小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

August 2019

高等部結成

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P104~

20世紀の巨星たちの死に、伸一は、時代の激動を感じていた。しかし、その流れが、どこへ向かっていくのかは、彼にもわからなかった。ただ、偉大なリーダー亡きあとの、世界の混乱を、伸一は憂慮していた。そして、人類の融合と平和の哲学を、一日も早く、世界に流布しなければならないと誓うのであった。

伸一の胸には、世界平和の実現のための、さまざまな構想があふれていた。だが、彼は、高鳴る鼓動を抑え、努めて冷静に、堅実な歩みを運ぶことを心がけていた。千里の道も一歩一歩の着実な積み重ねであることを、彼は熟知していたからである。

旅を終えて、伸一が最初に着手したのは、翻訳委員会の設置であった。諸外国でも、学会への批判は、ことごとく無認識による誤解から生じており、正しい理解を促すための入門書の制作は早急の課題といえた。

今なすべきことを、今なし、今日やるべきことを、完璧に仕上げていくーーこの現実の地平の彼方に、山本伸一は、世界平和の旭日を見ていた。

<新時代の章 終了>

<鳳雛の章 開始>


1964年6月男子部幹部会において青年部に『高等部』と『中等部』を設置すると発表した。
この年の3月に発表された、「青少年白書」では、少年犯罪が年々増加の一途をたどっていて、犯罪の低年齢化が進み、14~15歳が 前年比35%の増であり、さらに中流家庭層の子弟による犯罪の増加が指摘されていた。

また、近年の少年の犯罪は、貧困が原因ではなく、普通の生活をしていながら、犯罪に走っているとあった。経済的に豊かになり、大学や高校への進学率も上昇しているのに、少年犯罪が増えている理由について、女子部の幹部が「子供たちが、自分をかけるものがなく、精神的な空虚感が募っているせいで、受験に勝つこと以外意味がなく、ほかに人生の目標が見いだせないからだと思う」と話す。

伸一が答えた。「政府も“人づくり”といって教育に力を入れてきた。しかし、人間としての使命を教え、人生の価値を創造する教育とは、ほど遠い状態だ。結局、人間の哲学がないゆえに、本当に人間をつくることができないでいるんだ」

「日本の未来、世界の未来を考える時、高校生や中学生などをいかに育成していくかは、極めて重要だ。そして、その模範を示していくことが、学会の使命であり、これからの社会的な役割の一つと言える。」

高等部の設置の発表後、開催された東京第2本部の結成大会に急遽出席した伸一は、ともに、勤行し、
話始めた。「人の一生は、10代、20代でどういう努力をしたか、どういう前進をしたかで、明確に決まってしまうものです。」

「世界の指導者を見ると、多くは、10代20代で、人生の哲学、思想、信念をもち、それを貫いて、30代40代で、偉大な仕事を成し遂げております。青春時代に、生き方の骨格をつくり、さらに完成させていくところに、確かな人生の道があります。その意味からも、諸君も、信心に励み、題目を唱えきって、最高の生命の哲学である仏法を、人生の根本の思想にしていっていただきたいのであります。」

「あくまでも、勉学第一であり、学問に励むようにすることです。当然、根本は信心です。何のために勉強するのかという、目的を明確にしてあげれば、勉強への取組も、自然と積極的になっていくものです。」

子どもたちに、宗教を教え込むのはどうか、という人もいるようだがという質問に、「豊かな心を培い、また、人間としての生き方の骨格をつくっていくのが信仰です。だから、若いうちから、信心をすることがだいじになる。人間として大成するために、信仰の『種」、信念の『種』、哲学の『種」を植えていくんです。そして、将来の社会の指導者を、学会の指導者を育てていくことが、担当者の皆さんの使命です。

太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

ネルー首相の死

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P92~

次のインドは、2度目の訪問である。ニューデリー上空で山本伸一は、正木にアメリカでも、機関紙をつくろうと話す。

トリビューンとは、正義の声を世に訴え、民衆を守るという意味だと聞き、「私たちは、世界の平和を築き、人類の幸福を守ることが目的だから、アメリカの機関誌は『ワールド・トリビューン』としたら、どうかと話した。

「これからは、ますますアメリカが大事になる。しばらく前の、アメリカの雑誌の学会批判に対しても、現地のメンバーが、すぐに英字の機関紙に反論を出せば、世間の評価を変える、大きな力になったのではないかと思う。」

「これから必要なのは、単に日本の情報を伝えるだけではなく、現地のメンバーによって編集され、体験なども、現地の人を取り上げた新聞だ。」

「この釈尊有縁のインド上空で、『ワールド・トリビューン』という名前が決まったことは、大きな意味がある。さらに、仏法が世界に広がっていく瑞相だ」と力のこもった声で言った。

伸一一行が予定より3日早い帰国をした。その3日後、彼は、衝撃的なニュースに接する。インドのネルー首相の死である。「巨星、墜つ」の衝撃にインドも世界も震えた。

ジャワハルラル・ネルーは北部インドの アラハバードの裕福な名門家庭に生まれる。しかし、彼はインドの民族運動の活動家であった父の影響もあり、やがて、次代の激流に身を投じる。また、1916年、ネルーは初めてマハトマ・ガンジーと相見える。時にネルーは27才、ガンジーは47歳。ちょうど20歳差であった。

彼はガンジーの感化を受け、インドの独立のために生涯をかける覚悟を固めていく。20年6月、ネルーは農村に行き、人びとの純朴な心に触れるとともに、民衆の悲惨な生活を目の当たりにした。貧しき民衆への共感と、社会の悲惨な現実に対する正義の怒り ー ネルーは、この経験を「私の開眼」と呼んでいる。

彼の偉大さは、この若き日の心を、生涯、忘れなかったことであろう。
若いネルーは、急進主義に傾いたり、社会主義を標榜するなど、ガンジーと意見を異にする場面も少なくなかったが、彼は、ガンジーを「わが師」と呼ぶ、後継者であった。

47年8月15日、遂に、インドは独立の日を迎え、ネルーは首相兼外相として新国家の建設を担うことになる。しかも、その矢先の48年1月、独立の父ガンジーが暗殺され、ネルーの双肩には、想像を絶する重責がのしかかった。

ネルーは、「人のために働いて、働いて、眠れぬ夜を何日過ごすかが大切だ」との言葉を残しているが、これこそ、真正の指導者の心であろう。

また、米ソの冷戦下で、「非同盟」を原則とするインド外交を確立していった。それは、東西のいずれの軍事同盟にも属さず、平和共存をめざすものであった。

さらに、1954年には、中国の周恩来首相との間で、領土・主権の尊重、相互不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和共存の「平和5原則」を確認している。これは、翌年、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議において、「平和10原則」へと発展し、世界平和の原則を打ち立てるものとなった。

ネルーは、インドと日本の友好にも、忘れ得ぬ刻印を残した。彼は、娘と同じ「インディラ」と命名された1頭の象を日本に寄贈している。

また、対日平和条約を結んだ。これは占領状態を脱した日本が、自主的に結んだ最初の対外条約であった。しかも、この時、インドは対日賠償請求権を放棄したのである。

このネルーの死は、伸一の心を曇らせた。前年、アメリカでケネディが逝き、今またネルーが逝いたのである。

太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

メルボルンテレビ局のインタビュー

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P83~

シドニーでの仕事を終えた伸一は、メルボルンに移った。するとテレビ局が山本会長にインタビューしたいと言っているというのだ。有名のインタビューしかしない、著名な人物だという。

先方は、まじめな態度だったと聞き、明日一人でインタビューを受けるという伸一。
「私はオーストラリアの将来のために、誤解と無認識による学会批判の報道を打ち破っておきたい。悪いにもとづく取材なら、応じても悪用されるだけだが、今回は、私が会って、真実の学会の姿を認識させたいと思う。学会のことを、深く理解すれば、間違った報道はしなくなるだろう。」

「戸田先生は、よく外交のできない者は信じるなといわれた。これも外交であり、戦いだ」

この夜、メルボルン郊外で座談会が開かれたが、雑誌などの学会批判の記事と同じ趣旨の質問をする女性がいた。正しい情報に触れる機会がなかったメンバーは雑誌などの言い分を、そのまま信じてしまっていたのである。

十条はこの時、伸一が自らテレビ局のインタビューを受けることにした理由がよくわかった。マスコミの誤解と偏見を打ち砕いておかなければ、折に触れ、同じような学会批判が繰り返されるに違いないからだ。

翌日約束の時間を10分ほど遅れ、テレビ局のメンバーが到着した。伸一は、テレビ局のスタッフを丁重に出迎え、握手を交わしながら、自己紹介すると言った。「お会いできるのを楽しみにしておりました。さあ、どんなことでも遠慮なさらず、どんどんお聞きください」

気さくで友好的な彼の応対自体が、伸一を独裁者に仕立て上げてきた、これまでのマスコミ報道の先入観を覆すものであった。インタビュアーの質問は簡潔で的を射ていた。

「創価学会は、軍国主義的な団体であり、軍隊同様な組織によって教勢を拡大してきたと言われていますが、それに対してどうお考えですか」


軍国主義を最も否定し、そのために逮捕・投獄され初代会長は獄死している。組織の役職で「部隊長」とかいう名前を使うのは、自分たちが 平和の戦士であるという自覚と、意気盛んに活動をすすめるのによいという判断からである。

等々、伸一は、一問一答、丁寧にあらゆる角度から答えていった。最初、インタビュアーの目には警戒心と猜疑心が漂っていたが、語らいが進むにつれて、彼の顔は柔和になり、屈託のない微笑を浮かべるようになっていた。

インタビューが終わると、伸一は「今日は、わざわざおいでくださり、公平に、当事者である私の話を聞いてくださったことに心から感謝申し上げます。実は、必ず当事者に話しを聞くということや、先入観を持たないといったマスコミ人の基本を、怠っている雑誌の記者などが、かなり多いんです。」

「偏見と憶測で記事を書かれ、これまで、学会は、本当に迷惑を被ってきました。アメリカで一流といわれてきた雑誌もそうでした。事実を確認し、正しい認識に基づいて批判することは、いっこうにかまいませんし、私も、そうした批判は大切にしてきました。しかし、事実も確かめずに見当ちがいな批判をする、また、誤った報道をするというのは、困ったことです」

「それだけに、真摯な、本来のマスコミ人の姿勢をもった方と会うと、私は嬉しくなるんです。私は、あなたを、日本にご招待します。そして、学会本部も、総本山も、学会の文化祭も、各部の活動の様子も、つぶさにご覧になってください」山本伸一への取材時間は、2時間ほどになった。



太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

オーストラリア広布の種

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P72~

今、その青年が、オーストラリア広布の使命に燃えて、自分を空港に向かえてくれたことが、彼はたまらなく、嬉しかったのである。伸一は「オーストラリアに支部をつくり、支部長は 延野君がなるんだ」と話すと、戸惑う延野。

「オーストラリアで大学者になることも大事だが、君の深い任務は、この国の広宣流布にある。学問の力では、人びとを根底から救いきることはできない。それができるのは仏法だけです。」と話す伸一。

伸一のオーストラリアの訪問の最大の目的は、この支部の結成にあった。そして、その中心となる廷野修を励まし、彼の胸中に、発心の種を植えることにあった。

夕食後、安岡広之、本城綾子と懇談の時間を持った。安岡は大学受験に失敗し、浪人していた時、入会するが、御本尊を信じることができず、“祈りが叶う御本尊だというなら、罰を出してみてくれ”と祈った。

受験が迫ったある日、彼は突然血を吐いて倒れ、受験に失敗してしまった。自分で祈っておきながら、“功徳があるというから信心したのに”と幹部に指導を求めると、仏法は道理だから、罰があったということは正しい信仰を貫くなら必ず功徳を受けらると指導され、1か月で結果は出ると言われた。

安岡は、本格的に信心に取り組み1か月後、自分の気持ちの変化に気づく。そして、翌年の大学受験で東京大学に合格した。

一方、本城綾子は、有名女子大を卒業し、大変恵まれた家の娘であったが、家庭的なことなどで苦労がない分、広宣流布のため、法のため、友のために苦労しようと、心に決めていた。学会活動を通し、多くの友と同苦し、励ましを送り、一緒にその苦悩を克服していくなかで、信心の確信をつかんでいったのである。

学会活動は、自分の枠を超え、友の体験を共有し、境涯を広げ、高めゆく力となる。

山本伸一は、指導者の在り方について廷野に語った。「学会のリーダーとして大事なことは、誰からも好かれるということです。人間は 感情の動物だ。だから、どんなに話が理路整然として正しくても、あの人はいやだなと思ってしまえば、素直に話を聞けなくなってしまう。」

「では、人に好かれるには、どうしたらよいか。こちらから笑顔で言葉をかけ、語り合い、友人になっていくことです。また、思いやりを持つことです。その思いやりの根本は、祈りです。人間は、自分の幸福を祈り、念じてくれている人には、必ず心も開くし、好感を持つものです。」


「この国では、白豪主義根深く、白人以外の人種が就職したり、社会に食い込んでいくのは、並大抵のことではありません」とアメリカに渡った方が、実りがあると話すと

「そうかもしれない、しかし、だからこそ、誰かが、それを打ち破っていかなければならない。どこの国でも、さまざまな差別や障害がある。それが現実だよ。矛盾だ、不平等だと文句を言うだけで、それが解決できるなら、こんな簡単なことはない。その現実を直視して、道を切り開いてきたのが、世界広布の歩みです。」

「学会が掲げているのは地球民族主義だ。その実現の第一歩は、君がこのオーストラリアで、力をもち、実証を示して、誰からも信頼され、尊敬されていくことだよ」

「時代は、地球民族主義の方向に動いていかざるをえない。それは、オーストラリアの人びとの、意識を革命していくことでもある。だが、これは大変なことだ。生活に根差した、粘り強い戦いだ。君は、その先駆者になりたまえ。」

この時、廷野の心に、広布への誓いの種子が蒔かれた。彼はこの伸一の指導で、生涯オーストラリアの広布に生き抜くことを決意したのだ。


太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋

フィリピンの誓いの種子

『新・人間革命』第9巻 新時代の章 P62~

フィリピンマニラ空港には、マニラ支部長の伊丹芳郎と貴久子が伸一に会いに来た。彼女は、マニラで懸命に学会活動に励んだ。しかし、カトリックの影響の強い国であり、文化の違いからか、大聖人の仏法を理解させることは、かなり難しかった。また、戦時中、日本軍の侵略を受けているだけに、反日感情も強かった。

彼女の顔には、疲労の色が滲んでいた。日々、悩みつつ、初めての国で頑張り続けてきたのであろう。伸一は 包み込むような優しい口調で言った。「あなたの苦労はわかります。でも、大変なところで、人びとに信心を教えていくことこそ、本当の仏道修行です。」

「また、地涌の菩薩はどこにでもいる。この国にだけは、出現しないなんていくことは絶対にないから大丈夫だよ。」

指導といっても、一様ではない。信心がわからぬ人には、仏法のなんたるかを、懇切に教えなくてはならない。また、怠惰に流されていれば、惰眠を覚ます、厳しい指導が必要な場合もある。そして、必死になって頑張っている人は、称え励まし、元気づけることだ。

柴山昭男に、フィリピンの男子部の責任者に任命しようと思うと話す伸一。男子部はほとんどいないという柴山に、一人立つ人がいれば、必ず広がっていくと広宣流布の原理を話す。

「広宣流布の道が険しいのは当然です。困難ばかりであると、覚悟を決めることです。弾圧下にある国もある。その中でも同志は必死になって命がけで頑張っている。私だって、大悪人のように言われ、国によっては入国するのだって、大変なこともあるんだよ」この伸一の言葉には、次のような背景があった。

前年の九月、アメリカの有名な雑誌が、日本を特集したなかで、その3分の1を使って学会を紹介したがその記事は、甚だしい誤解と偏見に基づく内容になっていた。学会は世界征服を狙う教団で、軍隊式組織を使って布教し、改宗を断れば、悲惨な結末と地獄が待っていると脅すというのである。

さらに、教団の指導者は独裁的で、その言葉は絶対であり、会員は 羊のように従っているとしていた。アメリカを代表する、この雑誌が、学会を激しく中傷していることから、英語圏を中心に各国のメディアが、これにならって、同じような見方で学会を取り上げ始めたのである。

その影響は、思いのほか、大きかった。各国のメンバーからは、人びとがそれらの報道を鵜呑みにして、学会への警戒心を強めているとの連絡も、頻繁に、入っていた。そして、本部の職員がビザを取るのにも、かなり難航するケースがあったのである。

伸一は、フィリピンのメンバーに言った。「何ごともにも平坦な道はない。しかし、苦労があるから強くなれる。苦難がまことの信仰を育む。労苦が魂を鍛える。嵐に向かい、怒涛に向かって進んでいくのが、広宣流布の開拓者だ。この三人が立ち上がり、真剣になれば、フィリピンの基礎は築ける。未来は安泰だ。私と同じ心で、同じ決意で前進しよう。」

語らいは数十分にすぎなかったが、三人のメンバーの心には、永遠の誓いの種子が植えられたのであった。

山本伸一の一行は、オーストラリアのシドニーへ飛んだ。空港には、オーストラリア国立大学に留学している廷野修らのメンバーが待っていた。廷野は、東京教育大学の大学院で修士課程を終え、2年前、医化学の研究のために、オーストラリアに渡ったのである。

彼の入会は、1957年。入会後、戸田城聖が、“学生部の半分は重役に、半分は博士に”と指導したことを聞いて、彼も奮起し、さらに、伸一の「青年は世界に知識を求めよ」との指導に触発され、留学したのである。



太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋
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