小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

October 2019

ドミニカ広布の回転

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P192~

日本政府は 条件の不備を知っていた。ドミニカ側は、移住計画は見合わせるべきだと回答していたのに、日本側は、問題ないとして、実施に踏み切ったのである。

「ドミニカ移民は、移民ではなく、棄民である」といわれたゆえんである。移民者の実態は惨憺たるものであった。自給できるまで支払われると聞いていた補助金も、早ければ半年で、打ち切られてしまった。

入植者たちは、移住導入計画を推進した海協連や日本大使館、移住斡旋所の関係者にも抗議した。しかし、どこも全く相手にしてくれなかった。外務大臣あてに移住地の実情を訴え、救いを求める嘆願書を送ったが、その声もどこかで握りつぶされてしまったようだ。

この移住者の悲痛な声を最初にキャッチし、素早く行動を起こしたのは、学会員の議員たちであった。直ちに調査を開始する一方、外務省に、現地調査の実施を強力に申し入れた。この移住問題を取り上げて追及。政府は、ドミニカの入植地の三分の一が農耕に適さない土地であったことを認めたのである。

そして、移住者の国費による機関などの対応が、なされていくことになる。

ドミニカの移住者のなかには、日本に帰らず、ドミニカにとどまった人もいた。残留者のなかに村木広人という男性がいた。

彼はドミニカに骨をうずめる決意でやってきたのだ。なんとか耕しても、熱さと水不足で全く育たなかった。水が足りず、水の取り合いで、兄弟や親戚同士で、取っ組み合いの喧嘩をすることもめずらしくなかった。

村木は、これ以上、希望ない暮らしを続けることが耐えられず、日本の母親に、帰国したいと手紙を書く。母からの返事には「創価学会に入会したのでお前も題目を唱えてがんばりなさい」とあった。村木は、他にどうする方法もなかったので、題目を唱えてみた。すると不思議と心が軽くなり、信心をやってみようと思い、胃腸の悪かった妻の母も一緒に題目を唱え始めた。

しかし、義母の胃腸の痛みはますますひどくなった。彼は「信心をやめる」と手紙をおくると、母を折伏した兄から、「最初は、使っていない水道管からさびや汚れが出るように、頑張り抜けば、必ずよくなる」との説明の返事があり、その言葉に従って、祈り続けると、義母の胃の痛みもなくなり、家族全員が信心に励むようになった。

さらに、畑の側に日用品の店を出したところ、ドミニカの市長が買い物に来て、稲の苗を作るよう勧められる。水がないからダメだと話すと、市長が手配し、村木のところに、欲しいだけ水を回す措置をとってくれた。こうして、まとまった収入を得ることができた。初信の功徳であった。

村木は、“俺は、この国で勝利者になってみせる。そして信心の実証を示そう!”と懸命に唱題しては、どうすれば商売が軌道になるか考えた。

彼は、コツイに移り住み、米で「おこし」をつくり、食べたことのない人達に最初は無料で配った。それが、功を奏し、やがて「おこし」が売れ始め、大評判になっていった。村木はまたしても信心の力を実感した。

ある日、結核で入院している日本人の青年がいると聞き、信心を教えようと尋ねると、父が創価学会員だという。村木は、百数十キロ離れた、コンスタンサに父親の中尾寛一を訪問した。初めて会う学会員である。

この村木と中尾の対面から、二つの歯車が噛み合って、ドミニカの広宣流布の回転が始まったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

ボリビアの希望の種子

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P182~

理事長の泉田弘ら一行は、ボリビアの事実上の首都であるラパスに到着した。ラパスは、世界最高所の首都と言われ、海抜約3,700メートルの高原都市である。富士山とほぼ同じ高さということになる。ボリビアには、支部が結成されており、百世帯近くのメンバーがいた。

派遣幹部は、高地の気圧の低さ、酸素の少なさに、面食らっていた。耳鳴りがし、階段を上ったり、少し走ったりすると、動機や目まいがするのである。
幹部は、世界の広さを感じ、日本を基準に世界を考えることが間違いだと実感した。

サンタクルスの空港では、ボリビア支部長の川浦太郎が、鼓笛隊の演奏で大袈裟に出迎えた。泉田は、南米各国が創価学会に対して警戒の目を向けているので、人目を引くような派手なことを避けるよう話した。

移住船には、7世帯38人の学会員がいた。川浦を中心に、メンバーは団結して、移住地で布教を開始していったのである。何人かのメンバーは、家の敷地の入り口に「創価学会員」と書き、表札を掲げる者もいた。同志の絆で結ばれた学会員は意気揚々としていた。

“俺は天下の創価学会員だ!”という強い誇りがあり、広宣流布への闘魂が燃え盛っていたのである。このサンフアンの移住地より早く移住が始まったオキナワ移住地では、熱病や川の氾濫などの被害で移転を余儀なくされた。

オキナワ移住地には、仲村一家が一粒種となり、その後6,7世帯の学会員が移住してきた。川浦は、メンバーの激励に、日に、1、2本しかないバスに乗ったり、トラックに乗せてもらい、120キロ以上離れた移住地に向かった。メンバーの家と家の間は、3、40キロ離れていて、移動には荷馬車か歩くしかなかった。2、3日がかりで激励に出かける川浦の努力が実り、次第に人材が育っていった。

メンバーは、旺盛な求道心をたぎらせ、夜道を何十キロと歩いたり、毒蛇に注意しながら、雨の日にはずぶ濡れになりながらも聖教新聞だけはぬらさないように手を揚げ、意気揚々と、凱旋将軍のごとく、進んでいくのである。

泉田弘一行がサンフアン移住地に向かうと 百人余りのメンバーが集っていた。会合終了後の懇談会では、日ごろ思い悩んでいる問題について皆が相談してきた。

人生の苦悩を破る、力を与えられるか。希望を、勇気を、確信を与えられるかーー派遣幹部は、懸命に指導にあたった。自らの生命を振り絞らずして、鉄をも溶かす炎の情熱なくして、人の心を揺り動かすことなどできないからだ。

実に創価学会の強さは、常に、幹部が、一人ひとりの同志と会い、指導と激励と触発に、全精魂を注ぎこんできたことにある。

泉田たちの訪問によって、ボリビア同志の心には希望の種子が植えられ、未来への大いなる飛翔の活力がもたらされていったのである。

泉田らが向かう前日、清原かつと岡田一哲の二人はドミニカ共和国に向かって出発した。戦後の中南米への日本人移住者のなかで、最も悲惨な事態にさらされたのは、ここに渡った人たちであった。

カリブ海に浮かぶ西インド諸島のイスパニョーラ島にあるドミニカ共和国はへの移住は、国策として実施されたが、示された条件があまりにもよかった。土地が無償提供され、家も用意され、自給できるまで小学校教師より高額な生活補助金が支給されるというのだ。

「カリブ海の楽園」という触れ込みであったが、実際に入植してみると、現地の状況はあまりにもひどかった。肥沃な耕地と聞かされていた土地は、石だらけで、耕作不能であったり、塩が噴き出て砂漠同然であったりしたのである。

移住者は、愕然とした。ただ、途方に暮れるばかりであった。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

パラグアイ同志の 求道心

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P174~

移住地で同志と巡り合うことは、筆舌に尽くしがたい喜びであった。「南無妙法蓮華経」と朝晩唱えている人がいると聞くと、喜んで訪ねて歩いた。しかし、なかなか見つからなかった。学会員を見つけて、互いに飛びつくようにして抱き合い、固い固い握手を交わした。

移住地での活動は、都会と違って危険も多かった。活動途中で、ガラガラ蛇に遭遇することもあった。雨が降ると滑って歩けなくなり、裸足で歩くこともあった。

また、生活は、植えた種子が流されたり、霜や雹にやられたり、イナゴに食べられたり、作物の収入がなければ、日本から持ってきた金もそこをついてしまった。

そうしたなかで生きる学会員にとって、信仰は「立ち上がる力」であり、困難に屈せぬ「勇気の源泉」であった。だから皆、必死になって、信心に励んだ。同志のなかからは、さまざまな体験が生まれた。知恵を絞って、見事な収穫を得た人もいれば、自然災害の被害を免れた人もいた。その実証が、移住地の人たちの仏法への共感を広げていった。

また、亡くなった学会員の安らかな死相に感動し、信心をしたいと申し出る人もいた。1963年(昭和38年)にはパラグアイ支部が結成されたのである。

清原かつをはじめとする幹部5人がパラグアイの激励に向かった。空港には、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを4日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長も迎えに来ていた。

一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。一人の青年が指導会に来る予定のメンバーが大雨で車がスリップし、来られないので、ジープで行ってほしいとの要望があり、メンバーは向かった。

午後3時ごろ、出発して、到着したのは、夜9時過ぎだったが、行き違いで危険を覚悟で会合に出発していた。急いで引き返したが、着いたのは午前1時を回っていた。100名を超す参加者でいっぱいの会場についた。どの質問にも、苦悩と心の葛藤がにじみ出ていた。

清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。

老婦人は、生まれつき目が見えない子が生まれたことから、批判を浴びせられ、家族は、針の筵に座るようないたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。「信心を頑張れば、目が見えるようになるか」との質問に、清原は、「信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれる。信心をして生まれてきた子どもに使命のない人はいません。」と指導し、この家族の心の闇を打ち破った。

指導を受け、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになり、家族も子どもの幸せを願い団結して、信心に励んでいった。

教学試験が行われると、大白蓮華や、聖教新聞が1、2部しかないため、皆が、ノートに写し、研鑽していた。そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強していた。

派遣幹部たちは、思った。“もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けただろうか、皆に指導はしてきたが、学ぶべきは、自分たちの方ではないのか・・・”

信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。

メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問がじつげんするのは、1993年のことである。この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、『国家功労大十字勲章」が贈られたのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

アルゼンチンとの 心の絆

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P165~

アルゼンチンは、白谷竹男を中心に、大木田和也・光子という若い力が団結し、メンバーも120世帯を超えるまでに至った。

春木らは、アルゼンチンの組織の新布陣が発表された。婦人部長に小堀代志江が就任した。彼女は入会1年ほどであったが、子どもの喘息を克服するなど、幾つもの体験を積んでいた。

春木は、山本会長の伝言を皆に伝えた。「日本とアルゼンチンは、地球の反対側にあり、遠く離れていますが、広宣流布に生き抜く人の心は、私と一体です。私の心のなかには、常に皆さんがいます。皆さんの心のなかにも、私がいることでしょう。私たちは、ともどもに不二の同志として、明るく、仲良く、誇らかに、この世の使命を果たし抜いていこうではありませんか。」

この伝言に、集ったメンバーの多くは涙した。ほとんどの人たちが、同志も数少ないなかで、寂しさ、悲しさに耐え、山本会長を思い、歯を食いしばりながら、広宣流布に邁進してきたからである。

アルゼンチンの幹部たちは、相談の末、ブラジルの山本会長を尋ねることにした。そのことを聞いていた伸一は、会合が終わると、小堀の名を呼び、記念の念珠を 渡しながら、「アルゼンチンの婦人部を頼みます!リーダーというのは、一人立つ、”勇気の人”でなければならない。そして、みんなと仲良く進むことができる“調和の人”でなければなりません。ご苦労をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と真摯で、誠実な言葉に小堀は感動を覚えた。

ロビーで待機していた大木田を見つけると伸一は 一緒に部屋に入り、手紙で励まし続けてきた青年が、元気に自分の前に現れたことが、嬉しくて仕方がなかった。

「人間の一生というのは、短いものだ。その一生をなんのために使っていくかで、人生の価値は決まってしまうよ。君はアルゼンチンにあって、生涯、広布のために生き抜いてほしい。私に代わって、この国の人たちを幸せにしてほしいんだ。」

この日、大木田の心は決まった。“俺の人生は決まった。山本先生とともに広宣流布に生きる。そして、いつか先生を、アルゼンチンにお呼びしてみせる!”

アルゼンチンに帰った彼は、成功していた花卉栽培をスッパリとやめ、花の販売の仕事を始めた。メンバーのために、思う存分に働くには、郊外ではないく、皆と連携のとりやすい、より都心に近い所に住もうと考えたからだ。最初は、見習いから仕事を始め、委託販売業者として独立した。

大木田は、広宣流布のためにアルゼンチン中を駆け巡り、翌年、アルゼンチンに総支部が結成されると、やがて総支部長になり、光子は婦人部長とあって活躍していくことになる。だが、山本伸一のアルゼンチン訪問という念願が実現するには、実に27年後まで、待たなければならなかった。

その間、伸一は、アルゼンチンの大学関係者や芸術家、駐日大使、また、大統領と会見するなど、日亜両国の友好と教育・文化交流に全力を注いできた。同時に、メンバーの奮闘により、仏法理解の輪は大きく広がり、学会の進める平和と教育の運動が高く評価されていった。

そして、1990年には、アルゼンチン政府から、最高栄誉の一つである「大十字五月勲章」が、山本伸一に贈られ、各大学からの顕彰も相次ぐことになる。

春木征一郎一行は、パラグアイのチャベスへ激励に向かった。南部のアルゼンチン国境の都市エンカルナシオンの北東16キロから始まるチャベス移住地や、隣接のフラム移住地、北東へ60キロほどのピラボ移住地などに入植した日本人移住者は、割り当てられた土地から木を切りだし、柱を立て、自分たちで家を建てるところから始めなければならなかった。

この移住者のなかに、学会員がいた。そうしたメンバーが、核となってそれぞれの移住地で、活動が開始されていったのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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アルゼンチンの一粒種

『新・人間革命』第11巻 開墾の章 P157~

大木田にとってアルゼンチンは憧れの地だった。アルゼンチンで花卉栽培に成功したという知人から、物資が送られてきて、いつか自分も豊かなアルゼンチンで 大農園をやってみたいとおもい、渡航のため、神奈川県で、花卉栽培の技術を学んでいた時に、母の勧めで入会した。

その翌年、父の友人の家に住み込み、一人で信心に励んだ。創価学会の人を知らないかと探すと、「創価学会は暴力宗教だ」とか、「創価学会員だというと差別される」と言われた。

そんな時、「苦しかったら学会本部の山本総務に手紙を書き、指導を受けなさい」という先輩の言葉を思い出し、返事は来ないだろうとおもいつつ、自分の思いを手紙に書いて出した。

ほどなく、伸一から、返事がきた。大木田は感激した。“俺のために、山本総務が手紙をくださった。申し訳ない限りだ。必ず勝ってこの激励に応えよう!”

さらに、会長就任直前の4月22日にも山本伸一から励ましの便りが届いた。伸一が第三代会長に就任する直前である。彼は、単身、アルゼンチンに渡った一青年のことが、頭から離れなかったのである。

世界広布という崇高にして壮大な作業もまた、そこに生きる一人の人間から始まる。ゆえに、その一人を力の限り、命の限り、励まし、応援することだ。大木田は、伸一の手紙を宝物のように大切にし、何度も何度も読み返しては決意を新たにしてきた。

仏法対話に、全精魂を注ぐが、二年たっても信心する人は誰もいなかった。しかし、3人のメンバーがいることがわかり、早速訪問した。入会の古い白谷に 大木田は期待していたが、白谷は、学会員としての自覚が乏しく、勤行もやっていないほど、信心とは無縁であった。それでも、大木田が何度も通ううちに、白谷は信心に目覚めていった。

大木田は、仕事の面でも奮闘し、広宣流布のためには、社会で勝利の実証を示さなければならないと、花卉栽培の温室を立て独立して仕事を始めた。人一倍研究と工夫を重ね、温室を6棟にまで増やし、彼の研究してきたカーネーションが、品評会で1位の栄冠に輝き、地元紙にも紹介された。

移住から5年、大木田は、アルゼンチン社会にあって、見事な信心の実証を示し始めたのだ。そのころから、周囲の人たちの学会への評価が大きく変わり、彼の語る仏法の話に皆が耳を傾けるようになっていった。一方、白谷も、目覚ましい信心の成長を遂げていった。

そして、1963年(昭和38年)地区が誕生すると、白谷は地区部長になり、翌年には支部が結成され、支部長となった。メンバーは面倒見のよい人柄の 彼を慕い、仲の良い、和気あいあいとした組織がつくられていった。

大木田と結婚した光子は、東京で本部職員をしていた。実際にアルゼンチンでの生活が始まると、驚くことばかりだった。電気もない農村地帯で、全く経験のない農作業も手伝わなくてはならない。学会活動に出るといってもバスもなく、夫のスクーターに乗せてもらって出かけるしかなかった。

涙が出る時は日本を発つ前に、山本伸一が指導してくれた言葉を思い出し、懸命に学会活動に励んだ。
東京で女子部の幹部であった彼女にとって、アルゼンチンのメンバーの活動は、のんびりしているように見えた。光子が懸命になればなるほど、皆の心が離れていった。

“私のどこがいけないのだろう”彼女は必死になって唱題し、自分が日本での活動を基準にして、すべて、そこに当てはめようとしていたことに気づく。自分本位だったと反省し、アルゼンチンの現実と向き合い、メンバー一人ひとりの苦悩を解決していくには、喜んで活動できる組織にするにはどうすればよいかを考え、個人指導を心がけ、行動した。

地道な、粘り強い、対話と激励の繰り返しこそが、すべてを変えていく原動力なのである。


太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋

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