小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

May 2019

欲望をバネに

『新・人間革命』第6巻 若鷲の章 P357~

彼は、この講義を通して、新しき時代をリードしゆく、真実の仏法の哲理と、学会精神を伝え抜いていこうとしていた。

「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」

「これまで、仏法では、煩悩、すなわち、人間の欲望などを否定しているかのようにとらえられてきた。しかし、ここでは、その煩悩を燃やしていくなかに、仏の悟り、智慧が現れると言われている。
ここに、大聖人の仏法の特質がある。真実の仏法は、決して、欲望を否定するものではないんです。」

「煩悩を離れて人間はありません。その欲望をバネにして、崩れざる幸福を確立していく道を説いているのが、大聖人の仏法です。」


「私たち一人ひとりが妙法の当体です。だから、信心に励むならば、必ず成仏することができる。また、それは同時に、生命の厳しき因果の法則からは、誰人も逃れられないということでもある。つまり、未来にどうなるかという因は、すべて、今の一念にある。」

「人の目や、先輩の目は、いくらでもごまかすことはできる。自分の奥底の一念というものは、他の人にはわからない。まさに『秘』ということになります。」

「しかし、生命の厳たる因果の理法だけはごまかせません。何をどう繕おうが、自分の一念が、そして、行動が、未来の結果となって明らかになる。」


「学会の活動している時も、御本尊に向かう場合も、大事なのは、この奥底の一念です。惰性に流され、やいやながらの中途半端な形式的な信心であれば、本当の歓喜も、幸福も成仏もありません。」

「本当に信心の一念があれば、学会活動にも歓喜があり、顔色だってよくなるし、仕事でも知恵が出る。また、人生の途上に障害や苦難があっても、悠々と変毒為薬し、最後は一生成仏することができる。」


「反対に一時はいいように見えても、信心を失えば、最後はみじめです。」

理事長の原山幸一の息子の原山高夫は「提婆達多」の生命について質問した。伸一は、原山を見つめて、「それは男のヤキモチです。広宣流布を破壊し、学会の前進を阻もうとするあらゆる動きも、その本質は嫉妬にある。信心とは、仏と魔との戦いです。君も絶対に負けてはいけない」

この原山は、やがて教学部長となるが、名聞名利と嫉妬の心に敗れ、遂には学会を裏切り哀れな退転者となっていくのである。

二期生の講義も順調にすすむなかメンバーの緊張も解け、いつしか惰性に流され始めていた。学生部のまとめ役の幹部が、その場を取り繕い、要領をよく立ち回ろうとする心を見抜き厳しく指摘した。

「私は、戸田先生から、10年間、徹底して、広宣流布の原理を教わった。師匠は原理、弟子は応用だ。今度は、将来、君たちが私の成したことを土台にして、何十倍も、何百倍も展開し、広宣流布の大道を開いていってほしい。私は、そのための踏み台です。目的は、人類の幸福であり、世界の平和にある」

「広宣流布は、大河にも似た、永遠の流れである。幾十、幾百の支流が合流し、大河となるように、多様多彩な人材を必要とする。そして、いかに川幅を広げ、穏やかな流れの時代を迎えようとも、濁流と化すことなく、澄みきった清流でなければならない。」

心身を削るかのように、日々、フル回転し続ける伸一には、自分がいつ死ぬかもしれないという思いがあったからでもある。

学生部の代表への伸一の講義は、彼の生死をかけた、後継の人材の育成であったといってよい。

今、伸一は、彼が心血を注いで育てた受講生たちが、生命の世紀の世界の広宣流布の夜明けを開くことを確信していた。

彼のその信念に誤りはなかった。事実、若鷲たちは大きく翼を広げ、新しき時代の大空に、さっそうと羽ばたいていった。

<新・人間革命 第6巻 終了>


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

南無妙法蓮華経は 世界共通

『新・人間革命』第6巻 若鷲の章 P341~

伸一は、さらに、「又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と」の御文の講義に移った。

「ここからは、帰命ということを、『帰』と『命』に分けて、論じられているところです。」

「大聖人は、『帰』というのは、迹門不変真如の理に帰するところであり、『命』とは本門随縁真如の智に命くことなのであるとお述べになっています。」

「別の譬えでいえば、永遠に変わらざる絶対の真理が説かれた御書は、不変真如の理です。今、その御書を、私たちが一生懸命学んでいることは、不変真如の理に帰している姿になります。」

「さらに、その御書の教えを、信心によって、智慧によって会得し、自身の人生観、社会観の源泉にし、社会で活躍していく時に、随縁真如の智に命いたことになります。」

「この方程式は、すべてにあてはまります。」
伸一は、簡単な例えを引いてわかりやすく講義した。
たとえば、マイクなどの音響設備の構造を知ることは不変真如の理に帰することであり、スイッチを入れて実際に使って役立てていくことは 随縁真如の智に 命いたと考えることができる・・・。

受講生は、初めは難解であると思われた御文も、伸一の講義を通して、次第に明瞭に 理解できるようになっていった。

「『御義口伝』の予習に際しては、必ず、この「経」「釈」「論」の出典にあたって、引用された個所の前後も含めて、徹底的に調べてきてほしいと思う。そうでないと、「御義口伝」の正しい理解はできません。」

伸一は、受講生に、教学に取り組む基本姿勢から教えていったのである。

山本伸一は、時には、精神身体医学(心身医学)や細菌学を例にあげて色心不二を論じ、仏法の生命観を講義していった。また、カントの時間論や空間論と、仏法で説く一念という考え方とを対比させながら、日蓮仏法の生命哲理の深遠さを語った。

「私は、『御義口伝』の御文を拝する時、南無妙法蓮華経という日蓮大聖人の仏法は、一国一民族の教えではなく、全東洋の、全世界の民衆のための宗教であるとの実感を深くします。」

講義を終えると質問会を持った。
伸一は、自分と受講生とは、ともに同志であり、同じ仏の使いであるととらえていた。受講生は自分より年は若いが、上下の関係にあるとは考えていなかった。むしろ、彼は、皆を尊敬していたのである。

それが、伸一の、そして、学会本来の人間観である。

受講生が、「将来、英語など、それぞれの国の言葉に翻訳し、題目として唱えていく必要はないのでしょうか」と質問すると、「南無妙法蓮華経は永遠不変の法であり、究極の言葉です。それを翻訳し、題目として唱えていくことはありません。南無妙法蓮華経の意味を学ぶために、御書を各国語に翻訳し解釈することよいが、唱える題目は、どこでも南無妙法蓮華経です。」

「題目は、瞬時に仏に通ずる世界共通の言葉なのです」

「南無妙法蓮華経というのは、宇宙の法則、大宇宙の根源のリズムに合致しゆく音律であるといえる。この題目の声の響きに、生命が感応していくのです。題目とはそうした不思議なものなのです。」

「南無妙法蓮華経を、それぞれの国の言語に翻訳したりすれば、題目の音律が違ってしまう。だから、これは変えるわけにはいかないんです」

伸一は、講義の終わった夜から、受講者一人ひとりの顔を思い浮かべ、皆の成長を祈り念じながら、『妙法蓮華経並開結』に、揮毫し、贈呈していった。

メンバーは、山本会長の深い真心を感じ取った。その感激は研鑽への誓いとなった。


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

御義口伝講義

『新・人間革命』第6巻 若鷲の章 P333~

8月31日 学生部の代表に対する山本伸一の第一回「御義口伝」の講義が行われた。
「一人も残らず、学会の、そして全社会の大指導者に育っていただきたい。」

「私は、君たちの将来を、生涯見守ってまいります。このうち、何人が本物の大鷲となり、獅子となるのか、また、誰が堕落し、誰が違背して学会を裏切っていくのか、最後まで見届けていきます。」

「仏法は厳しい。中途半端はありません。信心を全うして成仏するか、退転して苦しむかです。20年、30年と、最高幹部として活躍しても、最後まで信心を貫き通さなければ、人生は敗北であり、無残です。私は、皆さんをそうさせたくはないのです。」伸一の声には、厳とした決意の響きがあった。

「御義口伝」の大意と背景について語った。「宗教論、生命論、幸福論、宇宙論、また、社会原理を、信心、生活に約し、縦横に説かれたその"御義"は、あらゆる哲学や、思想の最高峰といえよう」と概要を説明。

拝読した学生部員に 厳しい口調で言った。「あまりにも、安直な読み方です。」
「御書を拝読する場合は、まず"真実、真実、全くその通りでございます"との深い思いで、すなわち、信心で求め、信心で受けとめていこうとすることが大事です。」

「仏法を学ぶには、"信"をもって入らなければならない。」

「御書は経文です。一字一句も、ないがしろにしてはならない。ましてや「御義口伝」を心肝に染めていこうとするなら、まず、何度も、朗々と力強く、暗記するぐらい拝読していくことです。」

「御書は、身口意の三業で拝していかなければならない。御書に仰せの通りに生き抜こうと決意し、人にも語り、実践し抜いていくことです。理念と実践とは、一体でなければならない。それが仏法を学ぶ姿勢であり、東洋哲学の在り方ともいえる。」

メンバーは伸一の指摘に目の覚める思いがした。ただ、講義を聴けばよいという、受け身の姿勢で臨んだことを、深く反省せざるをえなかった。

『御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり』

「まず、南無妙法蓮華経についての御義口伝が冒頭にきているのは、南無妙法蓮華経こそ、一切の根本であり、法華経の肝要であるからです。」

「南無というのは、梵語である。・・・これを意訳すれば、『帰命』となる。帰命とは、身命を捧げつくすことです。」

「人間は、皆、何かに帰命しているといえる。・・・現代では仕事や会社に帰命する人もいれば、愛する人のために命を投げ出す人もいます。大事なことは、何に帰命するか、何に自分をかけていくかによって、その人の人生の幸・不幸が決定してしまうということです。」

「妙法への帰命は、小さな自分の欲望に翻弄されている"小我"を打ち破り、宇宙即我という、宇宙大の自分である"大我"に立ち返ることである。その時に、自分自身が人間として最も輝くことができる。それが人間革命です」


伸一は、受講メンバーの多くが、御文の難解さに些事を投げ出してしまった箇所の講義に移った。


太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

学生部への期待

『新・人間革命』第6巻 若鷲の章 P319~

7月22日 日比谷公会堂で第5回学生部総会が開催された。壇上には真紅と紺青の学生部旗が林立していた。山本会長からこの旗の授与が行われた後、会長の講演が始まった。

彼は、日本の各界の指導者層のなかにも、一部のマスコミによる学会への中傷や無認識と偏見に基づく報道を信じ、創価学会を批判的に見ている人たちがいつことを述べ、学生部が、学会の真実と正義をわからせてほしいと呼びかけた。

そして、講演の最後に、こう提案した。
「学生部の皆さんには、日蓮大聖人の、仏法と実存主義やマルクス主義と言った思想・哲学と、どちらが偉大であるのかを、徹底的に究明していってほしいのです。どちらが人間の生命の全体像を正しく把握しているのか、人間の苦悩を根本から解決し得るのか、現実生活のうえではどうなのか、現証の面からはどうなのかなど、大胆に、冷静に、独断に走ることなく、比較研究していってもらいたいのです」

「そして、"人類を救い得る世界最高の哲学は、確かにこれしかない"と確信したならば、その信念にしたがって、仏法の大哲理を胸に、民衆の味方となり、不幸な人びとを救うために、生涯、生き抜いていただきたい。」

伸一には、仏法への絶対の確信があった。しかし、同時、学生部員のなかには、その確信をもてないメンバーが少なくなかったのである。

1960年の"安保闘争"のころには、学生の多くはマルクス主義に傾倒していた。"安保闘争"のデモへの対応もさまざまであった。しかし、日米安保条約は自然承認され、以来、キャンバスには虚無感と挫折感が蔓延していたのである。だからこそ、日蓮仏法が新たな社会建設の大哲理であることを、力の限り叫びぬかなければならない"時"といえた。

ところが、学生部員の多くは、マルクス主義も、仏法も、徹底して掘り下げることをしなかったために、確信をもって語りきることができないでいた。

伸一は、学生ならば、強い探求心をもってほしかった。探求なくしては、仏法の大哲理の真実の価値も、わからないからだ。さまざまな思想・哲学と比較相対すればするほど、その真価が明らかになるのが仏法である。

8月の末に 第1回の御書講義をすることにし、研鑽する御書を「御義口伝」にすると決めた。

「『御義口伝』は、あらゆる思想、哲学の最高峰であり、日蓮大聖人の仏法の生命観、宗教観、宇宙観などの原理が、あますところなく説かれている。今、学会は、その仏法の原理を生かし、政治、経済、教育、芸術、言論等々、すべての分野にわたって、人類の幸福と繁栄を実現していく時代に入った。だからこそ、『御義口伝』に取り組み、仏法の大哲理を会得してもらいたい。」

「わたしは、自分が訓練した学生部員のなかから、将来の学会の跡継ぎを、大指導者を、必ず育ててみせるよ」

伸一は、戸田城聖が、東大法華経研究会で最後に行った法華経講義に、自分も同席させてもらったことが思い出された。

伸一は、いつの日か、次代の指導者となる学生部に、戸田に代わって、法華経の講義をしなければならないと思ったのである。

伸一もまた、この『御義口伝』の講義をもって、大聖人の仏法の大哲理を、新時代を建設する指導原理として示そうとしていたのである。

時代は、新しき指導原理を待望していた。
国内にあっても、経済発展の陰で公害が指摘され始めていたし、政治、教育など、あらゆる分野に歪みが生じ始めていたのである。

"仏法の生命の哲学を、人権の思想を、平和の理念を、今こそ、世界に伝えなければならない"
伸一は、"時"の到来を感じながら、日々、研鑽を重ね、講義の日を待った。



太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

学生部に与う

『新・人間革命』第6巻 若鷲の章 P304~

<若鷲の章 始まる>

青年の夏が来た。伸一は、いよいよ学生部に対する、本格的な薫陶を開始する時が来たことを感じた。

彼はまず、『大白蓮華』4月号の巻頭言に「学生部に与う」を執筆した。
冒頭、学生部の使命が、広宣流布の「先駆」にあること明確にしたのだ。以来、この「先駆」が学生部の合言葉となり、誇り高き伝統となっていくのである。

この「学生部に与う」を目にした学生部員の衝撃は大きかった。山本会長の、自分たちへの限りない期待と、かけがえのない自己の使命を、皆、改めて知ったのである。

"ぼくらが広宣流布の先駆を切るのだ!"若き俊英たちの胸に、歓喜の火が燃え上がった。
使命の自覚は、人間を変え、無限の力を引き出していくものだ。

学生部部員1万の報告を受けた後、伸一は 学生部の代表と懇談会をもった。

学生の「知識人の学会批判が強まっていることにたいし、どのように対処したらよいか」との質問に、
「批判は、これまでもあったじゃないか、相手が知識人だからといって、何も恐れることはありません。批判に誤りがあれば、君たち学生部が正していけばいいんです。どうすればいいかではない。君たちが同志のために立ち上がるのです。」

「知識人、あるいは評論家という人の多くは、その発言をよく聞いてみると、定見がありません。それは、学会の真実を知らないで、流言飛語を鵜呑みにし、憶測でものを言っているからです。」

「それに対して、学会には定見がある。大哲学があるからです。しかも、実際にその哲学を実践し、多くの民衆に貢献するという実証を示してきた。私たちは、口先だけの無責任な傍観者ではない。」

「行動者です。だから学会は強いし、どんな批判もそれを打ち破っていくことができる。あとは、君たちが自身をもって、堂々と見事な論陣を張っていくことです」と確信に満ちた言葉が返ってきた。

7月17日、山本伸一は、三たび、沖縄の天地に立った。この日は、五年前に、選挙違反の容疑で大阪府警に不当逮捕された彼が、出獄した日である。また、二年前に、伸一が出席して、沖縄支部の結成大会が行われた日でもあった。

待望久しかった沖縄本部が完成し、翌18日には、山本会長が出席して、落成式が行われることになっていたのである。

伸一は、幹部の任命式が終わると、すぐに沖縄本部の屋上に上がった。場外の人たちのことが気になっていたのである。まだ、多くの人達が、名残惜しく立ち去りかねていたのである。

伸一は、凛とした声で語り始めた。「沖縄は、あの太平洋戦争で、本土防衛の捨て石にされ、多くの方々が犠牲になられた。しかし、創価学会の広宣流布の戦いには、誰びとたりとも、また、一人たりとも犠牲はありません。すべての人が、最後は必ず幸福になれるのが、日蓮大聖人の仏法です。楽しく、愉快に、幸せを満喫しながら、この沖縄を楽土に転じていこうではありませんか」

『沖縄健児の歌』を皆で歌い、指揮をとる伸一。
南国の直射日光を浴びた沖縄本部の屋上のコンクリートは、焼けつくように熱かった。炎天下で、指揮をとる伸一の体には、たちまち滝のように汗が流れた。

熱唱する、日焼けした沖縄の同志の頬には、涙が光っていた。山本会長の姿に、自分たちのために命をかけて戦おうとする、気迫と真心を、感じ取っていたからである。

「お元気で、また、お会いしましょう!」この一曲の歌の指揮が、どれほど沖縄の同志を元気づけ、勇気づけたか計り知れなかった。その姿は、心の映像となって、同志の胸に、永遠に焼きついていったのである。

人の心の琴線に共鳴の調べをもたらすものーそれは、"真剣"という魂の発信音である。



太字は 『新・人間革命』第6巻より抜粋

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