『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P40~
"文革"の第一歩は、「反動的」「ブルジョア的」な旧地名などの変更から始まり、さらに、革命前からの知識人や著名な学者、芸術家、旧地主、香港・台湾出身者などが、次々と攻撃にさらされたのである。
"文革"の大混乱が続く1967年の8月ソ連の大使館に、中国人のデモ隊が乱入する事件が起きたり、英代理大使事務所が、紅衛兵のデモ隊に包囲される事件が相次ぎ、中国に対する国際世論の批判の声を、ますます高めていったのである。
また、9月には、中国政府は、日中記者交換で駐在が認められていた新聞社のうち3社の記者に対して、常駐資格を取り消した。これによって、日本のマスコミも、中国に対して、一段と強い警戒心をもつようになった。日本国内には、日中友好を口にするなど、もってのほかであるという雰囲気が漂ってしまった。
日中の関係打開への見通しは、依然として立たず、両国の友好への歩みは次々と挫折し、国交正常化をめざして運動を続けていた人びとの心には、絶望と敗北感が、深い闇となって広がっていたのであった。
山本伸一は、今こそ、日中国交正常化への提言を、断じて発表しなければならないと、一段と決意を固めたのである。彼は、日中国交正常化の提言に踏み切ることが、いかに危険を伴う決断であるか、よくわかっていた。
提言を行えば、当然、創価学会の本質は共産主義であるといった類の、囂々たる非難が沸き起こることを、伸一は、重々承知していた。場合によっては、これが契機となり、学会を危険視してきた勢力が、いよいよ壊滅に追い込もうと、本格的に動きを開始することも、予測されていたのである。
伸一は深く思った。"私が発言するしかない!私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である。何が起こっても、断行する決意を固めるしかない!私の考えが正しかったかどうかは、後世の歴史が証明するはずだ"
伸一は、その発表の場を、学生部総会とし、若き英才たちに、呼びかけようと決めたのである。それは、日中友好の永遠なる「金の橋」を築き上げるという大業は、決して自分一代限りではできないことであるからだ。世紀を超えた、長く遠い道のりである限り、自分と同じ心で、後を受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない。
だからこそ、伸一は、平和の波を広げゆく、後継の人材群の第一陣として、この数年間、学生部の育成に、総力をあげてきたのである。彼には、"学生部員のなかから、自分の提言の実現のために、生涯、走り抜いてくれる同志が必ず出るにちがいない"との、強い、強い、確信があった。
学生部の首脳幹部たちは、多くの学生部員が仏法の精髄に触れる機会をつくりたいと、大学別講義の開催を企画した。講師には、主に、その大学の出身者である、副理事長などの幹部がつくことになっていた。
伸一は、最高幹部会の会議の折にこう訴えた。「若い時代に教学を徹底して学び、仏法の哲理を自己の規範としておかなければ、本当の意味で広宣流布を担うことはできないからです。なぜなら、広宣流布は思想戦だからです。」
「学生部員が、真剣に教学に取り組まず、行事などの運営の真似事みたいなことだけ覚えて、リーダーになっていったら、怖いことです。たとえ、教学を学んだとしても、知識として覚えただけで実践が伴わず、自分を偉そうにみせるための教学であれば、"畜生の教学"です。そんな幹部が出てきたら、学会は食い破られてしまう。」
「したがって、最高幹部である皆さんが、全力を注いで講義し、魂の触発を与え、真の教学と大聖人の御精神を、学生部の諸君に伝え抜いていただきたい。」
さらに、卒業後も、生涯にわたって友情を育み、広宣流布の使命を確認し合えるようにと大学会の結成を提案する。
"文革"の第一歩は、「反動的」「ブルジョア的」な旧地名などの変更から始まり、さらに、革命前からの知識人や著名な学者、芸術家、旧地主、香港・台湾出身者などが、次々と攻撃にさらされたのである。
"文革"の大混乱が続く1967年の8月ソ連の大使館に、中国人のデモ隊が乱入する事件が起きたり、英代理大使事務所が、紅衛兵のデモ隊に包囲される事件が相次ぎ、中国に対する国際世論の批判の声を、ますます高めていったのである。
また、9月には、中国政府は、日中記者交換で駐在が認められていた新聞社のうち3社の記者に対して、常駐資格を取り消した。これによって、日本のマスコミも、中国に対して、一段と強い警戒心をもつようになった。日本国内には、日中友好を口にするなど、もってのほかであるという雰囲気が漂ってしまった。
日中の関係打開への見通しは、依然として立たず、両国の友好への歩みは次々と挫折し、国交正常化をめざして運動を続けていた人びとの心には、絶望と敗北感が、深い闇となって広がっていたのであった。
山本伸一は、今こそ、日中国交正常化への提言を、断じて発表しなければならないと、一段と決意を固めたのである。彼は、日中国交正常化の提言に踏み切ることが、いかに危険を伴う決断であるか、よくわかっていた。
提言を行えば、当然、創価学会の本質は共産主義であるといった類の、囂々たる非難が沸き起こることを、伸一は、重々承知していた。場合によっては、これが契機となり、学会を危険視してきた勢力が、いよいよ壊滅に追い込もうと、本格的に動きを開始することも、予測されていたのである。
伸一は深く思った。"私が発言するしかない!私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である。何が起こっても、断行する決意を固めるしかない!私の考えが正しかったかどうかは、後世の歴史が証明するはずだ"
伸一は、その発表の場を、学生部総会とし、若き英才たちに、呼びかけようと決めたのである。それは、日中友好の永遠なる「金の橋」を築き上げるという大業は、決して自分一代限りではできないことであるからだ。世紀を超えた、長く遠い道のりである限り、自分と同じ心で、後を受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない。
だからこそ、伸一は、平和の波を広げゆく、後継の人材群の第一陣として、この数年間、学生部の育成に、総力をあげてきたのである。彼には、"学生部員のなかから、自分の提言の実現のために、生涯、走り抜いてくれる同志が必ず出るにちがいない"との、強い、強い、確信があった。
学生部の首脳幹部たちは、多くの学生部員が仏法の精髄に触れる機会をつくりたいと、大学別講義の開催を企画した。講師には、主に、その大学の出身者である、副理事長などの幹部がつくことになっていた。
伸一は、最高幹部会の会議の折にこう訴えた。「若い時代に教学を徹底して学び、仏法の哲理を自己の規範としておかなければ、本当の意味で広宣流布を担うことはできないからです。なぜなら、広宣流布は思想戦だからです。」
「学生部員が、真剣に教学に取り組まず、行事などの運営の真似事みたいなことだけ覚えて、リーダーになっていったら、怖いことです。たとえ、教学を学んだとしても、知識として覚えただけで実践が伴わず、自分を偉そうにみせるための教学であれば、"畜生の教学"です。そんな幹部が出てきたら、学会は食い破られてしまう。」
「したがって、最高幹部である皆さんが、全力を注いで講義し、魂の触発を与え、真の教学と大聖人の御精神を、学生部の諸君に伝え抜いていただきたい。」
さらに、卒業後も、生涯にわたって友情を育み、広宣流布の使命を確認し合えるようにと大学会の結成を提案する。
太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋