小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

June 2019

婦人部に与う

『新・人間革命』第7巻 操舵の章 P331~

2月1日、2月度の男子部幹部会で、世界の現状について言及していった。「今や、世は“無責任時代”といわれ、このまま放置していれば、世界はますます混迷の度を深めていく」

「わが創価学会は、一国の繁栄や利益のために、あるいは、一国を守るために、他の国を犠牲にしては
絶対にならないし、そのための指導原理こそが仏法です。ゆえに、その仏法を持った私どもが立ち上がり、10年先、20年先、いや、100年先の人類のために、平和と幸福を樹立する哲学の種子を、世界にまいてまいろうではありませんか。」


「戸田城聖先生の『原水爆禁止宣言』には、核戦争の脅威から人類を解放しゆく、大原理が示されております。私は、この宣言の精神を、どんなことがあっても、人類のため、子孫のために、世界の指導者に、絶対に伝え抜いていかなければならないと、強く決意しておりました。」

そして、アメリカのケネディ大統領との会見が具体化していたところ、日本の政界から横槍が入り、恩着せがましい、お節介なことを言い出す政治家がいて、学会が政治的に利用されることを阻止するために、今回は ケネディとの会見を見送ることにしたと話した。
会見の機会を逸した伸一とケネディ。この約10か月後、ケネディは 銃弾に倒れたのである。

また、女子部幹部会では、平和の実現への1つのステップとして、世界各国の首脳が一堂に会して、3か月に1度でもよいから、平和のための協議をすることを提唱した。

「伝統の二月」婦人部の活躍は目覚ましかった。婦人部は学会の太陽である。というのが山本伸一の確信であった。彼は、婦人部に感謝と敬意をこめて、未来への希望となる指針を贈りたいと思った。

戸田城聖の誕生日にあたる2月11日、「婦人部に与う」との題名の婦人部への指針の冒頭には戸田の和歌「白ゆりの香りも高き集いかな 心の清き友どちなれば」を記した。そこには、学会婦人部の姿が、象徴的に示されているからである。

「この歌のごとく、清らかな、そして、水のごとき信心を根本に、一生成仏をめざし、また、広宣流布達成まで、団結強き、世界一の婦人部であっていただきたい。」

さらに、広範な婦人の使命ついて言及していった。「学会婦人は、学会内からは当然のこと、一般社会の人びとからも、信頼され、好かれる婦人であるべきである。」


最後の創価学会婦人部こそ、妙法を抱きしめた、真の女性解放の先駆者である。自由と平和の旗を掲げた名誉を自覚し、仲良く、楽しく、美しく前進していこうではないか」との一節では、誰もが電撃に打たれたような思いにかられた。

彼女たちの多くは、経済苦や病苦にあえぎながら、自身の、わが家の宿命転換を願い、ただ幸福になりたいとの一心で、懸命に信心に励んできた。しかし、信心の目的は、それだけではなく、「女性解放」という、もっと大きく崇高な使命を果たすためであることを自覚したのである。

「女性解放」とは、単に制度などの社会的な差別からの解放にとどまるものではない。いっさいの不幸からの解放でなければならない。彼女たちは、自らの体験を通して、その唯一の道が日蓮仏法にあることを確信することができた。

この指針を受け、婦人部は 学会員である人も、ない人も、その地域中の人びとを 幸福にしていく責任を感じ、常日頃から、不幸に泣く地域の人びとを、一人も残らず、励ましていくのだとの決意で、広宣流布の活動に取り組んでいこうと新たな決意で出発した。



太字は 『新・人間革命』第7巻より

ケネディ大統領との極秘会見

『新・人間革命』第7巻 操舵の章 P319~

山本伸一は、前年10月の“キューバ危機”を思い起こした。
ケネディは、現代人のおかれた状況を、古代ギリシャの故事にある「ダモクレスの剣」にたとえた。大量の核兵器の下で生きている人類の姿は、この「ダモクレス」と同じであると指摘したのである。

それから1年後に、“キューバ危機”が起こった。
ケネディならば、恩師の「原水爆禁止宣言」の心を深く理解するであろうし、彼の偉大な人格は、全人類の幸福と平和を願う恩師の精神と、共鳴の調べを奏でるにちがいないと、伸一は確信していた。

彼は、そのために、ケネディに提案したいことがあった。それは、米ソ首脳会談の早期再開であった。また、伸一は、核を廃絶し、恒久平和への流れを開くために、米ソ首脳会談とともに、世界各国の首脳が同じテーブルに着き、原水爆や戦争の問題などを忌憚なく語り合う、世界首脳会議の開催も提案しようと考えていた。

「相互不信」「疑心暗鬼」という、暗い深淵が横たわっている。この深淵を埋めるのは、各国の最高指導者の胸襟を開い語らい以外にない。もちろん、伸一は、一朝一夕で「不信」が「信頼」に変わるほど簡単なものではないことは、よくわかっていた。

だが、対話へと踏み出さずしては、永遠に事態を変えることはできない。一見、迂遠な道のように見えても、結局は、それが平和への最も近道であるというのが、彼の信念であった。

彼は、世界の平和への突破口を開くために、ケネディとの語らいに多大な期待を寄せていた。いや、そこにかけていたといってよい。

ーーところが、その後の事態は思わぬ展開を遂げることになる。

極秘で準備を進めていたが、外部の知るところとなり、突然、政権政党の大物といわれている古老の代議士が、伸一に会見を求めてきたのだ。

代議士は、ケネディと会うことに難癖をつけ、自分たちの圧力で、いつでも会見などつぶしてみせるという威嚇であった。

代議士は、伸一の反応をうかがいながら、「私が骨を折ろうと思う。私が動けば、反対を抑え込むことはできる」「その代わりといってはなんだが、君にも力を貸してもらいたい」と話す。

伸一は、黙って聞いていたが、彼の頭は目まぐるしく回転していた。
ーーこの代議士の狙いは明らかだ。私に恩を着せ、それを糸口に、学会を政治的に利用しようというのであろう。

この純粋な学会の世界が掻き回されるようなことは、絶対避けなければならない。しかし、この政治家の意向を無視すれば、ケネディ大統領との会見をつぶしにかかるだろう。そして自分たちの力を見せつけ、勝ち誇ったように、何度でも、自分の軍門に下れと言ってくるにちがいない。

こんな政治家たちに付け入る隙など、あたえてなるものか!
守るべきは学会である。私は自分のために会おうというのではない。彼らにお願いしてまで、合わせてもらう必要はない。伸一は航路を急旋回させたのである。


「ケネディ大統領との会見の話は、なかったことにいたしましょう。すべて中止します。」

伸一の回答は、あまりにも、予想外であったのであろう。狼狽したのは、代議士の方であった。


「私は、皆さんのお力をお借りして大統領とお会いするつもりは、毛頭ありません。それでは話が違ってきます。また、大統領と会って、泊をつけようなどという卑しい考えも、私にはまったくありません。」

「私がケネディ大統領とお会いしようとしたのは、人類の平和への流れをつくりたかったからです。東西両陣営の対話の道を開きたいからです。公明会をつくったのも、民衆のための政治を実現させたいからです。現在の政権が、あまりにも民衆を度外視しているから、私たちが一石を投じたんです。」

代議士の額には、汗が噴き出していた。会見は終わった。

ケネディと伸一との会見は、こうして白紙に戻った。伸一は、学会に迫る、政治権力の影を感じた。
彼らの本質は、嫉妬以外の何ものでもない。

学会は、これからも、政治権力に、永遠に狙われ続けるであろうことを、覚悟しなければならなかった。



太字は 『新・人間革命』第7巻より

豪雪の試練

『新・人間革命』第7巻 操舵の章 P309~

長岡支部の人たちは、不眠不休で食事作りに励んでいた。人参やキャベツなどの野菜も添えられた。

夕刻には長岡駅まで列車を動かせることになったが、旅館はすでに一杯で、江田は また、長岡支部の竹川に連絡し、メンバーの家に、分宿させてもらう以外にないと心苦しかったが頼むしかなかった。

車内にいた900人のメンバーが、3人、5人と振り分けられ、次々と受け入れ先の会員の家に向かった。列車が長岡駅に到着して、わずか1時間で皆、宿泊先の家に行くことができた。

それを見て、長岡駅駅の駅員は 驚きの声をあげる。自分たちの経験から 最低でも2時間はかかるとみていたのだ。宿泊できない人も出るのではないかと考えていたが、「こんな状態のなかで、一瞬にして宿泊先が決まるなんて、とても考えられないことです。創価学会さんの力はさすがですね。同じ信仰をもった人たちの団結の強さと、学会の方々の思いやりの強さを実感しました」と言った。

それぞれの宿泊先では、6日ぶりの 風呂に入れてもらったり、真心の食事が振舞われた。お礼に屋根の雪下ろしを買って出たり、家の掃除を手伝うメンバーもいて、新潟、羽越の両支部と長岡支部の同志の間には、太く固い友情の絆が結ばれ、以来、今日に至るまで、親戚以上の付き合いを続けている人もいる。

翌27日には 午前9時ごろに出発できそうとのことで、皆、再び列車に戻って来た。しかし、いつになっても列車は出発しなかった。

この日の午後、参議院公明会の 二人の議員が雪害の調査のために、ヘリコプターで長岡に飛んできた。現地に急行した最初の国会議員である。山際、浅田議員が調査すると救援の指揮系統があいまいで、連携がとれず、情報さえ、共有されていなかった。実態調査とともに、救援対策を練った。

27日が 暮れても列車は動かず、結局、翌28日午前零時をまわってやっと93時間ぶりに運転が再開した。総本山を出発して、109時間という長い帰途になった。しかし、メンバーの胸には、信仰への確信の火が燃え上がっていたのである。

留守を預かる新潟支部、羽越支部のメンバーは、地元で登山者の家族に吹雪の中歩いて一軒一軒訪問し、状況を説明していた。時には、未入会の家族から怒られる場合もあったが、誠意をもって話す姿に、また、長岡の同志の献身的な尽力の模様を聞き、驚嘆し、批判的だった家族が、学会の深い理解者となったケースも少なくない。

豪雪禍の試練のなかで、新潟の友の団結は、一段と強まっていったのである。

この豪雪で、立ち往生していた列車の乗客はパニックになり、喧嘩や罵声が飛び交ったり、暖房がとまって、車内で炭火を持ち込み、中毒症状起こすという事態も起きた。

そのなかで、学会員の乗った団体列車では、皆、最後まで整然と行動していたことは注目に値しよう。それは、長岡の同志の救援も含め、信仰の力を証明するものであったといってよいだろう。

1月27日の午後9時過ぎ、会長山本伸一は海外指導から帰国し、列車が止まっていることを聞くと顔を曇らせた。病人など出ていないか確認し、自宅に着くとすぐに、そのまま仏壇の前に座り、メンバーの無事を祈って、真剣に勤行・唱題していた。

翌日には、教学部の教授会に出席、29日には 本部幹部会に臨んだ。その一方で、2月に予定していたアメリカのケネディ大統領との会見の準備に力を注いでいた。ケネディとは語り合いたいことがたくさんあったが時間的な制約もあるだけに、話す内容を整理しておく必要があった。


太字は 『新・人間革命』第7巻より

三八豪雪

『新・人間革命』第7巻 操舵の章 P294~

<操舵の章 始まる>

1963年1月24日夜、新潟県宮内駅に停車した 団体列車は、駅に停車して すでに 16、7時間経過していた。この列車は、富士宮の総本山に 登山し、新潟まで帰る、新潟支部と羽越支部の会員約900人が乗車していた。

23日総本山を発って、予定では 24日の朝、新潟駅に到着することになっていた。外は、猛吹雪で、長岡駅の一つ手前の宮内駅で止まったまま動かなくなってしまった。豪雪のため、列車が各駅で止まってしまい、復旧については予想がつかないとのことであった。

旅館は既にいっぱいで、駅長が 弁当の確保をしてくれたが、昼にもう一度配られたのが最後だった。

列車の輸送責任者の江田は、長岡支部の支部長竹川に電話し、無理を承知で、メンバーの食事の手配を要請する。

この豪雪は、「三八豪雪」といわれ、北陸・信越地方に、記録的な被害をもたらし新潟県下の被害も甚大だった。長岡駅では 370cm。県内で144本の列車が運休、26本の列車が立ち往生している。

県内死者9人、行方不明1人、全壊した建物98棟、半壊95棟、河川や下水道の閉塞による床下・床上浸水193棟。農作物や鉄道、線路の不通による商工業の火がいも甚大だった。

一言に食事の用意といっても900人分である。しかも、長岡支部のメンバーのうち500人以上が、登山会に参加していたが、上野駅で足止めされていて、長岡支部の中核となるメンバーの大半が不在だったのである。

そのうえ、長岡に残った人たちは、自分の家の屋根の雪下ろしや雪かきもしなければならなかった。しかし、同志が雪で止まった列車にいることを思うと、自分の家のことどころではないと、自分たちの食事も早々に、炊けるだけの飯を炊き、大急ぎでオニギリを作り始めた。

炊きあがったばかりの飯は熱く、手はすぐに真っ赤になったが、手を水で冷やしながら、飯をにぎり続けた。出来上がると吹雪のなかを 徒歩で宮内駅に向かった。

2メートルを超える積雪とあって、車も、自転車も使えない。胸まで雪に浸かりながら泳ぐようにして歩いた。駅まで 普段なら、4,50分だったが、1時間半から2時間もかかった。

駅近くの会員の家では、みそ汁がつくられ、暖かいみそ汁とおにぎりが 配られた。900人の乗客全員が食事を終えるまでに、3時間ほどかかり、長岡のメンバーが家路についたのは午前2時ごろだった。

このおにぎりと味噌汁が、どれほど車内のメンバーを元気づけたか、計り知れなかった。同志愛のこもった一杯の味噌汁は、創価学会員であることの誇りと、試練に耐える勇気を呼び覚ました。

翌5日の朝にも、昼にも夜にもオニギリと味噌汁や豚汁が届けられ、赤ん坊のおむつやミルク、医薬品なども同志を思う気遣いで届けられた。

輸送班の青年も ずぶぬれになりながら、トイレの詰まりを直したり、不眠不休で任務を遂行していた。その責任感あふれる姿に、誰もが感動を覚えた。

総本山を発ってから、3度目の夜を迎えるころ、皆の憔悴も激しくなり、不安とストレスで険悪なムードになってきた。江田は、みんなで座談会を開こうと提案し、学会歌を何度も 歌うと皆、頑張ろう!との思いが、込み上げてきた。

ある壮年は、信心をすれば、功徳があるはずなのになんでこんなことになるんだと腹がたったが、吹雪の中、何往復もして食べ物を届けてくれる長岡支部の同志の姿に、学会の心を知ったと話す。

ある婦人は、学会員でよかったと叫びたい思いで、今回の体験を決意に変えて、頑張り、功徳の実証を示していくと決意を語った。皆の心は一変していた。


太字は 『新・人間革命』第7巻より

台湾広布の春

『新・人間革命』第7巻 早春の章 P274~

山本伸一を中心に、香港の組織の検討に入った。
香港支部の支部長候補の周志剛は、貿易会社を営む、温厚な感じの50歳前後の壮年であった。彼は、実は日本人で、鹿児島生まれであったが、貿易の仕事で中国の広州に来て結婚し、戦後、香港に来てからは中国名を名乗っていたと話す。

結婚後、終戦を迎えた時、日本人は中国から引き上げなければならなくなったが、周は、日本軍が中国でやってきた残酷なことを見てきて、日本を祖国とは思いたくないので、中国で、中国人として生きていくと 妻の母に言ったのだ。

中国で日本人とわかれば、捕らえられたり、反日感情から襲われる危険性もあったが、義母も 近隣の人びとも、周に信頼を寄せて、彼を守ってくれ、密告したりするものはいなかった。

広州では仕事がなく、香港にやってきて、貿易の仕事を始めたのである。彼には、仕事を通して、平和のためのパイプになりたいという思いがあった。

貿易の仕事で付き合いのあった日本人に勧められ、御本尊を受持し、1年3か月になる。手紙で教えられたとおりに勤行を始め、真面目に学会活動に励むうちに、いつの間にか、持病の胃潰瘍が治っていた。
妻も、その体験を目の当たりにし、家族も一緒に信心に励むようになっていったのだった。

翌27日、一行は 日本へ帰る便が エンジントラブルのため出発が遅れるとのことで、急きょ空席の在った台湾の台北経由の飛行機に変えることになった。トラブルにいらつく十条だったが、伸一は、「きっと何か大きな意味があるはずだよ」と話す。

そのころ台湾では、中国の江蘇省生まれで、戦時中、日本の早稲田大学にまなんだこともある支部長の朱を中心に会合が開かれていた。

彼は、戦後の日本の急速な復興に着目し、それを可能にした、民衆の活力を引き出す、思想、宗教があるはずだと考えていた。そして、学会の話を聞くうちにこの信仰こそ社会を建設する力となったのではないかと感じて、入会を決意した。

62年ごろから、警備総司令部が、創価学会への警戒を強め始め、朱も尾行されたり、出頭を求められるようになったのである。

朱は、聖教新聞で山本会長の海外訪問のスケジュールを知り、「山本先生が、台湾にも寄っていただけるように、真剣に唱題するとともに、この日の午後、台北の松山空港に集まりましょう」とメンバーに呼びかけた。「たとえ、山本先生が来られなくとも、台湾上空は通られるのだから、先生を思い、大空を仰ぎながら、広宣流布を誓おうではありませんか」

以来、朱は、“なんとしても山本先生に台湾に来ていただきたい”と懸命に唱題を重ねてきたのだ。
27日の昼、先生が空港に来て朱を呼んでいると聞き、空港に駆け付けた朱。金網のフェンス越しに握手する朱の目に涙が光った。

「私たちは、この便が、ここに降りることも知らなかった。不思議だな。唱題に引かれて来てしまったんだね。」

朱は、信教の自由も、集会の自由も認められていたが、戒厳令下では、それも厳しく制限され、人民団体としての登録が必要だが、申請しても許可が下りないと話す。当時は、まだ反日感情も強い時代であり、日本で誕生した創価学会を、当局は警戒していたのであろう。

伸一は、その話を聞くと言った。「どこまでも、定められた法律を守っていくことが大事です。しかし、個人の信仰は認められているのだから、状況が厳しいからといって、臆病になり、信心そのものが後退するようなことがあってはならない。勇気をもつことです。」

「なにがあっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、30年、40年先です。最後は必ず勝ちます。」

「冬は必ず春となります。」「だが、その春は、まだ浅い。早春です。」「本格的な春はきっとくる。時代は変わります。また皆さんの祈りで変えていくんです。そして、春たけなわの日が来るまで、忍耐強く、生命の大地に深く信心の根を張り巡らせていってください。」

彼は、何があろうが、一人たりとも、退転などさせまいと、必死になって、台湾の友を励ました。
アジアの春は浅く、暗雲が低く垂れこめていることを、伸一はひしひしと感じていた。しかし、雲を突き抜ければ、空には、春の太陽が燦々と輝いている。

“友よ、飛び立て!雄々しく、使命の空高く!”伸一は、心で、こう祈り念じながら、一路、東京へ向かった。

<早春の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第7巻より

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