小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

May 2019

中里炭鉱事件

『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P286~

尾去沢の事件のことは、すぐに学会本部にも連絡が入り、さっそく渉外局員などを派遣し対策にあたった。彼らは労働組合幹部ともあい統制の理由を尋ねると、「そりゃあ、今度の選挙のことだと」と本音を漏らした。

労組の臨時大会が開かれるが、"弁明するなら出席せよ"と当事者に通知されたのは、大会の2時間前で、形ばかりの連絡であり、結局二人は欠席のまま除名処分が決議された。それは、二人の会社からの解雇を意味している。

二人は直ちに、地方裁判所に除名決議の効力停止処分を申請した。除名・解雇によって生じる生活上の危険・不安を防止しまた、除去するための措置である。

会社は、二人を呼び出し、解雇を告げた。このままでは、社宅の住居も立ち退かなければならないことになる。周囲の人は、山尾たちとは口をきかなくなった。

ミヤの母親が ここを出ていこうかと言うが、ミヤは「とんでもね。おれだちが出て行ったら、後に残った同志はどうするの。みんながかわいそうだ!おれだちは絶対、ここ動がれねぇ」

山尾らが解雇されたあと、組合は、ほかの学会員にも監視の目を光らせるようになった。じわじわと真綿で首をしめるように、陰湿な圧迫が加えられていった。

この頃、尾去沢の同志が合言葉のように語り合っていたことがあった。「あの夕張も"天下の炭労"に勝った。おれだちも負けるはずはねぇ」それは、北海道の夕張炭労事件のことであった。

1957年、北海道で最大の炭労組織であった夕張炭労は、公然と学会員の排斥に動きだしたのである。この事件も、前年の参院選挙で、炭労に所属する学会員が、学会推薦の候補者を推したことを理由に、炭労の団結を乱したとして起こったものであった。

伸一は、人権を守り、民衆を守るために、北海の大地をひた走った。そして、遂に、夕張炭労は、学会員排除の方針を全面撤回するに至った。この夕張炭労事件の勝利は、晴れ渡る民衆大運動の栄光の歴史として、尾去沢の友の、勇気と希望の光源となっていたのである。

山尾たちが秋田地裁に提出した仮処分は受理され、法廷闘争に移っていった。裁判所は、組合側は除名処分を取り消し、両者は和解するように勧告し、組合側は、この和解勧告を受け入れた。

結局、組合は、臨時大会を開いて、山尾ら二人の学会員の除名処分の撤回を決議したのである。
当然のことが通らず、山尾たちは半年近くにわたって、苦渋と屈辱の日々を強いられた。

だが、わが同志は勝った。組合が自分たちの決議を自ら覆すという、未聞の大逆転となったのだ。
尾去沢のヤマに、不屈の信仰の勝利の旗が翻ったのである。


秋田の尾去沢で、事件が突発したころ、西の長崎、佐世保の中里炭鉱でも、同様の事件が起こった。
炭坑の社宅近くの鮮魚店に、公政連推薦のポスターを一枚張った行為が問題にされたのである。

この中里炭鉱でも、ユニオン・ショップ制をとっており、組合からの除名処分によって、二人が
会社から解雇されることは決定的となったため、長崎地裁に組合除名決議の効力停止の仮処分申請を行った。仮処分申請が認められ、二人は 除名によって職場を追われることはなくなったのである。

しかし、事態は、それほど、生易しいものではなかった。職場では、陰湿極まりない謀略が待ち受けていたのである。

木田悟郎が突然、除名問題とは 別の理由で解雇されてしまった。吉山恒造は、「採炭」から掃除などの雑役の「坑内日役」に移動させられ、給料が 3万2千円から 1万円に減ってしまった。4人の子どもがいる吉山は 生活がひっ迫し、民生委員に生活保護を相談したが、民生委員も組合員で、会社の対面に傷がつくなどといって、なんの対応もしてくれなかった。

職場の不遇には、まだ我慢ができた。しかし、幼い子供たちが除け者にされ、いじめられて帰ってくるのを見ると身を切られるように辛かった。そんな時、妻のヨシエの明るさが彼を励ました。

一途な性格の吉山は、苦しいと思うと、真剣に唱題に励み、むさぼるように御書を拝していった。

社宅には 部外者の立ち入りにも 厳しい監視の目が向けられ、夜、周囲が寝静まるのを待って先輩幹部が激励に通った。


佐世保支部長の松川は、自分が食べたいと言ってうどんを持ってきた。「自分は金銭的には、なんの応援もできんたい。それに、この信心は、誰やらに助けてもらうということば、お願いする信心じゃなか。自分ば人間革命する信心たい。自分で立ち上がり、自分の力で勝しかなかとたい。人ば頼ろうと思っちゃ負けばい。いくら、金ばもらっても自分の宿命は変わらん。宿命ば転換せんば、幸福にはならんとばい。」

「信心して、こぎゃん難が来たことは、いよいよ宿命転換ばできるということたい。戦うことない。獅子のごと戦うたい」

真の信仰とは、"おすがり信仰"ではない。自分の幸福をつくるのは自分自身である。ゆえに、どんな苦境にあっても、自分で立ち上がってみせるという"負けじ魂"こそ、幸福の根本条件であることを、松川は教えたかったのである。

吉山には、松川の気遣いも、思いも、痛いほどわかった。こうした同志の激励をバネに、吉山は苦境を耐え抜いたのである。

中里炭鉱の事件は 本裁判に持ち込まれた。8回にわたる後半の末、長崎地裁は、除名決議は無効との判決を下したが、組合側は、判決を不服として控訴した。福岡高裁は、控訴棄却の判決を出すが、さらに組合側は最高裁に上告したのである。組合の対面を守るためだけの醜い姿であった。

その結果、裁判の決着は 中里炭鉱が閉鎖された後も続いた。判決は、上告から4年後"組合員の政治活動を制限することは、組合の統制権の限界を超えるものであり、違法である"という趣旨の判決を下し、組合の除名処分を剥こうとした。

実に、事件勃発から7年の歳月を経て、遂に、全面勝訴が決まったのである。既に、中里炭鉱の閉山から2年余が過ぎ、吉山の長年の苦闘を思えば、判決は遅すぎたといえるが、彼が裁判で勝ったことには、大きな意味があった。

組合の統制権によって、組合員の信教の自由、政治活動の自由を拘束できないことが、判例としても明らかになったからである。

山本伸一は、尾去沢鉱山と中里炭鉱の事件が起こった時、これは広宣流布の行く手をさえぎる嵐の、ほんの前ぶれにすぎないことを感じていた。

学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から時代の建設という、波浪の猛る大会に乗り出したのだ。

彼は、疾風も、怒涛も、覚悟のうえであった。人類の永遠の平和とヒューマニズムの勝利のために、伸一は、殉難を恐れず、創価の大船の舵を必死に取り続けるしかなかった。

船内の同志たちの幸福と安穏とを、ひたすらに、祈り念じながらー。

<波浪の章終了>


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

尾去沢鉱山事件

『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P277~

議員のメンバーが、私利私欲に走り、腐敗堕落するなら、彼らを政界に送り出した意味も、公明政治連盟を結成した意味もなくなってしまう。だから、伸一は、未来への警鐘として あえて厳しく言った。

伸一は、この勝利が各政党などに脅威を与え、大きな波紋を呼ぶであろうことを覚悟していた。

労働組合の幹部たちは、学会の躍進に対して大きな脅威をいだいていたことは確かであったようだ。事実、この参院選挙をきっかけとして、一部の労働組合は、組合に所属する学会員に、陰湿な圧迫を加えてきた。


なかでも、秋田の尾去沢鉱山と長崎・佐世保の中里炭鉱の労働組合では、それが実際に「組合除名」となって、あらわれたのである。

秋田県の北部にある、尾去沢鉱山は、日本の三大鉱山の一つとして名高く、日本有数の歴史と規模をもつ鉱山であった。この鉱山の組合で、除名事件が起こったのである。

参院選挙の全国区で、公明政治連盟の関久男は 26位で当選を果たしたのに対し、鉱山の労働組合が押した革新政党の候補は、大接戦の末、次点と約1700票差で、かろうじて最下位当選した。

この肝を冷やすような大苦戦と、学会員が指示した関の町内からの意外な高得票は、尾去沢鉱山の労組の幹部にとって看過できない事態と映ったようだ。

尾去沢鉱山の労働組合は、全国組織の全鉱のなかでも重きをなし、力も強かった。その組合の幹部が、学会員の支援活動に恐れをいだき、このままいけば、労組の基盤が揺るがされるとの、強い危機感を募らせたのである。

参院選挙が終わった直後学会の地区部長をしている山尾久也と言う壮年が組合事務所に呼ばれ、組合の統制委員会にかけられた。

山尾は、温厚な人物で、20年ほどこの鉱山で仕事をしてきたベテラン鉱員であり、町議会議員も務め、周囲の人びとの信頼も厚かった。

彼らは、参院選挙のことには触れず、彼の町会議員としての所属政党のことで追及してきた。組合側は 社会党に入るように進めたが、それを拒否したから組合の統制を破ったというのである。

全鉱の幹部が、恫喝するかのように山尾に言った。「組合の組織につかんもんは、やめてしまえ!」

この前日にも本郷という学会員が組合事務所に呼ばれ、統制委員会にかけられていた。本郷が選挙の折、戸別訪問をしてしまい、罰金刑となったことを指摘し、組合の名を汚したので"今後、創価学会とは手を切る"というを書けば、穏便にすませてやろうと迫ったのだ。

学会員が組合推薦の候補者を支援しなかったことを理由にすれば、「信教の自由」や「選挙活動の自由」に抵触することを懸念し、別の処分の口実を考えたのであろう。

尾去沢鉱山では、ユニオン・ショップ制をとっていたため、従業員は組合員でなければならず、組合から除名され、組合員の資格を失えば、会社からも解雇されることになる。本来、ユニオン・ショップ制は、労働者が団結して雇用者と交渉するために生まれたものだ。それを逆手に取って組合は、学会員の労働者のクビを切ろうとしているのである。


夫の話を聞くと、気丈な性格の妻のミヤは、「こっちは、なあんも悪いごどしてねぇ。クビにするならしてみれ!父さん遂に、来るべきもんが来たな。『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる』だものな・・・。こんなごどで、負げでなんかいられね」と怒りを含んだ声で言った。

ミヤのその言葉は、久也にとって最大の励ましであった。「おれをクビにしたら、このヤマの学会員は、みんな恐れで、信心をやめるど思ってるんだ・・・。そんなごどにならねぇ」


「山本先生も 5月に仙台に来られだ時、広宣流布の前進には、必ず大難が起ごるって言われだ。おれだちの信心も、ようやく一人前になったのかもしれないな」

尾去沢のヤマで働く仲間たちは、それぞれが、それぞれの悩みをかかえていた。病苦、体の不自由な子供をもつ親の悩み、家庭不和、あるいは、夫が稼ぎを博打や酒に注ぎ込み、貧乏暮らしに喘ぐ家族もいた。

皆の悩みの一つ一つは、組合活動による労働条件の改善だけでは癒し難い苦悩であった。
"この仲間を幸福にするのが、おれだちの使命だ"

山尾は、この尾去沢の鉱山を愛し、ともに働く仲間たちを愛していた。夫婦の相手を思う真剣な対話に、信心を始める人が次第に増え始めた。このころには、同志は、尾去沢の街で、120~30世帯を数えるほどになっていた。

こうして燃え広がった信仰の火が、今、激しい嵐にさらされようとしていたのである。



太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

公明会結成

『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P266~

公政連推薦の候補者や学会への脅しや、嫌がらせが激しくなっていった。遊説の場で、自分の政策などは何も語らず、学会を中傷するだけの候補や、遊説中に 石をぶつけられる、ポスターが 2千枚以上破られ、はがされるなどなど。

さらに、自分は学会員に票を売ったなど、事実無根の話を吹聴する悪質な妨害や、学会員に対しては 与党候補を支持しないなら仕事を回さない、労働組合の押す社会党候補を支持しなければ、組合を除名するなどといわれる会員もいた。

マスコミは、学会への中傷記事が続き、学会を"暴力宗教"や"ファッショ"と決めつけるなどの記事が 地方新聞にも書かれていた。

6月度本部幹部会では、弘教の結果が発表されたが、弘教はなんと、5万世帯を上回っていた。選挙支援の活動を展開してきたにもかかわらずの結果だ。それは、何があっても、仏道修行の基本である、自行化他を実践し抜くという生き方が、一人ひとりに定着したことを意味している。

また、すべてに勝利する力を、皆がつけ始めたのだ。

7月1日、投票日がやってきた。投票率は、全国平均で68.13%となり、昭和25年の第2回選挙に次ぐ高投票率となった。

3日未明には、9人全員の当選が決まった。公政連は、合計15議席になった。

17年前の7月3日は、戸田が獄中生活を終えて出獄し、権力の魔性との、生涯の闘争を開始した日である。そして、5年前のこの日、伸一が選挙違反の容疑で、大阪府警に不当逮捕された。

それは、学会という新しき民衆勢力の台頭を恐れる権力の謀略であり、この事件が伸一の生涯にわたる人権闘争の出発点となっていったのである。

伸一は、この意義深き7月3日に、同志である公政連推薦の候補者が全員当選の快挙を成し遂げ、民衆の手に政治を取り戻すための新たな船出ができたことが、このうえなく嬉しかった。

伸一は、直弟子の自分が、師の正義の歩みを『人間革命』の続編として書きとどめ、永遠に顕彰していかなくてはならないと、強い決意をみなぎらせた。

ペンネームは 既に決めていた。「法悟空」である。戸田のペンネームは「妙悟空」だった。

仏法では、妙は仏界、法は九界。妙は本源、法は現象。その原理からいえば、妙は師、法は弟子となる。ゆえに、伸一は、師弟の不二の誓いを込めて「法悟空」としたのである。

公政連では、参議院に院内交渉団体として独自の会派「公明会」を結成することを決定した。
今回の選挙の結果、社会党、民社党、共産党の革新政党は憲法改定阻止に必要な、三分の1にあたる84議席を確保することができず、したがって、この「公明会」が護憲の鍵を握る存在としてクローズアップされることになる。


7月3日、臨時本部幹部会が開催された。会員たちは、自分たちの支援が、民衆のための新たな政治勢力を誕生させた、歓喜と誇りに胸を高鳴らせていた。

会員の多くは、いまだ貧しかった。そうした人びとが、社会を、政治をよくしようと、時間をやり繰りして、手弁当で支援活動に参加し、この勝利を獲得したのだ。

信仰によって覚醒した民衆の力を、満天下に示した選挙戦であったといえる。

山本伸一は、今後の学会の、政治への基本姿勢について語っていった。
「宗教団体である学会が担う第一の使命は、正しき仏法の流布であります。したがいまして、政策の問題については、公政連、並びに公明会に、すべてお任せをしたいと考えております。」

「また、私自身は、政界に入ることはありませんし、今後も、どこまでも創価学会の会長として、信心第一に仏道修行に励み、いっさいの根本である日蓮大聖人の仏法をもって、民衆を救いゆくために、皆さんとともに、広宣流布に邁進してまいります」

伸一がこう言明した背景には、当時、学会の政界進出の狙いは、政治を支配することであり、やがて山本会長は自ら政界入りして、総理大臣の座を手に入れようとしているという、あらぬ憶測が世間に流されていたからである。

学会が、えたいの知れない野望集団であるかのような印象を植えつけようとする、謀略といえる。もとより、彼には、そんな考えは微塵もなかった。彼は、それを、この席で明らかにしておきたかったのである。

「さらに、衆望を担って、全国民から『私たちが期待していた政治家は、この学会員の人たちである』と言われ、称賛される政治家に育っていっていただきたい」

「あくまでも、全民衆のための議員として、活躍していただきたい。それが学会精神です。」

民衆のために生き、民衆のために戦うことこそ、全学会員の、公明政治連盟の議員への期待である。



太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

参議院議員選挙

『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P257~

6月7日は、第6回参議院議員選挙の公示の日であった。

今回の選挙で、学会が支援する公政連推薦の9人の候補者が当選し、非改選の6人と合わせて15人になれば、議員10人以上という院内交渉団体の資格をもつことになる。すると国会運営にも、さらに大きな影響力を発揮することができる。

会員たちは、これまで、自分たちが支援した参議院議員の活躍を見てきた。たとえば、清原かつが中心となり、義務教育の教科書の無償配布を推進。

これは同志である参議院議員の活躍の一部にすぎないが、そのメンバーが院内交渉団体をつくり、より一層、影響力をもつことに、会員たちは大きな期待をいだいていたのである。

支援する学会員は、今回は公政連という政治団体結成後の初めての選挙とあって、単に候補者個人のことだけでなく、公政連の政策をよく理解し、訴えていく必要があった。

この年の4月に、公政連の機関誌として、「公明新聞」が創刊されたが、同志は、これを熟読しては、公政連の政策や、現状の政治の問題点を、友人や知人に語っていった。

この支援活動のなかで、多くの同志は、かなりの政策通になっていた。
同志は、自分たちの力で新たな日本の政治の歴史を開く、使命と誇りに燃え、自分が立候補しているような気持ちで、公政連の政策を訴えた。

この参議院議員選挙の支援活動の、大きな推進力となっていたのが、一般的には政治への関心が低いといわれていた主婦層にあたる、婦人部員であった。それは、政治を自分たちの手に取り戻そうとする、目覚めた大衆の、新しい力の台頭であった。

彼女たちが、支援活動のなかで、説明に困った問題の一つに、公政連は 保守か、革新かとの質問があった。

伸一は、「公政連は、中道をめざす政治団体です。この中道というのは、中間ということではありません。従来の資本主義、あるいは、社会主義といったイデオロギーにとらわれることなく、国民の幸福と世界の平和を、どこまでも基本にして、是々非々を貫く在り方といえます。」

「全民衆の幸福の実現という観点から見て、良いものは推進し、悪いものは反対するという姿勢です。
」と自らの考えを話した。

山本伸一の激励の旅は、間断なかった。
文字通り、一瞬の休息もない、東奔西走の日々であった。

幹部たちは「まるで山本先生が4人も5人もいるようだ」と感嘆しながら語り合った。

さらに、周囲の幹部が驚いたことは、もともと病弱で疲れやすい体質の山本会長が、激闘が続けば続くほど、元気になっていくことであった。「先生は、こんなに動いておられるのに、どうしてお元気なのでしょうか」と尋ねた。

伸一は、ニッコリとほほ笑んだ。
「それが学会活動の不思議さなんだよ。"私には、励まさなければならない人がたくさんいる。みんなが私を待っている"と思うと、じっとしてはいられないし、勇気がわく。そして、同志に会うと、この人を奮い立たせよう、この人を絶対に不幸にしてなるものかという、強い思いが込み上げ、生命力があふれてくる。」

「だから、学会活動をすればするほどますます元気になる。戦うことが私の健康法でもある。」
「もちろん、人間だから、疲れもする。仏法は道理だから、休養も大切だ。しかし、学会活動をやり抜いた疲労は、心地よい、さわやかな疲労であり、すぐに疲れも取れる。」

「しかし、同じように学会活動しているように見えても、疲労が溜まる一方の場合もある。それは、受け身の場合だね。心のどこかに、言われたから仕方なくやっているという気持ちがあれば、歓喜もないし、元気も出てきません。」

「元気になるには、自ら勇んで活動していくことが大事だ。そして、自分の具体的な目標を決めて挑戦していくことだ。目標をもって力を尽くしそれが達成できれば喜びも大きい。」

「また、学会活動のすばらしさは、同志のため、人びとのためという、慈悲の行動であることだ。それが、自分を強くしていく。」

伸一の各地での激闘は、会員たちに、平和社会の建設という広宣流布への決意を促した。
仏法者の社会的使命を自覚した同志は、選挙の支援活動にも一段と力を注いでいった。

それにともない、公政連推薦の候補者や学会への脅しや、嫌がらせが激しくなっていった。


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

言論の闘士

『新・人間革命』第6巻 波浪の章 P241~

<波浪の章 始まる>

1962年 6月2日伸一は 四国本部幹部会に出席した。
前日、伸一の出席を妨害する「どうしても来るというなら覚悟を決めておけ」という脅迫電話が学会本部に入る。

7月1日には、参議院選挙があることから、公明政治連盟の支援団体である学会への、悪質な嫌がらせや、脅迫電話が相次いでいたのである。

伸一は、戸田城聖に仕えた時から、命を捨てる覚悟はできていた。だから何ものも恐れなかった。もし学会に攻撃をしかけるものがあれば、自分が盾となって仏子を守り抜き、指一本触れさせまいと決意していたのである。

だが、自分と同じ自覚に立つべき首脳幹部に、その思いも、気迫も見られないことが、伸一は情けなく、残念でならなかった。

伸一は、予定している参加者が、既に集まったことを聞くと、予定を2時間繰り上げ、開会した。
"何があっても、同志は私が守る!"彼は、そう決意して、壇上にあっても、心で唱題しながら、会場の隅々にまで、注意深く視線を注いでいたのである。

会場では、ろうあ者のメンバー240人とともに、幹部会に参加した福山のところへ行き激励した。

人生の苦悩を背負い、嘆き、悲しむ人たちのなかに分け入り、幸福の道を教え、勇気と希望の光を注ぎ、生きる力を呼び覚ましてきた唯一の団体が創価学会である。

伸一は、見えざる的に向かって、心で叫んだ。"この尊い学会に、弓を引くなら引け!私を撃つなら撃て!しかし、私は断じて戦う。絶対に負けはしないぞ!"彼は拳を握り、彼方を仰いだ。

翌3日には、岡山県の会合に参加した。地区部長会では、「一昨日御書」の講義を行った。

この講義では、心から国を憂い、救済しようとされた大聖人が、なぜ、迫害されるに至ったのかを語った。そして、迫害の構図を浮き彫りにしていったのである。

「一部のマスコミなどが、暴力宗教であるとか、政治を牛耳り、日本を支配しようとしているとか、盛んに中傷、デマを流しています。そして、社会は、それを鵜呑みにして学会を排斥しようとする。讒言による学会への攻撃です。」

「広宣流布の道とは、見方によっては、讒言との戦いであるといえます。讒言の包囲網を破り、仏法の、また学会の真実を知らしめ、賛同と共感を勝ち取る言論の戦いであり、人間性の戦いです。」

「御聖訓にも、『悪は多けれども一善に勝つことなし』と仰せではないですか。しかし、どんなに荒唐無稽な嘘であっても、真実を知らなければ、その嘘がわからない。最初は、半信半疑であっても、やがて、そんなこともあるのかもしれないと、思うようになります。そして、何度も嘘を聞くうちには、多分そうなのだろうと考えるようになり、やがて、嘘が真実であるかのように、皆、思い込んでしまう」

「言うべき時に、言うべきことも言わず、戦わないのは単なる臆病です。」

「もし、みんなの心のなかに、自分が立たなくとも、誰かが戦うだろうという、他人任せの考えが少しでもあれば、その油断が哀れな敗北を生みます。要は私たちに、悪と戦う勇気があるかどうかです。讒言を打ち破るものは、真剣さです。全魂を傾けた生命の叫びです。」


「全員が一人立ちし、獅子となって、学会の正義と真実を語りに語り、訴えに訴え抜いていってこそ、勝利を打ち立てることができるのです。」

伸一の講義に、中国の友の心は燃えた。そして、言論の闘志として立ち上がったのだ。


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

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