『新・人間革命』第9巻 衆望の章 P316~
<衆望の章 開始>
1964年10月10日から24日まで、第18回オリンピック東京大会が開催され、日本国中が、わき返っていた。
東京オリンピックは、過去に戦争の激化により、開催が決定していながら中止となった過去があった。"平和の祭典"オリンピックは、戦争によって、いともたやすく、つぶされてしまったのだ。
その中止から四半世紀余り過ぎ、日本は 敗戦という辛酸をなめ、そこから、めざましい復興を果たしたのである。
日本選手の活躍も目覚ましかった。金メダル16、銀メダル5、銅メダル8を獲得。金メダルの数ではアメリカ、ソ連に次いで、3位となったのである。
山本伸一は、学会本部で、女子部の幹部たちと一緒に、テレビで、大松博文監督率いる女子バレーボールの決勝戦の模様を、観戦した。試合が終わると、伸一は女子部の幹部に語った。「勝つことはうれしいし、気持ちがいい。しかし、実力の差は紙一重でしょう。それなのに、日本チームが圧勝したのはなぜかーーここが大事なポイントだ。」
「日本チームは、『絶対勝つ』という確信に燃えていたことだ。勝利への強き一念で、皆が団結していった。あなたたちは、新しい時代を開くために、広布と人生の戦いに、勝ち続ける責任がある。その意味で、今の試合から学ぶべきことは多いよ。」
文豪・吉川栄治に、「我以外皆師」との有名な言葉があるが、伸一もまた、すべてのものから学びゆかんとする、強き向上心に満ちあふれていたのである。
閉会式では、国や民族の区別もなく、互いに入り交り、ともに腕や肩を組み、選手たちは進んでいった。意表をつく、楽しく、愉快な行進であった。そして、何よりも、ともに同じ人間であるという自覚に結ばれた「平和」を愛する「自由の行進」であった。そこには、権威も権力もなかった。
主催者側は、きちんと並んで入場することを、計画していた。ところが、選手たちには、"楽しく、自由にやりたい"という、強い思いがあったようだ。役員の生死を振り切り、グランドになだれ込んでいったのである。
閉会式の行進を通し、人びとは、国家や民族、人種、イデオロギーの違いを超えて「世界は一つ」という理想を、一瞬であれ、分かち合ったことは間違いない。
東京オリンピックは、成功裏に終わった。それは、日本が敗戦の荒廃から、完全に復興したことを世界に示す大会となった。まさに、戦後20年の節目を前にして、戦後史の一つの転換点を成す、象徴的な出来事といえた。
このオリンピックの開催は、東京という一都市の事業ではなく、日本の国家的な事業として位置づけられてきた。東京は、世界に恥ずかしくない首都の顔をもたねばならないと、首都圏整備計画の一環として、オリンピックの関連事業が推進されてきたのである。
競技施設の建設や運営にあてられた費用より、国鉄の東海道新幹線建設、地下鉄整備、道路整備などの間接費用に8割近くが使われた。
オリンピックに間に合わせるために、突貫工事が続けられ、首都高速や、環状線や一般道路も整備された。開幕直前には、東海道新幹線が、着工からわずか5年半にして、開通している。新幹線の開通は、"スピード時代"の象徴であった。
ホテルなどのビル建設も急ピッチで進められた結果、東京の街並みは一変した。東京を訪れた諸外国の人びとは、"敗戦国・日本"の復興に目を見張った。そして、これによって、日本人は、日本は"一流国"入りしたという、自身を得たといってよい。
「経済白書」が「もはや戦後ではない」としたのは、1956年のことであった。それから、わずか8年にして、GNP(国民総生産)は、3倍の成長である。
では、「日本の奇跡」とさえいわれた、この復興を可能にした原動力は、何であったのか。
それは、民衆である。民衆一人ひとりに内在する、エネルギーである。
<衆望の章 開始>
1964年10月10日から24日まで、第18回オリンピック東京大会が開催され、日本国中が、わき返っていた。
東京オリンピックは、過去に戦争の激化により、開催が決定していながら中止となった過去があった。"平和の祭典"オリンピックは、戦争によって、いともたやすく、つぶされてしまったのだ。
その中止から四半世紀余り過ぎ、日本は 敗戦という辛酸をなめ、そこから、めざましい復興を果たしたのである。
日本選手の活躍も目覚ましかった。金メダル16、銀メダル5、銅メダル8を獲得。金メダルの数ではアメリカ、ソ連に次いで、3位となったのである。
山本伸一は、学会本部で、女子部の幹部たちと一緒に、テレビで、大松博文監督率いる女子バレーボールの決勝戦の模様を、観戦した。試合が終わると、伸一は女子部の幹部に語った。「勝つことはうれしいし、気持ちがいい。しかし、実力の差は紙一重でしょう。それなのに、日本チームが圧勝したのはなぜかーーここが大事なポイントだ。」
「日本チームは、『絶対勝つ』という確信に燃えていたことだ。勝利への強き一念で、皆が団結していった。あなたたちは、新しい時代を開くために、広布と人生の戦いに、勝ち続ける責任がある。その意味で、今の試合から学ぶべきことは多いよ。」
文豪・吉川栄治に、「我以外皆師」との有名な言葉があるが、伸一もまた、すべてのものから学びゆかんとする、強き向上心に満ちあふれていたのである。
閉会式では、国や民族の区別もなく、互いに入り交り、ともに腕や肩を組み、選手たちは進んでいった。意表をつく、楽しく、愉快な行進であった。そして、何よりも、ともに同じ人間であるという自覚に結ばれた「平和」を愛する「自由の行進」であった。そこには、権威も権力もなかった。
主催者側は、きちんと並んで入場することを、計画していた。ところが、選手たちには、"楽しく、自由にやりたい"という、強い思いがあったようだ。役員の生死を振り切り、グランドになだれ込んでいったのである。
閉会式の行進を通し、人びとは、国家や民族、人種、イデオロギーの違いを超えて「世界は一つ」という理想を、一瞬であれ、分かち合ったことは間違いない。
東京オリンピックは、成功裏に終わった。それは、日本が敗戦の荒廃から、完全に復興したことを世界に示す大会となった。まさに、戦後20年の節目を前にして、戦後史の一つの転換点を成す、象徴的な出来事といえた。
このオリンピックの開催は、東京という一都市の事業ではなく、日本の国家的な事業として位置づけられてきた。東京は、世界に恥ずかしくない首都の顔をもたねばならないと、首都圏整備計画の一環として、オリンピックの関連事業が推進されてきたのである。
競技施設の建設や運営にあてられた費用より、国鉄の東海道新幹線建設、地下鉄整備、道路整備などの間接費用に8割近くが使われた。
オリンピックに間に合わせるために、突貫工事が続けられ、首都高速や、環状線や一般道路も整備された。開幕直前には、東海道新幹線が、着工からわずか5年半にして、開通している。新幹線の開通は、"スピード時代"の象徴であった。
ホテルなどのビル建設も急ピッチで進められた結果、東京の街並みは一変した。東京を訪れた諸外国の人びとは、"敗戦国・日本"の復興に目を見張った。そして、これによって、日本人は、日本は"一流国"入りしたという、自身を得たといってよい。
「経済白書」が「もはや戦後ではない」としたのは、1956年のことであった。それから、わずか8年にして、GNP(国民総生産)は、3倍の成長である。
では、「日本の奇跡」とさえいわれた、この復興を可能にした原動力は、何であったのか。
それは、民衆である。民衆一人ひとりに内在する、エネルギーである。
太字は 『新・人間革命』第9巻より 抜粋