小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

April 2019

公明政治連盟発足

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P300~

1月17日、通常国会の開会式終了後、創価学会の参議院議員が記者会見を行い、
『公明政治連盟』という支持団体を発足したことを発表した。

山本伸一が、「公明政治連盟」という政治団体結成に踏み切った最大の理由は、創価学会は、どこまでも宗教団体であり、その宗教団体が、直接、政治そのものに関与することは、将来的に見て、避けた方がよいという判断からであった。いわば、学会として自主的に組織のうえで宗教と政治の分離を図っていこうとしていたのである。

本来、宗教団体が候補者を立てることも、政治に関与することも、憲法で保障された自由であり、権利である。

したがって、創価学会が政界に同志を送り出すことも、学会自体が政治活動を行うことも自由である。

戸田城聖は、それぞれ好きな政党に所属し、活動すればよいとしていた。しかし、議員たちは、実際に議員活動を開始してみると、どの政党の在り方にも、心から賛同することはできなかった。

寄り合い所帯の無所属クラブでは、それぞれの考え方も異なり、具体的な見解を発表する段になると、意見の調整は、しばしば難航せざるをえなかった。

やはり、政治の世界にあっては、政治団体等いう立脚点が必要であると、学会員の参議院議員たちは痛感していった。

伸一も 新たに政治団体をつくるということについては、賛成だったが、議員たちに厳しい口調で言った。「勘違いしてもらっては困るのは、この政治団体は、学会のためのものではない。私は、そんな小さな考えではなく、広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた新たな政治団体をつくろうとしているんです。」

「私の願いは、政治団体がスタートしたならば、一日も早く自立し、民衆の大きな信頼と支持を得るものにしていってほしいということです。」


衆議院への出馬や、政党をつくることに関しては、まだ早いといって
「当面は、まず、参議院の問題から取り組んでいこう。」

「参議院は、衆議院の行き過ぎを是正し、補うべきは補うという機能が働かなくなってしまった。議員が自分の所属している党の党利党略によって動いているからだ。」 

「参議院を、本来の、“良識の府”にしていくことが、政治を国民の手に取り戻すうえで、差し迫った課題ではないかと思う。」と意見を述べた。

「立正安国」の精神の反映ということでは、日本の政治の現状から見て、避けて通ることのできない課題であるかもしれない。

しかし、政党をつくり、衆議院にも人を送ることになれば、少なくとも支援団体としての学会の負担は大きくなる。また、それによって、学会までも政争に巻き込まれ、既存の政党から、さらに激しい攻撃にさらされるであろうことは目に見えていた。


衆議院への進出は、伸一の一存で決まる問題ではないが、その選択をしなければならぬ時が、次第に迫りつつあることを、彼は痛感せざるをえなかった。

政治団体の名称については、戸田城聖が、将来会派をつくる時には“公明会”にしようと言っていたと話す関久男。その理由として、「学会の選挙運動は金もかけず、買収などとは無縁の公明選挙であるし、宴会政治のような腐敗した政界を正すのが君たちの使命であるからだ」と話していたと語る。


「政治の善し悪しは、ただ政治家だけによって決まるものではない。政治家を支援し、投票する人びとの意識、要望が、政治家を動かし、政治を決定づける大きな要因となっていくものである。ゆえに、政治の本当の改革は、民衆の良識と意識の向上を抜きにしてはありえない。学会は、その民衆を目覚めさせ、聡明にし、社会の行く手を見すえる眼を開かせてきたのである。」

「議員というのは、住民のためにあそこまで泥まみれになって働いてくれるのかと、誰からも称賛されるような、模範を示していってほしいのです。民衆を守る獅子となれー それが私の願いであり、期待です。また、皆さんを支援してきた同志も同じ思いでいるでしょう。」
と伸一は、心情を語った。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

生死の理

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P289~

山本伸一は、1月13日 雪の北海道へ飛んだ。
夕刻から 北海道女子部の部長であった嵐山春子の北海道女子部葬に出席する。

いかに深き宿命とはいえ、若くして、広宣流布の途上に散った嵐山のことを考えると胸が張り裂けそうな思いであった。

結核を治すために、療養に専念するよう指導していたが、彼女はいつまでも病床に付していることに、耐えられなかったようだ。

伸一の激励に、入院し、治療に専念すると 医師が「結核は治っている」と告げられた。体力が回復すれば、1か月ほどで退院できるといわれていたが、それから間もなく心不全で亡くなった。

しかし、それから間もない12月14日 嵐山は臨終の時を迎えた。
結核という病を乗り越え、宿業を転換し、今世の使命を終えた証明とも見える。

北海道女子部葬は、幹部や千人の女子部員が参列して、厳粛に営まれた。

この一女性の活躍によって、どれほど多くの女子部員が立ち上がり、北海道の広布の流れが広がっていったか計り知れない。友の幸福のために一身を捧げて、広宣流布に生き抜いた彼女は、さながら“妙法のジャンヌ・ダルク”であった。

伸一は、嵐山春子の死の意味について、思いをめぐらしていた。
26年という彼女の人生は、あまりにも短かった。だが、それは、自身の生涯の使命を全うしての死であったと、私には思えてならない。

彼女は、純白の雪のように清らかな信心の模範を、後世に残してくれた。その炎のごとき求道の姿勢と、友を思う心は、永遠に色あせることはない。いや、それは、時とともに、益々黄金の輝きを放ち、彼女の志を受け継ぐ幾千幾万の嵐山春子が誕生していくにちがいない。

また、地涌の使命に生きる同志の絆は永遠である。

伸一は「総勘文抄」の御文を思い起こした。
「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顚倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死すべき終わりも無し」(生と死という二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顚倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めもないので、死ぬという終わりもないのである)

仏法の眼から見るならば、彼女の生命は滅することなく、大宇宙とともに、永遠に生き続けているのだ。彼は、この御文を噛み締めると、やがて、また彼女が、同志として自分の身近なところに生まれ、
広宣流布の大舞台をさっそうと駆け巡る日が来ることを、強く確信できた。

嵐山によって結成された北海道鼓笛隊が、北海道女子部の愛唱歌を演奏した。
しかし、ファイフの音もかすれ、調べはしばしばとぎれそうになった。皆、涙がこみあげてきて、演奏することができないのである。演奏に耳を傾ける友の顔も、涙に濡れていた。その姿は、嵐山の志を受け継ごうとする北海道女子部の、珠玉の誓いの輝きでもあった。


伸一は、嵐山の遺徳を称え、春になったら、桜の木を植えようと提案する。嵐山を顕彰するのはもちろん、悲しみに沈む彼女たちの心に、未来への希望の明かりを灯したかったからであった。

翌日開催された北海道総支部幹部会では、伸一は、北海道に来るたびに、同志の身なりも立派になり、生気にあふれた姿になってきていること自体、仏法の偉大なる功力の実証であると述べ、皆の成長を称え、いよいよ広宣流布の時が来ていることを訴えていった。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

幹部の心得

『新・人間革命』第5巻 獅子の章 P280~

<獅子の章>始まる

1962年「勝利の年」の元日、幹部とともに初勤行が行われた。
伸一は、昨年に続き創価学会の永遠の三指針を確認した。
『一家和楽の信心』『各人が幸福をつかむ信心』『難を乗り越える信心』である。

この“なんのため”の信仰かを確認することによって、破竹の勢いで前進する学会の本来の目的を忘れかけていた幹部に 信仰の目的を 思い出させ、深い楔を打ち込んでおきたかったのである。

中心となる幹部が、なんのためかを忘れる時、組織は空転する。

「創価学会の幹部は、決して名誉主義であってはならない。」

「たとえば、支部長等の役職を後輩に譲るようになったならば、今度は、場合によっては、一兵卒として、組織の最前線に躍り出て戦い、同志のために、広宣流布のために尽くしていこうという精神が必要です。」

「幹部が、まるで殿様のように威張り、傲慢になれば、それは既にだ楽です。なぜなら、学会の幹部の基本は、会員への奉仕、広宣流布への奉仕であるからです。」

「幹部になれば、皆も一応は尊敬してくれます。それでいい気になり、私利私欲のために、会員を利用しようとするならば、即刻、解任せよというのが、戸田先生の指導でした。」

「幹部は、組織のことは、すべて責任をもたなければなりません。」

「自分の支部に、いくつの班や組があり、それぞれの実態がどうなっているのかを、直接、自分でつかんでいてこそ幹部です。中心者に、幹部に、全会員を幸福にするぞという、強い一念があるならば、無責任になど、なれるわけがありません」

「なんでも、本部の指示を待つという受け身の姿勢であってはならない。」
「幹部が自分の保身を考えているところほど、すべて画一的に事を進めようとするものです。結局、失敗をして、自分が責任を取りたくないから、なんでもかんでも、形式にあてはめようとする。これでは、皆が頑張ろうとする意欲の芽を摘み取っていっているに等しい。」

「どうか、運営にあたっては、どこまでも、皆が主体的に、自由自在に取り組めるように、配慮していっていただくことを、お願い申し上げます。」


伸一の指導は、幹部の在り方の基本をあきらかにするためのものであった。
組織が良くなるか、悪くなるかは、中心者の幹部のいかんによって決まってしまうからだ。彼は、学会が官僚主義的な、画一的で偏狭な組織になることを何よりも恐れていた。

また、学会は、社会的にも、その存在の重さを、日ごとに増しつつあった。それだけに、幹部が自分自身を教育し、磨いて、一流のリーダーに育っていかなければ、学会の社会での信頼にも傷をつけてしまうことになる。

だから、彼は、幹部には常に厳しかったし、その育成に全力を注ごうとしていたのである。

だが、彼が最も厳しかったのは、自分自身に対してであった。



太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

勝利の年

『新・人間革命』第5巻 勝利の章 P270~

東京で深夜まで執務を続ける山本伸一。
午前2時過ぎ、アメリカ総支部長の十条から電話が入った。

ハワイから7名、ロサンゼルスからの2名に加え、総員69名が勢ぞろいし、
宿泊所へ向かったとのことだった。

最高齢80歳の女性を始め、全員元気いっぱいとの報告だった。

翌日学会本部にやってきたメンバーは、伸一を見ると 大粒の涙を流した。
1年前、伸一のアメリカ訪問以来の再会である。

メンバーの多くは国際結婚をして、アメリカに渡り、
日本に帰ることなどできないと思っていた人がほとんどであった。

それが、伸一の指導を聞いて、考えを新たにし、"来年は日本でお会いしましょう"との、彼の言葉を目標とし、希望として、この日をめざして、懸命に信心に励んできたのである。

日本に行くといっても、休みをとるのも、その費用を捻出するのも並大抵のことではなかった。
一朝一夕に工面できる人などほとんどいなかった。

それでも、ともかく日本に来て、会長の伸一をはじめ、日本の同志に会い、日本の信仰の息吹に触れたかったのである。メンバーは、熱い求道の心を燃やしながら、生活費を切り詰め、仕事に励み、旅費を蓄え、遂に、飛行機に乗った。

“日本に行こう。そして、山本先生との約束を果たそう”
ーただただ、その一念で太平洋を渡って来たのである。

伸一は
「皆さんは、勝った!私は、皆さんは、広宣流布のために自由自在に活躍できる境涯の因をつくられたと、確信しております。」と語った。

伸一から「皆さんは勝った!」との言葉を聞いた瞬間、アメリカの友の胸に、一筋の黄金の光が走った。

メンバーは、ただ日本に行きたいという一心で、この一年間、頑張りに頑張り抜いてきた。しかし、振り返ってみると、異境の地で埋もれていくだけのように思っていた自分たちが、いつの間にか希望に燃え、友の幸福のために、夢中になって、アメリカの大地を駆け巡っていたのである。

そして、信心を根本に努力を重ねていけば、どんな境涯にもなれ、崩れざる幸福を築けることを、皆、実感していた。そこには、目には見えないが、確かに大きな精神の勝利があった。

11月の本部幹部会の席上、明年の「勝利の年」の活動方針が打ち出された。
この日、指導に立った伸一は、大阪事件の裁判に触れた。

「大聖人の御金言を拝しましても、広宣流布の途上において、三類の強敵が競い起こることは間違いありません。また、民衆を組織し、民衆の時代を創ろうとする創価学会に対し、民衆を支配しようとする権力が、今のうちに弾圧し、力を弱めさせようとするのも、当然といえましょう。」

「だが、権力がいかに牙をむこうとも、私たちの崇高な理想を、信心を、破壊することは絶対にできないという大信念をもって、堂々と、朗らかに前進していこうではありませんか。」

「ともあれ、無実であるにもかかわらず、何か大きな犯罪行為があるかのように喧伝し、罪に陥れようとすることは、古来、権力者の常套手段であります。今回の裁判は、長い広宣流布の戦いを思えば、さざ波のような小難にすぎません。。今後も、こうしたことは、幾度となくあるでしょう。しかし、何も恐れることはありません。」

12月に入ると、山本伸一の動きは、一層激しさを増した。

大阪事件の裁判に出廷した伸一は、意見陳述で、検察の横暴を突いていった。
学会が選挙運動を行うのは、憲法で保障された国民の権利であり、それを否定するような検察の求刑には、明らかに偏見があると指摘。

さらに、従来、戸別訪問は罰金刑等の軽い刑であるにもかかわらず、地検の禁固という求刑は、はなはだ過酷であると述べるとともに、その取り調べも非道であり、権力をカサに着た弱い者いじめのような
やり方は、断じて許しがたいものであると語った。

無実の者に、罪を着せようとする、不当な検察に対する鋭い反論であり、伸一の正義の叫びであった


<勝利の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋

新世紀の歌

『新・人間革命』第5巻 勝利の章 P254~

大阪事件の第81回公判に臨み 大阪地裁に山本伸一はいた。

伸一への求刑は、なんと禁固十か月で公民権停止も含まれていた。
仮に戸別訪問を指示していたとしても、異常に重い求刑である。

さらに、検察は、学会員の選挙違反は「表面、宗教活動を仮想」し、「広範囲にわたって組織的に敢行」したもので、違反行為は「氷山の一角にすぎない」と断定していた。

裁判長が検事に「氷山の一角と言われましたが、では、ほかにどういう事実がありましたか。その証拠はありますか。」と問いただすと、検事は平然として、
「別に証拠があるわけではありません」
「それでは、あなたの推測ですか」
「そういえば、そういうことになります」
証拠もないことを、"事実"に仕立てあげた、この論告求刑自体が、検察の悪質な意図を物語っていた。

しかし、伸一の判決がどう下されるかは、皆目わからなかった。

周囲から見れば、伸一は何も意に介さず、堂々としているように見えた。彼は自己自身と人知れず、必死になって戦っていたのである。

5日後、伸一は 東北本部の落成式に出席するために、仙台に走った。
新たに作られた"東北健児の歌"が発表された。

この歌が完成するまでには、東北の青年たちの苦闘があった。

5月に福島を訪問した時に、東北も、未来への出発のために、新しい歌をつくったらどうだろう。との提案があり、相次ぎ、支部歌がつくられていった。

しかし、東北全体の歌はできなかった。皆、歌を作らなくてはという気持ちはあったが、自分が中心になって進めようとする人は、誰もいなかったのである。

青年部の幹部も同じであった。
歌が必要であることが明らかであるならば、指示を待つのではなく、自分たちから相談するなどして、行動を開始するべきである。しかし、彼らは、そうはしなかった。

伸一は、厳しい口調で語り始めた。
「遅いよ。東北の同志は待っている。学会の勝利の源泉はスピードにあった。日蓮大聖人も、門下が病気であると聞かれれば、すぐに手紙を出して励まされている。大聖人の御振る舞いは、常に、極めて迅速であられた。」

「ましてや現代は、スピードの時代である。」

「本部に会員の皆さんが報告に来られる。私は、伝言を託すなど、なんらかの行動を起こしてきた。これがリーダーの鉄則です。この迅速な反応、行動がある限り、学会は発展していくし、君たちも、そうすることによって、成長することができる。それがなくなれば、みんなは不安になるし、やがて不満を感じるようになってしまうものです。」

「いくら、やろうという気持ちはあった、そのつもりでいたといっても、行動に出なければ、何も考えていなかったことと同じだ。」

「何事かを成そうという時に、誰も進んでその事を言い出さないのは、互いに責任を押し付け合っているからだ。本当の団結がない証拠だよ。そんなことでは、東北の発展は永遠にない。いつも真っ先に立ち上がるのが青年部ではないか」

伸一のこの指導に、東北の青年たちは決意を新たにした。

歌が完成すると、山本伸一は、「この歌は、全国の同志が歌っていくのだから『新世紀の歌』としてはどうだろうか」と提案し歌詞の一部を 親しみやすいものにと提案した。

ここに、「新世紀の歌」が誕生したのである。

仙台の青葉城址を散策し、石垣を眺めながら、青年部の幹部に語った。
「大きな石も、小さな石も、いろいろな石がきれいに、きちっと積み重ねられている。だから、この石垣は堅固なんだね。これは、団結の象徴だよ。」

「一人ひとりが力をつけることは当然だが、それだけでは広宣流布という大偉業を成し遂げることはできない。この石垣のように、互いに補い合い、団結していくことが大事だ。

「人材の城というのは、人材の団結の城ということだ。団結は力であり、そこに学会の強さがある。東北に人材の牙城をつくろう。」

伸一の胸には、常に、師である戸田城聖の言葉がこだましていた。伸一の独創的な広宣流布の展望も、師の構想の実現という、原点から発したものであり、その原点が不動であったがゆえに、自由自在に、過つことなく、広布の絵巻を描き続けることができたといってよい。


太字は 『新・人間革命』第5巻より抜粋
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