『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P192~
日本政府は 条件の不備を知っていた。ドミニカ側は、移住計画は見合わせるべきだと回答していたのに、日本側は、問題ないとして、実施に踏み切ったのである。
「ドミニカ移民は、移民ではなく、棄民である」といわれたゆえんである。移民者の実態は惨憺たるものであった。自給できるまで支払われると聞いていた補助金も、早ければ半年で、打ち切られてしまった。
入植者たちは、移住導入計画を推進した海協連や日本大使館、移住斡旋所の関係者にも抗議した。しかし、どこも全く相手にしてくれなかった。外務大臣あてに移住地の実情を訴え、救いを求める嘆願書を送ったが、その声もどこかで握りつぶされてしまったようだ。
この移住者の悲痛な声を最初にキャッチし、素早く行動を起こしたのは、学会員の議員たちであった。直ちに調査を開始する一方、外務省に、現地調査の実施を強力に申し入れた。この移住問題を取り上げて追及。政府は、ドミニカの入植地の三分の一が農耕に適さない土地であったことを認めたのである。
そして、移住者の国費による機関などの対応が、なされていくことになる。
ドミニカの移住者のなかには、日本に帰らず、ドミニカにとどまった人もいた。残留者のなかに村木広人という男性がいた。
彼はドミニカに骨をうずめる決意でやってきたのだ。なんとか耕しても、熱さと水不足で全く育たなかった。水が足りず、水の取り合いで、兄弟や親戚同士で、取っ組み合いの喧嘩をすることもめずらしくなかった。
村木は、これ以上、希望ない暮らしを続けることが耐えられず、日本の母親に、帰国したいと手紙を書く。母からの返事には「創価学会に入会したのでお前も題目を唱えてがんばりなさい」とあった。村木は、他にどうする方法もなかったので、題目を唱えてみた。すると不思議と心が軽くなり、信心をやってみようと思い、胃腸の悪かった妻の母も一緒に題目を唱え始めた。
しかし、義母の胃腸の痛みはますますひどくなった。彼は「信心をやめる」と手紙をおくると、母を折伏した兄から、「最初は、使っていない水道管からさびや汚れが出るように、頑張り抜けば、必ずよくなる」との説明の返事があり、その言葉に従って、祈り続けると、義母の胃の痛みもなくなり、家族全員が信心に励むようになった。
さらに、畑の側に日用品の店を出したところ、ドミニカの市長が買い物に来て、稲の苗を作るよう勧められる。水がないからダメだと話すと、市長が手配し、村木のところに、欲しいだけ水を回す措置をとってくれた。こうして、まとまった収入を得ることができた。初信の功徳であった。
村木は、“俺は、この国で勝利者になってみせる。そして信心の実証を示そう!”と懸命に唱題しては、どうすれば商売が軌道になるか考えた。
彼は、コツイに移り住み、米で「おこし」をつくり、食べたことのない人達に最初は無料で配った。それが、功を奏し、やがて「おこし」が売れ始め、大評判になっていった。村木はまたしても信心の力を実感した。
ある日、結核で入院している日本人の青年がいると聞き、信心を教えようと尋ねると、父が創価学会員だという。村木は、百数十キロ離れた、コンスタンサに父親の中尾寛一を訪問した。初めて会う学会員である。
この村木と中尾の対面から、二つの歯車が噛み合って、ドミニカの広宣流布の回転が始まったのである。
日本政府は 条件の不備を知っていた。ドミニカ側は、移住計画は見合わせるべきだと回答していたのに、日本側は、問題ないとして、実施に踏み切ったのである。
「ドミニカ移民は、移民ではなく、棄民である」といわれたゆえんである。移民者の実態は惨憺たるものであった。自給できるまで支払われると聞いていた補助金も、早ければ半年で、打ち切られてしまった。
入植者たちは、移住導入計画を推進した海協連や日本大使館、移住斡旋所の関係者にも抗議した。しかし、どこも全く相手にしてくれなかった。外務大臣あてに移住地の実情を訴え、救いを求める嘆願書を送ったが、その声もどこかで握りつぶされてしまったようだ。
この移住者の悲痛な声を最初にキャッチし、素早く行動を起こしたのは、学会員の議員たちであった。直ちに調査を開始する一方、外務省に、現地調査の実施を強力に申し入れた。この移住問題を取り上げて追及。政府は、ドミニカの入植地の三分の一が農耕に適さない土地であったことを認めたのである。
そして、移住者の国費による機関などの対応が、なされていくことになる。
ドミニカの移住者のなかには、日本に帰らず、ドミニカにとどまった人もいた。残留者のなかに村木広人という男性がいた。
彼はドミニカに骨をうずめる決意でやってきたのだ。なんとか耕しても、熱さと水不足で全く育たなかった。水が足りず、水の取り合いで、兄弟や親戚同士で、取っ組み合いの喧嘩をすることもめずらしくなかった。
村木は、これ以上、希望ない暮らしを続けることが耐えられず、日本の母親に、帰国したいと手紙を書く。母からの返事には「創価学会に入会したのでお前も題目を唱えてがんばりなさい」とあった。村木は、他にどうする方法もなかったので、題目を唱えてみた。すると不思議と心が軽くなり、信心をやってみようと思い、胃腸の悪かった妻の母も一緒に題目を唱え始めた。
しかし、義母の胃腸の痛みはますますひどくなった。彼は「信心をやめる」と手紙をおくると、母を折伏した兄から、「最初は、使っていない水道管からさびや汚れが出るように、頑張り抜けば、必ずよくなる」との説明の返事があり、その言葉に従って、祈り続けると、義母の胃の痛みもなくなり、家族全員が信心に励むようになった。
さらに、畑の側に日用品の店を出したところ、ドミニカの市長が買い物に来て、稲の苗を作るよう勧められる。水がないからダメだと話すと、市長が手配し、村木のところに、欲しいだけ水を回す措置をとってくれた。こうして、まとまった収入を得ることができた。初信の功徳であった。
村木は、“俺は、この国で勝利者になってみせる。そして信心の実証を示そう!”と懸命に唱題しては、どうすれば商売が軌道になるか考えた。
彼は、コツイに移り住み、米で「おこし」をつくり、食べたことのない人達に最初は無料で配った。それが、功を奏し、やがて「おこし」が売れ始め、大評判になっていった。村木はまたしても信心の力を実感した。
ある日、結核で入院している日本人の青年がいると聞き、信心を教えようと尋ねると、父が創価学会員だという。村木は、百数十キロ離れた、コンスタンサに父親の中尾寛一を訪問した。初めて会う学会員である。
この村木と中尾の対面から、二つの歯車が噛み合って、ドミニカの広宣流布の回転が始まったのである。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋