『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P371~
矢吹は、父親から、学会の会長である伸一が、いかに多忙を極めているかを聞かされていた。その山本会長が、寸暇を見つけて、学園に来ては、生徒の輪のなかに入り、直接、声をかけたり、生徒と、テニスや卓球をしたり、また、一人ひとりの健康や生活を心配し、下宿先の主人に、伝言とともに、心づくしの品が届けられていることを知った。
彼は、伸一の慈愛ともいうべき思いと、生徒への期待を実感した。人間として、それに応えたいと考えるようになっていった。いつしか、彼は、学園が好きになり、学園のために何かしたいと、下宿生の生徒組織の発足にあたり、執行部の部長を引き受けたのである。
山本伸一は、成績が伸び悩んでいる生徒のことも気がかりだった。教師たちは、次代のリーダーにふさわしい力をつけさせようと真剣であり、授業の速度も早く、学習量も多かった。2学年への進学が危ぶまれる生徒と会って励ますことにした。
生徒を激励する伸一の姿を見て、教師たちも"どんな成績の悪い子も優秀にしてみせる"というのが、創価教育の精神ではないかと、自分たちも頑張ろうと決意した。
2学期の終業式が終わると冬休みで寮生が帰省するため、寮で"お別れ会"が開催された。一人の寮生は、「郷里に帰ったら、後輩たちに、創価学園で体験した感動を語り、ぼくよりも何倍も優秀な受験生を、たくさん連れて来ます。だから、ぼくは"帰る"のではなく、学園生として"派遣される"と思っているんです」と語った。
まさに、学園建設のパイオニアとしての自覚と責任が、皆の胸に、しっかりと培われていたのである。
二期生の入学試験の当日、寮の高校生全員が 役員を希望した。道案内や連絡係、生徒たちは大奮闘した。整理役員の一人が、寮の黒板に受験生の姿を見た心境を和歌にして書いた。翌日、合格した受験生の母親が寮の見学に来て、この黒板の和歌を見て、返歌を詠み、黒板に記した。
その返歌を見て、寮生たちは、息子を送りだす親にとって先輩である自分たちが最大の頼りだと思い、責任の重さを感じ、自覚と決意を新たにするのであった。
山本伸一は、開校2年目もまた、足繁く、学園を訪問した。また、開校1年の学園の歩みを後世に残すため、校史の発刊が提案され、生徒の代表を含め打ち合わせを行った。メンバーのなかに、5か月前に母親を癌で亡くした中学2年生の生徒がいると知ると側に呼んで激励した。
7月17日、寮祭として始まった栄光祭は、全校生徒が参加する学校行事として、行われることになった。栄光祭のテーマは「栄光の青春」であった。12年前、伸一は、権力の魔性と戦い抜くことを誓い出獄した日であった。
伸一は、ここに集った学園生が、自分の志を受け継ぎ、民衆の勝利のために戦う指導者に育ってほしかった。いな、そうなってくれることを確信していた。開校から、1年3か月余り 生徒たちが、たくましく大きな成長を遂げていることが、伸一は何よりも嬉しかった。
フィナーレが終わると、伸一は語り始めた。「諸君こそ21世紀の人生を生きる、21世紀の指導者です。21世紀まで約30年、諸君は、その時、40代です。諸君は、今の私と、ほぼ同じ年代に、21世紀を迎えることになる。まさに、働き盛りで新世紀を迎えることになるんです。」
「21世紀に入った2001年の7月17日に、ここにいる先生方と、千人の先駆の創価学園生全員が、集い合おうではないか。一つの決勝点として、西暦2001年をめざそう。一人も負けてはいけないよ。健康で、世界に輝く存在として集まっていただきたい。」
栄光祭は、鳳雛たちの21世紀への旅立の舞台となり、人生の誓いの場となったのである。
矢吹は、父親から、学会の会長である伸一が、いかに多忙を極めているかを聞かされていた。その山本会長が、寸暇を見つけて、学園に来ては、生徒の輪のなかに入り、直接、声をかけたり、生徒と、テニスや卓球をしたり、また、一人ひとりの健康や生活を心配し、下宿先の主人に、伝言とともに、心づくしの品が届けられていることを知った。
彼は、伸一の慈愛ともいうべき思いと、生徒への期待を実感した。人間として、それに応えたいと考えるようになっていった。いつしか、彼は、学園が好きになり、学園のために何かしたいと、下宿生の生徒組織の発足にあたり、執行部の部長を引き受けたのである。
山本伸一は、成績が伸び悩んでいる生徒のことも気がかりだった。教師たちは、次代のリーダーにふさわしい力をつけさせようと真剣であり、授業の速度も早く、学習量も多かった。2学年への進学が危ぶまれる生徒と会って励ますことにした。
生徒を激励する伸一の姿を見て、教師たちも"どんな成績の悪い子も優秀にしてみせる"というのが、創価教育の精神ではないかと、自分たちも頑張ろうと決意した。
2学期の終業式が終わると冬休みで寮生が帰省するため、寮で"お別れ会"が開催された。一人の寮生は、「郷里に帰ったら、後輩たちに、創価学園で体験した感動を語り、ぼくよりも何倍も優秀な受験生を、たくさん連れて来ます。だから、ぼくは"帰る"のではなく、学園生として"派遣される"と思っているんです」と語った。
まさに、学園建設のパイオニアとしての自覚と責任が、皆の胸に、しっかりと培われていたのである。
二期生の入学試験の当日、寮の高校生全員が 役員を希望した。道案内や連絡係、生徒たちは大奮闘した。整理役員の一人が、寮の黒板に受験生の姿を見た心境を和歌にして書いた。翌日、合格した受験生の母親が寮の見学に来て、この黒板の和歌を見て、返歌を詠み、黒板に記した。
その返歌を見て、寮生たちは、息子を送りだす親にとって先輩である自分たちが最大の頼りだと思い、責任の重さを感じ、自覚と決意を新たにするのであった。
山本伸一は、開校2年目もまた、足繁く、学園を訪問した。また、開校1年の学園の歩みを後世に残すため、校史の発刊が提案され、生徒の代表を含め打ち合わせを行った。メンバーのなかに、5か月前に母親を癌で亡くした中学2年生の生徒がいると知ると側に呼んで激励した。
7月17日、寮祭として始まった栄光祭は、全校生徒が参加する学校行事として、行われることになった。栄光祭のテーマは「栄光の青春」であった。12年前、伸一は、権力の魔性と戦い抜くことを誓い出獄した日であった。
伸一は、ここに集った学園生が、自分の志を受け継ぎ、民衆の勝利のために戦う指導者に育ってほしかった。いな、そうなってくれることを確信していた。開校から、1年3か月余り 生徒たちが、たくましく大きな成長を遂げていることが、伸一は何よりも嬉しかった。
フィナーレが終わると、伸一は語り始めた。「諸君こそ21世紀の人生を生きる、21世紀の指導者です。21世紀まで約30年、諸君は、その時、40代です。諸君は、今の私と、ほぼ同じ年代に、21世紀を迎えることになる。まさに、働き盛りで新世紀を迎えることになるんです。」
「21世紀に入った2001年の7月17日に、ここにいる先生方と、千人の先駆の創価学園生全員が、集い合おうではないか。一つの決勝点として、西暦2001年をめざそう。一人も負けてはいけないよ。健康で、世界に輝く存在として集まっていただきたい。」
栄光祭は、鳳雛たちの21世紀への旅立の舞台となり、人生の誓いの場となったのである。
太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋