海に注ぐ日も、眼前でありましょう。」
「私たちは、いかに嵐が叫ぶとも、怒涛が猛り狂うとも、御仏の、師子王の子らしく、また、戸田門下生の誇りをもち、それぞれの使命の庭に、必ずや勝利の記念碑を打ち立ててまいります。」
「先生が亡くなられる直前に言われた『一歩も退くな!』『追撃の手をゆるめるな!』とのお言葉を、私ども弟子一同は、深く、深く、胸に刻んで、障魔と戦い、勇気凛々、仲良く生き抜いてまいります。」烈々たる誓いの言葉であった。
伸一は、広宣流布の流れは渓流から大河へと大きく変わろうとしていることを実感していた。その転換期に言論・出版問題が起こったのだ。御書には「夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違することあり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障りいできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」と仰せである。
このころ、国会では衆院予算委員会で、社会、民社、共産の三党が言論・出版問題を取り上げ、証人喚問並びに調査特別委員会の設置を要求していた。
そして、検討した結果、各党の国対委員長会談に処理をゆだねることにしたが、会談からは共産党が外された。京都府知事戦をめぐって共産と民社の激しいいがみ合いが続いていたためである。結局、会談では、論議は、ほかの適当な委員会に移し、証人喚問についても話し合われたが、最終的に自民党は、これは「国会で取り上げる問題ではない」と判断した。
証人喚問は難しいとみた社会、民社両党は国対委員長会談を打ち切り、3月17日に、社会、民社、共産三党の議員たちは、藤沢達造をはじめ、学会と公明党によって言論・出版妨害を受けたとする著者や出版関係者らを呼び、会合を開く。
この集会から2日後、民社党は、政教分離の原則に違反する疑いがあるとして政府に質問主意書を提出するが、政府は、政教分離の原則は宗教法人の政治活動を排除しているわけではないと回答しているが、民社党は、再度、政治と宗教についての質問主意書を提出している。
一方、社会党は、参院予算委員会でも、言論・出版問題を取り上げていった。あらゆる手を使っての執拗な攻撃である。この機会に、なんとしても学会と公明党に大ダメージを与えたいと、血道をあげていたのだ。
山本伸一は、病床にありながらも、学会の未来、そして、日本と世界の未来について、試案をめぐらせていた。ようやく病状に好転の兆しが見え始めたのは、春三月に入ってからのことであった。彼が真っ先に行ったことは、日中友好の先達である松村謙三との会談であった。
4月2日、戸田城聖の13回忌大法要が厳粛に営まれた。山本伸一の体調は、まだ完全に回復したとは言えなかったが、大法要に出席した彼は、気迫にあふれていた。全国から集った参列者は、伸一の姿を見て、安堵に胸を撫でおろした。本部幹部会を除けば、山本会長の会合等へ出席は、2月はほとんどなく、3月も数回にすぎなかったことからである。
最後に伸一の話となった。伸一は、在りし日の戸田を偲び、遺徳を讃えたあと、師亡きあとの弟子たちの戦いの歩みを語っていった。「先生!広宣流布の流れは、遂に渓流より大河の流れとなりました。必ずや、やがて洋々たる大海に注ぐ日も、眼前でありましょう。」
「私たちは、いかに嵐が叫ぶとも、怒涛が猛り狂うとも、御仏の、師子王の子らしく、また、戸田門下生の誇りをもち、それぞれの使命の庭に、必ずや勝利の記念碑を打ち立ててまいります。」
「先生が亡くなられる直前に言われた『一歩も退くな!』『追撃の手をゆるめるな!』とのお言葉を、私ども弟子一同は、深く、深く、胸に刻んで、障魔と戦い、勇気凛々、仲良く生き抜いてまいります。」烈々たる誓いの言葉であった。
伸一は、広宣流布の流れは渓流から大河へと大きく変わろうとしていることを実感していた。その転換期に言論・出版問題が起こったのだ。御書には「夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違することあり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障りいできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」と仰せである。
この御文に照らして、言論・出版問題は、広宣流布の波が広がり、人間主義に目覚めた民衆勢力が台頭し、時代の転換点を迎えたがゆえに起こった烈風といってよい。新時代に飛翔するために、学会は、機構の改革を推進していた。
「政教一致」などという批判は、その機構の整備が進みつつあることを知ったうえで、改革上ゆえの未整理な部分を、あえて突き、攻撃材料としたのかもしれない。
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋
「政教一致」などという批判は、その機構の整備が進みつつあることを知ったうえで、改革上ゆえの未整理な部分を、あえて突き、攻撃材料としたのかもしれない。
太字は 『新・人間革命』第14巻より 抜粋