小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

December 2019

学生部に託す 金の橋

『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P40~

"文革"の第一歩は、「反動的」「ブルジョア的」な旧地名などの変更から始まり、さらに、革命前からの知識人や著名な学者、芸術家、旧地主、香港・台湾出身者などが、次々と攻撃にさらされたのである。

"文革"の大混乱が続く1967年の8月ソ連の大使館に、中国人のデモ隊が乱入する事件が起きたり、英代理大使事務所が、紅衛兵のデモ隊に包囲される事件が相次ぎ、中国に対する国際世論の批判の声を、ますます高めていったのである。

また、9月には、中国政府は、日中記者交換で駐在が認められていた新聞社のうち3社の記者に対して、常駐資格を取り消した。これによって、日本のマスコミも、中国に対して、一段と強い警戒心をもつようになった。日本国内には、日中友好を口にするなど、もってのほかであるという雰囲気が漂ってしまった。

日中の関係打開への見通しは、依然として立たず、両国の友好への歩みは次々と挫折し、国交正常化をめざして運動を続けていた人びとの心には、絶望と敗北感が、深い闇となって広がっていたのであった。

山本伸一は、今こそ、日中国交正常化への提言を、断じて発表しなければならないと、一段と決意を固めたのである。彼は、日中国交正常化の提言に踏み切ることが、いかに危険を伴う決断であるか、よくわかっていた。

提言を行えば、当然、創価学会の本質は共産主義であるといった類の、囂々たる非難が沸き起こることを、伸一は、重々承知していた。場合によっては、これが契機となり、学会を危険視してきた勢力が、いよいよ壊滅に追い込もうと、本格的に動きを開始することも、予測されていたのである。

伸一は深く思った。"私が発言するしかない!私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である。何が起こっても、断行する決意を固めるしかない!私の考えが正しかったかどうかは、後世の歴史が証明するはずだ"

伸一は、その発表の場を、学生部総会とし、若き英才たちに、呼びかけようと決めたのである。それは、日中友好の永遠なる「金の橋」を築き上げるという大業は、決して自分一代限りではできないことであるからだ。世紀を超えた、長く遠い道のりである限り、自分と同じ心で、後を受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない。

だからこそ、伸一は、平和の波を広げゆく、後継の人材群の第一陣として、この数年間、学生部の育成に、総力をあげてきたのである。彼には、"学生部員のなかから、自分の提言の実現のために、生涯、走り抜いてくれる同志が必ず出るにちがいない"との、強い、強い、確信があった。

学生部の首脳幹部たちは、多くの学生部員が仏法の精髄に触れる機会をつくりたいと、大学別講義の開催を企画した。講師には、主に、その大学の出身者である、副理事長などの幹部がつくことになっていた。

伸一は、最高幹部会の会議の折にこう訴えた。「若い時代に教学を徹底して学び、仏法の哲理を自己の規範としておかなければ、本当の意味で広宣流布を担うことはできないからです。なぜなら、広宣流布は思想戦だからです。」

「学生部員が、真剣に教学に取り組まず、行事などの運営の真似事みたいなことだけ覚えて、リーダーになっていったら、怖いことです。たとえ、教学を学んだとしても、知識として覚えただけで実践が伴わず、自分を偉そうにみせるための教学であれば、"畜生の教学"です。そんな幹部が出てきたら、学会は食い破られてしまう。」

「したがって、最高幹部である皆さんが、全力を注いで講義し、魂の触発を与え、真の教学と大聖人の御精神を、学生部の諸君に伝え抜いていただきたい。」


さらに、卒業後も、生涯にわたって友情を育み、広宣流布の使命を確認し合えるようにと大学会の結成を提案する。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

外交渉外の基本

『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P28~

池田隼人首相が病気療養のため、辞意を表明。佐藤栄作が後継首相に指名された。佐藤首相は、安保条約に同調し、アメリカの反共包囲網に同調し、台湾重視政策をとり、輸出入銀行の資金を日中貿易には使わせないとする、いわゆる「吉田書簡」を政府の方針として正式に採用したのである。

「吉田書簡」は、元首相の吉田茂が、台湾との関係修復のために、蒋介石の秘書にあて、出した私信にすぎなかったが、それを、政府が方針としたことで、輸銀の資金の使用が前提となっていた中国との大型取引がすべて無効となり、日中貿易の発展に大きな障害が生じてしまったのである。

1966年5月のある日、山本伸一は学会本部で、婦人月刊誌が企画した、作家の有吉佐和子との対談に臨んだ。対談が一段落すると有吉が、真剣な面持ちで伸一に言った。「周総理から、伝言を預かってまいりました。『将来、山本会長に、ぜひ、中国においでいただきたい。ご招待申し上げます』と伝えてください、とのことでした。」重大な”メッセージ”である。

伸一は、いよいよ本格的に、日中友好に動きはじめる「時」が来たことを実感した。有吉佐和子との対談からしばらくして、彼女から学会本部に連絡が入った。中国人の友人が、創価学会の幹部との語らいを強く希望しているというのだ。

結局、当時、青年部参与であった秋月ら三人の青年部の幹部が会うことになった。中国側は、孫平化のほか、記者二人である。秋月らは中国側の出席者が、想像した以上に若いのに驚いた。中国でも、若い力が台頭していることに、この国の未来を感じた。

報告を聞いた伸一は、「初対面の時は、互いに緊張するだけに、その硬さを解きほぐしていくことが大事なんだ。それは、笑顔だよ。そして、最初に何を言うかだ。包み込むような温かさがあり、相手をほっとさせるようなユーモアや、ウイットに富んだ言葉をかけることだよ。」

「それから、人と会う時は、相手がどういう経歴をもち、どういう家族構成かなども、知っておく努力をしなければならない。それは礼儀でもあるし、渉外の基本といってよいだろう。」

「この人は、自分のことを"ここまで知ってくれているのか"と感心もするだろうし、心もとけ合うだろう。それが、胸襟を開いた対話をするための第一歩となるんだ。」伸一は、後々のために、青年たちに、外交の在り方を語っておきたかった。

「まずは、歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ることです。その思いを、人びとの心を、理解することです。そうすれば、日本人として反省の念も起こるでしょう。当然のこととして、謝罪の言葉も出るでしょう。それが大事なんです。相手が、こちらの人間としての良心、誠実さを知ってこそ、信頼が生まれていくからです。」

「国と国との外交といっても、すべては人間同士の信頼から始まる。だから、私たちは、日本の国がどういう政策をとろうが、中国の人たちとの、人間性と人間性の触れ合いを常に大切にし、人間としての誠意ある外交をしていかなければならない。」 佐藤政権は、その後も中国を敵視する政策を強化していった。

中国の国内も、揺れに揺れていた。あの「プロレタリア文化大革命」が猛威を振るっていたからである。"文革"は、革命精神を永続化する意図で、文芸や歴史学の批判から始まり、修正主義、資本主義へと傾斜していく傾向を改めようとするものであった。

66年、急進的な学生、生徒によって「紅衛兵」が組織されると、その動きは、一挙に過激化していった。"兵"といっても、年少者は13歳ほどの少年少女までいた。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

日中友好の パイプ

『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P17~

この激動の時代のなかで、必死になって、日中間の亀裂を修復しようとする人物がいた。代議士の松村健三である。松村は、新中国の実情を自分の目で確かめるとともに、自ら日中のパイプ役になろうと、中国訪問を望んでいた。周総理も、両国の未来のために、松村の訪中の意向を重要視して、彼を中国に招いた。1959年の秋のことである。松村は当時76歳であり、迎える周総理は61歳であった。

この訪中は、全行程1万5千キロにわたる40余日の緊張の旅であったが、松村は、勇んで中国の大地を踏んだ。座していたのでは、事態は開けない。行動である。会って語り合う勇気こそが、歴史を変えていくのだ。

松村は、周総理に 日中友好の力になる人物として、高碕達之介を推薦したのであった。

反中国政策を続けていた岸首相は、安保改定を強行し、世論の猛反発を買い、退陣を余儀なくされた。代わって、池田隼人が首相になり、日本は高度成長を遂げ、日中関係も改善の道をたどっていく。

周総理も日中貿易の再会に前向きな姿勢を見せ、「貿易三原則」を明らかにした。低迷していた日本の経済界は湧き立った。

池田首相から、中国のすべてをまかされていた松村健三が訪中し、周総理と会談。翌月、高碕達之介と中国側の代表廖承志と検討を重ね、「日中総合貿易に関する覚書」に調印、これは、二人のイニシャルから「LT貿易」と呼ばれ、"半官半民"的な性格をもつ、国交正常化をめざす、新たな連絡ルートの誕生となった。

日中友好の歴史が編まれていくなかで、周総理の目は、創価学会に向けられていった。松村、高碕両氏が、訪中した際に、日中の友好のためには、創価学会と交流することが大事だと強調していた。

周総理は、創価学会の調査、研究を 中国人民外交学会に指示している。外交学会は、創価学会についての調査、研究のリポートを上層部の多くの人に伝えるために、本を出版している。リポートなかには、誤解もあったが、このリポートを目にした周総理は、引き続き調査研究を続けるよう指示した。

周総理に学会のことを語った高碕氏と山本伸一が語り合ったのは1963年の9月。彼は既に78歳になっていた。35歳の伸一とは、親子以上の年の隔たりがあった。高碕は、伸一の顔をじっと見すえ、「あなたには、日中友好の力になってもらいたい!」その声には、一歩も引かぬという気概があふれていたが、また、懇請のようでもあった。

高碕は、伸一の手をぎゅっと握りしめた。"日中友好の「金の橋」を架けてみせる!"以来、それが、伸一の固い決意となった。


翌月、中国は、「中日友好協会」を発足させた。国交のない日本のために"友好協会"が設けられたことは、例外的な措置であった。

その駐日事務所の、首席代表として来日したのが、後に中日友好協会の会長を務める孫平化であった。
孫は、周総理から「なんとか創価学会との間に交流のパイプをつくり、友人をつくらなければなりません」と言われていた。

国と国の関係といっても、永続的に友好を維持していくには、民衆次元での活発な交流が重要になる。その窓口を開くには、どうしても政治の力が必要である。

公明政治連盟が公明党として新出発するにあたり、伸一は「公明党の外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。」唯一の提案をしていた。この伸一の要請に、公明党も、懸命に応えようとしていた。

しかし、それも束の間、日中間には、再び暗雲が垂れ込めていったのである。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

中国の孤立

『新・人間革命』第13巻 金の橋の章 P7~

1968年(昭和43年)山本伸一は、日大講堂で行われる、第11回学生部総会の講演の原稿づくりに取り組んでいたのである。

伸一は、近年、本部総会や、青年部の各部の総会では、ベトナム戦争をはじめ、世界、社会が直面する諸問題を取り上げ、その解決のための提言を重ねてきた。彼は、今度の総会では、未来永遠に渡る日中友好の大河を開くために、中国問題について提言を行うことを、心深く決意していたのだ。

中国は、当時、既に、7億を超す世界第一の大きな人口を抱える国であった。しかし、国連からも締め出され、極端な孤立化の道を歩んでいた。中国とソ連の関係も悪化し、一段と緊張は高まりつつあった。国債情勢のなかでの中国の立場は、北と西はソ連によって、南と東は事実上、アメリカによって包囲されている状況といってよかった。


この包囲網を突き破ろうと、中国は軍事力を強化し、ミサイルと書くの開発に力を注いでいた。ゆえに、伸一は、一日も早く、他の多くの国々と、平等、公正に話し合える国際舞台に、中国を登場させなければならないと、これまでも、声を惜しまず、主張し続けていたのである。

その実現のために、大いに力を発揮できる国が日本であり、それこそが、わが国が担うべき国際的使命であると、彼は確信していた。日本は、古代国家として統一する以前から、一貫して中国文明の強い影響を受けながら、発展を続けてきた。これは、周知の事実だ。

この縁も深き、計り知れない大恩の国である中国を、かつて、日本は侵略した。悪逆非道の限りを尽くした。なんたる不知恩、なんたる傲慢か!だからこそ、伸一は、一人の日本人として、また、仏法者として、中国、そして、アジアの人びとの幸福と平和のために、一身をなげうつ覚悟を決めていた。

それは、師の戸田城聖の誓いでもあった。伸一は、22歳の時から戸田の個人教授を受けたが、中国に関する授業には、一段と熱がこもっていた。伸一は、この授業を通して、中国の気宇壮大な理想と、豊かなる精神性に、深く、強く、魅了されていったのである。

日本は、戦後、なぜ中国との国交正常化に踏み切ることができなかったのか。第二次世界大戦後、カイロ会談で、戦後処理が話し合われた。台湾は、戦後、中国に返還されると決められたが、毛沢東率いる、中国共産党が内戦に勝利すると、国民党は台湾に逃れ、中華人民共和国が成立した。

6月に朝鮮戦争が、勃発すると、共産主義の拡大を恐れたアメリカは、内政不干渉の方針を変え、台湾の国民政府に軍事援助を行い、共産勢力の台湾への攻撃阻止にあたらせた。また、国連では、台湾の国民党政府が、全中国を代表する政権としての地位を維持していた。アメリカは、日本に、この国民党政府との講和締結を迫り、日本は、平和条約に調印した。

これが、日本と中国との関係に、決定的な溝を刻むことになってしまったのである。しかし、中国の周恩来総理は、この悪条件下、貿易を中心とする民間交流を活性化させる方針を打ち出していった。こうした人びとの努力が実り、日中間に民間貿易協定が結ばれた。

しかし、首相に就任した岸信介は、中国との対決姿勢を鮮明に打ち出し、反共・反中国的な発言を繰り返したのである。

そのなかで、"長崎国旗事件"が起こり、中国の国旗は、国を代表する旗ではないとされ、中国にとっては、国家の名誉と尊厳がふみにじられたに等しく、これが、契機となって貿易交渉は、決裂し、日中貿易は、中断してしまったのだ。

日中貿易の途絶は、中国から輸入される「食材」や「漆」等を扱って成り立っていた、企業などに、大打撃を与えた。周総理は、その窮状を救おうと、中国の特定物資の供給を希望するものは、友好団体の紹介があれば、特別に配慮するという「配慮物資」を供給し、これによって、日中の交流の命脈は、辛うじて保たれることになったのである。



太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋

21世紀への飛翔

『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P386~

山本伸一は、学園生の未来の大成のために、全魂を傾け続けた。夏休みには、教師、生徒の代表に、アメリカ旅行を体験させている。生徒の世界性を育む道を開こうとしていたのである。世界の識者を案内することもあった。

伸一は、固く心に決めていた。たとえ、学園生が人生につまずくことがあったとしても、自分は、生涯、励まし、見守り続けていこうと。


創価学園の30余年の歴史のなかには、問題を起こして、やむなく退学となった生徒もいた。ある年、中学三年生の寮生二人が、不祥事を起こし、退学処分となり、大阪へ帰るとの報告を聞いた。伸一は、二人と会い、全力を注ぐ思いで、話した。そして、「何があろうが、いつまでも、君たちの味方だよ」と言って、大阪に行った時、私を訪ねてくるようにと約束する。

2年ほどしたころ、関西文化会館に、家族に促されて、二人がやって来た。二人とも革のジャンパーを着て、一人は髪をリーゼントにしていた。伸一は、彼らが約束を守り、自分を訪ねて来たことが、嬉しかった。

二人をその後も約束を守り、伸一が大阪を訪問すると、彼に会いに来た。その後、二人は、地下鉄の運転手になり、職場に信頼の輪を広げるとともに、地域にあっては、学会のリーダーとして、活躍していくことになるのである。

伸一にとっては、退学することになった生徒も、すべてが学園生であった。伸一の学園生への激励は、在学中はもとより、卒業後も折に触れて続けられた。

下宿生の中心者となったあの矢吹は、その後、開学した創価大学の経済学部に進学し、第一期生として大学建設に全力で取り組んだ。そして、彼は、創価大学を卒業すると、アメリカのグスタフ・アドルフ大学に留学した。

ミネソタの冬は、寒く、真冬には、氷点下20度から30度になる日がある。自分だけが、取り残されたような気がしていた時、山本伸一から手紙が届いた。見覚えのある山本伸一の字であった。「君よ、我が弟子なれば、今日も、30年先のために、断じて戦い進め。君の後にも、多くのわが弟子たちの、陸続と進みゆくことを、忘れないでいてくれ給え。」涙で文字がかすんだ。

矢吹は、"先生のおっしゃる通り、何千人、何万人と続く、学園生、創大生のために、今、自分はここにいるんだ!負けるものか!"こう誓った。伸一はその後も矢吹を激励し、「将来は、アメリカに創価大学をつくるから、その時のために、しっかり勉強して、博士号を取るんだよ」と。矢吹は、9年間の留学生活の末に、ワシントン州立大学で、博士号を取得したのである。

山本伸一は、生徒の幸福と栄光の未来を考え、一人ひとりを大切にする心こそが、創価教育の原点であり、精神であると考えていた。国家のための教育でもない。企業のための教育でもない。教団のための教育でもない。本人自身の、そして、社会の、自他ともの幸福と、人類の平和のための教育こそ、創価教育の目的である。

その精神のもと、創価大学が開学したのをはじめ、創価中学・高校が開校。北海道には札幌創価幼稚園、小平市には、東京創価小学校、枚方市には、関西創価小学校、創価女子短期大学が開学した。

世界にも、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジルに、創価幼稚園が開園。アメリカ創価大学が、開学。学長にはあの創価学園出身の、矢吹が就任した。

2001年、「創価学園21世紀大会」が開催。18期生までの、代表約3200人が、日本全国、さらに世界16カ国・地域から母校に帰ってきたのである。開校から33余年。青春の学舎から旅立った学園生たちは、「世界に輝く存在」となり、創価教育原点の地に立った。

卒業生からは、140人の医師、111人の博士、60人の弁護士や法曹関係者、60人の公認会計士、462人の教員が誕生し、会社社長、ジャーナリスト、政治家もいた。まさに、世界市民の同窓会となった。

伸一は『創価教育学体系』第一巻発刊より75周年の2005年の再会を約束した。

『新・人間革命』第12巻 終了

栄光の章は、2001年9月の「創価学園21世紀大会」で締めくくられていますが、その場面が聖教新聞に掲載されたのは、大会が行われた、わずか3か月後です。池田先生の思いが感じられます。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

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