小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

November 2019

対話による 一念の転換

『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P16~

最後に 伸一は 学会の指揮をとった。雄渾にして、優雅な、大鷲が舞いゆくような指揮である。“次の七年間も、私は力の限り、命の限り、広宣流布の指揮を、断固、とり続ける!”こう誓いながらの、出陣の舞であった。

5月13日には、山本伸一は、アメリカ、ヨーロッパ各国の歴訪の旅に出発した。早くも世界広布の第二ラウンドへ、伸一の大回転が始まったのである。伸一の最初の訪問国は、アメリカで、ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨークを回ってヨーローパに入り、フランス、イタリア、スイス、オランダを歴訪することになる。

ホノルルに到着すると ハワイに誕生した本誓寺の入仏式が行われた。7年前の10月、伸一が世界平和への旅の第一歩を、このハワイの地に印した時、座談会に集ってきたのは、わずか30数人にすぎなかった。それが、今や太平洋の一大拠点に発展し、会館に引き続き、寺院まで建立されるにいたったのである。メンバーは既に2千世帯を超えていた。

7年前を知る同行の幹部たちにとっては、まさに隔世の感があった。

大発展の 原動力がなんであったか。それは、伸一の同志一人ひとりへの徹底した励ましであった。

組織といっても、あるいは運動といっても、それを支えているのは、一人ひとりの人間である。その人間が一念を転換し、使命に目覚めたち、最大の力を発揮していくならば、すべてを変えることができる。ゆえに、個人指導という、目立たぬ、地道な活動こそが、広宣流布の生命線を握る、最も重要な作業となるのである。

対話による一念の転換ーーそこに、勝利を打ち立てる一切の鍵がある。

ハワイ会館に入ると皆が握手を求めてきた。伸一は、その手を強く握り返しながら、ねぎらいの言葉をかけた。握手をしながら、その人のための励ましの言葉を、瞬時に紡ぎ出した。

幹部が伸一に尋ねた。「先生がそれぞれのメンバーに語られる、激励の言葉を聞かせていただきまして、その内容が本人にとって、本当にぴったりのことばかりなので驚いております。どうすれば、ああいう言葉をかけることができるのでしょうか」

「私は真剣なんです!」伸一から返ってきたのは、その一言であった。特別な秘訣や技巧などはない。

真剣ーーこの二字のなかには、すべてが含まれる。真剣であれば、勇気も出る。力も涌く。知恵も回る。また、真剣の人には、ふざけも、油断も、怠惰もない。だから、負けないのである。そして、そこには、健気さが放つ、誠実なる人格の輝きがある。


伸一が、一人ひとりに的確な励ましを送ることができるのも、“もうこの人と会うのは最後かもしれない”という、一期一会の思いで、瞬間、瞬間、魂を燃焼し尽くして、激励にあたっているからである。

相手が、”どういう気持ちでいるのか”“何を悩んでいるのか”“どんな生活をしているのか”など、一念を研ぎ澄まして洞察し、発心と成長を祈り念じて、魂の言葉を発しているのだ。

伸一のメンバーへの激励は、あらゆる場所で続けられた。

彼は、一人ひとりと心を結び合いたかった。
学会は、ただ組織があるから強いのではない。そこに心の結合があるから強いのである。

5月15日には、ロサンゼルスに移り、ロス郊外のエチワンダに完成した妙法寺の入仏式に出席した。この寺は、平屋建てで一部二階の、高い天井が特徴の近代的な木造建築であった。庭には芝生が植えられ、築山、池、松などを配した日本庭園もつくられていた。

ブドウ畑やオレンジ畑だった土地を整地して、雑草も、一本一本、丹念に抜き取り、石を運び、樹木を植えていったのである。そのための労働力は、すべてメンバーが提供したものであった。

"寺院ができれば、出張御授戒を待つことなく、いつでも御本尊流布をすることができる。どれだけ広宣流布が進めやすくなることか!"そう思うと、メンバーは嬉しくてたまらず、自ら勇んで、重労働をかって出たのである。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

会長就任 7周年

『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P7~

<新緑の章 開始>

朝は希望である。心に希望をもてる人は、新しい朝を迎えることが楽しい。新しき人生の出港の銅鑼を、力いっぱい、高らかに打ち鳴らせ!我らの尊き使命の偉大なる決戦の大航海が、今始まるのだ。

1967年5月3日(昭和42年)5月3日 山本会長就任7周年となる第30回本部総会が、晴れやかに開催された。

会場の日大講堂は、午前8時過ぎには、人また人で埋まった。どの顔も歓喜に燃え、どの頬も紅潮していた。皆、伸一と共に戦い、共に泣き、共に笑い、広宣流布に走り抜いてきた同志である。そして、そのなかで、人生の苦悩を乗り越え、宿命を転換し、自身を輝かせてきたのだ。それだけに、限りない感謝の念と、雀躍せんばかりの弾む心で、あの友も、この友も、集まってきたのである。

海外からの祝電が披露され、次々と、世界各地のメンバーの喜びと決意が伝えられた。広宣流布のこの広がりこそ、伸一が12回にわたって海外訪問を重ね、世界の5大州を駆け巡ってきた、奮闘の結実であった。

開会が宣言され、総務の十条潔が、伸一の会長就任以来の歩みを語り始めた。世帯数は、140万から625万世帯に、支部数は、61から、国内だけで3393と大躍進を遂げた。一方、民音設立、公明党の創立、創価中学・高校の開校、創価大学も開学に向かい準備が進んでいた。

伸一の講演が始まった。広布の第二ラウンドとなるこれからの7年が重要になると述べ、正本堂の完成が、第7の鐘の出発となる昭和47年に完成になることを発表し、世界的な建造物は、権力者の名によって建てられたが、正本堂は、人民の誠意と歓喜による建立であり、世界に誇るべき民衆の建立による本門の戒壇であると訴えた。

ここで、伸一は、現代社会に鋭い分析の眼を向け、人間疎外の問題について論じていった。文明の行き詰まり等の問題は、究極的には、人間性喪失、すなわち、人間疎外の問題について論じていった。

組織が膨大となり、人間一人ひとりは、その歯車にすぎなくなってしまい、そこで、組織それ自体が巨大なメカニズムとなり、個人の意思を超えて動き、個人は言い知れぬ無力感と虚無感に覆われている。さらに、マスメディアによって、情報、ニュースが、洪水のように流されるなかで、現代人の多くは、ただ、それを受け取るだけになっていると指摘。

そうした状態が続くうちに、自分から意欲的に主体性をもって働きかけるよりも、受け身的で消極的な、弱々しい精神構造になりつつあるといい、また、生き方、考え方の確固たる基準がないことから、理性的な判断に欠け、その場、その場で、衝動的、本能的に行動してしまう傾向が強くなってきていると述べた。

人類の未来のため、解決の糸口を示さなければならないと考え続けてきた伸一は、機械文明の力を自在に使いこなしていける、強い自己自身をつくっていくことが、肝要であり、そのためには、支柱となるべき、思想、宗教が不可欠であることを述べた。

最後に彼は、決意も深く、こう結んだ。「私どもは、生涯、いかなる嵐が吹き荒れようが、地を走る獅子王のごとく正々堂々と、天空を翔る鷲のごとく自在闊達に、思想界、宗教界の王者の自覚で、日蓮門下として、決して恥じない法戦を貫き通していこうではありませんか!」

皆、伸一の講演を聴くと、目から鱗が落ちる思いがした。多くの参加者は、それぞれ、生活苦や病、家庭不和などを信心によって克服してきた体験をもち、仏法への強い確信をいだいてはいた。

この講演によって、「人間疎外」という難問を解決していく唯一の道が、仏法にあることを知り、ますます確信を深めたのである。同時に、それは、ここに集った同志たちに、人類のかかえる難問題に挑み、解決していく、仏法者の使命と責任を深く促すものとなった。



太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

塚原問答

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P392~

文永9年、1月16日、佐渡はもとより、越後、越中、出羽、奥州、信濃等の諸国から、諸宗の僧ら数百人が塚原三昧堂に、集まり、日蓮を罵り、騒ぎ、わめいて、異様な雰囲気であった。

日蓮は、諸宗の僧らの言い分を聞いて、それを一つ一つ確認したうえで、鋭く、誤りを突き詰めていった。日顕の破折は、利剣が瓜を切るような鮮やかさであった。これが有名な「塚原問答」である。

この問答を契機に、学僧の最蓮房はじめ、多くの人びとが日蓮に帰依することになるのである。

それから間もない、2月11日、幕府で「北条時輔の乱」が勃発、北条一族の同志討ちであり、日蓮の預言通り、自界叛逆難が 起こったのだ。

相次ぐ預言の的中に、幕府は弟子を釈放したり、日蓮の身柄を一谷入道邸に移したが、過酷な状況に変わりはなかった。そんななか、佐渡流罪中に、日蓮は、多くの重要な御書を残している。

日蓮は、佐渡に流されてからも、弟子たちのことが頭から離れなかった。竜の口の法難以来、弾圧の過酷さ、恐ろしさから、退転したり、法門への確信が揺らぎ始めた弟子たちが、少なくなかったからである。臆病と不信によって、信心の心が食い破られていったのである。

臆病な心と戦おうとはせず、弘教の方法論に問題をすり替えて師匠を批判し、弟子としての戦いの放棄を正当化しようというのだ。堕落し、退転しゆく者が必ず用いる手法である。


佐渡で認めた御書には、弟子の惰弱さを打ち破り、まことの信心を教えんとする、日蓮の厳父のごとき気迫と慈愛が脈打っている。諸天の加護や安穏を願って、一喜一憂していた弟子たちの信仰観を砕き、真実の「信心の眼」と「境涯」を開かせんとする魂の叫びであった。「善につけ悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」と、強く警鐘を発する。

また、「難即悟達」の原理を示し、法難こそ、一生成仏のための不可欠な条件であり、難を「喜び」「功徳」ととらえ、難を呼び起こせと説いているのである。

これこそ、最大の「マイナス」を最大の「プラス」へと転じ、最高の価値を創造しゆく、大逆転の発想であり、人間の生き方を根本から変えゆく、創造の哲学といえよう。


佐渡の念仏者たちは、日蓮を絶対に鎌倉に帰すまいと、さまざまな画策をつづけ、殺害の計画も立てたが、すべては虚しく終わった。

蒙古襲来におびえ、社会の混乱から、太陽が二つに見えたなど、不可思議な現象が相次いで起こり、もはや日蓮の預言の的中を見過ごすことができなくなった執権時宗は、文永11年3月、日蓮に赦免状を届け、3月15日、日蓮は佐渡を後にしたのである。

山本伸一は、佐渡を離れる船のなかで、自分もまた、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との決意で、広布に生き抜こうと誓ったことが忘れられなかった。

伸一は、佐渡の同志たちに、必ず大難があると語ったが、このところ、その予感が、日ごとに強くなっていくのである。特に、公明党が衆議院に進出してからは、それが、ことのほか、胸に迫ってきてならなかった。

創価学会も公明党を誕生させ、その党が衆議院に進出し、いよいよ仏法の慈悲を根底にした人間主義の政治の実現に、本格的に着手したのだ。これは、政治権力の悪を断とうとするものであり、諫暁に通じよう。

ゆえに、それを排除せんとする画策がなされるのも、また、当然といえる。

しかし、伸一は、すべてを覚悟で、進もうと思った。仏法を社会に開きゆくためにーー。

<躍進の章 終了>

<「新・人間革命」 11巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


滝の口 発迹顕本

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P384~

兵士たちは、狂ったように経巻を踏みつけるなど、常軌を逸した光景が繰り広げられていた時、日蓮の大音声が響いた。「あらおもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」大獅子吼であった。

日蓮は、「佐渡流罪」を言い渡されたが、それは、表向きで、夜半に、日蓮は馬に乗せられ、密かに竜の口の刑場で斬首されることになった。

途中、日蓮は、八幡宮の前を通る時、八幡宮に向かって、「いかに八幡大菩薩はまことの神か」と叫び、法華経の行者を守護すると誓った諸天善人が、法華経の行者日蓮を守護しないならば、仏説が、虚妄となってしまうので、釈尊の責めをうけると、叱咤したのである。

日蓮は、四条金吾に使いを出し、法華経のために命を奉ることができる喜びを、語った。処刑の瞬間まで、弟子のために法を説き、指導し続けようとする師であった。殉難を恐れぬ日蓮の言葉に、四条金吾も、勇気を奮い起こした。

四条金吾は、日蓮の乗った馬の轡にすがるようにして、ともに歩み始めた。もし、この師が死ぬならば、自分も、ともに殉ずる覚悟で竜の口までついて行ったのである。


処刑されようと言う時、声をあげて泣く四条金吾に、日蓮は、毅然として「なんという不覚の殿方か!こんな喜びはないではないか。笑いなさい」と叱咤した。

処刑の準備が整い、日蓮は頸の座にすえられた。兵士が太刀を抜いて、頸を斬らんとした、まさにその時。江の島の方向から、漆黒の闇のなかを、月のように光る物が現れた。それは毬のようでもあった。そして、東南から北西の方角に光り渡った。

兵士たちの顔は、どの顔も恐怖に引きつっていた。太刀を手にしていた兵士は目がくらみ、その場で倒れ伏した。皆、怖じけづき、もはや頸を斬る気など、全く失せてしまった。

日蓮の声が響いた。「頸を斬るならば、早く斬れ!夜が明けてしまえば、見苦しかろうぞ!」だが、日蓮を斬ろうとする者は、誰もいなかった。

まさに法華経に説かれた「刀杖不加」「刀尋段段壊」の文の通りであった。それは、大宇宙に遍満する魔性の生命を打ち破り、本仏の生命が顕在化した証であった。この時、日蓮は、凡夫の生命から久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の本仏の命を顕したのである。発迹顕本の瞬間であった。

幕府では、日蓮の処置について意見がまとまらず、その間も、念仏者たちの仕組んだ罠で、殺人や放火が日蓮の弟子のせいだと噂され、投獄されたり、所領を取り上げられる弟子が後を絶たなかった。

結局、1か月以上もかかって、日蓮は佐渡に配流となったのである。

佐渡の冬の塚原は、極寒で、日蓮は衣は薄く、食は乏しく、寒さと飢えにさいなまれながらの毎日であった。島民も流人の日蓮に接する態度は荒々しかった。佐渡にあっても、念仏者の力は強く、彼らの憎しみは甚だしかった。

念仏を信ずる者のなかでも、ことのほか強情な信者の阿仏房は高齢であったが、塚原に乗り込んできた。しかし、日蓮が、念仏の誤りを経文に照らして、理路整然と語る、清廉さと威厳と、人格の輝きに、眼から鱗の落ちる思いで、その場で念仏を捨てて、日蓮に帰依したのである。

阿仏房は、妻の千日尼にも念仏を捨てさせ、以来、二人は、信心の誠を尽くして、日蓮を外護していくことになる。監視の目をくぐり抜け、食物をはじめ、紙など、必要な品々の供養も届け続けた。その紙を使って、日蓮は、この佐渡の地で、次々と重要な訪問を書き残していったのである。

佐渡の念仏、禅、律の僧らは、日蓮への憎悪を燃やし、いかに対処すべきか詮議を重ねていた。殺害計画も考えられたが、守護代の本間六郎左衛門が「法門で責めるべきだ」と、厳重に申し渡したことから、法論を行うことにしたのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


日蓮大聖人の 法難

『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P376~

諫暁によって、幕府の権力と癒着し、庇護されて栄華を極めてきた諸宗、なかでも念仏の僧らにとって、日蓮は、自分たちを脅かす危険な人物となったのである。

「立正安国論」の提出から1か月余りが過ぎた8月27日の夜、突如、念仏者が退去して、日蓮がいた鎌倉・松葉ヶ谷の草庵を襲撃した。日蓮への本格的な迫害の始まりであった。

翌弘長元年(1261年)5月、時の執権・北条長時によって、理不尽にも、伊豆の伊東に流罪される。伊豆流罪は、1年9カ月に及んだ。

赦免された日蓮は、母の妙蓮が病床にあると聞いて、故郷の安房(千葉県)に向かった。この安房の小松原で、東条景信ら多数の武士たちによって、襲撃されるのだ。刀を振りかざし、矢を射て、襲いかかる武士たちにとって、鏡忍房が殺され、さらに二人の弟子が重傷を負ったのである。また、日蓮も、額を切られ、手を折られている。

文永5年蒙古のフビライから国書が届き、日蓮が「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなろうとしていたのである。蒙古が責めて来るーーその恐れと不安に、国中が包まれた。幕府は、諸寺に蒙古調伏の祈祷を命じた。高齢の政村にかわって、18歳の北条時宗が執権に就いた。

日蓮は、幕府に強い影響力を持っていた僧に「安国論御勘由来」を送った。さらに、時の権力者や、高僧らに、11通の諫状を矢継ぎ早に認めて送った。

為政者、そして、その権力と癒着した他宗の高僧を完膚なきまでに破折し、諫めれば、どんな結果になるかは、目に見えていた。

日蓮が諫状を出した相手は、いずれも世間の尊敬を集めていた人物である。特に良観などは、聖人として崇められ、自らも、表面上は、そのように振る舞ってきた。

しかし、日蓮の痛烈な破折を浴びるや、“法師の皮を著たる畜生”の本性をさらけ出し、日蓮を叩きつぶそうと、阿修羅のごとき姿を現じ始めたのである。彼らは、必死だった。日蓮との公場対決などという事態になれば、勝ち目など全くないことを、彼ら自身が最もよく知っていたからだ。

彼らは、日蓮を抹殺せんと、密かに奸計を巡らしていたのである。

国難の危機が高まるなか、大旱魃が続き、人びとの窮乏と疲弊は、一層激しさを増していった。対応の術のない幕府は、極楽寺良観に雨乞いを命じたのである。

日蓮は、良観に「もしも、7日以内に雨を降らすことができたら、自分が良観の弟子となる。降らなければ、良観が法華経に帰依せよ」と言付けた。

良観は、弟子120余人を集め、7日間必死に祈ったが、雨が降らないばかりか、暴風まで、吹き荒れたのである。良観は、期限を7日間伸ばしてもらって、祈祷をつづけたが、雨は降らず、旱魃、大風は、激しくなるばかりであった。まぎれもなく、良観の完敗である。

良観は、恨みと憎悪と嫉妬の炎を燃え上がらせ、日蓮をなき者にせんと、幕府の高官の夫人や、夫を亡くして尼となった女性に讒言して幕府を動かし、日蓮を葬り去ろうと計画したのだ。

日蓮は、評定所に召喚され、侍所の所司平頼綱により、取り調べを受けるが、それは、日蓮による折伏の場となった。頼綱は怒り狂った。日蓮は、釈放されるが、1日おいた9月12日、頼綱は、夕刻武装した数百人の兵士を率いて、日蓮を捕らえようと 松葉ケ谷の草庵へ向かった。

兵士たちは狼藉の限りをつくし、日蓮は、懐にあった法華経第5の巻で、頭を打たれた。第5の巻は、末法において法華経を弘めるならば、刀で切られ、杖で打たれる難に遭うと説かれた勧持品が収められた巻である。日蓮は、その第5の巻をもって杖の難を受けたのだ。法華経の身読である。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋


カテゴリー


新・人間革命 第30巻 下 / 池田大作 イケダダイサク 【本】


→メルマガで届く 『小説 新・人間革命』に学ぶ
ブログでは 言えないこと

メルマガ『勝利の哲学 日蓮大聖人の御書に学ぶ』