『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P151~
「無私」の人に対して、「無私」ゆえに、人びとの称賛と尊敬が集まると、我欲に生きる者たちは、強い反発と嫉妬をいだき、排撃の集中砲火を浴びせるのである。
伸一は、毅然とそそり立つ、騎馬像に誓っていた。“私の生涯もまた、迫害につぐ迫害であろう。しかし、私は戦い続ける。決して負けはしない。悲哀の宿命の鉄鎖から、人類を解放することが、私の使命であるからだ”
3月16日、伸一はペルーの同志の大いなる飛躍を願い、一首の和歌を贈った。「3・16」の意義を込めて、一人ひとりのメンバーの生命に、広宣流布の「黄金の種」を蒔く思いで、この歌を詠んだのである。リマでは、当局を刺激させまいとする配慮から、メンバーの見送りも遠慮してもらった。
ひっそりとした出発となったが、伸一の激励を受けたメンバーの心には、広布への闘魂が、激しく燃え上がっていったのである。ビセンテ・セイケン・キシベはペルー広布の全責任を担って立つ自覚を固めていた。スペイン語版の機関紙「ペルー・セイキョウ」の編集を自ら買って出た。
“スペイン語の機関紙ができれば、ペルーだけでなく、ラテンアメリカの広宣流布が、大きく前進することは間違いない。”キシベは、その役割の大きさを考えると、体が震える思いがした。彼は、喜び勇んで、新聞製作を開始したのだ。
使命の自覚は、果敢なる行動となって、発芽していくものである。
キシベたちが最も頭を悩ませたのは、やはり翻訳である。こうして、タブロイド判4ページ、活版印刷の「ペルー・セイキョウ」が創刊されたのは、提案から36日後の4月20日のことであった。奇しくも、日本の聖教新聞が創刊された日から、15年後の同じ日の発刊となったのである。
「時代を変えよう!」「学会を取り巻く社会の環境を変えよう!」同志は、こう心に誓い、“信頼の種”“友情の種”を蒔きながら、希望の前進を開始したのである。やがて、キシベはペルーの理事長となり、このインカの大陸に新しき広布の歴史がつくられていくことになる。
メンバーは、仏法者として、よき市民をめざし、社会貢献に取り組み、人びとの深い信頼を勝ち得ていった。それは、同時に、創価学会と山本伸一に対する理解を、深めさせることになっていったのである。
そして、1974年に、伸一が8年ぶりにペルーを訪問した折には、リマ市は彼の来訪を歓迎し「特別名誉市民」の称号を贈ったのである。さらに、84年、伸一の3度目の訪問の時には、ペルーの最高勲章である「ペルー太陽大十字勲章」が、フェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領から贈られている。
これは世界の平和と文化と教育への、伸一の多大な貢献を評価して贈られたものであった。
伸一の一念が、そして、彼と心を同じくする、ペルーの同志の一念が、時代を、社会を、大きく変えていったのである。歴史は動き、希望の太陽が昇ったのだ。
1966年、伸一が、アメリカとブラジル、ペルーを訪問したころ、他の幹部は、手分けして、中南米各国を回り、メンバーの激励にあたっている。
アルゼンチンに組織がつくられたのは、63年、20世帯ほどのメンバーで、地区が結成され、白谷竹男が地区部長になった。
白谷は、初代学生部長を務めた白谷邦男の実弟で、兄の邦男の勧めで入会した。彼は、太平洋戦争中、沖縄戦で九死に一生を得、守られたと思いはしたが、自ら積極的に信心に励むことはなかった。
戦後、海外に雄飛したいとの思いをいだくようになり、戸田城聖に会った時、相談すると「行ってこい」と言われた。この言葉で、彼の心は決まり、アルゼンチンに移住を決めた。
この白谷を励まし、信心を奮い立たせたのが、日本から移住してきた、大木田和也だった。
「無私」の人に対して、「無私」ゆえに、人びとの称賛と尊敬が集まると、我欲に生きる者たちは、強い反発と嫉妬をいだき、排撃の集中砲火を浴びせるのである。
伸一は、毅然とそそり立つ、騎馬像に誓っていた。“私の生涯もまた、迫害につぐ迫害であろう。しかし、私は戦い続ける。決して負けはしない。悲哀の宿命の鉄鎖から、人類を解放することが、私の使命であるからだ”
3月16日、伸一はペルーの同志の大いなる飛躍を願い、一首の和歌を贈った。「3・16」の意義を込めて、一人ひとりのメンバーの生命に、広宣流布の「黄金の種」を蒔く思いで、この歌を詠んだのである。リマでは、当局を刺激させまいとする配慮から、メンバーの見送りも遠慮してもらった。
ひっそりとした出発となったが、伸一の激励を受けたメンバーの心には、広布への闘魂が、激しく燃え上がっていったのである。ビセンテ・セイケン・キシベはペルー広布の全責任を担って立つ自覚を固めていた。スペイン語版の機関紙「ペルー・セイキョウ」の編集を自ら買って出た。
“スペイン語の機関紙ができれば、ペルーだけでなく、ラテンアメリカの広宣流布が、大きく前進することは間違いない。”キシベは、その役割の大きさを考えると、体が震える思いがした。彼は、喜び勇んで、新聞製作を開始したのだ。
使命の自覚は、果敢なる行動となって、発芽していくものである。
キシベたちが最も頭を悩ませたのは、やはり翻訳である。こうして、タブロイド判4ページ、活版印刷の「ペルー・セイキョウ」が創刊されたのは、提案から36日後の4月20日のことであった。奇しくも、日本の聖教新聞が創刊された日から、15年後の同じ日の発刊となったのである。
「時代を変えよう!」「学会を取り巻く社会の環境を変えよう!」同志は、こう心に誓い、“信頼の種”“友情の種”を蒔きながら、希望の前進を開始したのである。やがて、キシベはペルーの理事長となり、このインカの大陸に新しき広布の歴史がつくられていくことになる。
メンバーは、仏法者として、よき市民をめざし、社会貢献に取り組み、人びとの深い信頼を勝ち得ていった。それは、同時に、創価学会と山本伸一に対する理解を、深めさせることになっていったのである。
そして、1974年に、伸一が8年ぶりにペルーを訪問した折には、リマ市は彼の来訪を歓迎し「特別名誉市民」の称号を贈ったのである。さらに、84年、伸一の3度目の訪問の時には、ペルーの最高勲章である「ペルー太陽大十字勲章」が、フェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領から贈られている。
これは世界の平和と文化と教育への、伸一の多大な貢献を評価して贈られたものであった。
伸一の一念が、そして、彼と心を同じくする、ペルーの同志の一念が、時代を、社会を、大きく変えていったのである。歴史は動き、希望の太陽が昇ったのだ。
1966年、伸一が、アメリカとブラジル、ペルーを訪問したころ、他の幹部は、手分けして、中南米各国を回り、メンバーの激励にあたっている。
アルゼンチンに組織がつくられたのは、63年、20世帯ほどのメンバーで、地区が結成され、白谷竹男が地区部長になった。
白谷は、初代学生部長を務めた白谷邦男の実弟で、兄の邦男の勧めで入会した。彼は、太平洋戦争中、沖縄戦で九死に一生を得、守られたと思いはしたが、自ら積極的に信心に励むことはなかった。
戦後、海外に雄飛したいとの思いをいだくようになり、戸田城聖に会った時、相談すると「行ってこい」と言われた。この言葉で、彼の心は決まり、アルゼンチンに移住を決めた。
この白谷を励まし、信心を奮い立たせたのが、日本から移住してきた、大木田和也だった。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋