『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P~64
パリ会館の入仏式の席上、山本会長は、フランスに三つ目の支部としてモンパルナス支部が、イギリスに初の支部としてロンドン支部が形成されたと発表した。記念植樹のあと、参加者と記念撮影した。
伸一は、真っ先に長谷部彰太郎に声をかけた。長谷部は、川崎夫妻が交通事故で倒れると、今こそ自分が頑張らなければと、メンバーの激励に奔走してきた。川崎の事故によって動揺し、仏法に不信をいだいたりすることがないよう、心を砕いて指導に歩いた。
伸一は、川崎が入院したにもかかわらず、フランスの組織の活動が着実に進んでいることから、必ず、陰で奮闘している人がいるはずであると考え、それが長谷部であることを知り、彼を讃えたかった。
長谷部は、山本会長が自分の影の努力を見てくれていたことが、限りなく嬉しかったのである。
メンバーのなかに、佐賀県からフランスに来た、村野貞江という女子部がいた。彼女は、故郷の佐賀県で、佐賀県出身の水沢正代が、フランス広布に人生を捧げたいと決意しているという話を聞き、世界平和を実現する広宣流布のために生きたいと、強い気持ちをいだいていた。
一時帰国していた水沢に会い、その思いを強くするが、フランス語も話せず、具体的な展望もないことから、家族をはじめ、皆に大反対される。水沢もフランスで生活することの厳しさを語り、あきらめるように話したが、彼女のどこまでも一途な情熱に水沢の心は動いた。
人の心をゆり動かすものは、真剣さであり、情熱である。
村野は、渡仏するまでに、語学の習得と、仏法を語れる力をつけるために、10世帯の折伏をするよう約束した。
水沢は、美容師としての技術を学ぶために渡仏し、そこで、入会した。帰国した水沢は、家族を入会させ、再びパリに渡って勉強を続け、学会活動にも励み、信心の面でも成長を遂げていた。日本に帰国した時、フランス女子部の幹部の任命を受けた。
彼女は、日本に帰国し、実家の美容室を継ぐつもりであったが、役職をいただいたことは、フランス広布のために頑張る使命があると考え、三度フランスに渡った。
村野は、ラジオ講座で、語学の勉強を始めるとともに、折伏に奔走し、次々と弘教を実らせていった。その姿を見ていた両親は、世界広布のため、渡仏することを許した。
日本を発つ前に、夏期講習会に参加した二人は、山本会長にあいさつし、伸一の配慮で、歓送会を開いてもらい、伸一からもらった餞別で、仏壇を購入し、パリに出発したのだった。
若い彼女には、人脈も、財産も、語学力さえもなかった。ただ、その胸には、清らかな、まばゆいばかりの、フランス広布への決意があった。それは水沢も同じであった。
フランス語が話せない村野は、「仏教に興味はありませんか。会合がありますので出席しませんか」と、フランス語で書いた紙を見せることにした。ただ、座談会上に案内することしかできなかったが、退院した川崎や、長谷部たちが、新来者に、懇切丁寧に話をしてくれた。その結果、村野は、山本会長を迎えるまでの半年余りの間に、4,5人の人に弘教するこができたのである。
あの夏期講習会から、9か月ぶりに見る二人の顔は晴れやかであった。伸一は安堵した。
もう一人、決意のこもった目で伸一を見つめる、日本人の女子部員がいた。美術大学に通う入瀬真知子である。入瀬は、商業デザインの勉強のためにパリに来た。そこで学会の話を聞き、入会したのである。入瀬に信心の基本を教えたのは、長谷部の紹介で3年前に入会した、フランソワーズ・ウォールトン・ビオレであった。
彼女は、喘息で苦しむ愛娘が、信心を始めて元気になったことから、仏法への確信を深め、弘教に、教学に力を注ぐなかで、広宣流布の使命を自覚していったのである。フランス人の女性リーダーの誕生であった。
太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋