小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

February 2019

戦争への道程

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P298~

1926年激動の「昭和」の幕が開いた。
第一次世界大戦後の 不況と関東大震災による大打撃から
まだ、立ち直れていないところに29年の 世界大恐慌が起き、
深刻な社会不安を背景に軍部の圧力が高まっていく。

その激動のさなか1930年11月18日創価教育学会が誕生する。

翌年9月には「満州事変」が勃発し、日本は15年に及ぶ日中戦争に突入していく。

国民の多くは、この戦争を支持した。
それには、マスコミによる軍部寄りの 偽情報によることが大きい。

「満州事変」の契機となった「満鉄爆破事件」にしても、
軍部のでっちあげ情報のみを伝え、侵攻に異を唱えなかった新聞・ラジオ。

当時の 東京朝日新聞には「支那兵が満鉄線を爆破し我が守備兵を襲撃した」
とあり、遠因は「満州における正当なる我が条約上の権益に対する支那官民の
頻々たる侵害に存して居ります」と記されている。

こうした報道に接していれば、人びとが中国人に敵意をいだき、関東軍の侵攻は
正当なものであると思うのも無理からぬ話であった。

史実は、関東軍が周到な計画に基づいて満鉄を爆破し、それを中国軍の仕業だと
偽った陰謀だったのである。

軍部による報道管制が行われていたとはいえ、当時のマスコミの多くは、
進んで軍部に協力し、軍国美談をつくりあげ、戦争を礼賛していたのである。

マスコミが国家権力と連携し、真実を覆い隠してしまうならば、民衆はどうなるか。
ゆえに、言論人の責任は実に重いのである。


盧溝橋事件を発端に 日中全面戦争に突入していく日本。
政府は、国民精神総動員実施要綱を決定。

以後、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」が叫ばれ、
神社への参拝、教育勅語の奉読、戦没者慰霊祭、出征兵士の歓送などが強制されていった。

このさなか、創価教育学会の発会式が行わる。

教育改革をめざしてスタートした創価教育学会が、すべての根底をなす
宗教改革に、いよいよ本格的に取り組むことを意味していた。

宗教弾圧の嵐が吹き荒れる中、前途に、いかなる試練をも覚悟の上で、
牧口常三郎と戸田城聖は 立ち上がったのである。

暗黒の時代は、風雲急を告げていた。国家総動員法の公布、
大政翼賛会の成立など、一国を挙げての戦時体制は刻々と強化されていった。

 
牧口は、戦争遂行のための精神的支柱である国家神道の誤りを、
敢然と正そうとしていた。

当然、牧口には尾行がつき、会合にも特高警察の目が光り、
講演の中止を命じられることもあった。

しかし、彼は恐れなかった。暗黒の時代に「平和の光」を送るために、
その根本の思想、宗教の改革を叫び続けた。

それによって、1943年(昭和18年)7月6日、牧口も戸田城聖も、不敬罪、
並びに治安維持法違反の容疑で、逮捕されたのだ。

取り調べでも一歩も引かず、人間のための宗教を語った牧口は、
翌年、11月18日、栄養失調と老衰のため、獄死したのである。

牧口は、人間を蹂躙する時代の激流の中で、人間の尊厳の旗を守り抜き、
生涯の幕を閉じたのだ。



太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

治安維持法

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P296~


20世紀は 「戦争」と「革命」にあけくれ、どの国も
「民族」や「国民」のためと言いながら、結局は、
権力が人間を利用し、手段としてきた。


1903年(明治36年)創価教育学会会長牧口常三郎は、
『人生地理学』において、社会と社会、国家と国家の生存競争に触れている。


牧口は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」「人道的競争」の
4つをあげて、人類史が「人道的競争」に向かうことを待望していた。
日露戦争が勃発する前年のことである。驚くべき、先見といってよい。


しかし、その後の世界は「軍事的競争」に狂奔し、戦争を繰り返してきた。

戦前の日本を軍国主義一色に塗り固め、戦争へと暴走させる大きな要因となったのが、
思想統制の問題といえよう。
なかでも、その代表的な例が、治安維持法の成立である。


第一次世界大戦後、戦争景気により、資本家を潤した一方、物価高騰により、
民衆の生活は 逼迫し、さまざまな大衆による、運動が広がる。
いわゆる「大正デモクラシー」だ。


内閣は 普通選挙法により政治的自由を拡大する果実を取り入れる一方で、
自由を踏みじる 思想統制に乗り出し、1925年(大正14年)治安維持法を可決した。


多くの国民は、早い時期に、治安維持法の 危険な本質を見極めることができなかった。
この悪法は、改正が行われ、自由と人権の根幹を食い破っていく。


権力が暴走し、猛威を振るう時には、必ず思想や信教への介入が始まる。
ゆえに、思想・信教の自由を守る戦いを忘れれば、時代は暗黒の闇の中に
引きずり込まれることを知らねばならない。

これこそ、時代の法則であり、歴史の証明である。


 

太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

兄の思い出

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P284~


ビルマで戦死した長兄の追善法要を行う山本伸一。


伸一は 長兄との忘れがたい いくつもの出来事を思い出していた。


長兄と分け合った1枚の鏡の破片は 母が父のもとに嫁いだ時に持参した鏡だった。
何かの拍子で割れてしまった、母の鏡。
手のひらほどの大きさの鏡の破片を拾って宝物にしていた。


兄は、その鏡の破片を持って出征していった。
伸一もまた、派遣を見ては兄をしのんだ。


最初、長兄は中国大陸に出兵していたが、一時帰国した時に、
憤懣やるかたない様子で、戦争の悲惨さを伸一に語った。
「伸一、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない。
そんなことがゆるされるものか。皆、同じ人間じゃないか」
「戦地をみてきたからこそ、私はお前に言うのだ。」
その長兄の話が、いつまでも伸一の心に焼きついて離れなかった。


当時、国民学校に通う伸一は“兄さんが言うように、戦争は残酷かもしれない。
しかし、日本の戦争は東亜の平和を守る聖戦なんだ。”伸一は純粋にそう信じていた。
しかし、父も母も、彼が少年航空兵になることには、絶対に反対であった。


「うちは、上の三人とも兵隊に行った。間もなく4番目も行く。
そのうえ5番目までも持って行く気か。もうたくさんだ!」
「俺はどんなことがあっても、お前を兵隊にはさせんぞ!」常にない父の見幕であった。


終戦を迎え 二年近くが過ぎた頃、1通の戦死公報が届いた。
29歳になっていたのに、なぜか26歳で戦死したことになっていた。

年齢が違うことから間違いであって欲しいと願ったが、間もなく
遺骨も帰ってきた。


いつも 気丈な母であった。


戦争末期の頃、空襲の類焼を防ぐため、家が取り壊されることになり、
近くの親戚に移住することになった日、空襲にあってしまう。

かろうじて家から持ち出すことができたのは 長持ち1つだった。
ただ一つ残った長持ちに、家族は期待の目を向けた。



しかし、長持ちを開けると、皆、言葉を失ってしまった。
中から出てきたのは雛人形であった。その端に、申し訳なさそうに一本の
コウモリ傘が入っているだけであった。



伸一は全身の力が抜けていく思いがした。
家族の誰もが、恨めしそうな顔で、虚ろな視線を雛人形に注いだ。


その時、母が言った。
「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ・・・」
母もがっかりしていたはずである。しかし、努めて明るく語る母の強さに励まれ、
家族の誰もが勇気をわくのを覚えた。


母の胸には“負けるものか!”という、強い闘志が燃えていたに違いない。


しかし、そんな母にも長兄の戦死の衝撃は大きかったようだ。
遺骨を抱きかかえ、いつまでも背中を震わせて、泣き濡れていた。
伸一は、その姿を忘れることができなかった。



太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋

インパール作戦

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P274~


インドのカルカッタを飛び立ち、ビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)に到着した伸一一行。
ビルマでは、戦時中、多くの戦死者が出ていた。
山本伸一の長兄も、徴兵されここで命を落としたのである。


ビルマで 1944年(昭和19年)3月8日、太平洋戦争の中でも
「最も無謀」な作戦と言われたインパール作戦が実行された。


日本軍は、イギリスの植民地であるビルマに侵攻し、首都ラグーンを占領。
ほどなくビルマ全土を支配下に置き、軍政を施行した。
その時、日本軍とともに戦ったのが、ビルマ独立義勇軍だった。


この義勇軍の中心的人物が、後に「ビルマ独立の父」といわれた
アウン・サンである。
1991年にノーベル平和賞を受賞したアウンサン・スー・チーは彼の娘である。


当初、アウン・サンはイギリスからビルマの独立を勝ち取るために、
日本軍に協力し、同志とともに、日本軍に軍事訓練を受けていた。

初め、日本軍は ビルマを占領したあとは、独立させることを約束していたが、
占領後は それを延期しつづけていた。日本軍に対する批判が渦巻き始めた。


ビルマから撤退したイギリス軍は、インドのインパールに拠点を置き、
ビルマ奪回をを計画していた。


日本軍は、防御を固めるより、一気にインパールを攻略する計画をたてていた。
それが、インパール作戦である。


計画の発案者である司令官は 自負心が強く、イギリス軍を撃退した慢心と
油断で 計画は無謀だという反対意見を唱える参謀長を 更迭する。


日本大本営は イギリスを混乱させるねらいから、ビルマの独立を表面上認める。
そして、インパール作戦は 客観的条件を無視し、物資などの補給もされず、
逆に2割削減されたうえ、作戦が決行されることが決まった。


インパール作戦の失敗は 明らかになるも、誰も中止をいいだすことなく、
ずるずると放置され、兵士たちは 戦闘だけでなく、飢えや病で死んでいった。
自ら命を絶つ者も続出し、作戦が中止された、撤退も凄惨を極める。


インパールからビルマに至る道には無数の屍が横たわり、「白骨街道」と呼ばれた。
山本伸一の長兄は、前線への軍需品の輸送にあたっていた。
そして、1945年(昭和20年)1月11日 イラワジ川の輸送任務中に、
イギリス軍の戦闘機の攻撃を受け、戦死した。29歳であった。


組織とは

『新・人間革命』第3巻 平和の光の章 P264~

山本伸一の宿泊するカルカッタのホテルに 戸田が懇意にしていた実業家が訪ねてきた。
戸田の思いで話をする彼は、戸田が創価学会を組織化したことをほめる。

これからは 組織の時代であるから、学会を組織化したことで学会は 発展したと話す。


伸一は、
「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。」と話す。


「組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、
組織化すれば、すべてうまくいくかといえば、逆の面もあります。
組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです。」


「組織というのは 人間の体にたとえれば、骨格のようなものではないでしょうか。
必要不可欠なものですが、それだけでは血は通いません。」


「戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、
 人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。
 具体的にいえば、会員一人ひとりへの励ましであり、指導です。」


「苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、
 信心によって立ち上がることができたという事実ーこれこそが学会の発展の源泉です。」


「同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。
 先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、
 皆に深い尊敬の念をいだかせていたんです。」


「ゆえに、それぞれが、戸田先生を自身の師匠と決めて、
 喜々として広宣流布の活動に励んできたんです。」


「ですから、もしも、戸田先生が会長をお辞めになっていても、先生は常に皆の先生であり、
 仏法の指導者であり、人生の師であったはずです。」


実業家は、驚いたように伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、静かな声で言った。
「確かにそうかもしれない。私も、学会のことはよくわかっているつもりでいたが、
 そこまではわからなかった。」
「正直なところ、私だって嫉妬したいくらいだ。今の世の中、金の力で動かせぬもはない。
 しかし、学会は、金の力なんかではびくともしない。
 偉大な精神の世界をつくってしまったんだから・・・」


「こんなことは、誰もできやしないだろう。だから、ほかの勢力にしても、
 また、為政者にしても、悔しいし、怖いようにも感じるのだろうね。」


「もう一つ、戸田さんのすごさは、あなたという後継者を育てたことではないかと思う。」
「あなたのような後継者をもった戸田さんがうらやましい。いや実にうらやましい・・・。」
この実業家は伸一と二時間ほど懇談すると、「勉強になった。ありがとう」と言い残して、
ホテルの自分の部屋に帰って行った。


太字は 『新・人間革命』第3巻より抜粋
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