『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P252~
大菩提寺に 東洋広布の道標を打ち立て
新しき歴史の1ページを開いた 1961年(昭和36年)2月4日を忘れない。
ブッダガヤをあとにした山本伸一一行は霊鷲山に寄る。
霊鷲山の近くに温泉が湧いていることを聞くと、
総本山の 湧き水のことを思い出す伸一。
5年前、戸田城聖が 今後の登山会のために、豊かな飲料水の確保を目的に
ボーリングを提案した。
地質調査の結果水脈はないといわれていたが、戸田が真剣に祈り
別の場所を掘ったところ、水源にぶつかった。
戸田は、広宣流布が近い瑞相だと喜んだ。
正法の興隆あるところ、涌出泉水があると実感した伸一。
次の訪問地カルカッタに到着した一行。
カルカッタには 特別な思いがあった伸一。
彼の敬愛する詩聖タゴールが生まれ、育ち、没した地だったからである。
彼は詩人というだけでなく、小説家、劇作家、音楽家、画家でもあり、
さらに、偉大な教育者、哲学者としても知られている。
彼は、現実から離れ、文学の世界にこもることをよしとはしなかった。
社会の改革のために、民衆の自由のために戦う詩人であった。
イギリスの植民地政策に反対したタゴールは 人びとに決起を呼びかけ、
抗議のデモの先頭にもたったが、彼が勝ち取ろうとしたのは、
植民地支配からの自由だけでなく、まことの人間の自由であった。
暴力でインドは救えないと訴え続けるが、運動は過激なものとなり、
タゴールの非暴力の信念と相いれないものとなり、結局、
運動から離れざるをなくなった彼は、激しい非難にさらされる。
タゴールは、どこまでも人間愛を志向して、運動を展開しようとしていた。
その信念の礎には、ウパニシャッドの哲学に通ずる深い哲理があった。
ウパニシャッドでは 個人の自我を意味するアートマン(我)と宇宙の根本原理である
プラフマン(梵)の一致を理想とする梵我一致を説く。
タゴールは、その原理の具体的な実践を仏教に見いだしていた。
人生の苦難を乗り越え、妻や子供を失くすなどの悲哀を超えて書き上げた詩集
『ギタンジャリ』は1913年 東洋人として初のノーベル文学賞を受賞する。
イギリス政府は 手のひらを返したように「ナイト」の爵位をあたえるが、
イギリス軍による、民衆の虐殺事件が起きるとその「ナイト」の爵位を突き返した。
タゴールと マハトマ・ガンジーは 意見の違いはあったが、深き友情で結ばれていた。
タゴールの最も大きな怒りは人間が人間を支配することであり、国家が国家を脅かすことであった。
日本が中国への侵略を開始すると、軍国主義の怒りを詩につづり、たびたび訪日もしていたが、
極東だけでなく、ヨーロッパでも ドイツが侵略を開始し、戦火が世界に拡大すると、
タゴールの心痛は ますますひどくなり、やがて病床についてしまう。
しかし、体力がなくなっても 最後の最後まで、戦争という人間の愚行を糾弾する詩を
、生命を称える詩を口述で作り続け1941年 インドの独立を見ることなく 80歳で亡くなった。
平和の光の章 始まり
太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋
大菩提寺に 東洋広布の道標を打ち立て
新しき歴史の1ページを開いた 1961年(昭和36年)2月4日を忘れない。
ブッダガヤをあとにした山本伸一一行は霊鷲山に寄る。
霊鷲山の近くに温泉が湧いていることを聞くと、
総本山の 湧き水のことを思い出す伸一。
5年前、戸田城聖が 今後の登山会のために、豊かな飲料水の確保を目的に
ボーリングを提案した。
地質調査の結果水脈はないといわれていたが、戸田が真剣に祈り
別の場所を掘ったところ、水源にぶつかった。
戸田は、広宣流布が近い瑞相だと喜んだ。
正法の興隆あるところ、涌出泉水があると実感した伸一。
次の訪問地カルカッタに到着した一行。
カルカッタには 特別な思いがあった伸一。
彼の敬愛する詩聖タゴールが生まれ、育ち、没した地だったからである。
彼は詩人というだけでなく、小説家、劇作家、音楽家、画家でもあり、
さらに、偉大な教育者、哲学者としても知られている。
彼は、現実から離れ、文学の世界にこもることをよしとはしなかった。
社会の改革のために、民衆の自由のために戦う詩人であった。
イギリスの植民地政策に反対したタゴールは 人びとに決起を呼びかけ、
抗議のデモの先頭にもたったが、彼が勝ち取ろうとしたのは、
植民地支配からの自由だけでなく、まことの人間の自由であった。
暴力でインドは救えないと訴え続けるが、運動は過激なものとなり、
タゴールの非暴力の信念と相いれないものとなり、結局、
運動から離れざるをなくなった彼は、激しい非難にさらされる。
タゴールは、どこまでも人間愛を志向して、運動を展開しようとしていた。
その信念の礎には、ウパニシャッドの哲学に通ずる深い哲理があった。
ウパニシャッドでは 個人の自我を意味するアートマン(我)と宇宙の根本原理である
プラフマン(梵)の一致を理想とする梵我一致を説く。
タゴールは、その原理の具体的な実践を仏教に見いだしていた。
人生の苦難を乗り越え、妻や子供を失くすなどの悲哀を超えて書き上げた詩集
『ギタンジャリ』は1913年 東洋人として初のノーベル文学賞を受賞する。
イギリス政府は 手のひらを返したように「ナイト」の爵位をあたえるが、
イギリス軍による、民衆の虐殺事件が起きるとその「ナイト」の爵位を突き返した。
タゴールと マハトマ・ガンジーは 意見の違いはあったが、深き友情で結ばれていた。
タゴールの最も大きな怒りは人間が人間を支配することであり、国家が国家を脅かすことであった。
日本が中国への侵略を開始すると、軍国主義の怒りを詩につづり、たびたび訪日もしていたが、
極東だけでなく、ヨーロッパでも ドイツが侵略を開始し、戦火が世界に拡大すると、
タゴールの心痛は ますますひどくなり、やがて病床についてしまう。
しかし、体力がなくなっても 最後の最後まで、戦争という人間の愚行を糾弾する詩を
、生命を称える詩を口述で作り続け1941年 インドの独立を見ることなく 80歳で亡くなった。
平和の光の章 始まり
太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋