小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

December 2019

創価学園建設のパイオニア精神

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P371~

矢吹は、父親から、学会の会長である伸一が、いかに多忙を極めているかを聞かされていた。その山本会長が、寸暇を見つけて、学園に来ては、生徒の輪のなかに入り、直接、声をかけたり、生徒と、テニスや卓球をしたり、また、一人ひとりの健康や生活を心配し、下宿先の主人に、伝言とともに、心づくしの品が届けられていることを知った。

彼は、伸一の慈愛ともいうべき思いと、生徒への期待を実感した。人間として、それに応えたいと考えるようになっていった。いつしか、彼は、学園が好きになり、学園のために何かしたいと、下宿生の生徒組織の発足にあたり、執行部の部長を引き受けたのである。

山本伸一は、成績が伸び悩んでいる生徒のことも気がかりだった。教師たちは、次代のリーダーにふさわしい力をつけさせようと真剣であり、授業の速度も早く、学習量も多かった。2学年への進学が危ぶまれる生徒と会って励ますことにした。

生徒を激励する伸一の姿を見て、教師たちも"どんな成績の悪い子も優秀にしてみせる"というのが、創価教育の精神ではないかと、自分たちも頑張ろうと決意した。

2学期の終業式が終わると冬休みで寮生が帰省するため、寮で"お別れ会"が開催された。一人の寮生は、「郷里に帰ったら、後輩たちに、創価学園で体験した感動を語り、ぼくよりも何倍も優秀な受験生を、たくさん連れて来ます。だから、ぼくは"帰る"のではなく、学園生として"派遣される"と思っているんです」と語った。

まさに、学園建設のパイオニアとしての自覚と責任が、皆の胸に、しっかりと培われていたのである。


二期生の入学試験の当日、寮の高校生全員が 役員を希望した。道案内や連絡係、生徒たちは大奮闘した。整理役員の一人が、寮の黒板に受験生の姿を見た心境を和歌にして書いた。翌日、合格した受験生の母親が寮の見学に来て、この黒板の和歌を見て、返歌を詠み、黒板に記した。

その返歌を見て、寮生たちは、息子を送りだす親にとって先輩である自分たちが最大の頼りだと思い、責任の重さを感じ、自覚と決意を新たにするのであった。

山本伸一は、開校2年目もまた、足繁く、学園を訪問した。また、開校1年の学園の歩みを後世に残すため、校史の発刊が提案され、生徒の代表を含め打ち合わせを行った。メンバーのなかに、5か月前に母親を癌で亡くした中学2年生の生徒がいると知ると側に呼んで激励した。

7月17日、寮祭として始まった栄光祭は、全校生徒が参加する学校行事として、行われることになった。栄光祭のテーマは「栄光の青春」であった。12年前、伸一は、権力の魔性と戦い抜くことを誓い出獄した日であった。

伸一は、ここに集った学園生が、自分の志を受け継ぎ、民衆の勝利のために戦う指導者に育ってほしかった。いな、そうなってくれることを確信していた。開校から、1年3か月余り 生徒たちが、たくましく大きな成長を遂げていることが、伸一は何よりも嬉しかった。

フィナーレが終わると、伸一は語り始めた。「諸君こそ21世紀の人生を生きる、21世紀の指導者です。21世紀まで約30年、諸君は、その時、40代です。諸君は、今の私と、ほぼ同じ年代に、21世紀を迎えることになる。まさに、働き盛りで新世紀を迎えることになるんです。」

「21世紀に入った2001年の7月17日に、ここにいる先生方と、千人の先駆の創価学園生全員が、集い合おうではないか。一つの決勝点として、西暦2001年をめざそう。一人も負けてはいけないよ。健康で、世界に輝く存在として集まっていただきたい。」

栄光祭は、鳳雛たちの21世紀への旅立の舞台となり、人生の誓いの場となったのである。




太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

下宿生の「栄光会」

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P358~

教師たちの間では、下宿生への生活面での指導を、どう行うかが課題となっていた。教員の目も、各下宿生の生活の詳細にまでは行き届かなかった。下宿生活は、寮生活とは違って自由が多いところから、誘惑もあった。教師たちは、こうした問題を深刻に受け止めていた。

大事なことは、下宿生一人ひとりが、創価学園生としての自覚を新たにし、自らを律していく強さを持つことである。そう考えた教師たちは、日常的に、生徒同士が切磋琢磨していくように、下宿生の生徒組織をつくることにした。

その報告を受けると、山本伸一は言った。「教育の本義は、人間の自立にあると思う。したがって、生徒が自分たちで考え、話し合って自らを律しようという方向にもっていくことこそ、本当の教育といえるでしょう」そして、伸一は、栄光の青春を送ってほしいとの願いを込め、この下宿生の組織に「栄光会」という名を贈った。

中心者となる執行部の部長には、矢吹好成という、高校生が就いた。彼は、都立高校に1年間通学したあと、学園に入学したため、同級生より1歳年上であった。

矢吹の創価高校への進学は、父親の薫の深い祈りから始まった。息子の好成は、既に高校1年であり、学生生活を楽しみきっている様子である。しかし、薫はそれでも息子を、創価高校に入れたかった。1期生として学園の建設に生きることは、最高の栄誉であり、かけがえのない青春の思い出になると、薫は確信していたのだ。

薫は一計を案じ、好成の家庭教師で、好成も尊敬している山原に受験を勧めてもらうことにしたが、「いまさら、いやですよ」と一笑に付されてしまった。それから、父は、丑寅勤行をするようになり、好成そんな父にうっとうしさを覚えた。

好成を説得できなかったと、山原が父親に頭を下げて謝っているのを目撃した好成は、山原に申し訳なく、とっさに「受けるだけなら受けてもいい」と言ってしまった。

入学試験の日、好成は、白紙で答案を出すつもりでいたが、何気なく試験問題を見た時、かなりの難問で、高校生の自分でも、解けるかどうかわからない問題にもかかわらず、周りの中三生が、すらすら問題を解いているのを見て、闘志が燃え上がり、中三に負けたくないと、一心不乱に問題に取り組んだ。

合格したが、受けるだけの約束だから創価高校には行かないというと、父に、「お前が受かったために、誰か一人の人が落ちてしまった。お前はその責任を感じるべきだ」といわれ、変な理屈だと思ったが、入学しないのは、悪いことのような気がして、好成は、創価高校に入学した。

しかし、誇りをもって創価学園建設のパイオニアであるとの使命に燃える生徒とは、温度差があり、違和感を覚え、元気がなくなっていった。そんな息子を見て、胸が痛んだ父親は、2時間の通学時間が大変だろうと 下宿をすすめた。

好成は下宿生活を始めたころから、幾つかの発見をする。それは、教師たちが生徒に、常に情熱をもって「人びとのため」「社会のため」「世界平和のため」に勉強し、成長していきなさいと訴えていることであった。
前の高校では、受験や偏差値のことしか言わない教師たちであった。

また、矢吹の下宿近くに鹿児島県出身の中学生の下宿人がいたが、ある日、教師に、「なぜ、君は中学一年生で、親元を離れて生活している彼を、励まそうとしないのか」と指摘される。彼は、叱られながらも、教師の言っていることは正しいし、そこまで言ってくれる教師のいる学校は素晴らしいと思った。

もう一つ、矢吹の心を大きく変えていったのは、必死になって学園生を激励する、創立者の山本伸一の姿に触れたことであった。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

創価学園寮歌「草木は萌ゆる」

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P342~

伸一は、生徒たちに、楽しい思い出をつくらせたかった。また、一人ひとりのことを、よく知っておきたかった。皆に声をかけ、生徒の顔と名前、出身地などを、心に刻みつけるようにして覚えていった。
顔と名前を知ることこそ、人間と人間の絆を結び、深めていく、第一歩であるからだ。

伸一の提案を受け、寮祭として、寮の前のグラウンドで、ファイアーストームが行われることになった。この寮祭は、「栄光祭」と名づけられた。

玉川上水に架かる栄光橋の向こうに、グラウンドが完成したのは、夏休みの終わりであった。グラウンド開きは、9月6日に行われた。第一部は、競技大会、第二部のフェスティバルのフィナーレに学園寮歌が発表された。

寮歌は、寮生が、自分たちの手で作詞した歌である。寮長の永峰が提案し、生徒から歌詞が集まった。そのなかでも、大倉裕也という大阪出身の作品がひときわ光彩を放っていた。

一番では、「英知をみがくは 何のため」と問い、「時代の世界を 担わんと」と答えが示されている。二番には、「情熱燃やすは 何のため」「社会の繁栄 つくらんと」、三番には「人を愛すは何のため」「民に幸せ おくらんと」、四番には「栄光めざすは 何のため」「世界に平和を 築かんと」とある。

それは、自身の生き方を問い、崇高な目的を確認し、勇んで進みゆかんとする、壮大な気概の歌であった。慣れない寮生活で、ホームシックにかかったり、孤独に陥りもした。また、勉強も大変であった。その中で彼は、自分は何のために創価高校に進み、なんのために学ぼうとしているのかを、自身に問いかけ続けてきたのだ。

彼は、その答えを求めて、創立者である山本伸一の指導が載った聖教新聞や、伸一の著作を、むさぼるように読んだ。そうして紡ぎ出された自分なりの結論を、寮歌の歌詞に、書きつづっていったのである。それは、青春をかけた思索の結晶であった。

作曲は、学園の音楽教師である、杉田泰之に頼むことになった。生徒たちは、曲調は短調の日本的なリズムで、一人で歌っても自分を鼓舞できる、孤高の志を歌うようなイメージの曲を求めているのだと、過ぎたは思った。

こうして、寮歌「草木は萌ゆる」が完成したのである。学園寮歌を聞きながら、伸一は、彼らの一途な開道の心意気に、なんとしても応えたいと思った。そして、寮歌の五番の歌詞をつくって、贈ろうと考えた。四番までの歌詞を何度も読み返しては思索し、五番では、友情をうたおうと思った。

「・・・輝く友の 道拓く   未来に羽ばたけ 君と 僕」
学園生は、「君と僕」の歌詞に、二つの意味を感じとっていた。一つは、「君」は「友」であり、「僕」は「自分」である。そして、もう一つは「君」が「自分」であり、「僕」は、創立者である「山本伸一」である。

歌いながら、生徒たちは、伸一が極めて身近な存在に思えた。そして、ともに未来に向かって前進する、共戦の父子の絆を感じるのであった。

伸一は、生徒たちに、喜びにあふれた声で語り始めた。「『源と遠ければ流れ流し』という哲人の言葉がありますが、ここに集った皆さんの存在こそが、根本であり、源です。」

「私は創立者として、皆さんのことは一生涯わすれません。胸の中に叩き込んでおきます。このなかから、世界の平和を実現する偉大な指導者が、必ず出ると信じております。かつては、旧制高校の寮歌をうたった人たちが、日本の社会をリードしてきました。今度は、創価学園の寮歌を歌った人が、時代の指導者に、また21世紀のリーダーになっていくことは間違いない。学園寮歌が、日本中、世界中の人から愛唱される日も、さほど遠くないと確信しております。」

この寮歌「草木は萌ゆる」は、後年、創価中学・高校の校歌となるのである。

太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

創価学園開校

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P324~

教職員の選考は最終段階を迎えていた。生徒にとって、最も重要な教育環境は、建物でも、自然環境でもない。教師である。ゆえに、教師の選考には、特に力が入れられ、厳選されたのである。

選考にあたるメンバーに、山本伸一は訴え続けてきた。「教職員を大事にすることを、創価学園の伝統にしていってもらいたい。教育といっても、結局は、教育者によって、決まってしまうからです。」

開校にあたって、伸一は、教職員の代表と懇談の機会をもち、みんなで、力を合わせ、日本一の学校をつくろうと訴えた。

中学の志願者は、200人の募集に対し、800人近くに達し、高校の募集300人対し、1500人近くが出願した。合格者の自宅通学が困難な地域からの合格者は、予想をはるかに超え、寮に入ることができない80人ほどの下宿探しに奔走した。

なかには、学会への偏見と誤解から「創価学園」と聞いただけで、「学会の幹部の養成学校ですか」と尋ねる人もいた。一軒、一軒下宿先を開拓し、3月上旬には、すべて確保することができた。

入学式を終えた新入生と父母たちは、創価学園の正面ロータリーで伸一の到着を待ち、碑の序幕を行った。「栄光橋」と名付けた玉川上水に架かる橋のテープカットを行い、橋の意義を生徒たちに話した。

牧口常三郎と戸田城聖も、戸田と山本伸一の間にも、28歳ほどの年齢の隔たりがある。今、伸一は、40歳であり、この生徒たちとは、ちょうど同じくらいの年の差がある。彼は、世界の平和の実現のために、自分の後に続いてくれるであろう一期生との年齢差に、不思議な感慨を覚えた。

また、歴史を振り返れば、かのプラトンが、師のソクラテスの志を受け継ぎ、学園アカデメイアを創立したのも、40歳といわれる。伸一は、人生の最後の事業と定めた教育への挑戦を、今、この一期生とともに始めたことを思うと、闘志が沸々と込み上げてくるのであった。


午後も、「青年と鷲」の像の除幕式に臨んだ。伸一は、生徒たちに、「鷲は、どこまでも力強く、飛んでいく。空飛ぶ者の王です。皆さんも、鷲のように強く、野性的であってください。そして、英知を磨き、たくましい信念をもって、理想に向かって飛翔し、日本の、いな、世界の平和のために、つくしていただきたいんです。」

「青春時代を生きるうえで大事なことは、自分の弱さに負けたり、引きずられたりしないで、自分に挑戦していくことなんです。自分を制し、自分に打ち勝つことが、いっさいに勝利していく要諦であることを、わすれないでください」

若き純粋なる魂に、真実の人間の道を伝え抜かんと、彼は自らの生命を燃え上がらせ、真剣勝負で臨んでいた。


次に寮へ行き、寮長や 寮生の代表と懇談した。「君たちが開拓者となって、伝統をつくり、誉れの歴史をつくるんだ。君たちの手で、力をあわせて、この栄光寮を、日本一、世界一の寮にしていってほしい。」

伸一は、寮生たちを、力の限り抱き締めたい思いにかられた。「これからは、私が君たちの親代わりだ。みんな、宝のように大事な私の子どもだよ」

この日、新しい歴史の扉が開かれ、創価学園の建設の歩みが、晴れやかに開始されたのだ。それは、伸一にとっても、生涯の事業となる教育という大山への、本格的な登攀の開始であった。

以来、創価学園のことが、山本伸一の頭から離れることはなかった。折に触れ、さまざまなかたちで、学園生への励ましが続けられた。



太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

牧口常三郎の創価教育学体系

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P303~

「牧口先生の残された創価教育は、人類の偉大なる精神遺産だ。日本だけでなく、世界の人びとのためのものです。いつになるかわからないが、私は、アメリカにも必ず、創価大学を建設する決意なんです。その大学で、世界平和のために、人間主義の大指導者を、本格的に育成していきます。いずれにしても、教育は、私の最後の事業であると思っています。」伸一の構想は、限りなく広大であった。

創価高校に中学校を併設することが決定し、初代会長牧口常三郎の祥月命日であり、後に学会創立記念日になった11月18日に、起工式が、晴れやかに行われたのだ。

伸一は、戦後、機会均等を基本原理とする戦後の民主主義教育の実施は、国民共通の基礎教養を高め、高校への進学率もあがり、1965年(昭和40年)には、全国平均で7割を超えるに至っていた。しかし、残念なことには、その教育の普及が、「人間をつくる」という教育本来の目的に、つながっていないのが実情であった。

教育の普及は、一方で、学歴偏重主義を招き、受験競争は異様なまでに過熱化し、友達を敵と考える高校生も少ないという事態を、もたらしていたのである。

伸一は、もし、このまま、確固たる教育理念もなく、青少年の心の荒廃が続けば、どうなるのかと考えると、暗澹たる思いにかられた。そのたびに、人生の根本目的を教え、強く豊かな心を、人間性を培う教育が行わなわれなければならないと、痛感してきた。

そして、"牧口先師の創価教育学を実践する学校を、一日も早く建設しよう"と、心に誓ってきたのである。牧口常三郎の創価教育学とは、一言でいえば、「人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する」知識体系といえる。

牧口は、教育の目的は子ども自身の幸福にあると主張し、社会人として幸福生活を営めるようにしていくことに、教育の役割があるとしている。そして、真の幸福生活を実現するには、自他ともの幸福を築くことが不可欠であり、いわば、個人の幸福と社会の繁栄が一致する社会の在り方をめざすものが、教育であるとしている。

牧口は、「半日学校制度」など、教育制度や教育方法の具体的な改革案を打ち出していった。創価教育学は、彼の30余年にわたる学校教育の実践のなかで培われ、実証に裏付けられた教育法であった。つまり、それまでの、観念的哲学理論で構成され、実証性に乏しい教育学とは一線を画した、独創的な教育学説であった。

『創価教育学体系』の第1巻には、当時の日本を代表する3人の学識者が序文を寄せている。新渡戸稲造、民族学者の柳田国男も称賛し、フランス社会学の研究家田辺寿利は、「現代の日本が最も要求するところの教育学である」とし、フランスの昆虫学者ファブルを フランスの誇りとし、文部大臣として、フランスの名において懇篤なる感謝の意を表したと述べ、「文化の国日本は、如何なる方法によって国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」と記している。

ところが、日本は、"国賊"とし、獄死をもって遇したのだ。それは、未来永劫に消えぬ、日本国家の汚点であろう。

創価学園の建設は、山本伸一にとって、先師・牧口常三郎の教育思想と正義を宣揚する、第三代会長としての戦いであった。

1967年に、学校法人創価学園の設立、創価中学・創価高校の設置を東京都に申請し、学校設立への動きはいよいよ本格化していったのである。

校章は、中央にペンがあり、その左右に鳳雛の羽が図案化されていた。スクールカラーについても、「英知」「栄光」「情熱」を表す、「青」「黄」「赤」の三色に決まった。

学校法人の認可も下り、開校への歩みは、大きく加速された。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

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