小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

July 2019

韓国の 創価学会への取り締まり強化

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P346~

韓国側が学会を問題視している事柄の大半は、かつて、植民地時代の皇民化政策や軍国主義と結びつけられたものである。それは、甚だしい誤解に基づくものであるが、そこに、足かけ36年にも及んだ、日本の支配の傷の深さをうかがい知ることができる。

日本は、神社への参拝を強制し、人間の精神の基盤ともいうべき信仰をも、力ずくで抑え込もうとしたのである。それだけに、日本の宗教には、過敏になっていたのであろう。

学会は、軍隊調で危険な団体だとか、学会は政界に人を送り、公明会をつくり、政教一致であると盛んに喧伝していたり、アメリカの著名な雑誌が創価学会を特集し、学会は世界征服を狙っていると報じたことも、影響を与えたのかもしれない。

山本伸一は、分析の末に、今回の韓国の問題は、誤解から生じているものであり、その誤解を取り除いていくならば、本質的には、何も問題ないと確信していた。

伸一は、ともかく、韓国政府やマスコミの誤解を解くとともに、在日韓国人のメンバーに事実をありのままに伝え、いたずらに動揺することを防がなくてはならないと思った。

そこで、「聖教新聞」で、今、韓国で起こっている問題を特集を組むことにした。
これまでの事実経過が明らかにされるとともに、韓国側がいだいている、誤った認識を具体的に指摘し、その一つ一つについて、明快に説明していった。

第一に、勤行の時、初座で東方を向くのは、日本を礼拝するのではなく、太陽をはじめとした諸天善神を象徴する「東天」にあいさつをおくる意義からであり、アメリカのメンバーは日本にではなく、「東」にむかって読経する。

第二に、日本語で経典を読んでいるという点だが、「南無妙法蓮華経」の題目は、「梵漢共時」と大聖人が大聖人が仰せのように、語源的には梵語・漢語に由来している。経文も漢語である。大聖人はこうした国際性を誇りとしていた。

第三に、天照大神を拝ませるという問題も、誤解であり、学会では、天照大神を信仰の対象とすることはない。仏法の目から見るならば、天照大神も、正しい仏法の実践者を守る働きの一つであるにすぎない。戦時中、日本が皇民化政策のために、礼拝を強要したものとは、根本的に違う。

そもそも、初代会長牧口常三郎、二代会長戸田城聖は、戦時中、この天照大神の神札を厳然と拒否し、それゆえ、軍部政府の弾圧で投獄され、初代会長は獄死したのである。

第四に、軍国主義的であるという批判は、歴史を見れば明らかなように、学会ほど軍国主義と戦ってきた団体はない。学会は、軍国主義と正反対の、平和と文化の団体であり、全民衆の幸福のための団体である。

第五に、学会は純粋な宗教団体である。日本においては民衆を忘れた政治の、腐敗した現状を憂え、慈悲の精神から政治に参加したが、海外ではいっさい政治活動を行う意思はない。

「今回幹部派遣についても、韓国民との友好を兼ね、現地会員の信仰に誤りや行き過ぎのないよう指導すべく準備したものである。この点を十分理解されなかったことは、まことに残念なことであるが、これを機会に、韓国においても、創価学会に対する研究が行われ、正しい理解と認識に基づく評価が、やがて、行われるであろうことを信じてやまない」との理事長談話も 掲載された。

韓国では、国務会議で「今後、創価学会に関しては、これを取り締まり、その蔓延を防止する方向で施策を講ずる」との方針が決議された。さらに、創価学会に関する郵便物の取り締まりに協力するよう、要請が出され、日本からの 韓国への、学会出版物の郵送も困難になったのである。



太字は 『新・人間革命』第8巻より

韓国での布教禁止

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P337~

田島夫妻は、在日韓国人に向けられる、日本社会の冷たい仕打ちにも泣いてきた。しかし、学会の世界は、どこまでも温かかった。自分たちのことを親身になって考え、肉親以上の思いやりをもって、温かく励ましてくれる同志の心に、夫婦は、いつも胸を熱くしてきた。

やがて、正治は、友人と貿易商を営み、そして、独立することになった。さらに、金融の仕事も手がけ、見事に困窮を脱していったのである。

“この仏法はすごい!必ず誰でも幸福になれる。祖国の人たちに、なんとしても、信心を教えたい”強い確信をいだいた田島夫妻は、1959年の秋、勇んで韓国に帰り、親族や知人に仏法、を語っていった。
この時には、まず、美恵の母親が入会した。その後、正治の実家や、美恵の兄嫁も信心を始めている。

夫妻は、幾度となく、韓国に里帰りし、妙法の種子を、一人また一人と植えていったのである。

山本伸一が第三代会長に就任し、世界広布のうねりが広がるなか、祖国の縁者に正法を伝えに行く在日韓国人や韓国出身者のメンバーは、さらに増えていった。

まさに、大聖人が仰せの「地涌の義」さながらに、不思議なる使命の人びとが、韓国のあの地、この地に生まれたのである。

会員は急増していると伝えられていた。しかし、組織化はほとんどなされず、内得信仰をしている人も多かった。韓国のメンバーにとっては、日本から送られてくる学会の出版物や日本の会員からの手紙が、唯一の信心の栄養であったといってよい。そのなかで、韓国の同志は、求道心を燃やし続けてきた。学会本部には、指導を求め、幹部の派遣を要望するメンバーの手紙が、これまでに何百通も届いていたのである。

こうしたことから、学会本部では、幹部の派遣を決定したのである。その目的は、韓国メンバーを激励するとともに、民衆レベルでの日韓の友好を深めることにあった。

ところが、派遣メンバーの鈴本らが、駐日代表部に申請したビザが、なかなか下りないのである。
年が明けて、1月上旬から、韓国の新聞が、突然、学会への批判記事を掲載し始めたのである。

戸惑ったのは、韓国のメンバーであった。“私たちは、何も悪いことなどしていないのに、なぜ、こんなことを書かれるのだろう”

このマスコミの批判と時を同じくして、韓国政府では、日本の文部省に該当する文教部で、学会への対応を協議していた。

そして、16日になって、正式に 渡航不許可の通知が届いたのである。
韓国では、文教部が宗教審議会を開き、創価学会を「反国家的、反民族的な団体」とする結論を出し、「創価学会は、韓国では布教を禁止する」との見解を語った。

在日韓国人のメンバーの驚きは大きかった。皆にとっては、まさに、雲をつかむような、不可解な話であった。

山本伸一は、韓国各紙の学会への激しい批判が始まって以来、冷静に、事態の分析に努めていた。
これらの問題視された一つ一つの内容を見ていくと、いずれも、誤認識がもたらしたものであることは明らかであった。

真実を知らないということは、不安をかきたてるものだ。そして、不安は恐れへと変わっていく。新人をする人たちが、次第に増え続けていくにつれて、韓国の宗教関係者や政府の関係者も慌て出したようだ。また、反日感情の激しい時代でもあった。そこに、「聖教新聞」に、韓国への幹部の派遣が発表されたことから、日本の宗教による侵略が始まるかのように感じられたのであろう。

韓国側が学会を問題視している事柄の大半は、かつて、植民地時代の皇民化政策や軍国主義と結びつけられたものである。それは、甚だしい誤解に基づくものであるが、そこに、足かけ36年にも及んだ、日本の支配の傷の深さをうかがい知ることができる。




太字は 『新・人間革命』第8巻より

在日韓国・朝鮮人への偏見と差別

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P323~

日本に渡った「在日」と呼ばれる人たちの歩みも、辛苦と忍従に満ちていた。
終戦時の45年(昭和20年)には、実に200万人を超えていたと推定されている。

そのなかには、日本の植民地政策によって、農地を失い、働き口を求めて日本に来た人もいた。さらに、37年に、日本と中国が全面戦争に突入すると、徴用などによって、強制的に、日本に連れて来られる人が多くなっていった。労働力確保のために、国策として、国家総動員法、国民徴用令を公布し、朝鮮からも人びとを動員したのである。

日本に連れて来られた人たちは、炭坑や、鉱山、土建関係の仕事などに従事させられたが、賃金は日本人よりもはるかに安く、労働は過酷であった。

広島に原爆が投下されると、朝鮮人までには、手がまわらないと治療も思い通り受けられず、次々と死んでいった。

「在日」の人びとは、同じ、"皇民"といわれながら、実際には、甚だしい差別と屈辱に泣かされてきたのである。しかも、その悲劇は戦後も続いた。終戦を迎え、日本の植民地支配から解放されると、「在日」の人びとの大半は祖国に帰還したが、60数万人が日本に残った。

やがて、サンフランシスコ講和条約が発効されると、日本政府は、在日韓国・朝鮮人は、すべて日本国籍を喪失するとした。そして、「在日」の人びとが日本在住を続けるには、「外国人」として登録することが義務づけられ、さもなければ、日本国籍を取得しなければならないとしたのである。

戦後の、日本政府の在日韓国・朝鮮人への冷酷な対応もさることながら、日本人の根強い偏見と差別の意識も変わらなかった。表向きはともかく、実際には、就職の門戸を固く閉ざしている企業は少なくなかったし、部屋一つ借りるにも、断られることが多かった。

そうしたなかで、戸田城聖は、隣国の民の幸福を祈り、心を砕いていた。

すべての人が幸福になる権利を持っている。いな、最も苦しんだ人こそが最も幸せになる権利があるー
それを実現してきたのが創価学会である。

戸田の会長就任後大折伏が始まると、「在日」の人たちのなかにも、信心をする人が増えていった。

そして、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」と歌い、東洋広布を訴える戸田の心に触れ、メンバーは、同胞の幸福のために働きたいという思いをつのらせていったのである。


在日韓国人のメンバーに、田島正治、美恵という夫妻がいた。正治は、植民地支配下に、農地を失い、移住を余儀なくされた一族であった。妻は 東京生まれの在日二世である。

戦争が終わると、美恵は長男の嫁として初めて祖国の大地を踏む。しかし、祖国に戻った「在日」の人びとは“役に立たぬ”といわれたり、日本に住んでいたために母国語がしゃべれない子供たちは“パンチョクパリ(半日本人)”と言われ、いじめられることもあった。

美恵は祖国に信頼を得ようと必死に働く。そこに朝鮮戦争が勃発し、死を覚悟したこともあった。実父が亡くなったことで、日本に残った夫のもとへ行きたいと思うようになるが、当時、日韓関係は最悪で、一般の渡航は困難で、密入国者として身柄を拘束されてしまうが、ようやく入国が認められる。

夫婦は 横浜で生活を始めるが、子供が結核になり、その時、信心の話を聞き、入会した。
経済のどん底のなかで、同志から激励を受け、自身の宿命を痛感した彼女は、信心で立ち上がろうと決意する。

信心以外に、頼れるものは何もなかった。自分たちの力で、歯を食いしばって生きるしかないということを彼らは、いやというほど痛感してきた。

夫婦は、戸田城聖の大確信に触れ、宿命転換を誓い、猛然と折伏に走った。




太字は 『新・人間革命』第8巻より

韓・朝鮮半島の分断

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P323~

そして、その日は遂に訪れた。1945年(昭和20年)の8月15日。日本の敗戦が決まり、韓・朝鮮半島の民衆に、解放の光が降り注いだ。全土に「万歳」の声が轟いた。この日は、日本の軍国主義の闇に決別した"光復の日"となったのである。

しかし、悲劇は、まだ続いた。
戦争が終わると、日本に代わって、南と北から、それぞれアメリカ軍とソ連軍が進駐し、北緯38度線を境に、南北で別個の占領政策が進められた。やがて、米ソの"冷戦"が表面化し、南北統一を求める民衆の願いとは逆に、民族の分断は固定されていった。

1948年の5月、国連の監視下に、独立政府をつくるための総選挙が南だけで行われた。そして、初代大統領には、李承晩が就任し、8月15日大韓民国が誕生する。一方、北にも、同年9月9日、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立する。韓・朝鮮半島は、二つの国家に分断されてしまったのである。

それから、2年後1950年6月25日、同じ民族が相争う、"朝鮮戦争"(韓国戦争)が勃発した。
日本の支配から解放されても、祖国の平和の春は、いまだ遠かった。休戦協定が結ばれたのは3年後の7月であった。

日本と韓国の国交正常化をめざして、日韓会談が始まったのは、朝鮮戦争の悲劇がまだ、打ち続く1952年2月であった。以後、数次にわたって、両国の基本関係、在日韓国人の法的地位などをめぐって話し合いが行われたが、交渉は難航した。

日本側は、1910年の韓国併合条約は有効であり、それが無効になるのは終戦後だと主張していた。一方、韓国側は、併合自体を無効であるとし、36年に及ぶ日本の支配の間の賠償を求めていた。

その第3次日韓会談の席上、日本側首席代表が、"日本は朝鮮の鉄道・港を造ったり、農地の造成をした""(植民地時代の朝鮮人は)奴隷状態にあったとは考えない"等と発言した。それは、日本の統治は、韓国に恩恵も与えたというものであった。また、講和条約前の韓国の独立などについても、国際違反だとの見解を述べた。

韓国側は、「妄言」として猛反発した。一片の謝罪もなく、植民地支配を正当化する日本の姿勢に対する怒りである。その後も、日本の政治家が繰り返してきた"問題発言"の原型といってよい。これによって、日韓会談は4年半にわたって途絶したのである。

過去の過ちを忘れることは恥である。そして、過去の過ちを歪曲し、正当化することは、さらに恥ずべき行為である。日本の指導者層の、こうした傲慢な言動が、どれほど日韓の真の友好を妨げているか計り知れない。

会談が再開し、日韓両国の新しい国交を開く日韓基本条約や関係協定が結ばれたのは、1965年(昭和40年)であった。以後、日本は「賠償」としてではなく、「経済協力」というかたちで、韓国を支援することになるのである。

韓国国内では、1948年の独立以来、李承晩が大統領を務めていたが、次第に独裁を強めたため、国民の支持を失っていった。1960年の4月には、大統領選挙の不正をきっかけに、大規模な大衆デモが拡大した。その先頭にたったのが、学生たちであった。

正義と自由を叫ぶ、学生の呼びかけに応え、4月19日、万余の大衆が、大統領官邸に向かった。デモを阻止しようとした警察の実弾射撃により、多数の死者、負傷者が出た。この結果、李承晩はアメリカの支持も失い、退陣を余儀なくされた。歴史的な「4・19学生革命」である。

第2次共和制がスタートしたが、それも束の間、翌61年の5月、朴正熙を中心とした軍部がクーデターを起こして、権力を奪取するのである。

韓・朝鮮半島の人びとは、この激動の歴史のなかで、あたかも、激流に翻弄される木の葉のように生きねばならなかった。



太字は 『新・人間革命』第8巻より

日本と韓国

『新・人間革命』第8巻 激流の章 P312~

1964年、学会本部で初勤行会に集った幹部たちは、いよいよ今年は、戸田先生の七回忌を期して、「本門の時代」を迎える。広宣流布の新段階に入るのだー こう思うと、参加者の瞳は、一段と決意に輝くのであった。

伸一も、5月には、オーストラリア、セイロン、インドなどを訪問し、10月には、東欧を含むヨーロッパ訪問が決まっていた。また、1月15日には、理事の鈴本実らの5人が韓国の7都市を訪問し、メンバーと交流することになっていた。

韓国には、当時、信心をしている人が少なくとも、千世帯以上になっていたようであった。日本の会員たちは、韓国に対しては、特に強い親近感をいだいていた。戦時中、韓・朝鮮半島に行っていた人もいたし、各組織には、日々、ともに信心に励んでいる、在日韓国人のメンバーも少なくなかった。

韓国は、かつて日本の侵略の犠牲になった。だから、今度は、私たちが、韓国の人びとの幸福のために尽力していくのだーというのが、日本の同志の共通した思いであった。

伸一の父親は、戦前、京城(ソウル)にいたことがあった。徴兵を受け派遣されたのである。その時の話題になると、父は日本人の傲慢と横暴を「本当に日本はひどい」と、小学生の伸一を相手に憤るのが常であった。それだけに、伸一の韓国への思いは深かった。

彼は、韓国は日本にとって、「文化の大恩人」であり、その恩に報いるためにも、幸福と平和の大哲理を伝えていかなくてはならないと考えていた。また、日韓の民衆と民衆が交流を図り、深い友情で結ばれていくことが、将来のために、何よりも必要であると言うのが、伸一の主張であった。

絶大なる恩恵の中の「大恩」こそ、仏教の伝来であった。日蓮大聖人は、御書のなかで、この「精神の宝」を伝えてくれた偉業に、何度も言及されている。「百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金剛の教主釈尊を渡し奉る」朝鮮の地は、まさに文化の先進地であった。

『日本書紀』にも謳われた、日本人の憧れの地であった。ところが、一方で、同じ『日本書紀』には、朝鮮を見下し、蔑視する記述も現れている。そこには、ようやく、国家の体裁を整えた、新興の島国のナショナリズムともいうべき競争心が働いていたのであろう。だが、それは恩恵を受けた国への嫉妬と劣等感の裏返しでもある。

他者を蔑み、貶めることによって、自分を偉く見せようとするのが、心に劣等感をいだく人間の常であるからだ。

16世紀末、豊臣秀吉による朝鮮侵攻は、暴虐非道な侵略であった。
19世紀後半、近代化へ踏み出した日本は「富国強兵」のスローガンを掲げ、アジアへの進出を開始していった。韓・朝鮮半島は、大陸進出をめざす日本が、なんとしても獲得したい領土であった。

やがて、日清・日露戦争に突入するが、その舞台は、韓・朝鮮半島であった。
1910年「韓国併合条約」の調印となり、日本による韓国の、徹底した支配の確立であり、足かけ36年の 日本による 暗黒の朝鮮支配が始まった。

以後、韓・朝鮮半島は、日本の大陸侵略の基地として、過酷な搾取を強いられ続けていく。
日中戦争が激化していくと、「内鮮一体」のスローガンのもと、韓民族の「皇民化」が進められていった。日本語を学ぶよう強制され、日本名に変えさせる「創氏改名」を行い、韓民族の文化や伝統、精神性を徹底して否定していった。日本が韓・朝鮮半島を支配した、あまりにも、暗く、長い夜の歴史であった。


太字は 『新・人間革命』第8巻より
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