『新・人間革命』第8巻 激流の章 P360~

他の同志も、こうした信仰ゆえの迫害を、さまざまなかたちで味わった。メンバーを見る社会の目は、一段と冷たくなっていった。付き合いを断たれた人もいた。職場を追われた同志もいた。

しかし、メンバーは、“いよいよ本当の信心を奮い起こすんだ”と、学会と仏法の正義を叫び、必死に、嵐に耐えた。皆、懸命に唱題に励んだ。韓国の同志の“信心の火”は、激しい嵐にも決して消えることはなかった。

1966年10月 韓国の大法院の判決がおり、「回答書」は、創価学会に対する認識を知らせるためだけの内容にすぎず信教に対する行政処分としての性格のものではないというのである。

メンバーは 釈然としないものを感じたが、「回答書」は、信教を法的に規制するものではないとしたこの判決によって、憲法上、宗教の自由は保障されているとの確認がなされたことは大きな意味を持っていた。

とはいえ、創価学会への認識に変わりはなかったし、学会本部から幹部を派遣できないなどの宗教活動に対する方針も変わらなかった。そのなかで、韓国の同志は、皆で力を合わせ、自分たちの手で、信心の松明を守っていくしかなかった。まだ、「冬」の季節は続いていたのだ。

メンバーは、以前に入手していた学会の出版物を、皆で貪るように読み、信心を学んでいった。
「根深き木は日照りを寄せつけぬ」と、韓国のことわざにある。同胞を幸福にしたいという、メンバーの熱き思いは逆境をもはねのけ、祖国の大地に根を張り、着実に、同信の友の輪を広げていったのである。なんと1969年には、メンバーは3万世帯へと大発展し、功徳と喜びの花が各地に開いていった。

そうしたなか、1970年代の半ばごろになると、韓国政府は、違法行為がない限り、学会の活動を静観するという方針をとるようになっていった。

その間も、韓国のメンバーは増えていたが、組織として全体がまとまることはなかった。あるグループでは、幹部の野心によって、メンバーの純粋な信心を利用する動きが現れ、中心者が自分のために供養も集めるようになっていた。

1975年グアムでSGI(創価学会インターナショナル)が発足したが、韓国の幹部は 代表を出せる状態ではなかった。一部の幹部が、我流の信心に陥って、「自分中心」になってしまった結果であった。そこに、確固たる指導原理が、法を中心とした厳正なる広宣流布の師の存在が不可欠なゆえんがある。

その後も韓国の同志は、さまざまな風雪にさらされた。だが、そのたびに、むしろ、信仰の純度は高まっていった。

韓国の同志は、この日蓮仏法の、また、創価学会の「真実」と「正義」を、なんとしても証明していかなければならないと思った。誤解が誤解のままであれば、「真実」は 葬り去られてしまう。誤解を放置しておくことは「正義」の死を意味する。

“私たちが実際に何をなし、どれだけ社会に貢献できるかだ。その行動のなかに、学会の正しさを証明する道がある”こう考えたメンバーは、各地域で、自主的に、また、地道に、社会貢献の歩みを開始していったのである。

1970年代から、韓国では「セマウル(新しい村)運動」という農村の近代化政策が推進された。メンバーは、その社会奉仕の諸活動に勇んで参画し、田植えや刈り入れを手伝う「農村助け合い運動」や、自然保護運動に取り組んでいった。さらに、1990年代に入ると、メンバーは、大規模な「国土大清掃運動」を展開していったのである。


太字は 『新・人間革命』第8巻より