小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

January 2019

幹部の在り方

『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p312~


山本伸一は、創価学会の組織が拡大され、整備されるにつれて、
幹部が 次第に権威化し、官僚化しつつあることを 憂慮していた。


あたかも、自分が偉くなったように思い、自分の一存で決定し、
命令で人が動くかのように錯覚している幹部。


自分を崇める人とだけを重用し、時には私生活の面倒までみさせ、
あたかも、“親分”“子分”のような関係を作る幹部。


成果主義に陥り、合意もなく、きめこまかな指導の手を差し伸べることもないまま、
一方的に、さまざまな目標の数字だけを割り振り、成果の達成を強引にせまる幹部。


いずれも、幹部が、会員への献身を忘れ、自己中心主義に陥り、
名聞名利に走るところから起こる現象といえよう。
そこには、恐るべき慢心と保身がある。


同志が幹部に敬意を表してくれるのは、幹部はみんなを守り抜く立場にあり、
実際にそう行動すると信じているからである。
この「立場への敬意」と「自分への尊敬」を取り違えるところから
幹部の堕落は始まるといってよい。


山本伸一は 幹部の姿勢について指導している。
「御書には『教弥よ実なれば位弥よ下れり』と仰せです。・・・
幹部になり、信心が深まるほど、いよいよわが身を低くし、謙虚に、礼儀正しく、
同志を敬い、尽くしていくべきです。
ここに世間の地位や立場と、学会の役職との大きな違いがあります。」


幹部は、どこまでも思いやりにあふれ、泥まみれになって献身していく、
奉仕の人でなければならない。
もしも、その精神を忘れ、わがままになり、同志を見下すようになれば、
学会は幹部によって蝕まれてしまう。



伸一は、断じてそうさせないために、一部の幹部の心に兆し始めた
“慢心”と“わがまま”に対する、闘争を開始したのである。




太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

体験発表の意味

『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p308~


創価学会では、体験発表が必ず行われる。


九州の幹部会で体験発表をした婦人は貧しく 学校にも通えず、字も読めない人だった。
夫はうつ病で、仕事ができない時期が10年以上もあり、彼女は5人の子どもを育てるために、
働いたが、食べる米にも事欠くありさまだった。死をも考えた時、創価学会に入会する。

純粋に真剣に勤行・唱題に励み 嘲りの言葉をかけられながらも折伏に励む。
それから、3年。夫のうつ病も克服し、始めた家具店も借金を返すことができるほどになる。


素朴だが、切々と心情が伝わってくる、感動的な体験発表となった。


体験発表とは見方によっては、自分の過去の恥を暴露することともいえる。
しかし、その体験談が学会の随所で、喜々として語られているのは、
それに勝る苦悩を克服した喜びがあるからだ。


そして、同じように苦悩を抱えている人々に対して、早く幸せになってほしいという、
慈愛の発露にほかならない。さらに、どんなに自分の過去をさらけ出しても、
それによって、蔑まれたり、差別されることはないという信頼の絆があってこそ、
成り立つものといえよう。



ともあれ、無名の民衆が織り成す人生の凱歌の姿のなかにこそ、
日蓮仏法の偉大なる法理の証明があり、創価学会の実像がある。



読み書きさえできなかった、体験発表をした婦人は、勉強の必要性を痛感し、
懸命に学習に励み、やがて、教学部の教授になった。
夫妻で車の免許もとり、友の激励に奔走し、多数の人材を育んでいった。


「信仰の道」「幸福の道」の勝者の要件とは、学歴でも、地位でも、肩書でもない。
“純真”“素直”に徹して、自ら、法のため、広布のため、人びとの幸福のために働く、
不惜身命の行動にこそあることを忘れてはならない。




太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

生命の ルネサンス

『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p297~


ルネサンスとは「再生」「復興」という意味である。
ヨーロッパの中世、キリスト教の「神」を頂点とするピラミッド型の
位階秩序が、強固に世界を支配していた。身分や地位で、人間の価値が決まっていた。


人びとは、神の名の下に定められた不条理な秩序への服従に、強い疑問をいだき、
遂に、変革の何が起こった。
フィレンツェから起きた波は大波となって社会に広がり、古臭いしきたりの封印をはぎ取り、
神と教会のくびきから人間を解き放ったのだ。


しかし、それによって、人間は真の自由を、真の歴史の主役の座を手にしたであろうか。


むしろ、意に反して、人間は自らを律する術を失くし、「制度」や「イデオロギー」、
あるいは、「科学」や「技術」の下僕と化しはしなかったか。


自由への道はいわば複雑な矛盾と背理の迷路であった。
それは、人間そのものの不可解さ、複雑さであり、矛盾にほかならない。


山本伸一は、学生たちに訴えていった。
「真実の人間復興、文芸復興を進めていくには、人間を開花させる、
 内なる生命の至極の法を求めゆくことが不可欠です。
 それによって、人間自身の生命の変革、すなわち人間革命がなされてこそ、
 人間復興も可能になる。そして、その哲学こそ、色心不二の日蓮大聖人の仏法であり、
 それをなすのが私どもであると、宣言するものでございます。」


「願わくは、学生部の諸君は、信心を根本として、科学界に、政治界に、
 あるいは文豪として、また、大芸術家として、世界に羽ばたいていただきたい。
 自分自身も喜びに満ち、最高の幸せを感じつつ、
 すべての人びとに、希望と幸福を与えていける偉大なる人材であられんことを、
 心から切望し、私の話とします。」
若き瞳が光り、拍手は暁鐘のように鳴り響いた。


太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

政治を監視せよ

『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p273~


第29回衆議院総選挙が行われた。
結果、自民が300議席を確保し、第二次池田隼人内閣は、長期安定政権の構えを見せる。
一方、社会党も 23議席増やすが、野党全体としては、3分の1を やや上回る程度だった。


山本伸一は、選挙結果を見ながら、日本の政治の行方を憂えた。
それは、中間的な立場に立つ政党が敗退し、あの新安保条約をめぐっての
自社両党の対決の構図が、さらに浮き彫りにされた結果となったからだ。


この総選挙の焦点は、議会制民主主義の立て直しにあったが、
そもそも、この混乱の最大の要因は、自社両党が初めから党利党略に固執し、
本当の意味での討議、審議が行われず、
歩み寄りも、合意も、まったく見られなかったことにあった。


案件について、異なる意見があるのは当然である。
審議の決定は、最終的に多数決によらざるをえない。


それゆえに、党利党略を超えて、国民を第一義とし、
合意を求めての審議を積み重ねていくことが、何よりも重要になる。
だが、この選挙結果で自身を強めた自社両党は、その姿勢を改めそうにもなかった。


そうであれば、国民は政治への不信をますます深めていくことになろう。


山本伸一は、いかなる政党が本当に民衆のための政治を実践しているかを、厳しく見ていた。
彼は「青年は心して政治を監視せよ」との戸田城聖の遺言を、
瞬時も忘れたことはなかった。


学会は、政治の分野にあっても、庶民、民衆の利益と繁栄を第一に考える、人格高潔にして
有能な人材を、地方議会と 参議院に送り出してきた。
人びとの暮らしに直結し、生活の便宜を図る上では、地方議会の果たす役割は大きかったし、
国政を厳しくチェックするうえでは、参議院への進出は重要な意味を持っていた。。


しかし、民衆のための政治の実現を考えるなら、いつの日か、
国政の根幹となる衆議院に、人材を送り出すことも必要ではないかーと、伸一は思った。


ともあれ、政治が守るべき根本は、常に民衆であることを、決して忘れてはならない。


太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

幸福論

『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p268~


幸福についてさまざまな哲学者や思想家が論じているが、
それを読んだからといって、絶対に自分も幸福になり、
人をも幸福にできるかというと、そうは言い切れない。


日蓮大聖人のみが、万人に幸福の道を具体的に書かれたのである。


幸福はどこにあるのか。それは、決して彼方に、あるのではない。
人間の胸中に、自身の生命の中にこそあるのだ。


金やモノを手に入れることによって得られる幸福もある。
しかし、それはつかの間の幸福にすぎない。
戸田は、それを「相対的幸福」と呼んだ。


そして、たとえ、人生の試練や苦難はあっても、それさえも楽しみとし、
生きていること自体が幸福であるという境涯を、「絶対的幸福」としたのである。


この悠々たる大境涯を確立するには、いかなる環境にも負けることのない、
強い生命力が必要となる。


その生命力は、自身の胸中に内在しているものであり、それを、
いかにして引き出すかを説いたのが仏法である。


ある哲学者は、“人を幸福にすることが、一番確かな幸福である”旨の言葉を残している。


弘教には歓喜があり生命の最高の充実があります。


『私には折伏なんてできません』という人もいるかもしれませんが、それでも構いません。

牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、学会では、折伏をしてくださいなどと、
お願いしたことは、ただの一度もありません。


大聖人が折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。
ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうというのです。


布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、
人びとを幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なんです。


大切なことは、“あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい”という心で、
周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです。今は信心しなくとも、
こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。


思うように活動に参加できない人もいるでしょう。・・・
私たちは、おおらかな気持ちで、麗しい同志愛を育みながら、
幸福の道を進んでまいろうではありませんか。


伸一が心を砕いていたのは、その弘教の波に乗り切れずにいる友であった。
彼のまなざしは、常に最も苦しみ悩む人に注がれていたのである。



太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

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