小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

November 2019

フランス女子部リーダーの誕生

『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P~64

パリ会館の入仏式の席上、山本会長は、フランスに三つ目の支部としてモンパルナス支部が、イギリスに初の支部としてロンドン支部が形成されたと発表した。記念植樹のあと、参加者と記念撮影した。

伸一は、真っ先に長谷部彰太郎に声をかけた。長谷部は、川崎夫妻が交通事故で倒れると、今こそ自分が頑張らなければと、メンバーの激励に奔走してきた。川崎の事故によって動揺し、仏法に不信をいだいたりすることがないよう、心を砕いて指導に歩いた。

伸一は、川崎が入院したにもかかわらず、フランスの組織の活動が着実に進んでいることから、必ず、陰で奮闘している人がいるはずであると考え、それが長谷部であることを知り、彼を讃えたかった。

長谷部は、山本会長が自分の影の努力を見てくれていたことが、限りなく嬉しかったのである。

メンバーのなかに、佐賀県からフランスに来た、村野貞江という女子部がいた。彼女は、故郷の佐賀県で、佐賀県出身の水沢正代が、フランス広布に人生を捧げたいと決意しているという話を聞き、世界平和を実現する広宣流布のために生きたいと、強い気持ちをいだいていた。

一時帰国していた水沢に会い、その思いを強くするが、フランス語も話せず、具体的な展望もないことから、家族をはじめ、皆に大反対される。水沢もフランスで生活することの厳しさを語り、あきらめるように話したが、彼女のどこまでも一途な情熱に水沢の心は動いた。

人の心をゆり動かすものは、真剣さであり、情熱である。

村野は、渡仏するまでに、語学の習得と、仏法を語れる力をつけるために、10世帯の折伏をするよう約束した。

水沢は、美容師としての技術を学ぶために渡仏し、そこで、入会した。帰国した水沢は、家族を入会させ、再びパリに渡って勉強を続け、学会活動にも励み、信心の面でも成長を遂げていた。日本に帰国した時、フランス女子部の幹部の任命を受けた。

彼女は、日本に帰国し、実家の美容室を継ぐつもりであったが、役職をいただいたことは、フランス広布のために頑張る使命があると考え、三度フランスに渡った。

村野は、ラジオ講座で、語学の勉強を始めるとともに、折伏に奔走し、次々と弘教を実らせていった。その姿を見ていた両親は、世界広布のため、渡仏することを許した。

日本を発つ前に、夏期講習会に参加した二人は、山本会長にあいさつし、伸一の配慮で、歓送会を開いてもらい、伸一からもらった餞別で、仏壇を購入し、パリに出発したのだった。

若い彼女には、人脈も、財産も、語学力さえもなかった。ただ、その胸には、清らかな、まばゆいばかりの、フランス広布への決意があった。それは水沢も同じであった。

フランス語が話せない村野は、「仏教に興味はありませんか。会合がありますので出席しませんか」と、フランス語で書いた紙を見せることにした。ただ、座談会上に案内することしかできなかったが、退院した川崎や、長谷部たちが、新来者に、懇切丁寧に話をしてくれた。その結果、村野は、山本会長を迎えるまでの半年余りの間に、4,5人の人に弘教するこができたのである。

あの夏期講習会から、9か月ぶりに見る二人の顔は晴れやかであった。伸一は安堵した。

もう一人、決意のこもった目で伸一を見つめる、日本人の女子部員がいた。美術大学に通う入瀬真知子である。入瀬は、商業デザインの勉強のためにパリに来た。そこで学会の話を聞き、入会したのである。入瀬に信心の基本を教えたのは、長谷部の紹介で3年前に入会した、フランソワーズ・ウォールトン・ビオレであった。

彼女は、喘息で苦しむ愛娘が、信心を始めて元気になったことから、仏法への確信を深め、弘教に、教学に力を注ぐなかで、広宣流布の使命を自覚していったのである。フランス人の女性リーダーの誕生であった。

太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

小事が大事

『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P~53

「事故を起こしてしまえば、すべては水の泡になってしまう。自分も家族も、苦しむし、学会にも迷惑をかけることになる。私は、大切な同志を、事故で怪我をさせたり、亡くすようなことは絶対にさせたくない・・・」

川崎は、伸一のアドバイスを守ろうと心に決めた。そして事実彼はそう努力してきた。

だが、たまたま睡眠不足が続き、疲労がたまっていたこともあり、"今日は仕方がない。題目を唱えながら、慎重に運転しよう"そして、疲労がたまったまま、長時間の運転をしたのである。

何事によらず、原則を踏み外して、"信心をしているから守られるはずだ""題目を唱えているから"大丈夫だろう"などと考えることは、全くの誤りである。これほど危険な考えはない。それ自体が、魔に侵された思考といってよい。

御聖訓には「小事つもりて大事となる」と説かれている。大きな事故といっても、その原因を形成している一つ一つの事柄は、一見ささいに思えることである。

だが、その小さなミスや小さな手抜きが、魔のつけ込む隙を与え、取り返しのつかない大事故を生むのだ。ゆえに、小事が大事なのである。

川崎夫妻の事故も、わずかな心の隙をついて起こったといってよい。

川崎は、フランスが誇る研究・教育機関コレージュ・ド・フランスの研究員をしていたが、前年に退職していたが、共同研究をしていたアメリカの教授が一緒に研究を続けようとアメリカに誘われていた。
川崎は、ヨーロッパ広布に生き抜こうと決めたが、研究生活が忘れられず、中途半端な思いを引きづって活動していたのだった。

その迷いが、自身の広布の使命を果たすうえで、完全燃焼を妨げていたのだ。信心をして小さな功徳を受けるのはたやすい。しかし、宿命の転換という大功徳を受けることは容易ではない。

宿命を形成してきた自身の心、性格を見つめ、生命を磨き、人間革命せずしては、宿命の転換はないからだ。

そして、それには、自身の広布の使命を果たし抜いていくことだ。決定した信心に立って唱題に励み、障魔と戦い、悪を打ち砕いていくことだ。

川崎は、厳しくいえば、徹して広布に走り抜くことができずにいたといってよい。彼の微妙な一念の揺らぎが、生命の大きな飛翔を妨げ、宿命という大障壁を、完全に飛び越えるにはいたらなかったのである。

川崎夫妻は、この事故を契機に、フランスの、そして、ヨーロッパの広宣流布のために、人生を捧げようと、心の底から決意した。

伸一は、日本に訪れた夫妻にあえて厳しく語った。「広宣流布のリーダーには、同志を幸福にする責任がある。そして、広布の重責を担えば担うほど、御書の仰せの通り、魔も盛んに競い起こるようになる。だが、決して、魔につけ入る隙を与えたり、負けるようなことがあってはならない。最高幹部としての責任が果たせなくなれば、みんなを苦しめることになるからです。」

伸一の言葉は、二人の胸に、鋭く突き刺さっていった。

伸一は、5月20日 パリ会館の入仏式に出席した。地元フランスをはじめ、ヨーロッパ各国から150人のメンバーが喜々として集って来た。

伸一は、訴えた。「ヨーロッパも、10年後、20年後には、必ず大発展することは間違いありません。だが、それには、互いに人を頼るのではなく、皆が一人立たなければならない。"私がいる限り、たとえ自分一人になっても、絶対に広宣流布をしてみせる。必ず勝つ!"と獅子となって戦い続ける人が何人いるかです。その一人の発心、一人の勝利が積み重なってこそ、大勝利がある。」

「"時代を開く""歴史を創る"といっても、特別なことではない。一人ひとりが自分の決めた課題に挑み、今日を勝ち抜くことです。今、何をするかです。」


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

事故を未然に防ぐために

『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P~42

「もう一つ忘れてならないのは、青年時代は結婚をはじめ、さまざまな悩みをかかえているということです。青年の悩み事をよく聞き、きちんと相談にのって、激励していく必要がある。そして、悩みを信心のバネにしていくように励ますことが大事だ。たとえば、職場の人間関係で悩んでいる青年がいたら、その解決を願って、広布の活動に励むよう指導する。」

「広宣流布の大願への前進が公転だとしたら、各人の悩みの解決や願いの成就は自転といえる。この自転と公転が相まっていくなかに、幸福の軌道が開かれる」

ニューヨーク会館では、集った参加者に深々と頭を下げ、感謝の気持ちを伝える伸一。その姿を見て泣く、何人かの日系人女性がいた。彼女たちは、広布草創の開拓者たちであった。伸一の指導のままに、運転免許を取り、車でどこまでも布教に出かけていった。アメリカ人に仏法対話すると「ジャップ」と怒鳴られた人もいた。

しかし、彼女たちは、広宣流布という大偉業をなしとげようと、歯を食いしばって頑張ってきたのだ。その苦労を、すべて山本会長がわかってくれていたのだと思うと、嬉しさが込み上げ、涙があふれてくるのだ。悲しみに耐え抜いてきた人ほど、人の心の温かさが、よく胸に染み入るのであろう。

ともあれ、学会活動で苦労した分だけ、自分自身の生命を磨き、宿命を転換し、福運を積み幸せになることができる。ゆえに、学会活動は断じて守り抜かねばならない。自身の人間としての権利なのである。

参加者のなかで、7年前にトロントの空港にただ一人出迎えてくれた泉谷照子は、当時、未入会であったが、アレルギー性の疾患を 題目を唱えることで克服したことから、入会した。日本に一時帰国した時、山本会長から、「カナダの広宣流布をよろしくお願いします」と激励され、その時から、広布の大使命に立ち上がったのだ。

7年前に植えた励ましの種子が、今、見事に結実したのだ。種を蒔かなければ、芽は出ない。ゆえに、未来のために、今日も対話の種子を蒔くのだ。今の行動の中にのみ、明日の実りがある。

伸一は、5月19日、次の訪問地フランスのパリに向かった。空港に川崎鋭治と長谷部彰太郎が出迎えた。川崎夫妻は、1年前、交通事故を起こし、重傷を負い、半年以上入院していたのだ。

夫妻は、メンバーの激励に300キロ離れたポワティエへ向かい、夜遅く、帰途についたが、一瞬の睡魔に襲われ、道路脇の大木に激突。大腿骨骨折、膝の皿も砕け、助手席にいた妻の良枝は、大腿骨と脛の骨が複雑骨折するという大怪我であった。

事故には必ず予兆があるものだ。川崎は、以前、雨のなかハンドルを切り損ね、大きな石に乗り上げ車が転倒する事故を起こしていた。怪我はなかったが、車は廃車せざるをえなかった。

この直後、伸一は、こう指導した「これは、さらに大きな自己の前兆と受け止めるべきです。リーダーというのは、神経を研ぎ澄まし、一つの事故を戒めとして、敏感に対処してかなくてはならない。これからは、もう交通事故など、二度と起こすものかと決めて、真剣に唱題し、徹して安全運転のための原則を守り抜くことです。だから、常にベストコンディションで運転できるように、工夫しなければならない。」

「幹部は、自分だけでなく、会合が終わったあとなどに、無事故と安全運転を呼びかけていくことも大事です。その一言が注意を喚起し、事故を未然に防ぐ力になる」日蓮大聖人は、門下の四条金吾に「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」と仰せである。
そして、具体的な注意もしていた。

伸一も具体的に、「今度は、大型で頑丈なものにするんだよ」などとアドバイスしていたのだ。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

青年育成の要点

『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P35~

このころアメリカでは、ベトナム戦争の拡大政策にともない、若者たちの間に、兵役の恐怖が広がっていた。また、各地で反戦運動が活発化していた。


そのなかで、脱社会的行動をとり、自己の心の充足を求める「ヒッピー」と呼ばれる若者たちが増えていった。笠原たちの布教は、この「ヒッピー」の若者たちにも向けられた。彼らは、人間革命を根本に、一国の宿命の転換をも可能にする仏法の法理を、確信を持って語っていった。

そして、「ヒッピー」の若者たちのなかにも、信心をする人が出始めたのである。
まさに、「"ヒッピー"から"ハッピー"へ」の転換劇であり、それは、アメリカの創価学会を象徴する、一つの言葉ともなるのである。

笠原は、オーディションへの挑戦を続けたが、人種差別や、肉体的な限界も感じ、日本に帰ろうかとも考え迷い続けていた。そのさなかに、山本伸一に会い指導を受けたのである。彼は、これからどうするべきかを考え、懸命に唱題を重ねた。

広布の大舞台に比べれば、あの"ブロードウェー"の舞台さえも、色褪せて見えるのである。彼はアメリカ広布のために、この国の土になろうと決めたのだ。

人生の道は、人それぞれであり、さまざまな生き方がある。しかし、広宣流布の大使命に生き抜くならば、いかなる道を進もうが、最も自身を輝かせ、人生の勝者となることは絶対に間違いない。妙法は「活の法門」である。すべてが無駄なく活かされていく。


笹原は、ダンサーをやめたあと、自分が活躍できなかった分、仏法を持った多くの優秀なダンサーなどの芸術家を育てようと心に誓った。

こうして、芸術家を育成する、アメリカの組織の伝統がつくられていったのである。そのなかで、やがて、ベース奏者のバスター・ウィリアムスやピアの奏者のハービー・ハンコック、サックス奏者のウェイン・ショーターなど、ジャズ界の世界的な音楽家がメンバーとして活躍していくようになる。


現地の幹部が尋ねた。「若い世代を育成するための要諦というのは、なんでしょうか」伸一は、「後輩を信頼し、尊敬することです。信心して日が浅いからとか、年齢が若いからといって、自分より下に見るというのは間違いです。そして、自分以上の人材にしようという強い一念をもち、伸び伸びと育てていくことです。」

「そのうえで、広宣流布のリーダーとしての考え方や行動などの基本を教え、しっかりと、身につけさせることだ。基本というのは、体で覚えなければならないことが多い。頭でわかっていることと、実際にできることとは違う。」

「たとえば、自身や火災の場合の、適切で迅速な行動も理解していればできるというものではない。そのためには、訓練が必要になる。信心の世界でも同じことがいえる。」

「御書には『鉄は炎打てば剣となる』と仰せです。だから、青年の立場でいえば、積極的に訓練を受け、自らを鍛えていくことが大切になる。」


また、成年を育成するためには、実際に仕事を任せ、活躍の舞台を与えることです。人間は、責任をもち、経験を積み重ねていってこそ力がつく。何もやらせなければ、いつまでたっても成長はない。」

「幹部の側に、"失敗しても、責任は私がもつから大丈夫だ"という、大きな度量がなくてはできない」

「まずは自分がやって見せて、模範を示し、実際にやらせ、そして、励ましていくことです。もちろん、問題点は問題点として明らかにし、次の課題を示すことも必要だ。しかし、もっと大事なことは、やればできるという自信をもたせ、希望を与えることです。」

伸一は、全魂を込めて青年の育成の要諦を教えようとしていた。


太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

アメリカ広布の第2ラウンド

『新・人間革命』第12巻 新緑の章 P25~

伸一は、同志が炎天下で、汗と埃にまみれながら、毎日、毎日、労作業に励んでくれたことが、ありがたくもあり、申し訳なくもあった。

「どうすれば、アメリカ広布の大伸展の流れがつくれるのか、メンバーが歓喜と希望に燃えて、前進できるか、いろいろかんがえてみた。」
と提案した。

「新しき出発の布陣として、検討の結果、アメリカを総合本部とし、西部本部、東部本部、ハワイ本部の三本部でスタートすることを決定しましたので、発表いたします。」

アメリカの同志には、山本会長が世界の平和旅の第一歩を印したアメリカこそ、世界広布の先駆であるとの強い誇りがあった。その誇りを決意に変え、"世界広布の第ニラウンドもアメリカから"という、闘志を爆発させたのである。

実に的確な、未来への布石であった。


祝賀会の間も、伸一の激励は、矢継ぎ早に続き、炎天下、全参加者と記念撮影が何回も繰り返され、メンバーを励まし続けた。

もともと病弱で、結核に苦しんできた彼は、元気になったとはいえ、体力はなかった。無理をすれば、必ず発熱するなど、体調を崩した。しかし、広宣流布に一身を捧げ尽くす決意の伸一は、無理に無理を重ねてしまうのである。

彼の激励は命を削って行われていたのである。いや、だからこそ、魂の発光があり、友の生命を燃え上がらせていったのである。


5月17日、山本伸一は、ニューヨークに入った。勤行会の時、警備についていた日本人の青年は、笹原と言って、ダンサーをしていた。

何か悩みをかかえていると直感した伸一は、こう語った。「青年時代はというのは、悩みとの戦いの時代と言えます。でも、どんな苦労も、信心を貫き通していくならば、すべて生かされ、自分の人生の財産になっていくものだ。信心こそ、自身を輝かせていく、最高の道なんです。大事なことは、広宣流布をわが使命と定め、前進し抜いていくことではないかと思う」

笹原は、高校二年の時に、アメリカのミュージカル映画を見て、ダンサーになろうと思ったが、渡米した時は、既に28歳であった。レストランの皿洗いをしながら、人一倍努力を重ねたが、技術面では、勝っても、肉体的に均整のとれた美しさとなると日本人である彼は、ハンディを痛感した。

それを、技術で乗り越えようと工夫を重ねたが、なかなかオーディションには受からなかった。そんな時、学会に入会したが、学会活動には、消極的であった。

ニューヨークで開催される全米総会に引き続き、民音主催の催しに、出演を依頼され、ダンス仲間の栗山にも声をかけ、出演することにした。栗山も日本で入会していたが、会合参加は、断り続けていたという。栗山は心労からか、胃潰瘍に苦しんでいた。

二人は、民音の舞台の準備に取り組み、それを通して学会メンバーとの交流が始まり、男子部の会合や座談会にも参加するようになった。

彼らは、創価学会の組織が、自分たちが想像していたような堅苦しいものではなく、明るく、希望にあふれ、和気あいあいとしていることに驚きを覚えた。そこには、自分だけでなく、人びとの幸福のために献身しようとする、尊き人間の輝きと温かさがあった。

また、唱題を重ねるなかで、生命が躍動していくのを実感し、仏法への確信も、次第に深まっていった。民音の催しを終えたころには、二人とも、喜び勇んで学会活動に励むようになっていた。栗山の胃潰瘍も、いつの間にか治っていた。

信心に励むようになって彼らが特に感銘したのは、広宣流布とは新たな人間文化の創造であるという、山本会長の指導を聞かされたことであった。

彼らは布教にも力を注ぎ、ダンサーやミュージシャンに次々と仏法の話をしていった。



太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋

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